第5話 出迎えられた花嫁
式のあと、すぐに馬車で移動したレオディネロ大公爵邸は、今までにエリシアが見たどんな建物とも違っていた。
さすがは、王家と並ぶと言われるだけはある。都でも、少し小高くなった地に、市街を見下ろすようにしてそびえている様は、まるで王城のようだ。
都へ流れる川で、門の周囲の防御を固めてあるのだろう。馬車の窓から覗いたが、橋に続くのは宮殿にも並ぶほどの広大な庭園。ほとんどが緑の生け垣と芝生で覆われているため華やかではないが、それは庭園の奥で存在感を示す公爵邸も同じだった。
馬車の窓から見上げたが、青い空にいくつもの紺の尖塔がそそりたち、黄色がかった白い壁を従えている様は、圧巻以外のなにものでもない。
建物だけでも、一体いくつあるのだろうか。目の前にある建物は首を動かさなければ、右から左へと建物の全貌を見渡すこともできないが、両端からは渡り廊下が延びて、さらに違う建物へと繋がっているようだ。
(ここが、レオディネロ家……)
自分が育ってきた宰相家とは、あまりにも違う空気感に、思わずごくりと唾を飲み込んでしまった。
しかし、先に下りたラウルが、形だけでも馬車に向かって手を差し出したことで、玄関の前に並んでいた使用人たちは、一様に硬い表情でふたりに頭を下げる。
「お帰りなさいませ、旦那様。奥様」
言葉では出迎えてくれているが、誰の顔にも笑みはない。いや、むしろ慣れない様子があからさまで、使用人たちも居心地が悪そうだ。
「アルバ」
「はい」
その中で、公爵が呼んだ名前に答えたのは、黒い髪の四十路近い女性だった。後ろで丁寧に髪を一つに纏めており、お仕着せの服を着ていないところを見ると、きっと公爵家の中でも、多くの使用人を統括する仕事についているのだろう。
「時間がないから、すぐに軍部に行く。あとのことは任せた」
「はい」
「えっ!?」
アルバは慇懃に身を折っているが、後ろで見ていたエリシアにすれば驚きばかりだ。
(確かに、前もって、忙しいため披露宴の時間がとれないという話は聞いていたけれど……)
しかし、さっき結婚式を挙げて帰ってきたばかりではないか。少なくとも、今日ぐらいはもう少し一緒にいてくれてもいいのに――。
戸惑いながらエリシアは、ラウルを見上げた。振り向いてくれない夫に、一瞬腕を伸ばそうとしたが、高位貴族の令嬢としては慎みに欠ける行為だろう。
迷って指を握りこんだが、さっき思わず洩らした弱々しい声でも届いていたらしい。
やっと夫が振り返ると、感情のほとんどわからない瞳で、エリシアを見下ろした。
「すまないが、急な話過ぎて、結婚式の時間を空けるのだけで精一杯だった。それに、民が相次ぐ災害で苦しんでいる今、華やかな宴などは控えたほうがいいだろう」
「はい……そう、ですね……」
頷きはしても、心は段々と陰っていく。
(やっぱり……嬉しい結婚ではなかったのだわ……)
「すぐに出かけるが、なにかわからないことがあれば、このアルバに訊くように。もし、騎士たちが急に屋敷に来た場合には、対応はこのアルバに任せればいい」
「あ……、もしお客様でしたら、私でもなにかお手伝いを」
咄嗟に顔を上げる。
(そうよ……! 私は今日からここの奥様になったのだから!)
詳しいことはわからなくても、普段夫が世話になっている方々に、お茶を出して用件を聞くことぐらいはできるはずだ。
少なくとも、妻としての感謝を示すぐらいのもてなしはできるはず!
そう思ったのだが――。
「お気持ちだけで結構でございます。奥様は、武門のしきたりには不慣れでございましょうし」
冷徹なアルバの黒い瞳に一蹴されてしまう。
(武門――そうよね。私は普段レオディネロ家と対立している文官派の一族なわけだし)
それも派閥筆頭の出身だ。これから屋敷に入るというのに、公爵夫人を見つめる使用人たちの目が冷たい気がするのは、おそらく勘違いではないのだろう。
「では、行ってくる。帰りは少し遅くなるかもしれないから、夕食は先に食べているように」
「あっ……」
驚いて振り向くが、ラウルは、その場に控えていた部下の騎士に、豪華な礼装用の上着を預けると、代わりに渡された元帥服に着替えている。
ぱちんと腕のボタンを留める音が鳴った。
それと同時に翻る背中に、呼び止める暇もない。
「では、奥様はこちらにどうぞ」
(やっぱり……彼にとって私は、王家から押しつけられた妻にすぎないのね……)
「はい……」
後ろ姿へと伸ばしかけた手を握って、公爵邸に入ったが、心は晴れない。
開かれた扉の奥に入った瞬間、これまでエリシアが生きてきたのとは違う空間が広がっていた。
灰色と黒を基調として作られたホールは、さすがは王家に並ぶと言われる一族だ。
重々しい黒大理石が公爵邸の壁を埋め、白と金で彩られた扉と見事なコントラストを描いている。大ホールの中央にある階段の欄干を彩っているのは、黒光りした御影石だろうか。エリシアの実家のように、女性のドレスの衣擦れの音が似合うような華やかな造りではないが、歴代武門の長を務める重みがずしりと玄関からも伝わってくる。
(これが、元帥家と呼ばれる大公爵家の玄関……)
エリシアが、これまで生きてきたのとはあまりにも違う雰囲気だ。ここだけで、すでに気を呑まれそうになっている。
「奥様のお荷物は、すでにお部屋にお運びしてありますので」
「はい……」
階段をのぼりながら答えたが、にこりともせずに告げられるアルバの言葉と、下から使用人たちが窺うように見つめてくる視線とで、すでにエリシアの心は萎縮してしまっている。
なんて、冷たい出迎えだろう。
(ここが、今日から私の家……)
いや、きっと彼女らには奥様とさえ認めてもらってはいないのだろう。よくて、敵対派閥から押しつけられてきた迷惑な存在。
(わかってはいたけれど……)
改めて、はっきりと悟らされると、握っていたままの指先が冷えていく。
そのままアルバは、三階まで階段を上がると、一つの美しい白い扉の前で足を止めた。
「こちらが、奥様のお部屋になります」
開けられた部屋は、意外にも、白い壁で彩られた清楚な作りだった。冷たい出迎えとは裏腹に、部屋に置かれた椅子やベッド、そしてカーテンまでもがミントグリーンで彩られ、白い壁を彩るように装飾された金の花の飾りと合わさって美しい。
床は寄せ木細工だろうか。幾何学模様に組み込まれた板は、ほのかな赤茶色で、清涼な印象のこの部屋の中では、さりげない温かみを与えている。
「ご実家から届いたお輿入れの道具は、私どものほうで、一通りお部屋に入れさせていただきました。あとは、奥様のお使いになりやすいように、この者とお直しください」
(この者――?)
誰だろうと振り返れば、廊下の奥には、よく見知った眼鏡の乳兄弟の姿があるではないか。
「ロラ!」
ぱっと顔が輝いた。
そうだ、一緒についてきてくれていたのだ。結婚式のあと、父からレオディネロ家の執事へと引き渡され、そのまま違う馬車に乗ることになってしまったが。
「お嬢……いえ、エリシア様」
笑顔で言いかけた言葉を、じろりと睨んだアルバの視線で、慌てて訂正をした。だが、アルバはそれで納得をしたのか。
「では、私はこれで。夕食は、あとでお部屋にお持ちいたしますので、ゆっくりとご休憩ください」
信用ならない敵派閥から送り込まれた二人に、屋敷内をうろちょろされては迷惑ということなのだろう。
バタンと音がするのと同時に、ロラは閉まった扉を睨んで両手を腰に当てた。
「なんですか!? この家は! お嬢様に対して失礼な!」
口調が元に戻っているところをみると、よっぽど我慢していたのに違いない。
「ロラ、また眼鏡が外れかけているわよ」
くすくすと笑って、素が出ていることを教えてやる。だが浮き上がった眼鏡を直したところで、ロラの怒りは収まらなかったようだ。
「かまいません。むしろ、眼鏡を外せば、どうすれば内部からこの家を壊して、お嬢様を救出できるかと考えてしまいますから」
「お願いだから、それだけはやめて」
まだ、結婚したばかりなのだし――。
さすがに今離婚をしては、国内に抗争を起こさないためにした結婚が、まったく意味をなさなくなる。
(だけど……)
目の前で怒ってくれているロラを見ていると、心がほっと温かくなった。
「よかったわ。あなたがここに一緒に来てくれて……」
「私もですよ。こんなところに、お嬢様をお一人にするだなんて」
さすがにぞっとしますと言うところをみると、使用人たちの無礼な態度には、よほど腹が立っていたのだろう。
「でも、いいの? このまま私に仕えれば、ロラもきっとここで辛い思いをするわよ?」
「私は平気です。やられたら、やり返すぐらいの気概でおりますから。でも、お嬢様が……」
しかし、ロラが頑張ってくれると言うのならば、まさかここで自分が弱音を吐くわけにもいかない。
「私も大丈夫よ。こんな結婚、最初からうまくいかないのは、覚悟の上だもの」
「お嬢様……」
「さっ! だから早く荷物の確認をしてしまいましょう」
前向きに気を取り直して、解かれた荷物の確認をしていると、あっという間に夜になってしまった。先に整理をして、棚に入れてくれていたからだろう。思ったよりも早く、輿入れ道具の確認はできたが、夕食をロラと一緒に部屋で食べていても、まだ公爵であるラウルが帰ってきた様子はない。
「まだ、お帰りではないのかしら……」
夕食がすんだあと、することもなくて、読んでいた本から顔を上げた。先ほどまでは、こんな結婚でも、形式に沿って贈られてきた貴族たちからの祝い状を読んでいたのだが、ほとんどのには、次に自宅で行う夜会や茶会への誘いが書かれている。返事を考えるのも、次第に面倒になってきて、テーブルの端に置いたままにしていた。
(だいたい、夫の公爵が帰ってこないのに、夫婦への招待状の返事なんて――)
答えられない問題を今考えても仕方がない。ミントグリーンのソファから立ち上がって、窓辺で暗い庭を眺めてみたが、広大すぎるせいで、見えるのは所々で歩く騎士たちの松明の明かりだけだ。
ふうと溜め息がもれた。
(どんなに望まない結婚とはいっても、今日は一日目なのに……)
夫とは、本当に結婚式の時に顔を合わせただけだ。
(今日がどんな日であるのか、子供でなければ、知らないはずもない夜だわ……)
正直に言えば、少し怖い。
不安だが、結婚した女性ならば誰もがしてきたことのはず――と、少し目を伏せて、気持ちを誤魔化そうとした。しかし、心ではやっぱり不安になってくる。
(本当に……ひどいことは、されないのかしら……)
なにしろ、形通りの式以外はすべて拒んだ相手だ。望まれていなかった花嫁。
お下がりの妻を押しつけられた結婚の鬱憤を、二人しかいない初夜の床で晴らすというのは、十分に考えられることだろう。
だから、少しだけエリシアがおびえた顔色をしているのに気がついたのか。
「大丈夫ですよ、今宵のお嬢様はとてもお美しいです」
ええ、私が男ならば一目惚れするぐらいと、眼鏡を持ち上げながら、ロラはクールな表情で言い切ってくる。その真面目な口調に、少しだけ吹き出してしまった。
「ありがとう」
(そうよね、怯えていてばかりでは、なにも事態は進まないわ)
こんな形での結婚とはいえ、最初の夜を共に過ごせば、心にもなにか変化が起きるかもしれない。
(大丈夫よ。大半の政略結婚の令嬢は、碌に話したこともない夫に嫁いでいったのだから)
自分だけが幸せになれないということはないはずだ。
だから、心を決めると、今度は急に恥ずかしさがこみ上げてきた。
(いや、考えたらだめよ!?)
これからなにをして、されるのか。
(殿下のことは忘れて、新しい未来を生きると決めたのだから)
わかってはいても、こみあげてくる羞恥心に、いつもかぶっていた猫も忘れてしまう。じっとしているのがいたたまれなくて、つい立ちあがってしまった。
「でも、公爵様は遅いわね。まだお帰りではないのかしら」
(そろそろ、宮廷でも仕事が終わる時間のはずなのに――)
「私が、お帰りか見てきましょうか?」
新妻らしいエリシアの仕草に、微笑ましそうにロラが立ち上がった時だった。
「失礼します」
「はい?」
こんこんと叩かれた扉をロラが開けると、アルバが丁寧に身を屈めている。エリシアが夕食をすませたあとから、顔を合わせなかったが、今アルバが現れたのなら、なにか大事な用事があるということなのだろう。
(ひょっとしたら、公爵様がお帰りに――?)
思わずドキドキしながら尋ねた。
「公爵様が、お帰りになったの?」
忙しいと言っていたが、さすがに結婚して初めて迎える夜だ。これから花嫁の部屋へ来るという先触れなのかもしれない。
しかし、アルバは違う言葉を告げた。
「いえ、お帰りになった公爵様からご伝言を預かってきました」
「えっ――!」
まさかの言葉に、目を見開く。
「公爵様は、奥様が今日はたいそうお疲れになっているだろうと心配されておられました。ですので、今日はもうこのままお休みくださいということです」
それは――床を共にする気はないということだ。
謹厳なアルバが、目を伏せながら話す言葉に、がくっと体からは力が抜けてしまった。
「…………わかりました……」
やっと動かした唇は震えている。なぜ自分が言葉を話せているのかすらわからない。
(まさか、そこまで嫌われていたなんて――!)
思いさえもしなかった。確かに政略結婚だ。愛し合って結婚したわけではないし、好きになれないと言われるのならば仕方がない。だけど、結婚したら当たり前のことさえ拒まれるとは――。
ふらつくまま、そのままどさっと椅子に座り込んだ。手の震えは止まるどころか、次第に体全体に広がっていく。
「お嬢様……」
心配そうに声をかけたロラが、こちらに歩みだそうとした。しかし、その足を止めたのは、メイド長であるアルバの一言だった。
「ロラ、お前ももう下がりなさい」
「ですが!」
「下がりなさい。奥様を休ませてあげるべきお時間です」
有無を言わせない口調に、ロラが軽く頭を下げて渋々出ていく。
パタンという音が扉からするのと同時に、エリシアの体の震えは目に見えて大きくなっていった。
(馬鹿にして!)
くしゃっと目元が歪んでくる。
それだけ迎えたくない妻だったというのか! 政略での結婚のはずなのに、初めての夜さえ共にしたくはないとは――。
あまりにも妻を妻と扱わない態度に、涙までもが浮かんでくる。
「いいわ! そっちが私を認めるつもりがないのなら――!」
(私だって、そんな相手を夫と認めるのなんてご免よ! 好き勝手に生きてやるわ!)
思えば、今まで王家のため、派閥のため、すべてを犠牲にして生きてきた。散々利用されて捨てられたのに、政略結婚したあとまで、押しつけられた夫に見下されて生きるなんて――!
(冗談じゃないわ! これ以上馬鹿にされるのはごめんよ!)
どうせ、誰からも望まれない存在なのだ。
ならば、せめて自分のしたいことをして、なにが悪いというのか――!
テーブルの端に置いてあった結婚のお祝い状をぐしゃっと掴み取る。
「こんなもの――!」
行きたければ、たった一人で行く。今更、夫に愛されようなんて思わない。
(こんな結婚――!)
だから、立ち上がると、握り潰した手紙をそのまま燃やそうと暖炉へ向かって歩き出した。今は春だが、夜だけは冷えるからと入れられた赤い炎が燃え上がっている。
歩きながら、びりびりと手紙を引き千切った。そのまま暖炉に投げ入れてやろうと思ったが、近付いた視界は涙でぼやけていたのだろう。
靴の先が飛び出していたテーブルの猫足に蹴躓いてしまったのだ。
「あっ!」
叫ぶのと同時に、テーブルの上に置いていた本が、エリシアが倒れるのに合わせて転がり落ちる。
倒れた床に毛織物が敷かれていたのは、幸いだったのかもしれない。だが、転んだすぐあと、テーブルに置いていた分厚い本も崩れて、エリシアの頭へとぶつかってきたのだ。
「いたっ……!」
表紙の角でこめかみを切ったのか。咄嗟に手で額を押さえたが、薄く目を開ければ、血まみれになった自分の指が目に入る。
震えながら指を伸ばすその光景は――まるで、遠い雨の日に見た朧気ななにかに似ていて――。
そして、側に転がった血に染まった本のページを見た瞬間、霞がかっていたその記憶ははっきりとエリシアの中で甦ってきた。
「あーっ!」
そして、急いで周りを見回す。
そうだ。自分は知っているこの光景を。
(待って!? ひょっとして、ここ! 私が前世で読んでいた本の中の世界じゃないのかしら!?)