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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

作者: 貴利々凛

もう三年も前のことであるが、私は今でもその男を鮮明に覚えている。その男の名は、氷室景宗といった。氷室一族は源氏と平氏の争いが起こる以前から源氏に忠誠を誓っていた武家一族である。彼らは、源平の戦いでは味方にすら恐れられる戦果を挙げ、執権の北条氏が政治の実権を握ってからも変わらず幕府に忠誠を誓った。そのため、幕府内でも特に重用された一族であった。もちろん、彼らが重用されたのは単なる七光りや過去の栄光だけでは無い。実力も十分すぎるほどに伴っていた。その一族の中でも特に異彩を放っていたのが氷室景宗である。彼は武道にも学問にも、あらゆることに優れていた。鎌倉幕府末期に倒幕派との戦いで名を挙げた彼は、象徴であるはなしのぶの描かれた鞘に納められた刀と共に、敵味方を問わず恐れられる剣士となった。それと同時に、敵に対しても無駄な殺しや残虐行為は行わない人格者であった。だからこそ臣下に慕われ、幕府内ではこれまでの氷室一族の者以上に高い地位を得た。彼は氷室一族の最高傑作とまで言われ、将来北条氏を支え、不安定化してきた幕府の治世を再び安定化させる逸材と期待されていた。しかし、時代の流れは無情である。すぐに幕府滅亡の時が来たのだ。その後の氷室景宗の行方は知られていない。落ち武者狩りにあって死んだとも、落ちのびたとも言われ、あるいは出家して僧になったとも言われている。いずれにせよひとつ確かな事は、彼が再び歴史の表舞台に立つことはないということであった。


とある新月の夜、丑三つ時であっただろうか。私は都を徘徊している怪しげな男とすれ違った。その男に声をかけると、私は思わず我が目を疑った。髪や髭はまるで藪のように秩序なく飛び出しており、鼻と上唇は切り落とされている。生気が感じられなかった。阿鼻地獄から逃げ出してきたのかと疑うほどの醜さであった。しかし、それ以上に驚いたのは、その男の持つ刀の鞘に、はなしのぶが描かれていたことだ。その刀は間違いなく氷室景宗のものだった。しかし呆然としている暇は無い。私はすぐ我に返り、その男を捕らえた。その後の裁判は滞りなく進んだ。驚きを通り越して恐怖すら感じさせるほどに。それはおそらく、その男が何も隠すことなく、全てを正直に話したからであろう。その男は確かに氷室景宗であった。彼は鎌倉陥落の後、落ち武者となった。鼻と上唇は落ち武者狩りにあった時に切り落とされたらしい。出家はせず、略奪を繰り返し、多くの人間を殺すことで生活を繋いでいたそうだ。私はこの時底の知れない薄気味悪さを感じていた。私はこれまで多くの裁判を見てきたが、罪の大小を問わず、皆何かしらの嘘をつき抵抗した。思えばこの男は捕えられる時にも抵抗はしなかった。略奪に虐殺。この男が犯した罪は重い。罪人は皆そうだが、特に大罪人は捕えられそうな時は死に物狂いで抵抗する。どうせ死罪だ。死ぬくらいなら逃げて、苦しい生活にはなるが生き延びる方がましだと考えるのだろう。加えて氷室景宗は名家の出身である。誇り高き剣士で人格者として尊敬の眼差しを向けられた存在だ。多かれ少なかれ自尊心はあるに違いない。では何故抵抗しようとしないのか。それがただひたすらに不気味だった。最終的にその男は市中引き回しの後に斬首となることが決まった。この男がしでかしたことを思えば当然である。引き回しの最中、民衆は散々野次を飛ばした。別にお前たちが殺されたわけじゃないんだから関係ないだろうと思うが、散々野次を飛ばした。もちろんこの男が氷室景宗であることは知られていた。民衆の中には氷室景宗を英雄として歓迎し、期待を寄せていた者も少なからずいただろう。なのに散々野次を飛ばした。石も投げつけた。酷い者は鼠の死体も投げつけた。ある者は家畜の糞尿を浴びせた。これではどちらが醜いのかわからないではないか。思えばこの男は時代の敗者なのだ。氷室景宗は確かに英雄であったろう。たまたま幕末に生まれたせいでこのような悲惨な運命に遭ったのだ。私はこの時初めて、時代の敗者とはここまで惨めなのだと知った。後世の人間からすれば鎌倉幕府の滅亡など、ただの歴史の一幕に過ぎないはずだ。そうであるにもかかわらず、その出来事は英雄になりえた男を転落させた。きっとおそらく、彼だけではないだろう。「彼ら」は間違いなく時代の敗者である。だが、それでもなお、私は彼らへの同情の念は持たなかった。不思議なことに、私は彼らに対しての感情が、正負を問わず、何一つ湧いてこなかった。きっと私は心の奥底で彼らのことを見捨てているのだろう。彼らは死んで当然で地獄に行くべきであると、私を含めた多くの人が思っているということか。だからこそ彼らにとっては生きているのが悍ましいだろう。その後の斬首は、より多くの民衆の注目を集めた。驚くことなど何も無い。当たり前だ。今日の目玉なのだから。男の首はいとも簡単に落とされた。執行人は一抹の躊躇もなく切り落としたし、男の首も滑るように地面に落ちたということだ。どうやら即死したらしい。「らしい」というのは、実は、私には彼が死ぬ前後でどのような違いがあるのかわからなかったのである。

本作品をご覧いただきありがとうございます!あなたの人生が豊かなものになりますように。

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