第41話
世界初のダンジョン攻略が発表された翌朝。
千葉県の片田舎にある小さな集落では、いつもと変わらない朝が訪れていた。
田んぼには薄い朝霧が漂い、遠くから草刈り機の音が聞こえてくる。道端では腰の曲がったお婆さんが落ち葉を掃き、畑ではお爺さんが黙々と大根を間引いていた。
もっとも、普段と違うことが一つだけあった。
集落の集会所に、朝っぱらから人が集まっていたのである。
「おい、徳島さんよ。昨日のアレ、聞いたか?」
「聞いたも何も、頭ん中で喋ってたべ。あんなもん、生まれて初めてだ」
「わしも聞いたぞ。何だっけ、だんじょん? あれは外国の食い物か?」
「違うわよ、茂じいさん。テレビでやってたでしょ。魔物が出る穴だって」
「穴なら裏山にもあんべ」
「何でもかんでも一緒にするでねぇ!」
朝から元気な声が飛び交っていた。
ここは桑名家のある小さな集落。
人口はおよそ百人。
若い世代の多くは町へ出てしまい、残っているのは年寄りばかり。子供の姿など、盆と正月に孫が帰ってくる時くらいしか見掛けない。
世間では、いわゆる限界集落と呼ばれる場所だった。
ただし、住んでいる本人たちは、そんな呼び方をあまり気にしていない。
田んぼも畑もある。山もある。水もある。車さえ運転できれば、買い物にも困らない。
そして何より、近所の人間が何をしているのか、大体みんな知っている。
そんな集落だった。
「それで徳島さん。あんた、昨日言ってたじゃない。あの名前、秀ちゃんじゃないかって」
口を開いたのは、七十八歳の佐伯ハルだった。
小柄な体に似合わず声が大きく、集落の情報は大体この人を経由して広まる。
本人は決して噂好きだとは認めていない。
「いや、だってよ。桑名秀なんて名前、そうそういるもんじゃねぇべ」
徳島さんが腕を組んだ。
「それによ、二郎丸だろ? あの犬っころの名前じゃねぇか」
「そうそう。秀ちゃんが散歩させてる茶色い犬ねぇ」
「もう一匹、何だっけ? る……るか……」
「るかにだべ」
「そう、それ! あのちっこい針だらけのやつ!」
「ハリネズミだよ、ハリネズミ」
「わし、最初は栗が歩いてるのかと思ったぞ」
「栗が歩くか!」
集会所に笑い声が響いた。
だが、笑ってばかりもいられなかった。
「しかしよぉ。あれが本当に秀ちゃんだとしたら、大変なことになんじゃねぇか?」
そう言ったのは、元大工の大木巌、七十九歳だった。
「テレビじゃ世界中に名前が知れ渡ったって言ってたぞ。外国の連中まで探しに来たらどうすんだ?」
「そりゃ困るべ」
「困るどころじゃねぇ。あの子、昔っから変なところでお人好しだからな。頼まれたら断れねぇかもしれねぇ」
「そうなのよ。こないだだって、うちの雨樋を直してくれたのよ。お金払うって言ったのに、お茶だけ飲んで帰っちゃって」
「わしんとこの草刈りも手伝ってくれたぞ」
「うちの婆さんが倒れた時も、病院まで車出してくれたんだ」
次々と話が出てくる。
シュウ本人は、近所付き合いの延長くらいにしか思っていない。
しかし、年寄りばかりの集落では、若い人間がちょっと手を貸してくれるだけでも本当にありがたいのだ。
「秀ちゃんには、ずいぶん世話になってるからねぇ」
ハル婆さんが腕を組んだ。
「だったら、今度はあたしたちが守ってやらなきゃ」
その言葉に、集会所が静かになった。
そして。
「んだな」
「そうだべ」
「当たり前だ」
あっさりと意見がまとまった。
集落の重要事項は、案外こういう感じで決まるのである。
「それにな、桑名の家には昔から世話になってんだ」
徳島さんが言った。
「そういや、桑名さんとこは昔からこの辺りのまとめ役だったな」
「ああ。戦国時代から続いてる家だって聞いたぞ」
「昔は名主みたいなことをしてたんだろ?」
「そうだ。田んぼの水争いが起きりゃ仲裁して、山の境で揉めりゃ話を付けてな。うちの親父も、秀ちゃんの爺さんには世話になったって言ってた」
「そうそう。あの家は昔から、困った時に頼りにされてたんだよ」
ハル婆さんが頷いた。
「秀ちゃんも、そういうところを受け継いでるのかもしれないねぇ」
「本人は、そんな大層なこと考えてねぇだろうけどな」
「それがいいんじゃないの」
皆が笑った。
桑名家がこの土地で長く暮らしてきたことは、集落の誰もが知っていた。
けれど、だからといって特別扱いする者はいない。
シュウは、昔から知っている秀ちゃん。
それだけで十分だった。
「で、どうやって守るんだ?」
巌爺さんが尋ねた。
「……」
「……」
「とりあえず、不審な車が来たら声掛けるべ」
「そうね。知らない人がうろうろしてたら、どちら様ですかって聞けばいいのよ」
「わし、軽トラで見回りすっか」
「お前、去年免許返納しただろ!」
「おお、そうだった」
「忘れるな!」
また笑い声が響いた。
「だけど、本当に変な人が来たら危ないわよ」
「そうだな。知らねぇ奴に近づき過ぎるのもよくねぇ」
「じゃあ、見掛けたら連絡を回すことにしよう」
「電話か?」
「そうよ。無理に追い返そうとしないで、必要なら警察にも知らせるの」
「なるほどな」
話は少しずつ現実的になっていった。
そして、徳島さんがぽつりと言った。
「それによぉ。秀ちゃんを守るだけじゃなくて、わしらも自分の身くらい守れるようになった方がいいんじゃねぇか?」
「強くなるってことか?」
「そうだ」
「お前、もう七十過ぎてるだろ」
「年寄りだからって、何もしねぇでいいってことはねぇべ」
徳島さんは胸を張った。
「昔は山ん中を一日中歩き回ったもんだ。今だって畑仕事してるし、若い連中より体力あるかもしれねぇぞ」
「お前、こないだ田んぼの畦で転んでたじゃねぇか」
「あれは長靴が滑ったんだ!」
「去年も滑ってたぞ」
「去年の話を持ち出すな!」
集会所は大笑いになった。
しかし、徳島さんの言葉には賛同する者もいた。
「確かに、体を動かすのは悪くねぇな」
「どうせ毎朝ラジオ体操してるんだし、少し増やせばいいんじゃない?」
「わし、昔は剣道やってたぞ」
「俺は柔道だ」
「あたしは薙刀を習ってたわよ」
「おお、ハルさん薙刀か!」
「女学校の頃だけどねぇ」
「何年前だよ!」
「失礼ね! まだ覚えてるわよ!」
ハル婆さんが傘を構えた。
その姿勢が、妙に様になっていた。
巌爺さんが目を細める。
「……おい、ハルさん。あんた本当に薙刀やってたのか?」
「だからそう言ってるでしょ」
「いや、何でもねぇ」
巌爺さん自身も、若い頃には剣道で鳴らした男だった。
そんな彼から見ても、ハル婆さんの構えは思いのほかしっかりしていた。
もっとも、本人はそんなことを気にしていない。
「とにかく、みんなで体操でも始めましょうよ。強くなるかどうかは知らないけど、寝たきりにならないためにもいいでしょ」
「そうだな」
「よし、明日から集会所に集合だ!」
「何時だ?」
「朝五時!」
「早過ぎるわよ!」
「じゃあ六時!」
「六時でも早い!」
「年寄りは早起きだべ!」
「全員がそうだと思うな!」
結局、朝七時に決まった。
こうして、集落のお年寄りたちによる自主的な体力づくりが始まることになった。
当面の目標は、ラジオ体操と散歩。
あまりにも平和な出発だった。
しかし、本人たちのやる気だけは本物である。
「そのうち、魔物の一匹くらい追い払えるようになんべ」
「お前、まず転ばずに歩けるようになれ!」
「うるせぇ!」
集会所には、いつまでも笑い声が響いていた。
・・・
その頃、当の桑名家では。
「シュウ君! 起きるワン!」
「んん……あと五分……」
「もう朝だワン!」
「分かってるよぉ……」
僕は布団の中で丸くなっていた。
昨日は大変だった。
ダンジョンを攻略したと思ったら、世界中に名前を公開されてしまったのだ。
考えれば考えるほど、頭が痛くなる。
「シュウ君〜。朝ご飯〜」
枕元から、るかにの声が聞こえた。
「るかに……もう少し寝かせて……」
「プリン〜」
「朝からプリンは駄目!」
「え〜」
「シュウ君! 拙者は唐揚げでもいいワン!」
「朝から唐揚げも駄目!」
「何故だワン!?」
「胃がもたれるから!」
「拙者の胃は丈夫だワン!」
「僕の胃の話をしてるの!」
布団を剥がされ、仕方なく起き上がる。
窓の外は、いつもと変わらない田舎の風景だった。
田んぼがあって、山があって、鳥が鳴いている。
昨日、世界中に僕の名前が知られたなんて、何かの冗談みたいだ。
「……しばらく目立たないように暮らそう」
「どうしたワン?」
「いや、何でもない。二郎丸、今日はなるべく静かにしててね」
「分かったワン!」
「本当に?」
「忍犬は気配を消すのが得意だワン!」
そう言って二郎丸は、勢いよく尻尾を振った。
床に置いてあった空き箱が吹っ飛んだ。
「……全然気配消せてないじゃん」
「修行中だワン!」
「シュウ君〜」
「何?」
「お腹すいた〜」
「はいはい。ご飯にしようね」
僕は台所へ向かった。
そして、いつものように朝食の準備を始める。
そんな時だった。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
「……誰だろう?」
こんな朝早くに珍しい。
まさか、もう誰かに身元が知られた?
嫌な予感がして、そっと玄関の方を覗く。
そこに立っていたのは――。
「おーい、秀ちゃん! 起きてっかー!」
徳島さんだった。
その後ろには、ハル婆さんと巌爺さん。
さらに、何故か近所のお年寄りが何人も集まっていた。
「……え?」
僕が固まっていると、徳島さんがニカッと笑った。
「秀ちゃんよぉ。ちょっと話があんだけど」
「は、はい?」
「お前、昨日のだんじょんってやつ、攻略したんだべ?」
「…………」
僕の背中を、冷たい汗が流れた。
何で知ってるの!?
「いや、その……」
「隠さなくてもいいべ。二郎丸とるかにの名前まで流れてたんだからよ」
徳島さんは、僕の肩をポンと叩いた。
「安心しろ。わしらは誰にも言わねぇ」
「え……?」
「秀ちゃんは、この集落の子だ。困ってるなら、わしらが守ってやる」
ハル婆さんも、優しく笑った。
「そうよ。あんたは昔から、あたしたちを助けてくれたじゃない。今度はあたしたちの番よ」
「ハルさん……」
「変な人が来たら、あたしが追い返してやるからね」
そう言って、ハル婆さんは手に持った傘を軽く振った。
ヒュンッ。
……ん?
今、何か凄い音がしなかった?
「とにかくだ、秀ちゃん」
巌爺さんが腕を組んだ。
「わしらも今日から鍛えることにした」
「……はい?」
「この集落を守れるくらい、強くなろうってな」
「えええっ!?」
何を言ってるんだ、この人たちは!?
平均年齢七十歳を超えてるんだよ!?
「無理しないでくださいよ! 怪我したら大変じゃないですか!」
「心配すんな。最初は体操からだ」
「それならいいですけど……」
「そのうち、魔物の一匹や二匹くらい倒せるようになんべ」
「ならなくていいですから!」
僕は思わず叫んだ。
すると、背後から二郎丸が顔を出した。
「ワンッ!」
「おお、二郎丸! 元気だったか!」
徳島さんが嬉しそうにしゃがみ込む。
「ワンワンッ!」
僕には、二郎丸の気持ちが言葉になって伝わってきた。
『徳島殿! 久しぶりだワン!』
「はいはい、二郎丸。落ち着いてね」
「相変わらず元気な犬だなぁ」
徳島さんは、二郎丸の頭をわしゃわしゃと撫でた。
当然ながら、二郎丸の言葉は徳島さんには聞こえていない。
普通の犬が嬉しそうに吠えているようにしか見えないのだ。
『シュウ君! 徳島殿に拙者の忍犬修行の成果を見せたいワン!』
「駄目!」
「ん? 何が駄目なんだ?」
「あっ、いや! 二郎丸が飛び付こうとしてたので!」
「ははは! 別に構わねぇよ」
危ない危ない。
僕が二郎丸の気持ちを理解出来るのは、スキル『従魔の気持ち』のおかげだ。
普通の人には、二郎丸もるかにも言葉を話しているわけではない。
うっかり返事をすると、僕が犬と会話している変な人になってしまう。
……いや、実際に会話してるんだけど。
すると、るかにが二郎丸の背中から顔を出した。
「キュッ」
「あら、るかにちゃん。今日も可愛いわねぇ」
ハル婆さんが目を細めた。
『ハルお婆ちゃん〜。プリン〜』
「るかに、駄目だよ」
「キュ?」
「あら、何が駄目なの?」
「あっ、いえ! 最近ちょっと食べ過ぎなので!」
「まあ、こんなに小さいのに?」
『シュウ君〜。プリン〜』
「……」
僕は頭を抱えた。
ハル婆さんは、そんな僕を見て笑っている。
「秀ちゃん、動物の気持ちがよく分かるのねぇ」
「は、はは……まあ、長い付き合いですから」
まさか、本当に分かっているとは言えない。
「それじゃ秀ちゃん、また来るからな!」
「無理すんなよ!」
「ちゃんと飯食うんだよ!」
「二郎丸、今度うちの畑に遊びに来い!」
「ワンッ!」
『行くワン!』
「るかにちゃん、今度おやつ持ってくるからね!」
「キュッ!」
『プリンがいい〜』
お年寄りたちは、賑やかに帰っていった。
僕は玄関先で、その後ろ姿を見送る。
……何だったんだろう。
でも。
「守ってやる、か……」
少しだけ、胸が温かくなった。
昨日からずっと、世界中に名前が知られたことが不安だった。
だけど、この集落には、僕のことを昔から知っている人たちがいる。
世界初攻略者なんて肩書きじゃなく、ただの秀ちゃんとして接してくれる人たちが。
「……ありがたいなぁ」
思わず呟くと、二郎丸が首を傾げた。
『どうしたワン?』
「いや、何でもないよ」
『シュウ君〜』
「何?」
『プリン〜』
「さっきからそればっかり!」
『大事なことだから〜』
「二郎丸も、今日は唐揚げなしだからね」
『何故だワン!? 拙者は何も言ってないワン!』
「顔に書いてある!」
『そんなはずないワン!』
僕は大きくため息をついた。
……まあ、いいか。
今日も平和だ。
そう思いながら、僕は朝食の続きを作り始めた。




