第2話 婚約破棄
突然見た光景に、目の前が、くらりと暗くなっていくような気がする。
(なぜ、殿下がレヒーナと……)
レヒーナは、神殿で開催された講義で知り合った親友の一人だ。国内で広く信仰されているグリセリア教で、水晶玉を使った占いで未来を告げる『水晶姫』である彼女は、いつも聖堂とその側にある自宅との往復で、禄に同年代の友達を作る機会に恵まれてこなかった。
立場は違えど、同じような境遇だとお互いに共鳴したからこそ、色々と話し、行き来もするようになったというのに――――。
信じられない光景に、指が小刻みに震えていく。
「これは……いったい……」
けれど、エリシアが自分を取り戻すのよりも先に、四阿にいたフェルナン王子がサッと動いた。
こちらをまだ戸惑いながら見つめているレヒーナを庇うと、体で隠すようにして、エリシアの前へと立つ。
「見てのとおりだ。説明の手間が省けた」
手間が省けた?
(では――――、今日、私が呼ばれたのは、まさか……)
「殿下……」
こみあげてくる嫌な予感に、唇が震えてくる。それでも、必死に言葉を紡ぎ出そうとした。否定してほしい。これは単なる冗談で、エリシアを驚かそうとしてやったいたずらなのだと――――。
縋る瞳で見上げたのに、返されたのは、侮蔑するようなフェルナン王子の冷ややかな瞳だった。わずかな憐憫さえ拒むかのように、榛色の瞳はエリシアを侮りながら見下ろしている。
そして、口を開いた。
「本日、この時をもって、王太子フェルナンの命により、僕の婚約者をエリシア・マルガリタ・バルリアスよりレヒーナ・ラバンダ・メディナとする!」
(親友に婚約者を奪われた――!)
まさかの事態だ!
そんな、と息を呑むのに、エリシアの目の前にいるフェルナン王子は、動じた様子すらない。
二人が並ぶ光景に、必死でなにかを言おうとしても、唇が震えてうまく言葉にならない。
(嘘よ……、レヒーナは私の親友で……)
フェルナン王子も知っていたはずだ! だから、今のは聞き間違いだと思いたいのに、耳を打ったのは尋ねるエリシアの声ではなく、聞き慣れたレヒーナの震えるような呟きだった。
「ごめんなさい、エリシア……」
フェルナン王子の後ろから顔を覗かせたレヒーナは、話す前にばれたことで困惑したようにエリシアを見つめている。その様子では、本当は、王子と一緒になにか言い繕うつもりだったのかもしれない。
「どうして……!」
しかし、見てしまった光景にエリシアの叫んだ声で、見慣れたレヒーナの神秘的な容姿は、少しだけ申し訳なさそうに俯いた。
確かにレヒーナは美しい。涙で視界が歪みながら見ても、透明な雫を浮かべているレヒーナの菫色の瞳は、今までにエリシアが見たどの貴族令嬢のものよりも澄んでいる。さらりと、紫がかった銀色の髪が流れ、泣き顔さえ童話に出てくる妖精のようだ。
しかし、まさかそのレヒーナが、自分の婚約者であるフェルナン王子と通じていたなんて――――。
「なぜ……!? どうして、あなたたちが……!」
いや、尋ねたいことはもっとたくさんある。だけど、震える唇から出てきたのは、引きつったような叫びにも近い声だけだった。
しかし、縋るように見つめているエリシアを、王子は前に立ったまま侮った瞳でフッと笑う。
「どうして? 君もわかっているだろう? 君と僕との婚約は、親同士が政治的な思惑で決めたことにすぎない」
「そ……それは、そうだけれど……」
でもと、一瞬俯いた顔を上げた。自分はフェルナン王子に心から恋をしていた。だから、たとえ政略での縁ではあっても、王子の本当に良い妻になりたかったのだ。
「私は――! フェルナン殿下を心の底からお慕いしていたから……!」
だから、今まで頑張ってきたのだ。ほかの貴族令嬢たちのように、自由に遊ぶ時間がもてなくても。
『大変だけど、ありがとう。君がしてくれているこれらは、すべて将来王妃として、僕の力になるためのものだから』
そう笑いながら王子が言ってくれたから、これまで頑張れたのだ。
それなのに――。
しかし、震えるエリシアの前で、王子は悪びれもせずに微笑んでいる。
「僕のためにしてくれた、君の今までの努力は知っている。だが、僕はレヒーナに出会って、彼女こそが自分が愛するにふさわしい人だと気がついてしまったんだ」
愛――――。一度も言われたことのない単語に、胸が強く締めつけられていく。
だが、王子は辛そうに目を伏せたエリシアから視線を動かすと、背後に立っていたレヒーナの肩を優しげに抱きしめた。
「今日はそのことを話そうと思っていたんだ。僕が忍んで彼女と会っていることに、そろそろ貴族たちが気がついてきたようだったからね。おかげで、最近は、僕の結婚を早めたほうがいいのではと、色々とうるさいことを言いだす奴も増えてきた。あんな奴らの言葉を聞き入れて――レヒーナを、このまま手放すようなことはしたくはない」
「では……宮廷で、殿下との結婚を進める話が出ているというのは……!」
(会っていたから! レヒーナと!)
気づいてしまった嫌な事実に、ぎゅっとドレスを握り締める。
それもエリシアに内緒で――!
いつからだったのか。二人がこっそりと自分を裏切り笑っていたのかと思うと、目の前が怒りで真っ赤に染まっていくような心地になる。
「どうして……! いつから……!」
(婚約者の私に隠れて!)
突然の告白に、握った拳が震えだしてくる。
ずっと二人を信じていたのに――。
王子が、レヒーナに優しげに話しかけるのも、婚約者であるエリシアが紹介した親友だからだと思っていた! それなのに、知らない間に密会をし、目撃された貴族たちにも危惧されるほど、頻繁に愛を囁き合っていたなんて――。
なにも知らなかった自分が愚かで、滑稽にさえ思えてくる。
「ごめんなさい、エリシア……」
目を潤ませた姿で立ちながらも、前にいるエリシアの頬にも涙が流れているのに気がついたのだろう。王子の傍らに立っていたレヒーナが、戸惑いながら口を開いた。
「エリシアには、本当に悪いと思っているわ……。最初は私も、エリシアの婚約者である殿下となんて……と胸が痛んだの。でも、水晶が殿下の運命の人は私だと予言して。それを相談したら、殿下は、いずれ国を導く王妃になるのなら、エリシアよりも私のほうがふさわしいとおっしゃって……」
「なっ――!」
思いもしなかった言葉に、息を呑んだ。
衝撃で、今まで泣いていたはずの目さえ大きく開いてしまう。
「幼い頃から……人生の全てを、殿下の妻になるための教育に捧げてきた私よりも――水晶の占いで出た……レヒーナのほうが王妃にふさわしい……と?」
震える声で、やっと言葉を絞り出す。
しかし、目を見開いているエリシアの様子が意外だったのか。前に立っていたフェルナン王子は、明るい笑みを浮かべると、さらに愛しそうに側にいるレヒーナの肩を引き寄せていく。
「当たり前だろう? だってレヒーナは、占いでこの国を導く聖なる水晶姫だ。重臣の娘である君よりも、国の運命を知り民を導く彼女のほうが、王となる僕には何倍もふさわしい」
二の句を継ぐことができない。
水晶姫――。だから、エリシアよりもレヒーナを妃として迎えるというのか。何年もフェルナン王子に尽くしてきた自分を捨てて――。
「それに、美貌の面からいっても彼女のほうが上だろう。君も美人だが、僕は彼女の神秘的な姿のほうに、より心を惹かれると気がついてしまったんだ」
「――はっ……」
あまりにもひどい言われようだ。これにはさすがに乾いた笑いしか出てこない。
(では、これまでの私の努力はなんだったというの……)
心からフェルナン王子に尽くしてきたというのに。恋して、いつか結ばれる日を夢見ていたからこそ、十年も努力し続けた――。
「もちろん、君がこれまで婚約者として僕のために尽くしてくれた行為には、感謝をしている。だから、婚約を破棄したとしても、君の名誉は傷つけられないように守ろう」
(守る? ここまでひどい行いで私の心を踏みにじったのは、殿下だというのに。今更なにを――)
「違うわ……、親同士の決めた婚約でも、私は心から殿下のことを思っていたから……」
だから、最後に必死の思いで縋った。しかし、王子はただ目の前で、にこりと笑っている。
「もちろん、わかっている。それ故君なら、王太子という僕の立場に一番ふさわしいのは誰か、きっと理解してくれると思っている。今度は僕たちの結婚式を、元王太子妃候補として、そして花嫁の親友として祝ってくれるはずだ」
だから――と笑うフェルナン王子の笑みに、頭の芯がぐらぐらとしてくる。
「僕たちの結婚式には来てくれるよな?」
聞いた言葉に、頭の中でぶちんとなにかが切れた。
「ごめんよ! どうして裏切られた私が、あなたたちを祝福しなければいけないのよ!」
咄嗟に、持っていた扇を投げつけていた。
十五の誕生日に、王子が公式の席でも使えるようにとエリシアに贈ってくれた品だ。
「うわっ!」
「殿下!?」
顔すれすれに扇が掠めていくフェルナン王子の姿に、側にいたレヒーナが慌てている。だが、残念ながら、体に当てることはできなかったようだ。
「エリシア?」
「絶対にごめんよ! あなたたちの結婚式に出るくらいなら、今すぐ改宗して他国の修道院に駆け込んでやるわ!」
なにを怒っているのかも、きっとふたりには理解できていないのだろう。だが、エリシアはそのまま四阿から駆け出すと、急いで庭園を走っていく。
(悔しい! 悔しい!!)
まさか、二人して自分を裏切っているとは思わなかった。だから、普段なら気にする貴族の目にもかまわず、ただハンカチで顔を隠すと、そのまま先ほどロアと別れた場所まで必死に駆け戻っていく。
「お嬢様!?」
いつもならば、フェルナン王子と会ったあとは、満面の笑みで帰ってくるエリシアが、ハンカチで顔を隠しながら戻ってきたことに驚いたのだろう。見開かれたロラの目で、泣きながら走っている自分の姿が、化粧も髪も崩れた情けないものになっているようだとは気がついたが、今は、悔しさと悲しみで、身なりにかまっている暇もない。
「ロラ――!」
次々と流れ落ちる涙を、ハンカチに吸わせることさえ忘れて、エリシアはそのまま駆け寄った乳兄弟の腕の中で泣き崩れた。
そして、その夜遅く、まるで厄介払いをするように、エリシアは王から別の結婚を命じられたのだ。