河川敷の人魚姫
河川敷ってさ普通はヤンキーとか野球少年が走り回っているところじゃん。
「今日の鯉は痩せてますねー」
決してさっきまで生きていた鯉をバリバリ音を立てて食べている女の人がいる場所ではないと思うのだけど。
「次はもっとふっくらした鯉を狙いましょう」
ひとり頷くその人かどうかわからないものは満足そうに周りを見渡して俺と目があった。
「キャアッ」
と絹を裂くような声をあげて、彼女は川へ飛び込んだ。近所では泥川と称されている川だ。普通の人はそんなところに白い尾鰭を上げて飛び込んだりしない。白い尾鰭は見る影もなく夜の闇と泥に隠れた。
昨日のことは夢であったのではないかと放課後まで考えてぼんやりしていた。そのせいか、担任の先生に暇人に見られたらしい。
「これ、あいつの家まで届けてくれないか、できれば直接渡してほしい」
宿題、提出書類の束を詰めた封筒を渡された。あいつというのはこの前から不登校になった女子高生のことだ。
暇なのは本当であるからこの頼まれごとをすることにした。
ただ場所がわからない先生から住所を聞いて、むかった先にあったのでは豪邸だった。整えられた松の木が夕陽に照らされて広い庭に影を落としている。
彼女はここに住んでいるのか、不思議に思いながらもインターホンを押す。インターホンのディスプレイに顔が写る。その顔は昨日見た女の顔だった。
「学校のものですか?そこに置いておいてください。それでは」
「おい!お前昨日」
「誰ですか知りません」
そう言ってインターホンが切れた。また押しても警戒してでてこないだろう。自分の態度が悪かったが人の話を聞かないのもどうかと思う。すぐにインターホンをまた押したいが出てはくれないだろう。
「もしもし、娘の学校の人ですか」
インターホンに出たのは、おばさんだった。娘と言っているなら彼女は母親なのだろう。
「はい先生に頼まれて書類を」
直接渡そうと、そう言い切る前に彼女は口を開いた。
「ドアの前に置いておいてください」
そう言って、インターホンが切られた。俺は言われた通り、ドアの前に置いて玄関から離れる。
3分くらい待ったか、さっきの母親の手が色白い腕が引き戸の隙間から出てきて、書類を入れた封筒を家に入れた。
直接は会っていないが、インターホン越しとはいえ、見たのだ。先生には直接渡したことにしておこう。でも俺は気になるのだ。あの女はあの人魚だという確信があった。もう一度見たかった。あの白い尾鰭を。
どうしようかと思ったとき、ぽちゃんと水が跳ねる音がこの家の裏で聞こえた。
走った。昨日の女がいると思ったからだ。音をたどって行くと水場があった。25メートルプールが比じゃないくらい。蓮の花や葉っぱが浮かんでるでも、よく見れば造花の偽物だ。
その透明な水の底には白い尾鰭を持ったあの女が横たわっている。
「あ」
「静かにしてよ。うるなさいな」
昨日の夜とは違い夕日が照らす尾びれは痛々しかった。よく見れば、白いように見えていたのは尾の部分、肌に血が通っていなかったからだ。
昨晩のあの男がクラスメイトだとは思わなかった。
泥川に浸る。体の免疫が泥川の汚さに気を取られて人間の部分と魚の部分の繋ぎ目で喧嘩するのをやめる。姉のように清い海で泳げたら。その憧れを解消することができたから。鯉に狙いを定めて捕まえる。
痩せた鯉だった。それでもキラキラ光る尾鰭で羨ましいなと思いながら食べていた。
河原の砂利が踏まれる音がして振り向いた。
私の食べ残しを狙った野良猫だと思い分けてやろうと思ったからだ。人間の男がいた。私は川に飛び込んだ。
夢だと願ってくれお願いだ。
人間に戻ると魚の部分と人間の部分が平等に混ざる。そして争い合って体がボロボロになる。
人魚と人の交わり、まあ、人魚姫のハッピーエンド版の先の先にあるバットエンドの固まりみたいな体だ。
人魚と人間の遺伝子が体の中で常に喧嘩している。不老長寿の伝説は私の体には無い。たまに生まれて20年以内に死ぬ。それが避けられない運命だ。
インターホンがなる。いつもの学校からの書類だろう。そう思って玄関側の映像見る。
昨日の男だ、なぜいる。学校の制服?クラスメイトだったのか。しかも昨日のことを覚えている。知りませんにが通るようなやつであることを願ってインターホンを切る。
それでも封筒を置いていかなかったかったから、母に頼んだ。母が池の鯉を死なせてまで作ったわたし専用の薬がいっぱい入ったもく浴場に浸っていたとき、さっきの男が現れた。
うるさいと私は言った。なのに話しかけてきたから答えた。
「泥川でなら、話したげる」
そういうと男は素直に去ってくれた。それから時々、男と泥川で話すようになった。痩せた鯉をつまみに話をする様になった。学校にあまり行けない私にとって男の話は新鮮でだからこそ残酷なものだった。
男の家は貧乏だった。ある日起きた学校内の盗難事件で免罪をかけられたのだ。時間が経って真犯人が2度目の事件を起こして免罪は晴れたのだけれど、以来学校で浮いていること。それが嫌になって夜中、泥川で黄昏ていたときに私を見た。私も男も人と話せるのは楽しいかった。しかし、私の体は弱っていった。
泥川に行けるのは後どのくらいだろう。今日、泥川に行く時に鱗を渡そう。家の池に浮かべた造花の蓮で遊びなながらそう考えていた。
夕方、泥川の上流で大雨が降り、川には近づかない方がいいとその日の夜のニュースで見た。
慌てて泥川まで走る。久しぶりに人の姿になり、体が痛い。でも急がないと男が待っている。走って泥川の堤防を越えて下を見た。男の背が見える。
「泥川からはなれて!」
私が叫んだと同じだった。川の近くにいた男は濁流に飲まれる。一瞬だった。私は男の背を追いかけて川に飛び込む。
俺は本当はあの夜、川に飛び込んで死ぬつもりだった。
でも、あの尾鰭が気になって死ねなくなった。話すようになった。今日は医者の学校に行けるようになったことを話すつもりだった。ぜったいに病気を治す医者になるからそれまで死ぬなと伝えたかった。
息ができない。水の圧力と混じっている枝や石が痛い。あの日飛び込まなくて良かった。あの泥川じゃあ服を汚して終わりだった。今の泥川は確実に死ねる。だけど気持ちはあの夜と正反対だった。死にたくない。もがいてもがいて上下はわからない。生きたい。手を伸ばした。その手を誰かが掴んだ。重い水の流れから剥がすように、力強く引っ張られる。
気づいたら草むらの上で水を吐いていた。かなり流された。隣にはあの女がいた。俺は彼女に2度も助けられた。ありがとうと、お礼を言おうと女のほうを見た。
女の尾鰭は人間との繋ぎ目から離れそうになっていた。そこから血がいく筋も川に流れ落ちる。
「どうして」
そこまでする価値は俺にあったのか。
「私がそうしたいからそうしたの」
そう言って女は息をするのをやめてしまった。それが女と交わせた最期の会話だった。葬式の後女は海へ還された。女の家のしきたりで死ねば海に流して自然に朽ちるのを待つらしい。女の母親から女の鱗を渡された。母親いわく、人魚が鱗を渡すのは一生一緒に泳ぐ権利はあなたにあると言う告白のものだった。
「直接渡して欲しかった」
女が還された海をみて泣いた。
そのあと俺はなんとか医者になれた。
女のような体質の持ち主を救う薬をつくった。
それでも治らない患者がいる。真摯に向き合っても患者が死ぬことだってある。だからこそ思う。
生きるか死ぬって二択あるように見せて、結局は生きて死ぬになるこの世が腹立つ。でも腹立ちながらも生きなければならない。
女の鱗は今も俺の手の中で夕日を反射して輝いている。