第1章 8
それでは本人確認の開始ということで、さっそく王玲が再びかがんで椅子の下にあるショルダーバックから、今度はごついなにかの機器を取り出した。
「引据さん、これ実はタブレットなんですよ!」
「えぇ、これが? すごいですね」
王玲の取り出した機器は、一見してタブレット端末とは見えない外観で、なんと厚さ約三センチメートルとかなり分厚いので、一昔前のノートパソコンのようにしか見えない。
一方で高さと幅は、それぞれ約二十五センチメートルと約三十センチメートルとで普通なのだが、どうやら厚さ以外にも注目すべきポイントがあるようで、僕の発した「すごいですね」発言を、タブレット端末に対する興味と捉えたようで、
「引据さん! さすがです! よく気が付いてくれました! このタブレット端末は中国は広東省深圳市に本社を置く通信機器大手メーカー中為技術製の特別仕様の高耐久タブレット端末なんです。マグネシウム合金の筐体に四隅が次世代衝撃吸収素材使用で、まだまだあるんですが、一番すごいのが中国人民解放軍の陸軍北京軍区の独自調達基準に準拠した初めての製品で、見て下さい、この厚さ! あと、持ってみます? 重さ約四・五キログラムなので、一度これを使用してしまうともう普通のタブレットには戻れませんよ! あと、なかなか地味にすごいのがこの表面の保護フィルムで……」
ダメだ、なにを言いたいのかは一部を除いてわかるが、少なくともその熱量には付いて行けない。
その一部というのがタブレット端末の重さのことで、普通のタブレット端末には戻れないというのはどういう意味かと思うのだが、王玲の半そでのTシャツからのぞくその太ましいけど筋肉質の腕を見たところ納得した。確かに王玲の筋肉質の腕とまるでダンベルを思わせるその重量級タブレット端末は、お似合いの組み合わせだった。
終始圧倒され続ける僕ではあったが、とりあえず話がこれ以上展開しないよう、あからさまに腕時計を見て、
「あれれ? おかしいですね! 王玲さん、時計見て下さい。もうこんな時間ですよ」
と、日本語読みだと四川省の東、湖北省の南、広東省の北に位置する省と同じ名前になってしまう、某低身長有名探偵のような導入をしてみるものの、その意図するところには気が付かなかったようで、慌てる感じで液晶画面の裏側の撮影用のカメラレンズを僕に向けて構えたところで、赤いチャイナ服姿の女性店員が近づいて来た。
僕に対して正対して座っている王玲の右横に立ち、お互いが僕に対しては横顔を見せながら二人の会話が始まった。
王玲と話している赤いチャイナ服姿の女性店員は、すらっとした長身のやせ形で、王玲がほぼ化粧をしていないのに対して、この店員はややしっかりと化粧をしており、それを考慮に入れたとしても、おそらく王玲と同じぐらいの年齢かそれよりも少し上といった程度であると思った。
二人は、中国で広く使われている普通語以外の言語で、おそらく広東語で会話をしているようだった。
中国の公用語はいわゆる中国語であるのだが、中国は地域により発音が異なり、特に北京市の発音をもとにした普通語と南の地域の発音をもとにした広東語とでは、現在の日本の方言のレベルを超えて発音が全く異なるため、普通語しか知らない僕にはほとんど二人の話している会話の内容はわからなかった。
会話は三十秒程度で、赤いチャイナ服姿の女性店員が一声かけ、それに対して数十秒ほど王玲から説明があり、その店員がかぶりを振るような動作をしてからすぐ立ち去ったため、どうやら撮影行為を注意されていたわけではなかったらしく、ほどなくして撮影会が開始された。
「引据さん、もう少し顎を引いて下さいよ」
「こうですか」
僕は王玲の言うとおりにすると、タブレット端末からのシャッター音が鳴ったが、外の雨音の方が大きいため、周囲の米国人には撮影会のことを気付かれてはいないようだ。
さらに何度かシャッター音が聞こえた後に、また、
「そうです。次は横を向いて下さい」
「こうですか」
「引据さん、違います。そうじゃないです。横顔はもう終わっているんです。次は耳が見たいのに髪で隠れています」
なにを撮影しているのかを説明してくれないとどうポーズをとったら良いかわからないじゃないか! という本音は飲み込んで言うとおりに従った。
僕が右を向いて、王玲が僕の左耳の撮影をしている時、店の入口ドアから入って右の一番手前の席に座っている、三人組の迷彩服の集団とともに飲んでいる派手な服装の若いアジア系の女性が、こちらを見て笑顔でピースサインを送っていることに気が付いた。写真を撮ってくれと言いたそう。
だがそもそも、そういったことは被写体である僕に伝えるのではなく、フォトグラファーである王玲に伝えねばならないわけだが、そもそも王玲が着席している位置からは、若いアジア系の女性は視界には入らず、当然のことながら王玲は一向に気が付かない。
若いアジア系の女性は、今度は大きく手を振る動作をしてその存在をアピールしているが、僕は「今は知らないふりをします」という某建設会社のコマーシャル風に、無視することに決めた。この酔っ払いめ。
顔や耳の撮影はひととおり済んだところで、僕と王玲の二人がこの中華料理店に入店した時に、すでに食事を開始していた米国人の家族連れと集団はこれから店を出るところのようだった。
また、僕と王玲の入店からこれまでの間、新たな客が来店していないためか、いまだに店に残っている客はというと、これから退店するだろう米国人の家族連れと集団を除いて、僕と王玲の二人と米国人のカップルの二人のみといったところであった。
「引据さん、こっちを向いて口を大きく開けて下さい、そうです、いや違います。小さいです。だんだん口が小さくなっています。……動かないで下さい。そうです。はい、そんな感じです」
僕が最初に口を大きく開けた時、通路を挟んで前方の米国人のカップルのうち、こちらに背を向けているアフリカ系米国人男性の方ではなく、こちらに顔を見せている白人女性の方とたまたま目が合った。それからすぐ、この女性が明らかに声を出して笑い始めたので、気になって男性の方もこちらを確認するという素振りを示したため、この女性から見て僕の顔がちょうど王玲の大きめの身体に隠れるようにするために、僕自身が座っている椅子自体を少し左に移動させた。
この椅子を移動させるタイミングで、油断して少し口を閉じてしまい王玲から指摘を受けたというわけ。全くついていない。
その後も手のひらの撮影をこなし、少し一息ついたところで笑いながら少し冗談めかした感じで、王玲が言った。
「実はあたし何度かこういう撮影したことがあるんですが、引据さんの場合は本当にやりやすかったですよ。特に顔の撮影の際には、人によっては笑ってしまって、確認用の写真のルールから逸脱することが頻繁にあるんですが、引据さんは一度も笑わなかった。すごい!」
完全にオレなめられてやがる。
口腔内写真撮影を五分程度で済ませた後、米国人カップルが席を立ったので会計を済ませ出て行くのかと思いきや、白人女性の方が少し長めの黒いスカートを手で払いながら、なぜかこちらの円卓に近づいて来た。




