第1章 7
卓上には空になったいくつもの料理の大皿が乗ったままで、特に王玲の側にある醤油の小瓶や爪楊枝はいまやランダムに配置され、シャコの殻が広く卓上に散らばっているばかりであったが、スープや粥類を含め全てきれいに食べ終えていた。
一方で僕の方はというと、スープや粥類はなんとかお腹に収めたものの、餃子や肉まんといった点心がどうしても食べきることができず、皿に乗ったままになっていた。
お腹いっぱいになったため油断した僕は、「王玲さんらしい豪快な食べっぷりでしたね」というフレーズも頭の中に浮かんだが、そういったことを直接的に指摘できるほどの間柄ではないと思い直しそのフレーズは封印し、代わりにオーソドックスな表現にして言ってみた。
「本当に美味しい料理でした。それにしても、すごい食欲でしたね。お腹いっぱいでしょう。もうそろそろ帰りましょうか」
「うん、ここに来るといっぱい食べちゃう♪ 確かに、もうお腹いっぱいになったことだし、ここでお開きに……」
王玲も油断していたのだろうか、ほんの少しだらしない感じのニコニコ顔でそうつぶやいた後すぐに、なにか大事なことに気が付いたようなハッとした表情になり、一瞬でこの状況についての理解を取り戻し、
「そうじゃなくって……、お茶でも飲みながらですが、ようやく本題ということで」
そう言っていったん居住まいを正した王玲は、卓上に煩雑に置かれ、飛び散った醤油が付着した汚い会計伝票をスッと右手で引き寄せ、少しかがんで椅子の下にあるショルダーバックの中に落とすと、代わりになにかの用紙をショルダーバックからサッと取り出し膝の上に控え急に改まって事務的な感じで、
「引据さん、まずは詳細な契約内容をご説明する前に、あなたが本当に引据数理であることの確認――本人確認について実施したいと考えております。こちらとしましては、日本への帰国の際の国際線及び三沢市への国内線の交通費、三沢市における滞在費の負担についても、すでにお電話にてご説明したとおりです。是非同意していただければと」
「確認なのですが、負担していただけるのは滞在費と交通費のみであると?」
「基本はその両方となると考えています」
負担の対象となる費用として滞在費は聞いているけれど、やはり先ほどからの食事の費用が含まれていない。ただでさえ、交通費と滞在費について負担してくれるので身元確認ぐらいは付き合わなければという時に、食事の費用まで負担させることになることがとどめの一撃となり、完全にこの本人確認を受け入れざるを得ない状況に追い込まれたと感じた。まさにただより高い物はないといった感じ。
僕は気を取り直して確認を続ける。
「……ええと、つまり、機密保持契約までのプロセスとしては二段階あって、その第一段目が本人確認であると。これを通過するとようやく第二段目、今回の本題であるところの手続きである機密保持契約を実施するといった流れであると理解して良いですか?」
「ええ、契約内容の詳細をご説明するためには正確に本人であることの確認が必要とされておりますので。そういった本人確認に際して、あくまで手続き上必要なのですが、確認書を用意しております。こちらの内容でよろしければサインしていただき、本人確認を始めていきます」
「その確認書を見せて下さい」
王玲は膝の上で準備していた用紙を両手で僕に向かってかざし、僕に文字が見える向きと角度を維持したままゆっくりと差し出した。そして僕は受け取った。
そのとき、視界の隅に派手な格好をした女性が横切ったが、今はそんなものに気を取られている場合ではない。
文書はA4縦の用紙に横書きの簡体字で記載されたもので、文章の大半はこれから実施する本人確認の種類や手順を説明したものであり、用紙の最下段に自署欄があった。僕は王玲に一つ一つの内容を確認するために、ところどころ拾い上げ、ゆっくりと読み上げ始めた。
「えぇと、手順としては写真撮影がまずあり、顔、手のひら、耳? まあ良いとして……口腔内! 確認ですけれど、写真撮影ってこの場所、この席で行うわけではありませんよね?」
「引据さん、ここです。速やかに写真を北京へ送り鑑定し、第二段目のプロセスにつなげることを考えておりますので」
「まぁ、そうですけど。口腔内ですよね、……食べたばかりなのに?」
「はい、問題はありません」
そう王玲が笑顔できっぱりと断言した。
「続きですが、音声録音、指紋採取と続き、最後に血液採取があると。……血液採取に際しては、本人以外が採血を行うと医療行為とみなされるため、あくまで僕自身で行うことになると。医師法か何かですか?」
「引据さん、ごめんなさい。詳しくは知りませんが、マニュアルどおりに行えば問題はありません」
「どうやって血液とるんですか? まさか、カッターナイフとかで指切るとか?」
僕は残っていた水を飲み干しグラスは空になった。最初に給水を受けた時に入っていた氷は、もうとっくに解けて水になっていた。
「まさかそんな非人道的なことはしません。専用のキットがありますので、それで採取していただきます。この結果だけは後日ということになりますが。顔、指紋、耳の形、声紋、口腔鑑定の結果があれば、もう間違いなく本人確認可能ですので問題はありません」
「はぁ、わかりました」
僕は餃子や肉まんが乗った皿を小脇にどけて、目の前の卓上スペースにラー油や酢の飛び散りがないか確認した上で用紙をセットすると、胸ポケットから黒いボールペンを取り出し、自署欄にアルファベットでサインした。他に選択肢はないと考えていたため、何のためらいもなくペンを進めた。
サインをし終え王玲に用紙を返却したタイミングでちらっと腕時計を確認すると、すでに二十時二十分を回っていた。
店のドアに掲げられていたプレートによると、ランチ営業が十一時から十五時まで、夜営業が十六時から二十一時までであり、それぞれラストオーダーが三十分前であるため、夜営業の場合のラストオーダーの時刻は二十時半であり、料理などの注文はもう間もなく終了となるが、まだあと三十分程度はこの店に滞在することが可能だと確認した。




