第17話 現れた本の存在
カッカッカッと音を響かせて、公爵邸に馬が着いたのは、半時ほどあとのことだった。
「まあ、奥様!」
ふだんとは違う帰宅の時間に、メイドたちが慌てて主人を出迎えている。その中で、メイド統括官であるアルバだけは、ラウルと一緒に家に入ってきたエリシアの姿を見て、その顔を青ざめさせた。
「御衣装が汚れております。お怪我をされたのならば、ただちに医療処置を」
「あ、アルバ、心配しないで。坂を落ちかけて、服が汚れただけだから」
「坂を――で、ございますか? 公爵様が側におられた状況で?」
じろりと疑うように、ふたりを見つめてくる。
「あ、いえ。ラウルは少し席を外していたのよ。そこで、ちょっとうっかりとしてしまって」
さすがに、同じ武門の令嬢たちに絡まれたとは言いにくい。
ジッとアルバが、ラウルを見つめた。
「エリシアの不注意ではない。俺が少し席を外した間に、同じ武門派の女性に手を挙げられて、高いところから突き落とされた」
「ラウル!」
まさか、はっきりと本当のことを言うとは思わなかった。
「事実だろう。不注意をしたわけでもないお前が、自分の責にすることはない」
(それは、そうかもしれないけれど!)
同じ武門に列する人たちの前で、堂々と自分のせいではないと証明してくれるなんて――。
(どうしたのかしら、私。頭がうまく回らないわ)
いつもならば、冷静に判断して返せるはずなのに。今日の自分は、こちらを見つめているラウルの視線に、なぜか顔が赤くなってくる。
「だが、相手にそんな隙を与えたのは、俺の配慮が足りなかったからだ。すぐに彼女に着替えを。そして、エリシアを突き落としたガリードとルミオ、トーレスの者には、きちんと処罰を与えたか俺に報告するように伝えてくれ」
「はっ、承知いたしました!」
ただちに指を揃えて敬礼する仕草は、さすがに慣れたものだ。
「では、奥様。泥とはいえ、水分を含んでおります。そのままでは体温を奪われてしまいますので、先ずは湯浴みをしてください。その間に新しいドレスをご用意いたします」
「あ、ありがとう」
アルバがそう告げると、もう後ろにいるメイドたちは、いそいそと準備をし始めている。
「奥様、本当にどこもお怪我はございませんか?」
「もし、少しでも痛いところがあれば、すぐに処置をいたしますので」
今まで遠巻きだったメイドたちが、心配そうに声をかけてくれる。
どうやら、連日厨房のメイドたちに交じって料理をしていたおかげで、いつの間にかエリシアを取り巻く空気が変わったようだ。
「ありがとう、本当に大丈夫よ。汚れているだけだから」
初めてここの玄関に入ったときは、こんなふうに温かい声をかけてもらえるようになるなんて、考えてもみなかった。
だけど、今黒手袋をつけたメイドたちは、みんな心配そうにエリシアを見つめている。
(自分で運命を変えると決心して頑張ったから、なにかが変わったんだわ……)
たとえここが本の世界でも、生きているのが自分ならば、エリシアの意思でこれからの運命も変えていけるはずだ。
少しずつ未来が開けていくような気がして、思わず顔から笑みがこぼれた。
その時だった。
「ラウル! こちらに緊急で帰ったと聞いたのだけれど!」
パタンと扉を開く音がして、入ってきたのは美しい女性だ。
髪の色は、鮮やかなレディッシュ。開いている瞳は紺瑠璃色で、その対称が印象的だ。
(え?)
見た瞬間、思わず息が止まった。この顔は知っている。少しだったが、本の挿絵に出てきた顔だ。
(だとしたら、この人はまさか――)
着替えのために歩きだそうとしていたエリシアの足が、震えだすのを感じてしまう。
「マルティナ」
ラウルが呼んだ、本で見た名前に、心臓が止まるかと思った。




