第32話 現れた場面
まさか、こんなに突然始まるなんて――。
悪妻エリシアの裏切りシーンが始まっていることに、目を見張る。
(なんで、今このシーンが始まるの?)
本の中では、少なくとも半年以上はあとに起こるシーンのはずだ。
物語のエリシアは、嫁いだレオディネロ家での冷たい空気に耐えかねて、毎日外へと繰り出すようになる。高価な品を買い漁り、夫に顧みてもらえない寂しさを埋めあわせるように、声をかけてきた男性たちの手を取った。そして、その相手と一緒に、あちこちの劇場や社交場に顔を出して、ますますレオディネロ家で孤立していくのだ。
だから、その孤独の中で差し出された元親友と婚約者の言葉に、辛くて苦い思いをしながらも、誰かに縋りつきたくて、ついレオディネロ家の情報を教えてしまうのだが――。
しかしそれは、時間軸でいえば、まだ半年以上も先のことだ。結婚してこんなに間もなく起こるシーンではないはずなのに――!
ぎゅっと紺のドレスの前で手を握り締める。
(まさか……話が変わったから?)
揺れる青い瞳の奥で、ひとつの可能性が浮かんでくる。
(だから、話の展開を修復しようと、本が物語の流れを変えたのかしら?)
――だとしたら、これは物語がエリシアを殺し、ラウルに王家への復讐を誓わせるためのエピソード!
気がついた事実に、咄嗟に口からは声が出た。
「改めてお断りしますわ。私は、既にレオディネロ家の奥方です。家門や夫を裏切るわけにはまいりません!」
本の中のエリシアならば、こんなに毅然と向き合うことはできなかっただろう。
物語のエリシアは、孤独を忘れるために、毎日酒を飲み続け、若いはずなのに体はぼろぼろになっていた。いや、それだけではなく、精神はさらに蝕まれ、繰り返す浮き名でさえも、自分はただの遊び相手にすぎないという現実に、深く眠ることすらできなくなっていた。
恨み続けて辛いはずなのに、生き地獄の中で聞いた王子とレヒーナの『最愛の友人』という言葉に縋りついてしまうほど。――誰でもいいから、私を愛してほしいと願っていたのだ。
その言葉を放ったふたりこそが、まさにエリシアをその地獄に陥れた元凶だというのに。悪魔さえもが救い主に見えるほど、エリシアは終わりの見えない地獄を、物語の中でさ迷い続けていた。
(だけど、私は違う)
それは、本の中のエリシアだ。今ここで生きている自分は、レオディネロ家で頑張った結果として、帰れば整列したメイドたちが軍隊式の挨拶で出迎えてくれるし、毎日奥様として不足はないかと気にかけてくれてもいる。
厨房で働いたからだろう。今も毎朝厨房に立っているが、労働を嫌がらない奥方としてメイドたちは親しみをもって話しかけてくるし、アルバも厳しい性格ながら、温かく側で見守ってくれているのがわかる。
それになによりも、ラウルが、エリシアを妻として大切に接してくれているではないか。
これからは、夫としてきちんと向き合うと約束し、それを証明するようにエリシアを抱き締めてくれた。
『不思議だな、俺は完璧な令嬢といわれていた頃の君よりも、こうして笑ったり泣いたりして、俺に向かってくる姿のほうがかわいく思える』
そう言って、優しく額にキスをしてくれたのは、すべてエリシアが運命を変えようとして頑張ってきたからだ。
だから、また縋ろうとするレヒーナの手を振り切って歩き出した。この言葉に応じる必要などどこにもない――そう思ったから歩き始めたが、うしろからはまだフェルナン王子の声が追いかけてくる。
「待て! お前が真面目で尽くす性格だということは知っている。だから、裏切れないのだろう? だが、浮気しているかもしれない冷淡な男など、お前が尽くすには値しないだろう。そんな我慢をして、武門にいるぐらいなら、離婚して僕たちの元に戻ってこい」
「ラウルは、今の私を妻と認めてくれているわ」
ちり、と今のフェルナン王子の傲慢な言葉に胸が焼けついた。
「だいたい、その私が『尽くす性格だと知っている』というのは、過去に、私がフェルナン殿下のために妃教育を頑張って耐えてきたことを見ておられたからですよね? それを御自分たちの都合で捨てておいて、なにを今さら勝手なことばかり――」
「だが、お前が、昔一番大切に思っていたのは、僕だろう? それならば、僕のために武門を捨てて、もう一度側に戻ってきてくれたらいいじゃないか。文官派筆頭の令嬢に戻り、レヒーナを助けてくれ。そうすれば、お前も敵である武門派から解放されて、さらにレヒーナと僕の結婚も認められ、全員が幸せになれるんだ」
「お願いよ……、エリシア。仲直りをして、もう一度三人で過ごしましょうよ? そうでないと、不吉なことが起こると水晶玉が告げていて――」
ちらりと見た先で、レヒーナは、ぽろぽろと涙を流している。
だが、相変わらずふたりの本心は、自分のためだ。特に、再びエリシアを利用できると考えているフェルナン王子の言葉には心底呆れた。
「お断りさせていただきますわ。そのうえで、夫のラウルには、フェルナン殿下からレオディネロ家への裏切りを勧められたと報告させてもらいます。今の私はレオディネロ公爵夫人で、もうあなた方の都合のいい存在ではないのですから――」
そう最終通告のつもりで言い切ると、エリシアは背を向けて、閉じられていた王太子宮から外へと向かう通路の扉に手をかけた。
おそらく、先ほど案内が連れてきたあと、通路にあった扉が閉められていたのだろう。その取っ手を握り、引っ張ろうとする。
だが、その瞬間だった。
「待って――!」
必死なレヒーナの声が後ろから追ってくる。
そして、手足にはいくつもの灰色の紐のようなものが絡んできた。
「なに、これっ!?」
驚いて、咄嗟に手首に絡みついた長い物体に目をやるが、よく見れば、それはどこか文字を引き伸ばしたような形をしている。それに黒い目鼻がつき、絡みながらエリシアを細い瞳で見つめているではないか。
「これは……!」
(まさか、神殿に描かれていた妖精!?)
「どうして、こんなものが……」
驚いて振り返れば、うしろではいつの間にかレヒーナが手の中に水晶玉を取り出している。そして、そこから出たいくつもの妖精をエリシアに絡ませているではないか。
「ダメよ……。エリシアは私たちに協力してくれないと……。そうでないと、すべての運命が崩壊してしまうの……」
そう笑うレヒーナの顔は、鬼気迫った壮絶なものだ。それと同時に水晶玉が光った。
ハッとして見つめれば、その中にはひとつのものが浮かび上がり、そこから妖精たちが飛びだしている。
「あれは……!」
まさかと目を見張った。しかし、水晶玉の中に浮かび上がっているのは、たしかに『救国の獅子伝』だ!
(本が、物語の流れを修正しようとしているのだわ!)
――そのために、レヒーナたちを使って、エリシアを裏切らせ、死への運命に導こうとしている!




