第13話 お誘い
次の日の朝、エリシアは紺色のドレスを着ながら、席についた朝食のテーブルをどんよりと見つめていた。
着ているのは、今朝アルバが渡してくれた飾りのないドレスだ。
「いくら公爵様のためにお手伝いをされたいとはいえ、奥様は奥様。メイドではないのですから」
「アルバ……」
昨日の朝までとは違う、妻と認めるメイド統括官の言葉に胸が熱くなってくる。しかし、気持ちを奮い立たせて厨房に向かっても、やはり出てくるのは溜め息ばかりだ。
(失敗したわ)
はああと、厨房の古びた大きな机に向かいながら、盛大な溜め息をついてしまう。
「なにかあったんですか? 奥様?」
振り返ってみると料理長の瞳も、昨日までとは違い、どこか心配そうだ。ひょっとしたら、彼の背後に守るように置かれている食材の行く末を心配しているのかもしれないが。
「大丈夫ですか、エリシア様」
側で一緒に手伝ってくれているロラも、気がかりなように見上げてくる。
「昨日の、公爵様との騒動は伺いました」
(――聞いたのね)
では、昨夜エリシアがラウルによって部屋を追い出されたことは、もう使用人たちにも知れ渡っているのだろう。
アルバは、あんなふうに激励してくれたが、使用人たちにはどんなふうに映っていることか――。
いまだに一度も夫に抱き締められたことさえないお飾りの妻。それが、公爵夫人の顔をして、自分たちに指図をしている。使用人たちには、どれほど苦々しく思われていても仕方がないだろう。
「ですから、そんなときにはこれを――」
「うん?」
力づけるようにロラが、考えこんだエリシアの白い右手をそっと握りしめた。その中に持ちながら渡されたのは、大きな肉切り包丁だ。
「ロラ?」
「昨日、レオディネロ家の流儀を色々な方から教わりました。曰く、殿方はむかついた時などは、刃物を振り回してその鬱憤を晴らされるとか。ぜひ、エリシア様もレオディネロ家の作法におならいなさいませ」
「ちょっと待って! それ、騎士の方が剣で戦うとかではなくて!?」
どんな流儀だと慌てて叫ぶが、ロラはくいっと眼鏡を持ち上げている。
「似たようなものでございましょう。なに、妻も騎士も言ってしまえば同じ人間。同じようなものを持ち、向かう肉塊に一心不乱に励めば、同じように気も紛れていくというもの」
「それはそうかもしれないけれど……」
なぜだろう。騎士たちの爽やかな訓練に対して、こちらの光景が殺人鬼の死体処理を思わせるのは。
「ささっ、こんなこともあろうかと、今朝は厨房にお願いをして、特別に挽き肉料理にしてもらいました。エリシア様の届かない切なる願い! その肉にぶつけて、ぜひ公爵様に食らわせてやってくださいませ!」
「ねえ、実はロラが怒っているように感じるのは、気のせいよね?」
「とんでもございません。私ならば、牛肉相手などではなく、本気で相手を仕留める手段を考えますから」
「うん、ロラが文官派出身で、物理攻撃に精通していなくて本当によかったわー」
誤魔化すように笑うが、声がひきつってしまう。だけど、これは確かに気晴らしになるかもしれない。だから、側の包丁を高く持ち上げると、ダンと叩きつけた。
しかし、今日はどれだけ手を細かく動かし続けても、目の前が滲んできてしまう。
(昨夜、ラウルは私のことを気遣って手を伸ばしてくれたのに!)
やっと、初めて夫としての情愛を見せてくれた。それなのに、自分は過去のフェルナン王子の言葉に囚われて、その体を突き飛ばしてしまったなんて――。
どれだけ、ダダダと手を細かく動かして、包丁を肉に叩き続けても心は晴れていかない。
(やっと、ラウルが部屋に入るところまで許してくれたのに……!)
側にいることを許してもらえた矢先に、怒らせて出ていけと言われてしまった。
どれだけ後悔しても、もう昨夜のあの時間は取り戻せない。
一心不乱に包丁を動かし続け、知らずにこぼれ落ちそうになった涙に、手を止めた瞬間だった。
「奥様」
そっと横から、アルバが包丁を持つ手を握ってくれる。
「アルバ?」
突然握られた手を驚いて見つめたが、アルバの黒い瞳に浮かんでいるのは、慈愛に満ちた感嘆の色だ。
「なんと見事な挽き肉……!」
えっ、とまな板の上を見下ろせば、そこには数ミリサイズに切り刻まれた牛肉の山があるではないか!
「無心に宿るその妙技。これからは、奥様の公爵様への挽き肉作りをたたえて、肉裂き担当官とお呼びいたしましょう」
「ちょっと待って! その役職名は、まるで私が拷問係みたいなんだけれど!」
だが、周りは満場一致で拍手をしてくれている。
結局、そのままエリシアは、肉裂き担当官という名前に決まってしまったらしい。
新しい異名を思い出すと、朝食のテーブルの席なのに、またはああと溜め息が出そうになってしまう。
(だめだめ! 完璧令嬢といわれた私が、こんなにたるんだマナーを見せるだなんて!)
せめて、今日はなんとかラウルと仲直りをしたいのに、昨日自分がしてしまった失敗を思い出すと、どう切り出せばいいのかがわからない。
(昔の婚約者を思い出して怖くなっただなんて! どう言いだせばいいのよ!)
ちらりとラウルを見るが、どんな顔をして話せばいいのかわからなくて俯いてしまう。その様子に、ラウルの後ろに並んでいたメイドたちがひそひそと囁いた。
「やっぱり……奥様、昨夜のことがお気にかかって」
「公爵様が怒鳴りつけて、お部屋から追い出したんでしょう? まだ新婚なのに」
「あれだけ尽くそうと頑張ってくれている奥様のどこか不満なのかしら。そりゃあ、色々あったうえでの結婚だけれど、まだ初夜さえ共にされていないなんて」
じろりとラウルの翡翠色の瞳が、メイドたちを睨みつける。鋭い眼差しに、慌てておしゃべりをしていたメイドたちが口を閉ざした。
メイドの声はなくなったのに、まだラウルはどこか機嫌が悪そうだ。
黙りこくったまま食事をとっているエリシアを見つめ、一度腕を組んだ。そして、天井を見上げてなにかを考えるように眉根を寄せてから、唇を開く。
「どこか――行きたいところはあるか?」
「え?」
「昨夜は怒鳴りつけて悪かった。詫びというにはなんだが、昼ぐらいなら二、三時間ほどは抜けられる。だから、なにかほしいものがあれば、その時に店にでも――」
信じられなくて、目を見開く。
(まさか、ラウルが私を誘ってくれるなんて!)
「あ、でも今日のお仕事は郊外では……」
「郊外とはいっても、馬で三十分ほどのところだ。少し離れるぐらいなら問題がない」
嬉しい。
(どうしよう、まさかラウルが私のことを気にしてくれるなんて――!)
「あの、それではお言葉に甘えてなのですが」
「なんだ。今さら遠慮することもないだろう」
それは、おそらくふだんのエリシアの言動が、容赦なくラウルに迫っているからだろう。とはいっても、どことなく夫婦めいて聞こえる言葉に、エリシアの顔には、はにかんだような微笑みが浮かんでくる。
「では、ピクニックに行きませんか?」
思わず声が弾むように出てしまった。しかし、その単語は、さすがに予想外だったらしい。
ぱちりと目を開けて驚いている姿に、慌てて言葉を付け足す。
「今は、特にほしいものはないのです。それよりは、お忙しいあなたと、一緒にお昼を食べられたらと思って……」
「ピクニック……? だが、仕事場の近くは、荒れ地だらけだから、たいして面白いものはないぞ」
そんなところでかまわないのかと呟く顔は、余程意外だったのか、何度も目を瞬いている。だから、その姿に、笑顔で答えた。
「はいっ、ぜひ!」
嬉しい。まさか、ラウルのほうからエリシアに歩み寄ってくれるなんて――。そう思いながら、エリシアは、「まあ、それでいいのならかまわないが」と頷いた夫に、心の底から笑いかけた。
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