物語の始まり始まり
突如、クリス・ハンドレットは思い出した。
自分がいるこの世界が乙女ゲームの世界だと。
そして自分が乙女ゲームのキャラクターで、ほぼ当て馬の存在だということを。
すぐさま彼はこう思った。そして言葉に出してしまった。
「あっぶねぇぇぇぇぇぇぇぇ‼」
なぜなら彼はゲームの力によって、ヒロインをストーキングしそうになっていたからである。
一応ショーウィンドウのガラスで自分の姿を確認する。明るい赤茶色のくせっ毛に、緑っぽい青の瞳。間違いなくこの乙女ゲームのクリス・ハンドレットと同じ姿だ。
このゲームの内容はどこにでもある乙女ゲームと大して変わらない。
ヒロインであるマリアンヌが、貴族たちが通う典型的なお金持ち学園である聖ロザリア学園に転校してきて、学園の王子たちと恋に落ちていくという……まぁ一応王道の乙女ゲームだ。
王道ストーリーに圧倒的美麗イラストにより人気は割と高く、ファンディスクや続編の発売がされさらに人気に拍車がかかり、グッズ販売店はもはや戦場と化したこともしっかり覚えている。
そんな人気王道乙女ゲームの中でなぜ自分がほぼ当て馬だというのには理由がある。
クリスは攻略対象の一人なのだ。しかし、ファンの大半は「当て馬」として認識しているだろう。
なぜ攻略対象なのに当て馬なのか。
答えは簡単。ゲームスタートの時点でクリスはマリアンヌに一目惚れしているのだ。正しくはそういう設定なだけだが。
つまり、クリスルートはゲーム内で最も単純なルート。「クリスを蹴り上げる」とか「殴り飛ばす」とかいう選択ばっかりでもしない限り、ハッピーエンドが保証されている。というかそういった選択ばっかりしても友情エンドなのだ。
(なんでだよ、ゲームの俺は心が宇宙くらい広いのかよ。もしくはドMか?)
そのためクリスルート以外のルートを選ぶと、彼は当て馬として現れる。一目惚れしているという設定を運営が忠実に守った結果だ。
(守んなくていーよ。むしろ守るんじゃねーよ!)
クリスは相手といい感じになったときに「僕は貴女のことをずっとっ」とかなんとか言いながら現れる。そしてそこでクリスを選ぶとクリスルートに、そのまま相手を選ぶとその相手と結ばれるルートに進んでいく。
この選択はかなり凝っており、他のイベントよりストーリー性がよく、それでいてスチル絵のバリエーションも豊かで、むしろこのゲームの売りになっている。例えば、クリスと友達で終える「お友達エンド」とか「さようなら、初恋の人」とかいうセリフを言ってマリアンヌから去っていく「さようならエンド」とか。
中でもとあるルートはゲームの中で最も難しく、コアなファンが「ハーレムエンド」や「トゥルーエンド」そっちのけで探す「ストーキングされルート」というものがある。クリスに揺らぎそうで揺らがず、かつ本命といい感じに仲良くしなくてはいけないという、熟練の乙女ゲームプレイヤーでも難しい鬼畜ルートである。
まぁ俺はそのルートに全力で突き進みかけたのだが。
ちょうどストーカー行為に走ろうと思い、一応貴族である俺でもなかなか手が出せないカメラを買おうと思っていたところで、すべてを思い出した。自分の前世を。
どうやら前世では女性だった俺は、乙女ゲームに人生のすべてを捧げていた。中でもこのゲームがお気に入りだったらしく、全シリーズ全ルート攻略済み。ファンディスクはもちろん、グッズもすべてコンプリート済みという、一周回って尊敬するほど。
だが、前世がそうであったとはいえ俺はクリス・ハンドレット。今更それほどまでに愛していたゲームの世界だからと言って、突然「きゃぁぁぁぁぁぁぁ‼あの世界にいられるなんて幸せすぎてむしろ死ねるもう死んでも後悔しない」とかいう風になるわけでもなく、いたって通常運転に「クリス」をしている。それに前世の記憶とかいっても、前世の俺は乙女ゲーム以外にあまり関心がなかったらしく、乙女ゲームに関しては裏ルートまで、出てくるのに同僚の名前はさっぱり思い出せない。というか記憶にない。
が、しかしそんなことはどうでもいい。前世の同僚がタロウだろうがハナコだろうが今の俺には一切関係がない。それよりこのゲームを愛し、完全暗記していてくれたことに感謝している。おかげで俺はあのマリアンヌとかいう女から解放されたのだから。
ゲーム内のクリスは「優しく、純粋な好青年」である。しかしここでのクリスはそういった性格ではない。むしろ正反対である。
クリス・ハンドレットの名を聞くと大抵の人は「ハンドレット家の優秀なご子息」ということしか出てこない。完璧無双の超人というわけではないが、だからと言って悪評もなく、見目も麗しいためそれ相応にモテるし、人気も高かった。それでいて紳士的な振る舞いなので、みなそういった印象しか残らないのだ。
しかしそれは外での仮の姿。実際のクリスはドライな方で、親切っちゃあ親切だが紳士的かどうかと聞かれたら少し悩むタイプの人間だった。
家の中では普段の振る舞いはどこへやら。失恋して悲しむメイドに対し「そんなこと、悲しむほどのことか?」と言ってしまう始末。が、主人がこれなら従者もこれ。そんなこと言われた時には「ぼっちゃまには失恋するような相手すらいませんからわからないんですよ」と返す始末である。だからといって「無礼者!」とか言ってクビにするほど小さい人間でもないのだが。
そういった性分のため、ゲーム内のクリスは心底マリアンヌにほれ込んでいたが、こちらのクリスはそうでもなかった。ふんわりした薄いピンクの巻き毛や淡い黄緑の瞳など、この辺りではあまり見ない色味の女だという印象しか残ってなかった。
それなのになぜか彼女を目で追ってしまう。ふとした時に彼女を思い出してしまう。
新手の病かと思い医者に相談したら「恋煩い」という診断をくらい、それをどこからか聞きつけた使用人により広められ、家に帰ると家中の者から「恋煩いおめでとうございます」とか「そんなこと思える心が貴方様に残っていたのですね」と涙ぐまれたりした。
しかしクリスにとってそれは恋煩いにはとてもそうとは思えなかった。
目で追ってしまう。胸は高鳴る。他の男といっしょにいるのを見るとイラつく。
じゃあ「彼女と付き合いたいか」と聞かれたら答えは絶対に「ノー」である。あんなふわふわとしたバカっぽい女、こっちから願い下げだ。
しかしなぜか彼女を思ってしまう。
これが病気でないなら呪いかと思って、図書館で呪いに関する本を片っ端から漁ったほどであった。
しかし真相は明らかになった。
これは病気でも、呪いでもない。
ゲームの力によるものだったのだと。
そう思えば説明がつく。
無駄にマリアンヌと話したり、パーティーに誘うのに必死になったりなど、我ながら「なんでこんなことを」と何度も何度も悔やんだ行動はすべて、乙女ゲームのシナリオだったのだ。
現に今、この世界が「乙女ゲームの世界」だと分かったとたん、あれほどマリアンヌを思っていたのに、そんな感情は全くなく、自分の意思を無視して起きていた症状もなくなり、今となってはむしろ、なぜあの女にわざわざ付き合っていたのか不思議なくらいである。
おそらく、ゲームだと分かったことにより、キャラクターとしての性質がなくなった。あるいは弱くなっているのだろう。
そうなると一つの可能性が頭に浮かんだ。
このままだとストーカーに仕立て上げられるのでは、という最悪の可能性。
しかし今までのことを考えると十分にありえる。
今となってはチリほどの興味もない、もはや無でしかない相手だが、ここが乙女ゲームの世界だと知る前は彼女を標的にストーカーに驀進させられていた。つまりこのゲームは自分が思っているよりはるかに強力だということ。今まで我ながら我ながら感心するほど熱烈に彼女にアプローチしていたのだ。もしかしたらストーカー呼ばわりされる可能性だって十分ありえる。
「……ふざけんなよ。何が悲しくて勝手にストーカーにされなきゃいけねーんだよ。俺はそんなエンディング、絶対認めねぇ!」
思い立ったが吉日。すぐさまクリスは全速失踪で自分の馬車に乗り、ハンドレット邸。つまり自分の家に戻った。そして父親であるリチャード・ハンドレットの書斎に駆け込む。
「父上っ!」
「クリス⁉ノックもせずにどうしたんだ?」
もともと運動は得意でない上、久しぶりの全力疾走であったこともあり息が上がってしまい、なかなか言葉が出ない。なんとか息を整え、クリスはゆっくりと答えた。
「父上、今すぐ俺の転校の手続きをしてもらえませんか」
ポカンとした顔でクリスを見る父、リチャード。いきなり我が子が部屋に駆け込んできて、しかも「転校したい」などと言い出したら誰だってこうなるだろう。
「急にどうしたんだい?まさかいじめにでもあっているのか?」
「父上、その場合俺は相手を完膚なきまでに叩きのめしてますよ」
しれっと死んだ目でそう返すクリス。それに対し「それもそうか」と受け入れているあたり、さすが父親である。
「すみません。詳しいことはどうしても言えないんです。でも、あの学園には居たくないんです」
まさかここが乙女ゲームの世界で、ストーカーに仕立て上げられたくないからだなんて、さすがのクリスでも言えなかった。しかしここで転校させてもらわないと確実にストーカーエンド。じっとリチャードの目を見つめ、必死に情に訴えかける。
「そこまで嫌なのか」
「生理的拒絶反応が出そうなくらい嫌です。いや、もうでてるかも…」
「…そうか、そこまでなのか。お前がそんな風に頼むなんて久しぶりだからな。それくらい構わない」
クリスはぱぁぁっという音が聞こえそうなくらい顔を輝かせると
「ありがとうございます!」
と勢いよくお辞儀をした。
その時、若干リチャードの顔が引きつっていた気がするがきっと気のせいだろう。
そこからは早いもので、転校したいと言いだしてひと月もしないうちに手続きが終わった。
さすがハンドレット家の当主、といったところだ。クリスの方もそのことに特別驚いたりせず対応していく。
そうして流れるように手続きを済ませ、転校することになったのは、隣国にある姉妹校の聖クロサード学園である。どこかで聞いた気がすると思いつつ、姉妹校なのだからと無理矢理自分を納得させる。それに今更別の学園の方がいいというのもなんだか忍びない。
しかしクリスはのちにその判断を後悔することになる。
下見として訪れたその姉妹校の姿に、クリスは驚かずにいられなかった。姉妹校ということもあって聖ロザリア学園にそっくりだ。ということではなく、全く別のことに驚き、顔をひきつらせる。
(…そうだ。うっかり忘れてた。ここ、聖クロサード学園は、第2作目の舞台だ!)
さぁっと顔から血の気が引いていく。乙女ゲームと関わりたくなくて転校したのに2作目の舞台だったとは。乾いた笑い声が口から蓄音機みたいに出てくる。
そうはいっても2作目は2作目。クリスは一切出てこないのだ。
むしろまた当て馬として出てきたらある意味すごい。
(2作ではちゃんと全ルート悪役令嬢も出てくるし、さすがに、な…)
クリスはルートごとの悪役令嬢を乗り越えたのちに現れる当て馬なのだ。本来いる働き者の悪役令嬢を省いて当て馬を出した新鮮な作品ということを売りに出して…これ以上は長くなるからやめよう。
ともかく、2作目では1作目とは違い、全ルート悪役令嬢が出てくる王道乙女ゲームとして売り出したのだ。要は当て馬は絶対に(ここ重要)出てこない。絶対に当て馬クリスは出てこない!(重要なので二回言っておく)
当て馬としてのクリスは解放されたのだ。大人しくモブとして、スチル絵の右端にでも映っていよう。そう自分に言い聞かせ、その場から去ろうとしていた、まさにその時だった。
「あ、当て馬」
…は?
なんでそのことを⁉︎
声の先にはいかにも「しまった」っと口を押さえる令嬢が1人。
そこからクリスは、流れるようにクリスは令嬢をひっ捕まえて路地裏に連れ込み、壁ドンしながら問いただす。
「なんでお前がそれを知っているんだ⁉︎」
おもわずいつも被っている猫が外れ、荒々しくそう尋ねる。しかし、それほどまでにそのことはクリスにとって衝撃的だったのだ。
背中まである黒髪のくせっ毛。夕焼けのように赤いつり目。左目の泣きぼくろに、真紅のリボン。間違いない。
彼女の名はリディア・スワンレイク。
隣国では有名な名家のお嬢様。そして、第2作での悪役令嬢だ。
そんな彼女が、どうしてクリスが当て馬だと知っている。側からずっと見ていたというならまだしも、彼女は「隣国の令嬢」知っている方がおかしい。
「…なら、貴方も気づいているのね。ここが乙女ゲームの世界だということを」