第12話 過去の記憶
食事が終わっても、エリシアはどこかうわの空だった。
気にすることはないと思うのに、頭の中では、いまだに過去のフェルナン王子の言った『俺のために』という言葉が回り続けている。
(馬鹿ね! どうして、今さらあの時のことを思い出すの!?)
確かに、言われたとおり自分はフェルナン王子のために心から尽くしていた。その気持ちを盾に、見事に裏切られたのだから、トラウマになるなといっても無理な話だ。
(わかっているわよ! 今から考えたら、ああいう人だったんだって!)
あの一件で、恋していた相手の本性もわかったし、おかげですっぱりと縁も切れた! せいせいしたと吹っ切ればいいだけの話なはずなのに――。
「おい、入らないのか?」
ぽかぽかと握った拳で、自分の亜麻色の髪を叩いていたが、紺色の絨毯の先を歩いていたラウルの声で、やっとエリシアは今いるのが公爵の私室の前だと気がついた。
どうやら、食堂を出た後、無意識にここまでついてきていたらしい。
「私が入ってもよろしいのですか?」
「朝は、着替えを手伝うと強引に押しかけようとしていただろうが……。ここまでついてきたくせに、今さらなにを言う」
ライトグレーの髪をかきあげながら呟くラウルの顔は、どこか呆れたようだ。
(もしかして……少しは、私のことを認めてくれたの……?)
それならば、あの怒りの掃除も、人参の叩き潰しにこめた努力も無駄ではなかったのかもしれない。
「はい!」
だから、満面の笑みでライトグレーの頭に続いて扉をくぐると、部屋に一歩入ったところで、前を進んでいたラウルの背中が歩みを止めた。
「ラウル?」
不思議に思って、後ろから覗き込む。
だが、緑の瞳が見つめているのは、今朝エリシアが掃除をした部屋の中だ。翡翠のように澄んだ瞳が、花で彩られた室内を驚くように見回している。暖炉の上や、机の端に置かれた花瓶に生けられているのは、中庭で今を盛りと咲いている黄色いフリージアや白のラナンキュロスだ。さらにピンクのゼラニウムや赤の薔薇が別の花瓶に生けられて横に添えられ、ヒヤシンスまでひっそりと咲いている様は、まるでここが花畑になったかのようだ。部屋中に馥郁とした香りが漂っている。
「これは……」
「ああ」
後ろでラウルが見ているものに気がついたエリシアは、企みを悟られないようにしながら、にっこりと笑った。
「お部屋が殺風景でしたので。いくら軍のお仕事をされるところとはいえ、やはり気持ちの潤いは大切でしょう?」
もちろん、ただの花ではない。花自体は、ここの庭で咲いているのを分けてもらったものだが、めしべにはわからないように、友達からもらった香水をそっと垂らしておいた。
(本当は、少しも進展しないフェルナン殿下との仲に、やきもきしていた友人から、これでせめてキスぐらいはしてもらえる雰囲気を作りなさいよ、と言われて渡されたものだったけれど……)
今から思えば、彼女はあの時、すでに王子とレヒーナとの関係を怪しんでいたのだろう。だから、無邪気に信じているエリシアに、もう少しフェルナン王子との関係をはっきりと進めたほうがいいと心配してくれていたのだと思う。
渡された男女の仲を盛り上げるという香水の威力は絶大だ。
鼻先をくすぐりながら漂い、どこか夢見ているような気分にさせていく。
その部屋を覆う香りに、どこか呆然としているラウルの様子に気づいて、急いで声をかけた。
「あ。もちろんお仕事の本は、きちんと棚に片付けましたよ! 大事そうな書類はすべて仕分けて、机の上にクリップで留めておきましたし」
「見ればわかる」
言われて見つめれば、ラウルの緑の瞳は、花だけではなく綺麗に整頓された部屋の中全体を見回しているようだ。
「俺も、新兵になら掃除をさせたことはあったが……さすがに、貴族の令嬢にさせたのは、これが初めてだ」
(させていたのか)
新兵には。どうりで、妙に淀みのない口調だった。しかし、さらに続けて、こんなに完璧に――と呟いたのは聞き逃さない。
「まあ! では、ラウルの初体験をもらえましたのね!」
なぜか今盛大にラウルがこけかけたような気がする。
「おまえ! その言い方は!」
「あら、すみません、そういう意味ではなく――。ええっと、初めての相手? いや、ラウルの初めてで――あら?」
どんどん言葉がまずい方向になっていくような気がする。
「だから、あくまで初体験で初体験ではなくてですね。私がラウルの初体験だなんて、そう言いたいのではなくて――」
「わかったから! そもそも男の前で、初体験だの初めてだのという言葉を連発するな!」
焦って叫んだ顔は、意外にも真っ赤だ。
その顔を見たエリシアのほうが、逆に笑う余裕ができた。
「あら? なぜですか?」
「なぜって……! お前、仮にも完璧と称されている令嬢だろう!? それなのに、男の前で、そのような、だな……」
初めてだとか、劣情を誘うような言葉は……と、口をもごもごさせているところを見ると、どうやら本当に女性と、この手の会話をしたことはないらしい。
初々しい様子に、思わず笑みがこぼれた。
「あら? だって、私はラウルの妻なのですよ?」
言いながら、ゆっくりと近づいて、上着に手を伸ばす。
「なにを……」
「お着替えのお手伝いを」
にっこりと笑いながら言えば、ラウルはやっとまだ着替えていなかったことを思い出したようだ。
緊張しているような姿の勲章に手を伸ばし、上着から丁寧に外しながら、側にある机の上へと置いていく。
「私は、あなたの助けになれるのなら、なんでもお手伝いしたいと思っております。そのために必要ならば、生家と立場が分かれても、それは仕方がないと考えておりますの」
「それは……すべて、俺のために、か……?」
その瞬間、エリシアの心臓が、どくんと一度大きく鳴ったような気がした。
勲章の上に留めてあった階級章に伸ばしていた指が、こまかく震えてしまう。
「え、ええ……もちろん……私は、あなたと結婚したのですし……。これからは、ラウルとレオディネロ家のことを一番に考えて……」
「お前……」
見つめてくるラウルの緑の瞳が、大きく揺れている。
ゆっくりと手が、エリシアの肩へと伸ばされてきた。
それなのに、エリシアの頭の中では、まるで鼓動を打つようにフェルナン王子の別れ際の言葉が蘇り続けている。
『僕のためにしてくれた、君の今までの努力は知っている』
思い出したくもない、あの時の言葉。
『だが、僕はレヒーナに出会って、彼女こそが自分が愛するにふさわしい人だと気がついてしまったんだ』
(どうして、今思い出すの!?)
忘れなければと思うのに、指の先が震えて、思うように階級章を外すことができない。
(助けて! どうか私の決心を揺らがさないで!)
ムードを盛り上げるために、わざわざ香水をたらした花たちのかぐわしさに縋るように祈る。
それなのに、今は部屋に満ちる香りでさえも、エリシアを襲う震えからは解放してくれない。
それどころか、チュベローズの香水の官能的な匂いに、元から甘い香りのする薔薇の花が加わったことで、窓を閉め切った部屋の中では、意識さえもが香りに支配されていきそうだ。
伸ばされたラウルの手が、そっとエリシアの肩にのる亜麻色の髪に触れた。
かすかに持ち上げられただけなのに、体には電流が走って、思わず竦む。
「俺のために……文官派筆頭である宰相家の生まれを捨ててもよいと……?」
「は、はい……。もちろん――私は、この家で……あなたの妻になったのですから……」
エリシアの決意を伝える機会なのに、口はがくがくと揺れて言葉が思うように出てこない。
香りの異常なまでの甘さが、エリシアの精神を正常でなくさせているのか。今、自分のいる場所が、記憶の中の四阿なのか、ラウルの部屋なのかさえ覚束なくなってくる。
『当たり前だろう? だってレヒーナは、占いでこの国を導く聖なる水晶姫だ。重臣の娘である君よりも、国の運命を知り民を導く彼女のほうが、王となる僕には何倍もふさわしい』
違う。今自分が話しているのはフェルナン王子ではない。わかっているのに、唇は震えて、顔からは血の気が引いていく。
『もちろん、君がこれまで婚約者として僕のために尽くしてくれた行為には、感謝をしている』
(違う! 彼はフェルナン殿下ではないわ!)
少しも似ていない容姿。彼のように甘くはなく、どちらかといえば厳しく感じる声音。どこにも共通点などないはずなのに、ただ漏らされた「俺のため」というひと言で甦ってきた記憶のせいで、息すらできないほど苦しくなってくる。
「どうした? お前、体が……」
けれど、小刻みに震え続けるエリシアの様子に異変を感じたのだろう。ラウルの両手が、俯いたエリシアの顔を見ようと、両肩へと置かれた時だった。
「――いやっ! やめて! 触らないで!」
思わず、どんとラウルの体を突き飛ばしてしまう。
その瞬間、気遣うようにエリシアに伸ばされていた手が、ラウルの体ごと、側の低い応接机へと倒れ込んだ。がしゃんと大きな音をあげて、机に用意してあった水挿しが倒れる。
「あ!」
すぐにはっとなって前を向いた。しかし、突き飛ばされたラウルは机に衝突した弾みに、こぼれた水をかぶったせいで、高価な軍服がびしょ濡れになっている。
「ラウル! ご、ごめんなさい……」
慌てて駆け寄ろうとした。しかし、伸ばした手が、倒れたラウルの体を起こすために触れようとした直前、ぎろりと睨みあげられる。
「触るな!」
氷のような声音に、ハッとした。
「ラウル……」
「嫌ならば、出ていけ! 別にお前に手伝ってもらわずとも、着替えぐらいなら一人でできる!」
廊下のほうから、ざわざわと使用人たちの近寄ってくる声がする。きっと、今のラウルの怒鳴り声が聞こえていたのだろう。
だが、向けられる緑の眼差しに、エリシアの青い瞳からは涙がこぼれた。
「ごめんなさい、私……」
(この人は、今私を心配して手を伸ばしてくれていたのに……)
初めて妻としての自分を気遣ってくれた。それなのに、その気持ちを拒んでしまったのだ。自分の思い出したくない過去の記憶のせいで――――。
「……嫌では、ないの……。私は、本当に心からあなたに愛される妻になりたいのよ……。だけど」
ぽろぽろと涙が頬をこぼれていく。その雫が、自分に捨てられた過去のある証のようで、惨めでたまらない。
その表情に一瞬息をとめたラウルの前で、エリシアは顔を隠すようにして部屋から駆けだした。まもなく来る使用人たちに、泣き顔を見られたくはなくて。
「お、おい」
後ろからラウルの声が追いかけてくるが、足を止めるつもりはない。そのままエリシアは自分の部屋に向かうと、ミントグリーンのベッドに顔を埋めるようにして泣き続けた。
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