第3話 お下がり妻の結婚式
空には、カラーンカラーンと寿ぎを告げる鐘が高く鳴り響く。
普通ならば、この空のように晴れた気持ちで迎えるはずの日の鐘の音を、エリシアは暗い心地で聞いていた。
今、エリシアが身に纏っているのは、シルクのオーガンジーで作られたドレスだ。ふわりと広がる柔らかさは、清楚でこれから嫁ぐ花嫁にふさわしいものだろう。純白の布地には深海で採れた白真珠が縫いつけられ、ステンドグラスからこぼれる日射しに、清楚な煌めきで輝いている。縫いつけられた真珠が光りながら床に広がっている裾は、エリシアの身の丈の二倍はあるだろうか。青い石で作られた神殿の床に、まるで円を描くように広がりながら、中心でヴェールを纏う花嫁の美しさを際立たせている。
しかし、エリシアは、持っているピンクのチューリップのブーケをぎゅっと握りしめた。
(だからって! なんで、婚約破棄されたばかりの私が、たった一か月で結婚しなければいけないのよ!?)
泣きたくなるが、原因はわかっている。
全ては、王家が仕組んだのだ。王家を支持する勢力の中で、最大のバルリアス公爵家の離反を食い止めるための策なのだろう。
(だからって……。よりにもよって、敵対派閥で一番の大物と結婚しろだなんて……)
正直、溜め息しか出てこない。
息子の政治を理解しない行動に、国王自らが火消しを図ったためとはいえ、エリシアにすればあんまりな仕打ちだ。
(そうでなくても、まだ裏切られた辛さが消えてはいないというのに……)
不安そうにピンクのブーケをきゅっと抱えるエリシアの様子に、後ろから涙声が響いた。
「これでは、あまりにもひどすぎます……。破談の直後に、まるで宮廷で起こった悪い噂を早く消したいがためみたいに、お嬢様の結婚を一月後に命じるなんて……」
ぽろぽろと後ろで涙を流しているのは、あの日も一緒に王宮にいた乳兄弟のロラだ。手に持ったハンカチは、もうぐっしょりと濡れていて、とてもこれ以上涙を吸うことはできないだろう。
誰よりもエリシアの気持ちを考えてくれている彼女に、そっと目を細めて悲しい微笑みを浮かべる。
「ロラ」
そのエリシアの仕草に、側に立つ父も辛そうに顔を背けた。
「仕方がない。私も殿下の仕打ちを考えれば、本気で王家からの離反も考えた。だが、お前のことを考えれば、殿下にあんな形で婚約を破棄された今、エリシアの名誉を守れる相手は、王家と並ぶレオディネロ家しかないのも事実だ」
きっと、宰相として国を思う以上に、今の言葉が父としての本音なのだろう。
突然決められた家中が望まない娘の結婚。ましてや、屈辱で怒る中での敵対派閥最大の公爵家への輿入れだ。エリシアのために忍従したとはいえ、結婚式に参列する父も母も、この悔しさに水晶のような涙を流している。
(確かに――この結婚について、思うところがないといえば嘘になるわ――)
まるで王子の醜聞を消すためのように、用意されたエリシアの結婚。
エリシアのためではないのだろう。それならば、いくら相手が王家に並ぶといわれるレオディネロ家でも、先日跡を継いだばかりの青年に顔合わせをすることも禄になく、ましてや、エリシアや父の意向も確かめずに、命じたりはしないはずだ。
(陛下にしてみれば、これは王子の不始末を隠し、我が家の怒りを鎮めるため……。そして――王家にとって、最大の敵対派閥であるレオディネロ家に命じることで、王の威信を示すために仕組んだことなのでしょうけれども……)
あまりにも、利用されるだけの我が身に乾いた笑いしか出てこない。
(誰からも、望まれていない私――)
でも、と、一度ぎゅっとドレスを握った。そして離す。
俯いていた顔を上げれば、静かに微笑みが浮かんでくる。
「嘆かれないでください、お父様お母様。宰相家の娘として、これ以外、私にとれる道がないことは十分にわかっております……」
王子にあんな形で婚約を破棄された今、自分はきっと社交界中の笑いものだろう。完璧な最高の令嬢という名も、こうなってはただの嘲りの元だ。適齢期でも、今となっては、誰もこんな女を妻に迎えたいとは思わないのに違いない。
よくて行き遅れ。いや、尼僧になるしか道が残されていない娘に、愛しているが故に、父がどれだけの苦渋の決断をしたのかがわかる。
だから、エリシアはまるで自分に言い聞かせるようにして、父と母に向けて笑った。
「お父様とお母様が、私のためを思って、政略的にも嬉しくないこの結婚を承諾してくださったことはわかっております。ですから、私はお父様とお母さまには、感謝しかございません」
そうだ。少なくとも、父と母だけは、娘であるエリシアの幸せを願って、この結婚に頷いてくれた。
王家から離反するか、それとも笑いものにされた娘が幸せになれる可能性に懸けてみるのか。
怒りのすべてを呑み込んで、エリシアのために王命に頷いた両親の前で、これ以上子供っぽい我が儘を言うことはできない。
だからエリシアも、すべてを呑み込んで笑ったが、荘厳な聖堂の控え室に立つ両親は、さらに泣きそうな顔になった。
「エリシア……」
「お父様、お母様……」
窓からの光が、二人の泣きそうな顔に、優しく降り注いでくる。
これ以上、ここにいては、きっと泣いてしまうだろう。
だから、「お時間です」という神官の言葉に促されるようにして父母に礼をした。そして、ロラを伴って部屋を出る。
荘厳なグリセリア教の聖堂は、今日は招かれた人たちで溢れているのだろう。
歩く廊下の窓からは、下で馬車がひっきりなしに到着している様子が見える。しかし、エリシアが歩くこの廊下には、不思議なほど人の気配がない。
これから花婿の元に向かう花嫁が、それまでの一切から身を清めるという意味があるのだろう。
エリシアが歩く廊下の白い壁には、急流に流れる水しぶきが描かれ、こつこつと歩くタイルには、雨が踊るような水紋がいくつも描かれている。ここを歩いて花婿の元に向かうことで、きっと生家のものをすべて洗い流し、婚家に入るということを意味しているのだろう。もっとも、貴族の場合は、ほとんどが花嫁の有力な実家が目当ての結婚なのだから、こんなことはあくまで形にすぎないのだが。
ロラ以外、人気のない廊下を俯いて歩いていると、どうしてもエリシアの足取りは重たくなってくる。
(結局……結婚式までの間、夫となる公爵とは、禄に顔も合わせなかったわ……)
新しく夫となる人との結婚に、胸が弾むような気分はどこにもない。
あるとすれば、逃げ場もなく結婚するしかない、とぼとぼとした心境だ。
(やっぱり、気が進まないわ……)
わかっている。自分の未来にほかの道がない以上、この結婚を受け入れるしかないことは。
(だけど、怖い……)
何年も信じていた相手から裏切られて、捨てられた直後なのだ。
(また、この結婚で裏切られたら……)
今度こそ、自分は立ち直れないかもしれない。それならば、もう一生ひとりで生きていくほうが、どれだけ心は楽かしれないのに。
誰からの愛情も諦めて、せめて他国の修道院に入れたら――。
ふうと、溜め息をついて、階下の中庭を見る。今年の冬は長かったが、神殿の庭には、もう色とりどりの花が所狭しと咲いている。きっと、外は暖かいのだろう。
ふと足を止めたエリシアの様子に、後ろからロラが気遣うように声をかけた。
「あまり、ご心配なさらないでください。レオディネロ大公爵は、お若いのに切れ者と評判の方です。きっと――お嬢様のことも大切にしてくださいます」
「ロラ」
後ろで、眼鏡をはずしている彼女は、普段よりも素直にエリシアを心配している。だから涙を浮かべている彼女に、細く微笑んで返した。
「ええ、そうね。お噂では、とても真面目で清廉な方らしいし」
「そうですとも。ひょっとしたら、宰相様のように、お優しい方かもしれないのですから……」
ロラは、きっとこの結婚の意味をわかっているのだろう。だから、エリシアも涙を一筋こぼしながら笑った。
「ありがとう――。レオディネロ家には、ロラも一緒についてきてくれるのだったわね?」
「はい! どこまでも、お嬢様とご一緒します!」
必死に見上げながらの言葉に、少しだけ心が温かくなった。
この廊下で生家のすべてと別れることになっても、彼女だけは一緒にいてくれる。それが少しだけでも心の支えになる。
(そうだわ――――)
いつまでも、過去に囚われていてはいけないのかもしれない。
「ありがとう……。わかったわ、だからロラも眼鏡をかけて」
「はい――」
茅色の瞳にかちゃりと銀の眼鏡をかけるのと同時に、今までの泣き顔はどこへやら、ロラの背中がしゃんと伸びる。
「お嬢様、今のでお化粧がくずれました。すぐにお直しいたします」
「私は時々、あなたが二重人格ではないかと疑うわ」
引きつりながら答えたが、いつものきりっとした顔に戻ったロラは、すぐに携えていた簡易化粧セットからおしろいを取り出していく。
「なにを馬鹿なことを。ただ、私にとっての眼鏡は、戦闘服なだけです」
「私の猫より、よっぽど豹変するのに……。まるで、なにかの本に出てくるキャラクターみたいね、その変貌ぶり」
「その感想は、お嬢様にこそ進呈いたします。ええ、使用人として主人に敬意をこめて」
「少しも敬意を感じないんだけれど」
そう言った瞬間、頭がずきんと痛んだ。
本――――?
一瞬記憶の淵からなにかが浮かんできそうになる。しかし、その間もロラの左手は、持っていたハンカチでエリシアの顔から涙を拭い、素早くパフでおしろいを顔にはたきつけていく。
「そんなことより――、花婿のレオディネロ大公爵様ってどんなお方なのですか?」
考えていたが、次にロラが発した言葉で、思い出しそうになっていた記憶は途端に霧散した。
「私もよくは知らないのよ。代々この国の武門を統率する元帥のお家柄ということと、あとは公式のパーティーで、一・二度形通りの挨拶を交わしたぐらいで」
「あまり夜会とかには出席されないのですか?」
「そうね。されていても、文官派の私と、武門派の方とでは接点がなかっただけかもしれないけれど」
言われてみれば、どんな人物だったろう。顔におしろいを塗られながら、記憶を辿ってみるが、覚えている人影は朧だ。
「たしか、灰色の髪をされていたわ。あとは、すらりとした長身で、武官の方らしい無駄のない動作だったような……」
「なんとなくお人柄が想像できるような覚え方ですねえ」
ぱたぱたと手早く、ロラがおしろいを直していく。
思い返しても、記憶の中に残る相手の面影は本当に曖昧だ。
(どんな姿だったかしら?)
今になって考えるのもおかしな話だが、正直裏切られて婚約破棄されてから、これからの自分の幸せな結婚生活などまったく思い描くこともできないほど、心は打ちのめされていた。
だから、やっと頭に浮かんできた朧気な姿を必死で思い返してみる。
確か、髪はライトグレーに近い色だったような気がする。過去にエリシアが、フェルナン殿下のパートナーを務めたパーティーでは、形だけは慇懃に身を折っていた。
年の頃は、記憶違いでなければ二十一歳ぐらい。
「さあ、できましたよ」
ロラの声に「ありがとう」と答えて歩き出したが、やはり花婿の姿は、はっきりとは思い出せない。
(あまりにも急な話過ぎて、相手は天災に関わる地方の視察の予定を変えることができなかったのよね……。最初に大公爵様とお父様とだけで話し合って、あとはすべて互いの家のやり取りで仕度が進んだから……)
あまりに日がなさすぎて、お互いに、家を訪問することさえできなかった。
(昔、お会いした時の記憶では……)
波が描かれた廊下を歩きながら、だいぶ前の記憶を必死にたぐり寄せてみる。
たしかいつだったかの公式の席で、相手がフェルナン王子へ挨拶に来て顔を上げたとき、輝くようなライトグレーの髪の奥から、緑の瞳がこちらを見つめていた。肌も軍人で焼けている割には白く、整った容貌の中で煌めく緑の瞳が、やけに鮮烈だったのを覚えている。
そして、軍人らしい引き締まった体つき。背を伸ばした時の頭の位置は、フェルナン王子よりも上だったから、かなり身長が高い部類に入るのだろう。
(そうだわ。表情が硬かったから、もっと笑えば、女の子にもてそうなのに――もったいないと思ったのよ……)
細くても均整のとれた体に、しっかりとした肩。凜々しくても、崩れることのない表情に、さらりと流れた薄い灰色の髪。
(そう、あんなふうに!)
曲がった廊下の先をまっすぐに見つめれば、視線の先には、今必死で思い出していたのと同じ端正な顔立ちが佇んでいるではないか。
(そうだわ! 殿下とのことですっかり落ち込んで忘れていたけれど……。レオディネロ大公爵は、たしか隠れファンもいるほどの男前だったのよ)
ただ、謹厳な性格に遠巻きにされていただけで。今ここから見ても、年はエリシアとせいぜい三つ違いぐらい。王の思惑はともかく、確かにこれならば政略でも、不釣り合いというような縁ではない。
(私も、もう殿下のことは忘れたいし……。できるならば、これからは実家のためにも、レオディネロ大公爵と夫婦としてうまくやっていけたら――)
気持ちを切り替えるためにも、ささやかな希望に縋る。そして、化粧を整え直した顔に、笑みを浮かべようとした。その近付いてくる足音に、相手は気がついたのだろう。
突然くるりと向きを変えると、エリシアを厳しい瞳で睨みつけたではないか。
「遅い! とっくに、式の始まる時間だ! それなのに、無断で遅れるとはどういうことだ!?」
(はあ!?)
なに、この男――!
(初めて花嫁として対面した相手を、怒鳴って出迎えるだなんて――!)
しかし、こちらを鋭く見つめてくる緑の瞳に、エリシアの足はその場で固まってしまった。