第18話 初恋の女性
聞いた名前にごくっと息を呑んだ。
(――では、この人が!)
本に出てきていたラウルの初恋の女性だ! エリシアとの縁談が出たために、ふられたという――。
思わず手で口を隠したが、唇が震えてくるのを止めることができない。
顔も、この一瞬の間に青ざめていたのだろう。
「おい、震えているぞ。大丈夫か?」
「え、ええ。アルバの言うとおり、体が冷えたのかしら――」
ラウルが声をかける姿を見て、こちらに近付いてきていたマルティナも、エリシアの様子が気にかかったのだろう。
「大丈夫ですか、エリシア様」
どうやら相手は自分のことを知っていたらしい。
「ええ、ありがとう……」
「名乗りが遅れました。私は、代々レオディネロ家の補佐を務めておりますアギレラ家の者で、マルティナと申します。エリシア様に拝謁賜り、恐悦至極に存じます」
作法どおりの完璧な挨拶だ。
先ほどの令嬢たちとは違い、エリシアを侮るような様子は一切ない。
その姿を受け、エリシアも社交界の礼に則って、挨拶を返した。
「新たにレオディネロ家に加わりましたエリシア・マルガリタです。これからラウル様をお支えし、家門の力となりたいと思っておりますので、どうかよろしくお願いいたします」
手を伸ばして、マルティナの挨拶に応える。
だが、その瞬間ドキッとした。
(あ、こんな泥だらけの姿で、手を差し出されたら嫌かしら……)
動転したあまり忘れていたが、今の自分のドレスは、泥ではっきりと汚れている。
手にはついていないはずだが、こんな姿で差し出されたら、汚れを気にしてさりげなく拒否されるかもしれない。そう思った瞬間、マルティナは両手でエリシアの手を握った。
「遠目からお姿を拝見したことがございます。こんなに美しい方を奥様に迎えられるなんて、元帥閣下は幸せ者ですわ」
そう言うと、にこりと笑みを投げてくる。
「ところで、マルティナ。どうして、急にここに……」
横でふたりの様子を眺めていたラウルは、それが気にかかっていたのだろう。
エリシアを見つめているマルティナに声をかけると、相手は「ああ」と思い出したように頷いた。
「実は、私の家で困ったことが起こってしまって……。それで申し訳ないけれど、ラウルになんとか仲裁を頼めないかと思い、軍の開墾しているところに行ったのよ。そしたら、屋敷に戻ったと教えてもらって――」
ラウル――ふたりで話すときには、当然のように出てくるその呼び方に、胸が軋んだ。
「あ、申し訳ありません。伝えるのが遅れましたが、私は元帥閣下の幼馴染みなのです。ですから、昔からよく互いに気安く呼ばせていただいていたので、ついそのクセで――」
「かまいませんわ。友達ならば、ふつうのことですもの」
明るく微笑みながら言ったが、心の中では、なにかがまだ軋んでいるような気がする。
(やっぱり、ラウルはこの人と仲がいいのだわ……)
なぜか暗い気持ちでふたりを見続けると、ラウルはエリシアに向かっているマルティナに、まだ視線をやったままだ。
「困りごととは、厄介なことか?」
「ええ。ちょっと他家には広めたくない話なの。でも、父上が譲らなくて。仲裁できるとしたら、ラウルだけなのよ」
「わかった。昼間は仕事だから、終わってからでよければ、夕方に訪ねていくが」
「助かるわ。きっと、ラウルの言葉なら、父も聞いてくれると思うし」
(ラウル――!)
その言葉に、真っ青になった。
(行くの、その女性の家に?)
わかっている。ここでラウルが生きてきた以上、ラウルにも自分の思いがあり、たとえストーリーではエリシアと結婚することになっていたとしても、心まで変えられるものではないということは。
いや、むしろストーリーでは、マルティナの存在を忘れられず、そのためにエリシアとの結婚が破綻したのではなかったか。
だから、慌てて縋るようにラウルへ声をかけた。
「ラウル――、それではお帰りは……」
「ああ、少し遅くなると思う。話によっては、夜更けになるかもしれないから、先に寝ていてくれ」
「私――今夜も料理を作ってお待ちしていますわ。だから……」
早く帰ってきてほしいと、ぎゅっと腕を掴む。しかし、エリシアのその冷えた指に驚いたのか。
「体が冷え切っているではないか。そんな手で刃物を持てば、料理どころか逆に怪我をしかねないぞ。それとも、自分の指を犠牲にしたいのか?」
「いえ、そんなことは――」
「では、今日は温まって早くに休むといい。アルバメイド統括官、そういう次第だから、今夜は彼女を厨房に入れないように」
「はっ! 承知いたしました」
そう告げると、もうラウルはマルティナと一緒に歩いていこうとしている。
「あなた――」
向けられた背中が怖い。ひょっとしたら、いくらエリシアが頑張っても、ラウルの気持ちはもうマルティナから動かないのではないだろうか。
(だとしたら、私は――)
また捨てられるのだろうか。今度は、彼の剣で心臓を刺されて。
帰ってくる馬の上で、抱き締めてくれたとき、側にいてもいいと言われたようで嬉しかったのに。ほかの誰とも違い、完璧でない自分を認め、押しつけられた妻であるエリシアを決して貶めたりはしなかった。その姿に、いつしかホッとしていたのに。
「ラウル――」
しかし、呼び止める間もなく、ふたりの姿は玄関から出ていってしまう。
「さあ、奥様はこちらに――」
そのまま、アルバに案内されて湯浴みをすませ、やがて帰ってきたロラと部屋で話しながら待っていたが、夜が更けてきても、ラウルが帰ってくる気配はない。
扉が開けられるたびに玄関へ見に行ったが、メイドたちが出迎えに並ぶ様子はない。
「奥様……」
日付を越えて進む針の音に、泣きそうになってくる。
(やっぱり、ダメなの……?)
ストーリーに逆らおうなんて。今でも、ラウルの気持ちは、やはりマルティナに残っているから、こんなに夜が更けても帰ってこないのだろうか。
諦めて戻った部屋で、エリシアは枕を抱えながら、ただ今日のラウルの腕を思い出しながら、涙をこぼし続けた。




