第16話 伝わってくる温もり
「お嬢様!」
必死に離れたところからロラが駆け寄ってこようとする。
しかし、体はゆっくりと滑り落ちていく。草では、足が引っかかるところもない。
そのまま傾いた背中は、もう少しで泥水へと吸いこまれていく寸前で、駆け寄ってきた姿が、急いでエリシアの体を受け止めてくれた。
「危ない!」
支えられた逞しい腕にハッとする。見上げれば、そこには側の土に剣を刺して滑るのを防ぎながら、もう片腕で自分の体を受け止めてくれているラウルの姿があるではないか。
「あなた……」
策略もなにもなく、その言葉が口からこぼれ落ちた。
「なにをしている! そこは、沼地だぞ! いずれ潅漑用に整備する予定だが、今の状態で落ちれば、大変なことになる!」
左腕でエリシアの体を受け止めながら叫ばれた言葉に、改めて背筋がぞっとした。
「沼地……」
「ああ。落ちれば、無事ですむかどうかわからない。どうして、こんなところに落ちかけたんだ」
「それは……」
支えてくれる腕から伝わってくる温もりが優しい。言葉は厳しいながらも、強く自分を抱き締めて引き上げてくれる腕には、不思議なほど心がホッとしてくる。
だから、思わず言葉を詰まらせたままその温もりを味わった。その様子に、後ろからロラが眼鏡を光らせながら言葉をかける。
「元帥閣下。この女性たちが原因ですわ。彼女たちがエリシア様を取り巻き、侮辱して、さらにそこへと突き落としたのです」
「なんだと……!」
ギロリと冷たくラウルの瞳が、彼女たちを見つめた。
「今の言葉は本当か」
「わ、私は……」
エリシアを突き落としたパトリシアが、ファンであるラウルの眼差しに、顔を青ざめさせながら口を動かしている。
「私たちは、ただ、王太子殿下のお下がりを押しつけられたラウル様のことが不憫で……」
「そうですわ。だから、ちょっと彼女に自分の立場とラウル様のことを考えてほしかっただけで……」
続くサンドラの言葉に、側のシェイラもこくこくと焦ったように頷いている。
「なんだと……」
どうやら、周囲もこの騒ぎに気がついたようだ。おそらく彼女たちは、家族に弁当を届けに来たのだろう。遠くからこの三人の兄弟だと思われる騎士たちが、慌てて側へと近寄ってきた。
「ガリード、ルミオ、トーレス!」
「はいっ!」
視線をやりながらラウルが家名を呼べば、三人の騎士たちが直立不動になっている。
「彼女らを、お前たちの家の懲罰室に入れろ! 罪状は、軍の作戦箇所での騒動と上官にあたる一族への侮辱だ。水以外、二日間一切の食事を禁じる!」
「そんな!」
「私たちは、ラウル様のことを考えて……!」
サンドラとシェイラが必死でラウルを見つめているが、それに応える緑の瞳は容赦がないものだ。
「俺の妻を侮辱することが俺のためだと? とてもそうは思えん! これ以上不敬罪を追加されたくなければ、そこでおとなしく反省していろ!」
(武門では、所属による上下関係が厳しいとは聞いていたけれど……)
どうやら、それは家門同士の関係でも同じだったらしい。
「は、はいっ! 申し訳ございません! ただちに反省させますので」
そう言うと、駆け寄ってきた騎士たちは、慌ててその家族である令嬢たちを連れていく。
「大丈夫ですか、エリシア様」
その間に、ロラが急いで駆け寄ってきてくれた。しかし、特に怪我などはしていない。
「ええ、どこもなんともないわ。旦那様が助けてくださったから……」
まさか、こんなにも素直に、ラウルのことを旦那様と呼べるときが来るとは思わなかった。
それでも、危ない時にエリシアを助けてくれた腕は、とても心強いもので――。
「怪我がないならよかった。だが――」
緑の瞳が、ジッと自分を覗きこんでくる。
「旦那様?」
「いや――。慣れないところで、側を離れて悪かった。彼女たちには、君に無礼なことを言わないように、きちんと教育し直すよう伝えておくから」
「お気になさらないでください。こんなふうに怪我もなかったのですから」
「だが、そうは言っても――」
まだ、こちらを心配そうに見つめてくる瞳に戸惑ってしまう。
「旦那様?」
(どうして、そんな目で見つめてくるのかしら? 先ほどの会話は、ほとんど聞こえていなかったはずなのに――)
それとも、ひょっとして耳に入っていたのだろうかと心配になってくる。
(私がレヒーナとフェルナン殿下に裏切られて捨てられ、それでラウルに押しつけられたことを――)
もし耳に入っていたのなら、事実だとしても、やはりいい気分はしないだろう。
だから、不安になって見つめると、その瞬間ラウルはエリシアの体を軽々と抱えあげた。
「だ、旦那様!?」
「沼に落ちるのは防いだが、斜面を滑ったせいで、ドレスの裾が泥だらけだ。そんな姿で馬車まで歩くのは、目立つだろう」
(えええー! でも、フェルナン殿下にだって、抱っこなんてされたことがないのに!)
第一、ラウルは自分を嫌っていたはずだ。
「あの……旦那様の服が汚れますから」
「泥だらけの現場で作業をしているのに、今さらだろう。それとも泥のついた服で歩くのが、貴婦人らしい姿なのか?」
「いえ……。でも、あなたが泥に汚れても平気なのに、私だけが気にするのも……」
見つめてくる緑の瞳に赤くなりながら告げれば、ラウルは少しだけ呆れたように目を見開いた。
「そんなところまで、俺に合わせようとしなくてもいい。君は女性なのだから、わざわざ恥ずかしい思いを我慢することはないんだ」
そう言うと、近くにとめていた馬まで連れていき、その背中に乗せてくれた。
「悪いが、先にエリシアを公爵邸にまで連れて帰る。君は、そこの道具を片付けて、あとから馬車で帰ってきてくれるか?」
「は、はいっ!」
ラウルの命令に、サッとロラが敬礼をする。
「ああ、食事だけは副官に預けておいてくれ。せっかく用意してくれたんだ、残りは小休憩の時にでも食べる」
「はっ! 仰せのままに!」
ぴしっとした手つきに、いつの間にかロラが、すっかりレオディネロ家の流儀に馴染んでいる――とは思ったが、次に馬に乗ったラウルに抱えられたときには、さすがにエリシアの体が緊張で硬くなった。
「あ、あの旦那様?」
「時間が限られているから、馬を飛ばすぞ。落ちないようにしっかりとしがみついていろ」
まさか、突然こんな展開になるなんて――。
騎乗のためとはいえ、エリシアからラウルに抱きつき、そのしがみついた体を片腕でしっかりとラウルに抱き締められている。
緊張で体がガチガチになりそうだ。だが、生憎と揺れる馬上が、エリシアの手をラウルの服から離させようとはしない。
「きゃっ!」
「口を閉じていろ。整備された道ではないから、慣れていないと舌を噛むぞ」
言葉はぶっきらぼうなのに、絶対にエリシアが落ちないように、背中からしっかりと抱えてくれる。
落ちないように抱きついた胸は、なんて広いことか――。
(なんだか、さっきの令嬢たちが、ラウルのファンな気持ちが少しわかってきたわ……)
いつも真っ直ぐで、厳しい性格だが、守る存在は大切にしてくれる。
きっとこんなところに、武門の者たちも惹かれているのだろう。
服から伝わってくる温もりが、令嬢たちの言葉で悲しかったエリシアの心もじんわりと温めてくれるようだ。
そっと、その広い胸に頬を寄せた。
その仕草が、きっと不安なように見えたのだろう。
「馬に乗るのに慣れていなくて怖いのなら、もっとしっかりとしがみついていろ」
(私が側にいるのを許してくれている……)
しがみついてもいいと、誰からも捨てられた自分に言ってくれる。
(ラウル……)
なぜか、その言葉に目頭が熱くなった。
(変ね、私。どうして今、こんなにもこの人の胸で安心しているのかしら……)
自分を殺すはずの人なのに――と、その胸の温もりを感じながら、エリシアは響く蹄の音の中で、そっとラウルに寄り添って目を閉じた。




