第1章 2
到着ロビーには濃緑や濃紺などの色彩を組み合わせた迷彩柄の服を着た米国人や黒いスーツを着たビジネスマン風の日本人、私服姿の日本人が、透明なガラス板で隔てられたこちらの手荷物受取所の中を、ときにはなにかを探しているかのように見つめ、ときにはスマートフォンを持つ手を振り合図し、ときには隣人同士でお互いに顔を近づけ合いなにかを確認し合いながら立ちすくんでいたが、ついに待人を見つけたのであろうか、急にざわついた英語や日本語の話し声で辺りは包まれた。
今回のひさびさの日本への帰国までの経緯はかなり複雑であるのだが、中国の北京首都国際空港から日本の東京国際空港への航空便の搭乗手続きの最中に突然かかってきた女性からの短い電話により、急遽東京国際空港から国内線を乗り継ぎ青森県三沢市へ向かうことを決め、あわただしくこうして三沢空港ターミナルの到着ロビーへたどり着いたものだから、肝心の空港での迎人が誰なのか全く情報がないことに、機内に引き続き今また気付かされたところだった。
したがって、しばらく到着ロビーの片隅で周囲の様子を伺うことにした。
待ち合わせに成功した人々は次々と空港を後にして行ったため、到着ロビーの人口密度は最初は急激にその後はゆっくりと低下していき、ロビーに残るは空港の警備員風の男性二人と僕を含めて五から六人となった時、
「そちらにいらしたんですか」
と言う声がし、僕はそちらを向いた。
到着ロビー出入口付近から女性がこちらへ駆け足で歩み寄って来た。
少し駆けて来たぐらいでは息が上がらないのか、僕と正対すると素早く軽く会釈し、こちらも会釈し返そうとしたところ、もう彼女の自己紹介は開始されていた。
「はじめまして、王玲と申します」
王玲は少し上目遣いで、だがしっかりと僕の目を見据えながら笑顔できれいな日本語で言った。不思議なことに、初めて会った気がしなかった。このような感覚は生まれて初めてだったので少し戸惑いながら、僕も挨拶をする。
「こちらもはじめまして。引据数理といいます」
お互い握手した。日本式にはない、欧米式のあいさつ。
王玲は、肩までの長さの髪を後ろで束ね、身長は百七十センチメートル程度と少し高め、全体に体格が良くがっちりとした女性で、ポップアートの描かれた半そでTシャツにところどころ色の落ちたタイトなジーンズ、肩からは黒の実用的な多収納タイプのショルダーバックを下げていた。やたらと化粧をしているといったようなけばけばしさはなく、年は二十歳台半ばといったところか。
青森でまだこの時期――五月の上旬となると最低気温が十度を下回る日もざらにあるので、その半そでTシャツでは寒そうだなとは思った。
「引据さん、お電話ではお伝えし忘れましたが、あたしが三沢市で引据さんの事務手続きを行うよう言われていますので」
王玲は念のための確認という感じで上目遣いで、
「引据さん、あなたが精華大学の学生で……」
「はい、留学生というか、今は元ということになりますが。つい一昨日まで清華大学の機械工程学院に籍を置いていて、結局二年間ほど北京にいたのかと……ええと、このたびは退学手続きの一部が履行されてなかったとか」
「その退学手続きについてなのですが……」
――共産党にとって都合の良い情報以外は積極的に対外的に発信しないし、そして外国の人間をなかなか受け入れないことで有名な中華人民民主共和国ではあるが、近年は大学をはじめとした研究教育機関においては積極的に門戸を開放し幅広く人材を受け入れている。
その一環に当たるのか、僕もつい最近まで北京市海淀区に位置する中国の国家重点大学の一つである精華大学の機械工程学院で研究生活を送っていたものの、不本意なことに突然辞めさせられてしまったため、諸手続きを済ませ日本へ帰国することになった。
北京首都国際空港で女性から連絡が来た際には、単なる書類上の不備なのであれば郵送などで対応していただけませんかと言ってみたのだが、どうしてもということなので、急遽羽田国際空港から国内線を乗り継いで青森県三沢市に到着したというわけ。
聞くところによると、なぜ三沢市まで行かなければならないのかというと、日本にいる精華大学の関係者である王玲が居住しているからということのようで、あまり要領を得ない回答ではあった。
しかし、なぜ僕が日本の地方都市である三沢市へ、手続きのためだけにわざわざ向かうことを快諾したのかというと、日本への帰国の際の国際線と国内線の交通費、三沢市における滞在費も大学側が支払うという破格の条件付きだったこともあるが、日本へ帰国した後の予定が特になかった、つまり暇だったということが一番大きい。
とにかく、共産党の支配する中国のことだから、あらゆる様々な理由を付けて日本への帰国を阻止されるということも考えられるかと思っていたものの、問題なく北京首都国際空港での保安検査及び出国審査が済みゲートを抜け、こうして無事に日本へ帰国できたのだった……
王玲の説明によると、今回のことの発端から、学内での検討の経緯に至るまでには長大な物語があるようだが、経緯には興味がなかったためほとんど聞き流していたものの、どうやら説明もそろそろ佳境に入ってきたようで、
「……結論としましては、大学と引据さんとの間で機密保持契約を交わしたいということなんです」
「王玲さん、それでも僕はそれほど自分自身大したことはやってきてないと思っているんですが……」
「内容についてはあたしは関知していないんですが、少なくとも大学としては、研究活動中に知り得た機密情報などを取り扱っていた立場の方への対応を昨日まで検討しておりまして、その方針がまとまったタイミングであなたにお声掛けした次第です」
王玲はさらに改まった感じで、
「ですので、引据さんには落ち度がなくこちらの責任ですので、費用負担についてはお任せ下さい!」
王玲はもう全て任せて下さいといった風に、手のひらを胸に当てるポーズをした後、今度は僕の顔色をうかがいながら、最初は少し小さな声で相談めいた口調で切り出した。
「立ち話ではなんですし、もう夕方ですから食事でもしながらゆっくり話しませんか。この近くにあたしのよく行く美味しい中華料理店があるんですよ……あたしもうお腹すいちゃって……最近流行っている日本の町中華ではないんですが、煲仔飯や脆皮炸子鶏、椒鹽瀬尿蝦などの南の方の本格的な中華料理が食べられる良いお店なんですよ! 是非一緒に行きませんか!!」
もう我慢できないと言わんばかりに徐々にテンションを高くしていく王玲の声音に圧倒されたからという理由もあるが、確かにもうすでに十九時を回っておりちょうど夕食時でもあり、僕自身お腹が空いていたのと中華料理全般は好物なので、快く王玲からの申し出を受諾した。
それからすぐに、僕はうれしくて思わず小さく声を漏らしてしまった。
「やったぜ!」
「今なにか言いました?」
食べ物に釣られたと思われたくなかった僕は、即座に素知らぬ感じで答えた。
「いいえ、なにも」




