第8話 一歩前進?
(あああー! 腹が立つ、腹が立つ!)
緑の椅子が並ぶ部屋の調度に、エリシアははたきをかけながら手を細かく動かしているが、怒りが収まるはずもない。
(なによ! あの冷血漢! 人の心っていうものがないわけ!?)
朝早くに起きて、新妻がせっかく夫の食事を作ってやったというのに! 口すらつけようとはしなかった!
(ああ、もう! 後ろで、アルバが見張ってさえいなければ、怒りでこの部屋の物を二・三個は壊してやりたいぐらいなのに!)
さすがに、嫁いできたばかりの妻に、好き勝手をさせるつもりはないのか。
今いる緑の椅子が並ぶこの場所は、ラウルの部屋の一つだが、エリシアが黒光りする肘おきを拭く間も、壁にかかった先祖の絵の額縁にはたきをかける間も、アルバは、絶えずその姿を赤茶色の石で作られた暖炉の掃除をしながら、目を光らせている。
(まあね、突然送り込まれた敵派閥の女が、武門の長の部屋を掃除したいと言っても、警戒するのは当たり前よねー)
いくら夫とはいえ。
それなのにエリシアが、今この部屋に入れているのは、ひとえにラウルの言葉があったからにすぎない。
『奥様が、公爵様のお部屋のお掃除を……ですか?』
今朝、ラウルが出て行ったあと、掃除をしたいとエリシアが申し出た時のアルバの胡乱げな瞳といったらなかった。
それはそうだろう。昨日まで、公爵令嬢で、雑巾一枚持ったことのなかった身が、突然の掃除宣言だ。
『ええ。旦那様から、妻として尽くしたいのなら、まずは掃除をしてみろと言われたの』
かなりニュアンスは違うが、意味は同じなはずだ。
まさか、やるのか――――!?
エリシアを見つめるアルバの瞳は、驚愕と共にそう語っていたが、上司である主人の言葉に逆らうことはできない。
『…………承知しました』
(やった!)
これで部屋をピカピカにして、度肝を抜いてやれる! そして、あわよくば、なにか好みを探れたらと、心を弾ませたところで、アルバは釘を刺すようにエリシアを見つめてきた。
『ですが、箒を持たれたこともない奥様をお一人でお掃除させたとあっては、このアルバの沽券に関わります。よって、ほかにもメイドを一名。そして、私の監督下で行っていただきます』
(甘かった……!)
ラウルの言葉を逆手にとって、これで色々と探ってやれると思っていたのに。さすが武門筆頭家門のメイド長は甘くはない。
(ああ、もう……! なんとかしてアルバの隙を見つけて、ラウルのことを探る暇はないかしら?)
額縁にはたきをかけていた手をから拭きの雑巾に持ち替えるふりをしながら、後ろをちらりと見てみる。しかし、暖炉の細かい装飾を拭いているアルバは、絶えずエリシアをその視界に入れているようだ。
振り返っただけで、じろりと見られた。
「ひっ……!」
(あぶない……迂闊なことができないわ!)
「エリシア様」
慌てて首を戻したが、その時モップを持って同じように部屋を掃除していたロラが、身を屈めながら、ひそっと囁く。
「ロラ? どうしたの?」
「どうしたのじゃないですよ。お嬢様……あ、いえエリシア様こそ、どうされたのですか? 突然こんなことを始められて」
「ああ……」
ロラは、エリシアが雑巾を持ったことさえないのを知っている。声を潜めて訊いてきたのは、だからだろう。突然、掃除を始めたことが信じられないようだ。
(まあ、バルリアス公爵家の娘なら、そうなんでしょうけれど)
宰相家の娘というプライドが邪魔をして、以前ならラウルに挑発されても決して頷かなかったのに違いない。でも。
「ロラ。私はね、考えを改めたの」
きゅっと赤茶色の棚を磨く。
「エリシア様?」
「私は、今は嫁いでレオディネロ公爵夫人になったのよ。だから、夫から掃除をしろと命じられれば掃除をするし、料理や洗濯だって、あの方の妻になるために必要なら、なんだって喜んでやるわ」
「エリシア様!? まさか、そこまで良い妻になろうとされていたなんて!」
(だって、現世ではともかく、前世では掃除なんて学校の当番で幼い頃からやっていたもの)
下手とはいえ、調理実習もしたことがある。洗濯も、簡単なものなら、家で手洗いをしたことがあるから、なんとかなるはずだ。
(ふふん。私がこの程度で音を上げると思ったら、大間違いよ!)
「ええ。私はラウルのために、最高の令嬢ではなく、最高の妻を目指すことにしたの」
(すべては、破滅フラグ回避のため!)
そして、あのラウルに愛を囁かせてやるのだ。俺が愛するのはおまえだけだと。
小気味よい光景に、よし! と心の中でガッツポーズを決めたが、どうやらロラの目には違うように映っていたらしい。
「……わかりました。まさか、エリシア様が、そこまでレオディネロ家の妻になろうと心を決めていらしゃったとは」
「うん?」
ロラの口調に、なにかおかしなものを感じてそちらを見た。
首を傾げたのに、その前でロラは眼鏡をかちゃりと持ち上げると、はっきりと茅色の瞳を開いていく。
「ならば、私もバルリアス公爵家を完全に捨てて、たった今からレオディネロ家の盾となります!」
「ええっ、ロラ!?」
突然なにを言いだすのか。驚いたのにロラは、エリシアの前で、くるりとアルバへ向きを変えている。
「アルバ様! 私にレオディネロ家の騎士の方との縁談をお願いいたします!」
「えっ!? ロラ、なぜ」
さすがに目を見開くが、それは突然呼びかけられたアルバも同じだったらしい。今までに見たことがないような顔で、瞳を丸く開いてしまっている。
しかし、ロラは胸に手を置くとそのまま続けた。
「私は、エリシア様への忠誠に生きる者――! エリシア様が、レオディネロ家で生きるとお心を決められたのならば、私は死ぬまでエリシア様のお考えに寄り添いたいと思います!」
「その心意気やよし!!」
くわっと目を見開いて叫ばれた言葉に「えっ!?」と振り返る。
驚いて見つめたが、その先では、それまで黙っていたアルバが、なにかに納得したようにうんうんと頷いているではないか。
「忠義に生き忠義に死ぬ。それこそ、まさに武門の心構え!」
(そうなの!?)
口の中で驚くが、アルバはそっとロラの手を握りしめた。
「ロラ、あなたが決めたのなら、私もこれからはあなたを武門の同士として遇しましょう」
「はい! メイド統括官!」
「ちょっと待って!? それがアルバの正式な役職名なの?」
まさか、メイド長の呼び方まで軍隊式とは――。びっくりしたが、アルバはくるりとこちらへ首を向けてくる。
「では、奥様。奥様がこの家で生きると決められたのならば、私もこれからは、びしばしと武門の習いを仕込ませていただきます。よろしいですね?」
「はい――――アルバメイド統括官」
「よろしいでしょう」
やはり、呼び方はこれで合っているらしい。
「では、私は今から、奥様に受けていただく訓練の用意をしたいと思います。ロラ、奥様にお渡しする着替えのため、あなたもついていらっしゃい」
「は……はい!」
黒い床にコツコツと靴音をさせて、アルバとその背中を追いかけるようにしたロラが出ていく。
「えーと……」
なにかよくわからないが、どうやら奥様見習いとしては認められたらしい。
(だけど、これはチャンス!)
今ならば、エリシア一人だ。部屋でラウルについてなにか探ることができるかもしれない。
(ああっ! でも、すぐに戻ってくるだろうし!)
迂闊なことをして見つかっては、せっかく見習いにまで上がったエリシアの奥様としての立場が、また敵に逆戻りしてしまう。
(警戒心を抱かせず、かといって短時間でできること!?)
そんなことがあるのだろうか。豪華な部屋を見回したが、時間は限られている。
このまま、破滅一直線になるわけにはいかないと、焦ったところで、ハッと頭に浮かんだ。
「そうだわ。その手があったわ……!」
これならば、窓さえ開けておけば、疑われたりはしないはずだ。
「そして、ラウル! みていなさいよ!」
(絶対に私に跪かせて愛を囁かせてみせるから!)
思いついたアイディアに、エリシアはドレスの裾を翻すと、急いで部屋から出て階段を駆け下りていった。