1年前のある日。前編
──つきちゃん──沙月ちゃん!
……私は名前を呼ばれ、重い瞼をゆっくりと上げる。そこには見慣れた教室の風景と、私の名前を呼ぶ親友の姿がある。風に靡くミディアムショートの髪からは、微かに落ち着くようないい匂いがする。
「なんだ……陽葵か……」
「なんだってなに!? 超絶可愛い陽葵ちゃんが起こしてあげたとい」
すやぁ……
「寝るな!?」
うるさいぞ、という非難の目を向けながら私は突っ伏していた机から起きる。
「……いや、そんな目をされても……そもそも移動教室なのに全く起きない沙月ちゃんが悪いんだからね?」
言われて周りを見ると、私たち以外に誰もいない。蛍光灯も消えている。時計を見ると授業が始まる2分前だった。
「……なんでもっと早く起こしてくれないの」
「言っておくけど私は8分前から起こしてたからね?」
どうやら彼女は休憩時間が始まったときからずっと起こしてくれていたらしい。
「ちなみに授業中から寝てたよ、沙月ちゃん。先生が困った顔してたんだからね?」
移動教室の準備をする私の動きが止まる。
さっきの授業の先生、優しいからなぁ。居眠りを叱れなかったんだろうなぁ。可哀想に。
「なんか今ものすごい他人事だと思ってない?」
「……そんな事ないよ」
「絶対思ってるじゃん……」
話している間に私は準備を終えた。
「よし、行こうか」
「うん、もう間に合わないけどね」
キーンコーンカーンコーン……チャイムの音が虚しく響く。
「……」
「……」
「……あえてゆっくり行く?」
「いや走ろうよ!?」
私たちは物理教室へと勢いよく走り込む。
「おい、遅刻だぞ」
「ごめんなさい!」
「おうおういい返事だな、さっさと座れ」
大人しく席に着く。そして何気なく陽葵の方を見ると、向こうもこっちを向いていて目が合った。なんとなく目を背けないで見つめあっていると、なぜか少し面白くなってきて2人してクスクス笑いだしてしまう。
「おーおーそこのアホ2人、遅れてきただけじゃなく授業中に笑い出すとかいい度胸だな保護者面談でもされたいのか?」
「ごめんなさい!」
「……さてはお前らいい返事で謝れば全部解決すると思ってるな?」
うっ。確かにこの類まれなる美貌であれば大抵の事はいい返事だけで笑って許して貰えるが。
「………………いや、思ってないです」
「……まあいい、次はないからな?」
……すごい圧を感じる。怖い。やはり腐っても教師、この美しさの暴力に屈しないとは。
私は先生からスっと目を逸らし、窓の外を見つめる。すると唐突に小鳥が猛スピードで突っ込んできて……窓ガラスに直撃した。思わず吹き出しそうになるが、ぐっとこらえて説教ルートを回避する。けれど小鳥は何がおかしいのか、私とガラス1枚隔てたところで元気いっぱいにはしゃぎだした。
……なんとなく陽葵みたいだな、と思いながらしばらく微笑ましく見ていた私の額に『授業中に外見てんじゃねえチョーク』が直撃したのはまた別の話。コントロール良すぎ。
──放課後。
私と陽葵はファミレスに集まって今日の授業の復習をしていた。
「今日の物理の授業、あんまり分かんなかったんだよね〜」
陽葵はペンを器用に回しながらそんなことを言う。
「いや私たちが授業を真面目に聞いてなかったってだけなんだけどね」
ちなみに陽葵にもしっかりと『教科書に落書きしてんじゃねえチョーク』が額に直撃していた。年頃の女の子の顔をなんだと思ってるんだ、あの先生。
「むー、いや……あの偉人さんの顔が明らかにカピバラに似てたのが悪いんだよ」
陽葵はぷくっと可愛らしく顔を膨らませ、口をムッと曲げる。
「……なんかさ、陽葵ってほんとに向日葵みたいだよね、名は体を表すってやつ?」
思わずそんな言葉が口をついて出た。
「ん? どしたの急に」
陽葵はテキストに何か書き込みながら聞き返してくる。
「……いや、なんだろうね。なんか笑顔が可愛いとことか、明るいとことか見てたらそう思えて来て」
いや、よく考えるとムッとした陽葵は向日葵というより向日葵の種を頬張るハムスターの方が近いかもしれない。ただこれはなんとなく言わない方がいい気がするような。
「……え、なんか恥ずかしいよ……?」
陽葵は少し照れくさそうにテキストから私に目を移す。
「……沙月ちゃんってさ、なんだかちょっとずるいよね。人たらしなんじゃない?」
「うーん、こんなこと陽葵以外には言わないからなぁ……」
「そういうとこだよ!?」
「どういうところ……」
陽葵の頬は少し赤くなっていた。
「……はあ、これが告白された数2桁の実力ですか……」
肘をついて頭を固定し、ため息を吐きながらそんな事を言ってくる陽葵。
「お互い様、って言葉知ってる?」
陽葵の私を超える東大理IIIレベルの顔面偏差値に可愛らしいミディアムショート、そして天真爛漫な笑顔と性格。これで落ちない男なんていない……と思う。私は女なので分からないけど。
「しかも可愛いし、理想の女子すぎるよ……ずるいよ? 沙月ちゃん」
「守ってあげたいランキング堂々の一位に言われてもね……」
ていうか私、そんな風に思われてたんだ……ちょっと嬉しいな。
「ん〜」
私がそんなことを思っていると、突然片方の腕の肘をもう片方の手でつかみ大きく伸びをする陽葵。そのポーズ、控えめな胸の控えめさがさらに強調されるな……と思ったけど口には出さないでおいた。
「さて、お互いをポジって体力を回復したところで勉強を再開しますか〜」
「さっきの会話にそんな意味が……もしかして天才?」
それから私たちは(比較的)真面目に復習に取り組む。途中で早めの夜ご飯も済ませた。最終的には店員さんに追い出された。帰り道では、ファミレスで勉強するのは迷惑だということが分かったのでやめようという学びを陽葵と話した。
これが青春ってものなのだろうか。こんな日々は明日も明後日もずっと続く気がする、なんて漠然としたことを私は考える。
大切なことは、失ってから気づく。
永遠なんて……あるわけがないのに。