第19話 まさかの申し出
結局、ラウルが帰ってきたのは夜が過ぎて、もう空が白み始める頃の時間だった。
そのせいだろうか、頭が重い。
朝から黙々と、エリシアは目の前にあるブロッコリーを刻み続けているが、心ではまったく別なことを考えている。
(朝帰りって……、なにがあったの?)
やはり、本のとおり、今でもあのマルティナという女性が好きなのだろうか。あの謹厳な性格のラウルが、結婚しても諦めきれないほどふたりの絆が強いのだとすれば――。
はあああと、口からは盛大な溜め息が漏れた。
トントントントンと包丁をただ動かし続ける。
(やっぱり、それだけ好きってことよね……)
トントントントン、トントントントンとただ包丁の音が、手元から厨房に響く。
(仕方がないとわかってはいるけれど……。私は、お下がりの妻なのだし)
決められた物語のせいもあって、ラウルとの夫婦仲がうまくいかない。だから頑張っている――はずなのに、なぜか今日は力がいつものようには湧いてはこない。
思わず、また溜め息が洩れた。
「エリシア様……」
それが聞こえたのだろう。側で手伝ってくれていたロラが、手を伸ばして、そっと声をかけてくる。
そして、包丁を持っているエリシアの腕を押さえた。
「ブロッコリーはもう大丈夫です。そのままサラダに入れても、公爵様には決して気づかれないぐらい見事な出来映えになりましたので……」
「ロラ」
その声に気がついて、ふと手元を眺め直した。
ずっと見ていたはずなのに、どうやらなにも考えずに切っていたようだ。
手の側では、ブロッコリーのたわわな房が、今ではふりかけサイズにまで寸断されて、何に混ぜても気づかれないぐらい、見事な細かさとなっている。
「奥様……、やはり昨夜のことがお気にかかって……」
「それなのに、公爵様の苦手な食材を塵芥に等しいサイズにまで切り潰し、その未来を支える手助けをされ続けておられるとは……。なんて、武門の奥様にふさわしい心がけなのでしょう」
そっとメイドたちが目頭を押さえているが、なぜか今度は自分が戦地の切り込み隊長にでもなったかのような表現だ。
(なんか、それだと私がまるで容赦のない殺人鬼のように聞こえるのだけれど……)
いや、だが単語を変えて、殺野菜鬼にすれば合っているのかもしれない。なにしろ、ラウルの顔を思い浮かべただけで、原形を留めないぐらい見事に切り刻めるのだ。
ふだんならば、それですっきりするはずなのに――。
どうしてか、今日はまだ気持ちが晴れていかない。
厨房の仕事を終えて座った食卓で、エリシアは、再度はああと溜め息が洩れてしまった。
その前で、ラウルは、朝帰りの睡眠不足をものともせず、いつものとおり隙なく身支度を整えると席に座っていく。
端整な姿をちらりと眺めた。
(なにも連絡がなかったけれど……やっぱり朝までマルティナと一緒にいたのよね……)
本の展開のままだとすれば、二人の間になにかがあったとは思えない。だが、昨日の仲が良さそうだった二人の様子を考えると、また気持ちが悶々としてきてしまう。
(本当に……なにもなかったの?)
マルティナはともかく、ラウルからすれば初恋の相手だ。一度は諦めた恋心に、火がついてもおかしくはないだろう。
「奥様……、やはり昨夜の件で、お心を痛めておられるのでは……」
メイドたちが、明らかに表情の暗いエリシアに気がついて、後ろで、ひそひそと囁き合っている。
「それは、そうですわよ。公爵様ったら新婚の妻がいるのに、朝帰りだなんて……。夫の不実を悲しむ女心に、武門派も文官派もありませんわ」
ぴくり、と座ったラウルの耳が動いた。
「だいたい公爵様は、奥様のどこが気に入られないのか……。たしかに急な政略結婚ではありましたけれど、嫁いでから毎日献身的に尽くしてくださっていますのに」
「そうですわ。朝早くに起きて、まさに粉骨砕身の努力で食材を跡形もないほど見事に潰して食べやすくしてくださっていますのに――なにがお気に入らないのか」
(待って!? 形を残さないほど完膚なきまでに破砕しているのは、武門では評価ポイントなの!?)
いや、たしかに攻城戦や殲滅戦ならば、評価ポイントになるのかもしれない。
ただ、その考えを厨房にまで適用するのが、正しいのかどうか少し悩むだけで。
思わずメイドたちの言葉に引き攣ってしまったが、目の前に座るラウルにも同じようにその言葉は聞こえていたのだろう。
一瞬、メイドたちの囁きにうっと詰まったような顔をして、動きを止めた。
そして、伏し目がちのエリシアを見つめる。
「昨夜の件だが――」
「え?」
突然の話題に顔を上げた。見ればラウルも少し居心地が悪いのか、エリシアから視線を逸らしながら呟いているではないか。
「帰るのが遅くなって申し訳なかった。アギレラ将軍を説得するのに、少々手間取ってな」
アギレラ将軍というのは、たしか本にも出てきたマルティナの父親だ。その勇猛さが国内でも名高い将軍で、エリシアもフェルナン王子の婚約者時代に何度か挨拶をしたことがある。
「……こみ入ったお話だったのですか?」
「ああ、まあ、仕事の件ではなかったのだが――」
仕事ではないという言葉に、ドキッとしてしまう。
(では、個人的な話だったのだわ……)
また胸がきゅっと痛むような気がした。
(どうして? 話では、もうマルティナは、ラウルと別れているはずよね? それなのに、個人的な相談って……)
胸がもやもやとしてきて嫌な気持ちになってしまう。
だが、次に告げられた言葉には、驚いて顔を上げた。
「とはいえ、外泊になったのは申し訳なかった。昨日のピクニックも、俺が離れたせいで、途中までしか一緒にいられなかったし」
こほんと咳払いをしている姿は、どこか決まりが悪いそうだ。
「それに、結婚の披露宴もしてはいなかったな。急な結婚だったせいもあるが、さすがになんの披露目もしないというのは好ましくないだろう。だから、今日ある夜会に、ふたりで出席しようかと思うのだが――都合はどうだろうか?」
「え?」
思わず、きょとんと尋ね返してしまった。
「それは……私とあなたで出席して、夫婦としてのお披露目するということですか?」
「ああ。改めて披露宴をするにしても、やはり準備に時間がかかる。だから、取り敢えずとして、どうかと思ったのだが――」
ひょっとして、昨日の件について、アルバ伝いに報告を命じていたあの令嬢たちの家族からなにかを聞いたのだろうか。
(もしかして、私のことを心配してくれているの――?)
目を上げてよく見れば、ラウルはいつもの緑の瞳で、ちらりちらりとこちらを窺うように見つめている。その顔は、周囲に立つメイドたちの冷たい視線に戸惑いながらも、目の前に座るエリシアの様子を心配しているようだ。
その表情に、どこか心が温かくなってきた。
(今からでも、夫婦としての披露目を考えてくれるなんて――)
これは、本のストーリーでは絶対になかった展開だ。
だから、ラウル自身が、運命を変えようとしている今のエリシアのために考え、その思いに応えてくれたことになる。
(どうしよう、嬉しい)
間違いなく自分たちの間は、前よりも一歩近付いている。
そのことをなによりも伝えているラウルの心配げな眼差しは、エリシアの心に力を与えてくれるかのようだ。
「はい! もちろん喜んで一緒にまいりますわ!」
だから、心に灯った温かい思いを感じながら微笑むと、ラウルは一瞬目を丸くして、少しだけ頬を赤らめた。
「わかった。では、今宵六の鐘が鳴った時に出かけるから、そのつもりで用意をしておくように」
「はいっ!」
嬉しい。まさかラウルと一緒に、夫婦として出かけられるなんて――。
そう思い、エリシアは明るい顔で微笑んだ。




