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第1章 11

 指紋採取も重量級タブレット端末で行うらしい。


 タブレットとはいうが、とても片手で持って気軽に操作というものではないので、王玲が右手で気軽に差し出すこのタブレット端末を僕は両手で受け取ると、すぐに卓上に置いた。


 タブレット端末の液晶画面には人の手のひらの輪郭が描画されており、その描画された領域内に手を置き無事に指紋が認識されれば終了するはずなのだが、両手ともに誤認識が頻発した。


 タブレット端末の液晶画面上のスキャンボタンを押すと、「スキャンを開始します」と言う女性の中国語の音声とともにタブレット端末の液晶画面のバックライトが最大輝度で輝きだした。


 このタイミングでタブレット端末の画面上に片手の手のひらを押し当てるのだが、十秒ほど経過すると再度女性の声で「スキャンが失敗しました」と教えてくれた後、液晶画面が急激に暗くなるのだった。


 王玲が指紋採取のためタブレット端末と悪戦苦闘している間、手持ち無沙汰でボーっとしてテレビを眺めていた僕に近づいて来たのは、あの赤いチャイナ服姿の女性店員といっても、もう服を着替えた後のようで、気さくな感じで話しかけてきた。


「あなたたちずいぶんと楽しそうなことしているじゃないの」


「これが楽しそうに見えますか。全然楽しくはありませんよ。必要な手続きだからしかたがなくやっているだけですが……」


「ダンベル遊びの後は何が残っているの?」


「血を抜く遊び」


「まじか!」


 女性店員さんはすっかり興味を持ったように身を乗り出してきた。


「いやまぁ、半分嘘で、血液検査のために血を抜かないといけないらしいのですが、他人がやると医療行為になるらしくて、看護師さんが注射器でやってくれるように簡単にいかないんですよ。だから僕自身が専用の簡易な機材を使って、こう指先に針を刺して一滴だけ採取するみたいな」


「そういうのは聞いたことがあるし、遠めに見たこともあるけど、自分自身で進んでやりたいことではないね」


「そうなんですよ。王玲がタブレット端末の問題の件を解決し次第、血液検査のための血を抜く作業に入るわけですが……」


 王玲は相変わらず僕の目の前でタブレット端末を操作中であり、

「うーん、うまくいなかいなー。少し待って下さい。今再起動してみますから、アプリの設定いじってみますから」


といってこちらに気を向ける余裕はなさそう。


「あなたたちの事情について詳細はともかく、君は若いのに大変だ。わたしは君たちの用が済んだら帰るつもりだけど、しばらくかかりそうだね」


 隣の円卓の椅子をこちらに持って来て座りつつ、いたわるような声で女性店員さんが言った。


「それは悪いですよ、とはいえ帰る前には最後にしっかりと施錠する必要がありますもんね、すみません。タブレット端末の問題が片付けば、もうそんなに時間がかからないとも思うんですけど」


「気にすることはないよ、私のアパートはすぐそこだし、どうせ帰ってもすることはないからね。そうだ、私の名前は李梅。もしかしたら、君たちは今後またここにくるかもしれないからね。今のうちに仲良くなっておこうと思って」


 僕も自己紹介をしつつ、横目で王玲の様子を確認してから、


「ええ、李梅さん。三沢市には一時的な滞在だと聞いていますが、また来る機会があると良いとは思っていますよ。交通の便が地味に良いですよね、空港が近いですし。また機会があれば……空港で思い出しましたが、ここのオーナーは飛行機が好きなのですか?」


 僕は壁の航空機の写真を指差して言った。


 李梅は「あぁ」という感じの反応の後、


「毎年航空祭には行っているみたいだけどね。オーナーのことは良くわからないけど、店長は間違いなくオタクだね。少なくともこの新しい方の写真は店長が撮ったって自慢してたから」


 李梅は笑いながら答えた。それに乗じて、


「そういえば、さっき広東語で話していましたよね。李梅さんの出身地も南方の方なのですか?」

と、さらに僕が話を振ると、


「わたしは広東省の広州市の出身だね。王玲は確か同じ広東省でも湛江だったかな、地方都市だよ。……わたしの住んでいた広州市でもこういうひどい天気の日があって、スコールっていうのかな、昼間でも早朝や夕方のように暗くなって、今みたいにたぶん一メートルも離れて入れば会話が難しいぐらいドバドバと雨が降る。ひどい時は洪水になったりするけど。三沢も今夜は一階部分は危ないね。まぁ、なにかあったら二階に避難すれば良いと思っているけどね。ねぇ、王玲!」


「ごめん! 今無理。少し待って、今アップデートしてみるから」


「頑張ってね。わたしはもう少し引据クンと話しているよ。……ところで君の出身地はどこなの?」


「実はここ三沢市なんですよ。ただ、小学生の時に親の仕事の関係で中国に引っ越した後はもうずっと中国です。だから中国語もそれなりに勉強できたし」


「引据クン、そういえば君のことは王玲が以前話していたかもしれない。すごく優秀な人が来るって」


 そのとき、いつの間にか李梅の後ろに調理師の男性が立っていることに気が付いた。


「その優秀って、もしかしてオレのことじゃないだろうな?」


 きりっとした顔だがどこか冗談めかした調子で応じた調理師の男性は、年は三十代前半といったところか、顔は黒く焼けており、薄手のTシャツからは体格が良く筋肉質な見た目がうかがえ、健康的な感じのいわゆるイケメンな雰囲気だった。僕とは百八十度異なるタイプの人間かもしれない。


「そんなわけないじゃない。さっき、二階へもう施錠してること忘れて荷物取りに行って、すごすご戻って来た人が言えるセリフじゃないね」


 あきれた表情で言い放つ李梅と調理師の男性の掛け合いからは、彼らの仲の良さがうかがえた。


「ああ、この男は崔虎といってうちの調理師の一人なんだけど……」

李梅の紹介を途中で遮り、崔虎は続けた。


「初めまして。あぁ、君の名前はさっきの自己紹介を聞いていたから良いよ。オレの出身は北京市なので、ここの中国人の中では最も洗練されているかもしれない。このあふれ出す魅力を隠しとおすことなど不可能!」


「料理作り過ぎて頭いかれてんじゃないの? 中国は人口が多いからこういうおかしな人もいるのよ」


「崔虎さん、調理師さんということは今夜の料理を作ったのは崔虎さんですか。すごいですね。すごくおいしくて、日本にいながら本格的な中華料理を食べることができると思ってなかったので……」


 さっき王玲とショートコントしていた人でしたよね、とは言えなかった。


 そのとき、突然にテレビのニュース速報のあの特徴的なゆったりとしたテンポの効果音が聞こえたので、僕がブラウン管型テレビの方に視線を移すと、李梅と崔虎も後ろを振り返った。


 テレビ画面上部には、


『警視庁公安課の私服警察官数十名が東京孔子会館に家宅捜索』


とテロップが映し出され、富川アナウンサーが「今速報が入りました」と言い、その後に二言程度言及するだけで、番組は再び新天皇即位のニュースに戻っていった。


 僕としては興味あるニュースなので、明日のワイドショーが楽しみであるなと考えていると、横で王玲がボソボソとつぶやき始めた。


「うーん、うまくいなかいなー。もう少し待って、また北京の担当者に連絡してみよーかな、寝てるかなー」


 王玲は相変わらず悪戦苦闘しているようで、その様子を見ていた崔虎が「オレが北京の担当者だ」などと言いだして、王玲のタブレット端末を操作しようと手を伸ばすと、王玲が弾みで崔虎の手をピシャリとはねつけてしまい、崔虎しょんぼり再びだったが、またこれを機に二人はあーだこーだ言いながら共同で対応しているという感じ。


 時刻はもう二十二時を回っており、王玲が「崔虎さん、少し甘いもの食べたい。コンビニ行って来て」とか言い出して、崔虎が「ここはオレが守るから先に行け、ヒキカズ。コンビニに」とかわけわからないこと言いつつ、というか〝ヒキカズ〟って雑な略し方だな。


 つまり何か買って来てということらしいので、確かにまだだいぶ時間がかかりそうなので、僕は近くのコンビニエンスストアまで買い物に行くことになったのであったが、かなりの大雨なのでそれなりの覚悟が必要なのであった。

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