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キスのおかわり  作者: 松田未完
6/8

ハタケ

   *ハタケ


 何だろう。

 気分が軽くなってるのが自分でも分かった。それはきっと、自分の中にあったモヤが少し晴れたからなんだと思う。

 賀茂を殺そうとしてたのは本当だった。だけど、私は人殺しがしたかったわけじゃない。それしかできなかったからだ。

 賀茂の言う通り、気持ちに整理をつけるためにしていただけだった。

 誰にも言えない、分かってくれないこの気持ちを、賀茂が気づいてくれていた。

 六社さんも。

 理解はしてもらえないと思う。だけど、知ってくれた。その事実が、私の心を軽くさせたんだ。

 そんなことを考えていたら、いつの間にかオープンカフェに着いていた。外には犬を連れた主婦らしい人やお年寄りの夫婦が、中にはスーツを着たサラリーマンの人がいる。

 カウンターにいた仏島さんと目が合って、私は寄っていった。

「もうオーナーさんは帰ってきてますか?」

「ちょうど良かったです。ついさっき帰ってきまして、今なら話ができると言ってました。こちらにどうぞ」

「ありがとうございます」

 仏島さんに連れられて、お店の奥にあるドアから事務所みたいな部屋に入った。デスクが二台あるだけの狭い場所で、棚にはファイルがたくさん詰まっている。

 でも、誰もいない。

 いつ来るのかなと思って振り返ると、仏島さんはにっこりと笑いながら、エプロンから取り出したナイフを私に突き付けた。

「騒いだら刺します」

 どうして仏島さんが? 何で?

 私は声を上げるどころか、指すら動かせなかった。

「ど……どうしてですか?」

「邪魔だからですよ。面倒なことに巻き込んでくれたものです。リュックを下ろしてください」

「い、嫌です……」

 何が何だか分からないけど、言いなりになんてなりたくない。

 そう答えたら、ナイフの先端を喉に当てられた。

「女性には危害を加えないと思ったら大間違いです。何人もこの手にかけてきましたからね。面倒が起きたら殺しても構わないと言われてます」

「で、でも……んんっーっ!」

 片手で口を塞がれた次の瞬間、私はお腹に鋭い痛みを感じて呻いた。下を見ると、ナイフの先端が私の体に刺さっていた。

「次はさらに深く刺します。肝臓に刃物が入ると、今の何十倍も痛いそうですよ。死にたいですか?」

 私は涙を浮かべながら、首を横に振った。ナイフを抜かれると、私は痛みに耐えながらリュックを下ろして床に置いた。シャツに血がにじみ出てくる。痛い。

 彼はリュックの中を調べて、お父さんの地図を出した。他にスマホも出して、電源を切る。さらに何か探したみたいだったけど、見つからなかったらしい。

 いつだか、本屋のお爺さんがくれた本のキーホルダーをじっと見つめていた彼が、今度はナイフを私の胸に当ててきた。

「次の質問です。答えないと、今度は胸を刺します」

 私はまた首を振った。

「賀茂は何者か言いなさい。ただの探偵じゃないはずです」

 私は生唾を呑んだ。賀茂との約束を思い出す。

 キスの呪い。破れば、息が止まって苦しんで醜い姿を晒して死ぬ。そんなの嫌。

「こ、興信所の社員です。あまり依頼が来てなくて……ひっ」

 ナイフでシャツの上からブラジャーへ押し込んでくる。

「昔、女性に拷問をしたことがありましてね。あれは楽しかったですよ。胸に一筋ずつ切り込みを入れていくんです。血まみれになった乳房は、それは鮮やかで美しいものでした」

「で、でも、本当のことを……」

「質問を変えましょう。イエスかノーで答えなさい。賀茂はディフェンダーですか?」

 どうしてそのことを? 私は彼の目を見つめてしまった。この人もディフェンダーなんだ。

「答えなさい」

 彼がシャツを持って、ナイフで切り裂いた。ブラジャーの紐も切られて、胸があらわになる。

 そして、冷たい刃が当てられた。

 涙がとめどなく湧いて出てくる。切られるのは嫌だ。でも、みっともない姿を晒して死にたくない。

「うっ……」

 刃の先端が、私の胸に突き刺さる。その鋭い痛みに、思わず私は口を開いてしまった。

「ディ、ディフェンダーです。チェイサーの」

 言ってしまった。歯を食いしばって身構える。彼は頷いた。

「やはりそうでしたか。中々尻尾を掴ませないので苦労してきました。それにしても、呪いをかけていないとは間抜けですね」

 そう言って、仏島はエプロンのポケットから出したタオルで作ったさるぐつわを私に噛ませた。

 呪いがかかってない? どうして? だって、キスされたのに。

 どこからか出してきたガムテープで手首をぐるぐる巻きにされると、

「準備は出来ました」

 という彼の声の後に、もう一つあったドアが開いてスーツ姿の男の人が入ってきた。

 格闘技でもやっていそうなぐらい体格がいい人で、切り裂かれた私の胸を見てニヤニヤしながら舌なめずりをしていた。

「マネージャー、こいつをハタケに運べばいいんですね?」

「ええ、お願いします」

 仏島がナイフをしまう。

「オーナー、お手数をおかけします。賀茂はやはりディフェンダーでした。本部での対処をお願いします」

「分かりましたよ」

 同じドアから入ってきたのは小さい人だった。私はその顔を見て目を見開く。

 それはカフェにいつもいた、あの白髪が綺麗な小柄のお婆さんだったからだ。今は薄いピンクのカーディガンにベージュのシャツ、それに白いズボンという姿だった。

 いつもみたいな優しい笑顔はなくて、捕まえた獲物をこれからどうやって食べようかというような、ギラついた目で私を見てくる。

「お姉さんもツイてないですねえ。余計なことを調べようとしたばっかりに、こんな目に遭って……」

 お父さんに何があったか調べていただけなのに、どうして? 首を横に振ると、お婆さんはため息をついて頷いた。

「器量もいいから、うちの孫の愛人にでもしてあげようと思っていたのに。残念ですねえ」

 仏島を横目に見てから、体格のいい男の人を見やった。

「さあ、ハタケに連れて行ってください。新しいタネにするんですよ」

 返事をした男の人が私に寄ってきて、胸を掴んだ。次はお尻をまさぐるように触ってくる。

 身をよじって逃げようとしたけど、力が強くてできなかった。

「いいカラダしてますぜ。タネにならないようだったら、俺にヤラせてください」

「それは後で考えましょう。あなたにも頑張ってもらいたいですからね」

「ういっす」

 今度は男の人のネクタイで目隠しをさせられると、髪を掴まれて歩かされた。あちこちぶつかりながら、ドアを超えて歩いていく。そのうち、空気が変わったことに気づいた。

 外に出たみたいだと思った瞬間、体を持ち上げられた。そして、固くて狭い場所に押し込まれる。バタンという音で静かになった。トランクだ。エンジンの音が聞こえてきて、確信した。

 私を押し込めた車が、ゆっくりと動き出す。

 泣かないように涙をこらえた。何かのマンガで、泣くと酸素をたくさん使うって見たから。でも、目はすぐに潤んでくる。

 我慢し始めてから、どれぐらい経ったか分からない。

 十分? 二十分ぐらい? これから私はどうなるのか。胸とお腹の痛みに耐えながら、私は考えた。タネにするってどういう意味なのか。

 気のせいか息苦しくなってくる。このまま死んじゃうのかなと思っていたら、車が止まって、トランクが開けられた。新鮮な空気が入ってきて、私は必要以上に息を吸った。

「暴れたら殺す。いや、殺す以上のことをしてやる」

 頷く気力すらなかった。何も言わない私を男の人は担いで下ろし、また髪を引っ張られてどこかへと連れて行かれた。

 ドアが閉まる。廊下みたいなところをまっすぐ歩いて、今度は左側のドアを開けて入る。折り返すようにして、今度は階段を降りていった。

 右側にあるドアか何かが開いてそこを歩いていくと、突然足を止めた男の人が、何かをガチャガチャやった後に私を突き飛ばした。倒れ込んだところは、柔らかい場所。そして、ものすごく嫌な匂いがしてきた。人の汗やおしっこが入り混じったような、そんな臭さ。

 背後からガチャンという音が聞こえる。

「こっちへ来い。早くしろ! 殺すぞ!」

 私は縛られた手で何とかして立ち上がると、声がしたほうへゆっくり歩いた。すると、金属っぽい何かにぶつかる。顔を掴まれて体を反対側に回されると、手を縛っていたガムテープとさるぐつわ、それに目隠しのネクタイが外された。

「……!」

 何十分かぶりに見たその景色に、私は言葉が出なかった。

 そこは、独房だった。テレビで見たことのある光景に、私は混乱して吐き気を覚えた。

 人が一人寝るのがやっとのスペースに、黄色く汚れたペラペラの布団と毛布が敷いてある。その奥には洋式の便器にトイレットペーパーがあるだけ。窓すらなかった。

 振り返ると、目の前にあったのは鉄格子だった。出入口の柵が閉められ、男の人が鍵をかけてスーツのポケットにしまった。そして、楽しそうに笑いながら私を見てくる。

「そこがお前の終の場所になる。寝床とトイレ、それだけだ。メシは夜中に一度」

 こんな場所で暮らしたくなんてない。私は鉄格子を掴んだ。

「お願いです! 助けてください!」

「安心しろ、暴れない限り殺しはしねえ」

 そして、男の人は舌なめずりをした。

「暴れた時は死ぬよりひどい苦痛を与えてやる。いいカラダしてるしな、顔も好みだ。俺が次々とここで子供を生ませてやろう。そいつらも飼い殺しにしてやる。どうだ? 素晴らしいだろ?」

 その言葉を聞いて、私は全身に寒気が走った。

「その調子で大人しくしてるこった。じゃあな」

 そう言って、男の人は通路を戻っていった。ガチャンという音がして、部屋の中が静かになる。

 何で? どうして?

 私はその場に座り込んで、泣いた。泣くたびに、胸とお腹の傷が傷んで、さらに涙が出てくる。何で? どうして? 私はここでどうなるの? タネになるって何をされるの? 本当に子供を作らされるの?

 私は涙を拭いながら、鉄格子の向こうを覗いた。向かいの部屋には誰もいなかった。左右に同じような部屋があって、その向こうは見えない。

 鉄格子を揺らしてみたけど、とても動きそうになかった。ドアになっている部分は弱いのかもと思って、押したり引っ張ったりしてみたけど、やっぱり無理。

 その時、声が聞こえてきた。

「地獄へ……ようこそ」

 声をかけてきたのは、斜向かいの部屋にいたお爺さんだった。鉄格子越しに見える顔はやつれていて、髪はもうほとんど残っていない。着ているのはボロボロのパジャマで、取れたボタンの隙間から、浮いたアバラがはっきり見えるぐらい痩せた胸が見えた。

 思い出した私は自分の胸を隠しながら問いかけた。

「ここはどこなんですか? あなたは?」

「名前……何だったっけな。もう、忘れちまった。五年ぐらい前までは覚えてた気もする……」

「い、いつからいるんですか? 他に人は?」

「それも忘れちまった。最後まで話してた先生……元々は高校の教師だったかな。あいつも名前は忘れちまった。可哀想に、我慢できず狂っちまって、舌を噛んで死んじまったよ。……もう話せるのは俺だけになっちまった」

「ここは何なんですか? 私、何をされるんですか?」

「生き地獄、それが大げさなら畑だな……。俺たちは撒かれた種。今はよく育って金を生んでるらしい……」

 一体ここで何が起きているのか。私はおかしくなりかけている斜向かいのお爺さんから話を聞き出した。時おり聞こえてくる物音にビクビクしながら語ってくれたその内容は、私の理解を超えたものだった。

 予想していた通り、ここは正法真道ビルの中だったらしい。

 身寄りがなかったり、ホームレスだったりする人を集めてはここで監禁して、私たちが持つ、日本国民としてのありとあらゆる権利を奪ってお金に替えさせている。

 お寺だった頃はまともだった正法真道も、今の住職になってからお金を第一に考えるようになって、かねてから考えていたこの「栽培」を実行したのだという。

 自ら立ち上げたNPO法人で駅前のカフェを運営し、就労支援ということで雇ったホームレスや老人の中から、従順で、条件に当てはまる人を拉致してこのハタケへと連れてきて監禁する。

 タネとなった彼らの名義は様々なものに使われた。

 犯罪で使うためのトバシ用スマホの契約や、マネーロンダリング用の銀行口座を、必要としている犯罪組織に売り渡す。日本国籍が必要な人がいれば、養子縁組や結婚をさせた。人そのものを変えたい犯罪者がいれば、本人として乗っ取らせてやる。

「全部を奪われたヤツから順番に……殺されるんだ。俺ももうすぐそうなる」

「どうして、そんな……」

「野菜と同じなんだよ。枯れたらそれで終わりだ。引っこ抜いて捨てるだろ?」

 私は身震いした。そんなのは絶対に嫌だ。

「どうしてすぐに殺さないんですか? 何で生かされてるんですか?」

「サイン、指紋、代理人の電話……本人確認のために生かされてる……」

「電話の時に助けを呼べないんですか?」

 すると、お爺さんは弱々しく笑った。

「やったら殺されるだろ? 誰だって死にたくない。……やったヤツはいた。あんたぐらいの女だった。……乱暴されて、何度も切られて、泣きながら死んでいった……」

 仏島がやったという拷問のことだと思った。本当だったんだ。私は息を呑んだ。

「だ、誰か……助けに来てくれなかったんですか?」

「来たよ。五年前に一人……先生を助けようとして、ホームレスになりきってここに潜り込んできた。だけど、バレてヤツらに殺されちまった。新しく買った拳銃の試し撃ちとかで、悲鳴を上げながら……」

 それで私は思い出した。賀茂の探していた所長は、先生という人を追っていたことを。ここまでたどり着いたのに、負けちゃったんだ。そして、私は最悪なことに気づいてしまった。

「もう一人、来ませんでしたか? 一年半ぐらい前に。中年の男の人が」

「中年? ……ああ、来たよ。寺かどうかを調べに侵入したらしい。でも、そいつは殺された。今、あんたがいる部屋で……」

 私は振り返って部屋の中を見渡した。ここにお父さんがいた? 同じ部屋に?

「名前は? 何か言ってませんでしたか?」

「……分からない。忘れちまった。でも、ここには寺がない、要件を満たしてないし、こんなことをしているから宗教法人を取り消しになるとか言ってたな」

 やっぱりお父さんだったんだ。

「最後まで抵抗してた。だけど、包丁には勝てなかった……めった刺しにされて……」

 お爺さんは咳き込み始めて、鉄格子の前から消えてしまった。声をかけたけど、呻くような返事しか聞こえてこない。多分、横になったんだと思う。

 私も部屋の中に戻ると、お父さんがいた証拠がないか探し始めた。いつも持ち歩いているボールペンが落ちてないか、何かサインみたいなものを残してないか。

 壁には何も書いてなかった。毛布と布団をめくって表裏も見てみたけど、汗や血のシミ以外に何もない。

 もしかしてと思って便器の周りを調べてみた。すると、

「あった……」

 壁を向いた側に、小さく何かの文字が彫ってあった。匂いに鼻をつまみながら、顔を近づけて見てみる。

 ――ショウホウシンドウは何人もコロしているハンザイソシキだ。私、アガタタケルもコロされる。TELは――。

 お父さんだった。名前を見つけた途端に、私は涙が溢れてくるのを感じていた。声も出てしまう。でも、止まらない。この彫り込みが見つかってはいけないと、私は部屋の中央に戻って泣き続けた。

 お父さんは、あのマップを作ってるうちに、今は正法ビルになっいる建物が、元は正法真道寺だったことに気づいた。調べると、立派なことをしてるお寺だった。パワースポットに加えるべきかどうか、調べたんだと思う。

 檀家もいないしお寺としても活動してないのに、どうやってビルを建てたのか。資金とかお金についても調査したんだと思う。測量をやっているとそういうおかしな物件を見ることがあって、たいていは犯罪に関わっているものだと言ってたのを思い出した。

 だからお父さんは侵入したんだと思う。それで捕まってしまった。

 これでつながった。やっぱり、賀茂は罠にはめられたんだ。

 先生というホームレスの人が行方不明になった。家族か知り合いに頼まれて、賀茂のいる宮谷興信所の所長さんが先生を探し始める。この正法真道までたどり着いたけど、捕まって殺されてしまった。

 そして次に賀茂が所長さんを探し始める。だけど見つからない。賀茂がディフェンダーかも知れないと疑ってたから、慎重になってたんだと思う。でも、賀茂は調査を続けた。

 そんな時に、お父さんがここに侵入して殺された。まだしつこく調べてくる賀茂の動きを封じるチャンスだと思ったはず。だから、わざと賀茂と警察を呼びつけて死体を発見させた。

 私がここで死んでしまえば、所長さんとお父さんの事件もそのまま闇に葬られてしまう。

 何とかして逃げ出さなきゃいけない。でも、どうしたらいいの? 鍵はあの男の人が持っている。それ以外に鉄格子を開ける道具はない。どうやって奪えばいい? 気づかれないようにできる?

 誰か教えて。ううん。誰も教えてくれない。

 ――自分で考えるんだ。

 私は床に座り込んで考えた。

 リュックもスマホも奪われた。ヘアピンすらない。あるのは、着ている服とスニーカーだけ。武器にすらならない。でも、諦めたらそこで終わりなの。私に残されたのは、この体しかなかった。

 もっと考える。さっきのお爺さんを起こして、さらに聞いた。見回りはあるの? 夜中に食事が運ばれてくる時だけ。水はペットボトルのが支給される。

 そうして時間が過ぎていった。考えに考える。

 もう一度、鉄格子に近づいてみた。腕が入るぐらいの隙間が等間隔で空いてる。力を入れてみてもびくともしない。例え頑張って少しぐらい歪ませたところで、私の体が通れそうな隙間は作れそうになかった。

 でも、一つだけ案が浮かんだ。じっくり考える。相手は男の人で、私の体が好みだと言っていた。できるはず。だとしたら小さなミスも許されない。衣擦れの音すら立てちゃ駄目。

 逃げる時にはどこをどうやって辿ればいいか。それは来た時の記憶を頼りに、頭の中で図を作り上げていった。

 後は、いつそのチャンスが来てもいいように、準備を始める。

 私は部屋にあった汚い布団を小さく畳んで高くすると、着ていたブラウスとキャミソールを脱いで下着だけになった。そしてその二つを結んで長くさせて、布団の上に乗って鉄格子の一本、その天井に近い場所に端を結びつけた。きつく、何度引っ張っても外れないように。次にもう片方を近くにゆるく結んで完成。

 今度は、脱いだスカートを手に持ち、パンツを下ろして便器に座った。

 寒いし恥ずかしいけど、仕方ない。このチャンスを逃したら、次はない。ううん。あると思うけど、考えたくなかった。それは私のこの体を、あの男の人に捧げる手段しか思いつかなかったから。

 私はずっと待った。その時が来たら、何を話してどう動けばいいのかを、何度もシミュレーションする。

 賀茂は私がいなくなったことに気づいてくれたかな。

 一時間で帰るはずがかなりの時間になったけど、気まぐれを起こしたと思われてそれで終わっているのかも知れない。

 時計もないし窓もないから、外が暗くなったのかどうかも分からない。でも、じっと耐えた。

 それからどれぐらい経ったか分からない。あの男の人が来る気配はなかった。私と話したお爺さんも今は眠ってるらしく、小さないびきが聞こえてくる。他にも一つ。まだ人がいるみたい。

 私も眠くなってきた。だけど、チャンスは逃しちゃいけない。お腹が冷えてくる。裸で便器に座るだなんて、自分でもおかしくなってきた。他の人が見たら、さぞ間抜けに見えるんだろうな。

 その時は、突然やってきた。ガチャンという音がしてドアが開き、

「メシだ!」

 という声とともに、レジ袋のこすれる音が聞こえてきた。そして一つがどさっと置かれる音も。

「ほらよ、くれてやる。食え!」

 あの男の人で間違いなかった。少し歩いて、また声が聞こえてくる。

「またションベン漏らしたのか。臭えな。ほら、食えよ」

 それは斜向かいからだった。あのお爺さんだ。そして足音が近づいてきた。私は作戦をもう一度頭の中に呼び戻して、うんと頷き、気持ちを張った。

「い、いやああ……」

 鉄格子の向こうに現れた男の人を見て、私は情けない声を出しながら、お腹と股間を押さえた。

「何でお前、裸でクソしてんだよ。バカか?」

 男の人は私を見て、楽しそうに笑った。

「ふ、服を汚したくなくて……だから、そこに縛って……」

 鉄格子に結んだ私の服を見る。

「だからか。自殺でもしたのかと思ったぜ。まあいい。俺に構わず出せよ。汚い音を立ててな。ハハハ」

 ニヤけながら、私の胸と股間を見つめてくる。

「お、お願いです。もう我慢できなくて……してるのを見られたくないんです。向こうを向いてもらえませんか? お願いします」

「いいからしろよ。俺がじっくり見ててやるぜ?」

「お願いします」私は泣きそうな声でそう頼んだ。「後で胸でもお尻でも何でも見せますから、せめてしてるところだけは見られたくないんです……お願いします……」

「ちっ、分かったよ」

 それでも男の人は笑いながら、私に背中を向けた。来た。

 私は空咳で音を消しながら立ち上がると、そっと鉄格子に寄っていった。裸だから、衣擦れの音もしない。そうして私は、畳んでおいた布団に乗って、ゆるくしておいた服の片方の結び目を外すと、

「う……おっ……!?」

 鉄格子の隙間に手を突っ込み男の人の首に巻きつけて、思い切り引っ張った。

「て、てめえ……なに……しやがる……!」

 男の人が、喉に食い込む服を外そうと両手をかける。持っていたレジ袋が落ちた。私は手首に服を巻きつけるようにして右足を鉄格子につけると、さらに強く引っ張った。

「く……う、お……お……」

 男の人がゆっくりと振り向く。歯を食いしばり目を充血させながら、顔は真っ赤になっていた。でも止めない。私は体重をかけて引っ張り続ける。

 すると、男の人は声にならない音を口から出したかと思うと、目をひんむいて突然崩れ落ちた。それに引っ張られながらも、まだ腕や足が痙攣しているのを見て、もっと強く首を締め続けた。

 どれぐらい経っただろう。

 しばらくして、私は首に巻きつけた服を緩ませた。男の人はもう動かない。大丈夫。念のため、引っ張っていた服の一端を鉄格子に結びつけながら、私は男の人のスーツをまさぐった。

「あった……」

 鍵を見つけて奪う。立ち上がって鉄格子の向こうから手首を曲げつつ鍵穴に差し込むと、開いた。服を外して、男の人の体を引きずりながら鉄格子の中に入れて鍵をかけると、私は着替えた。

「出て下さい。早く」

 斜向かいのお爺さんのいた鉄格子の鍵を開ける。お爺さんは男の人の死体を見て驚いていた。

「あ、あんた……何てことを……!」

「早く!」

 私は声を上ずらせながら言った。

「……でも、俺はここから出たって、何もできない……」

「警察に全部話すんです! ここの犯罪を全部! いいから!」

 私は嫌がるお爺さんの手を引っ張って起こし、鉄格子の外へ連れ出す。

「もう一人いるんですよね?」

「いるけど、あいつは後で助けにきたほうがいい……もう起き上がれもしない」

 お爺さんが向かいの牢にいる人を指差した。見ると、横たわったまま動かないお婆さんがいる。

 鍵を開けてまた助けに来ますと告げると、私はお爺さんを連れて出口へと向かった。

 ゆっくりとドアを開く。誰もいない。来た道を思い出しながら、音を立てないようにそろそろと階段を昇っていった。ドアが見えてくる。

 これを開けて右に進み、ドアを抜けたら外に出られるはず。

「走れますか?」

 お爺さんに聞いた。

「頑張ってみる。駄目だったら……置いてってくれ」

「……その時は、必ず助けに来ます」

 私はゆっくりとドアを開いた。すると、警報が鳴り出す。天井からがなり立てるように、大きな電子音が鳴り響いた。

 私はお爺さんの手を引いて走り出した。すると、後ろからドアの開く音が聞こえてくる。

「お前ら、待て! 脱走だ! 手伝ってくれ!」

 振り向かずにドアへと駆け寄る。ドアノブを回すと、外に出られた。真っ暗な中、うっすらとした街灯から照らされて見えるそこは、駐車場だった。

 後ろから何かが飛んでくる感覚。それは私の頭上にあった非常口のランプに当たって、辺りに赤い光が散らばった。炎だ!

「この中で使うんじゃないよ! 死にたいのかい!」

 怒鳴り声が聞こえてくる。

「早く!」

 私は停まっている車の横を通って、外に出た。真夜中だった。

「誰か! 誰か助けてください!」

 そう叫びながら、私はお爺さんの手を引いて走る。

 すると、空気が変わった。私の肌と髪の毛が、夜の湿った空気じゃない何かを感じ取る。

 その瞬間だった。足元に何かが飛んできたかと思うと、それは爆発して、私とお爺さんを吹き飛ばした。アスファルトに倒れ込む。目の前に、燃えている火の欠片が見えた。そしてその先には、手で炎を操っている人の影。

「面倒を起こしてくれましたね」

 仏島だった。ゆっくりと歩み寄って来る。その後ろから三人の男の人の姿が見えた。

「その老人はもう絞りきりました。あなたも生かしておくと面倒なので、二人ともここで死んでもらいます」

 そう言ってニヤリと笑うと、片手を上げて、燃えている火の玉を掲げた。それはみるみる大きくなっていく。後ろにいる三人も、手に青白い球体を浮かべ始めていた。

「あんただけでも逃げてくれ」

 お爺さんはそう言って起き上がりながら、私の前で手を広げて叫んだ。

「もう充分うまい汁を吸っただろ! ……この子だけは助けてやってくれ!」

 私も立ち上がってお爺さんの手を引いた。

「駄目です。一緒に逃げるんです」

「生き残れるヤツが逃げるんだ。さあ、早く――」

「もう遅いんだよ!」

 仏島がそう叫ぶと同時に、炎の玉が放たれた。背後にいる人たちも青白い電気の玉を投げつけてくる。

 逃げなくちゃいけない。でも、足が動かなかった。もう遅い。駄目だと思ったその時。

「なっ?」

 いきなり、目の間にモヤが現れた。

 それはすごい勢いで濃くなっていくと、まるで生き物のように形を変えて、私たちに向かってきていた火の玉と球電を包み込むようにして、溶かしてしまった。

「突入より早く出てくるなんて、さすがですわね!」

 その声とともに、今度は稲光が仏島たちの前に落ちる。ドオンという衝撃とともに、次はさっきと同じモヤが視界を塞いでいった。

 まるでどこからか飛び降りてきたようにして現れたのは、六社さんだった。

 黒いスカートスーツに黒いコートをはためかせながら、ハイヒールを鳴らして駆け寄ってくる。

 そして仏島を振り返ると、高笑いをあげた。

「さあ、クズの皆さま! せいぜい頑張ってくださいませ!」

 六社さんが右手を上げると、今度はものすごい強風が彼らに向かって吹き始めた。最初は両腕で顔を覆って凌いでた仏島たちが、耐えきれなくなったようにアスファルトへ膝をつきはじめる。

「時間稼ぎでしかありませんの。さあ、逃げましょう」

「は、はい!」

 私はお爺さんの手を引いて、六社さんの後をついて走った。向かっていたのは、賀茂がディフェンダー二人と戦ったあの公園だった。

 お爺さんが途中で転ぶと、私がおんぶをしてさらに走る。息を切らしながら階段を昇ってたどり着いたのは、周りが木々に囲まれた広い場所だった。

 お爺さんを下ろして、私はしゃがみ込んだ。

「ろ……六社さん」

 肩で息をしながら、また魔法で霧を生み出している六社さんに問いかけた。

「どうしてこんなところに? もっと、人通りの多いところのほうが……」

「しかし、ここが安全なのです。もっとも、私に攻撃能力の一つでもあれば、このようなことをする必要もなかったのですが」

「どういうことで――」

「手間をかけさせてくれるじゃないですか」

 遠くから声が聞こえてくる。仏島と三人の男の人たちだった。

 六社さんが彼らを睨みつける。

「それはこちらのセリフですわ。ディフェンダーの本質を忘れたクズの方々。何十年と潜伏していた割には呆気なくバレてしまいましたわね。こちらの方を誘拐した罪以外にもボロボロと出てくるでしょう。チェイサーとしての任務は元より、内閣調査室のエージェントとしても見過ごせません」

 すると、仏島の後ろから小さい人影が現れた。

 それは空を滑るようにして飛んできたかと思うと、ニヤリと笑いながら地面へ降り立った。あのお婆さんだった。

「あんたか、ディセーブラーの六社ってのは。何でもかんでも無効化するとか噂には聞いてたけど、大したことはないね」

「現れましたわね。黒幕のつもりですの? こちらのお二方にお話を聞けば、全て終わりなのが分からないおバカさんではないでしょう?」

「だから、今ここであんたらを消すんだよ。それが分からないバカみたいだねえ」

「わざとここに誘い込んだのが分からないおバカさんだったのですわね」

 六社さんが右手を掲げた瞬間。

「ぎゃああ!」

 空の低い部分が光ったかと思うと、そこから太い稲妻が轟音を立てながら地面に向かって落ちた。それは仏島の後ろにいた男の人に直撃する。

 その人は、立ったまま黒焦げになった。煙を上げながらゆっくりと倒れる。



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