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キスのおかわり  作者: 松田未完
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おかしな女

   *おかしな女


 朝一番で向かった台東区の区役所は平日の九時なのにすごく混んでいた。待合室のベンチに人が多いのは住民課で、次に福祉とか保険の窓口に人の塊ができてる。

 私と賀茂が向かった二階の観光課には誰もいなくて、カウンターの向こうでノートパソコンに忙しくキーボードを叩いてる職員しか見えなかった。

 あたりを見回してた私なんてお構いなしに、賀茂は窓口に行って職員の小西さんを呼び出す。

 しばらくしてやってきたのは、お父さんと同い年――四十代後半ぐらいの男の人だった。まばらな髪にヨレヨレのスーツ、痩せた体は、不健康な生活をしてるだけなのか、病気なのか分からない。

 とにかく負のオーラを漂わせていた。

「縣さんの件でお聞きしたいことがあるとか。何でしょう?」

 対応するのも面倒そうにカウンターに肘を置いて聞いてくる小西さん。

「ええ。縣健さんが亡くなる直前にこちらのお仕事をされていたと聞きまして。彼の娘さんが、その最後の仕事についてお聞きしたいということで連れてきたんです」

「は、はあ」

 小西さんはいかにも迷惑だという顔で私を見た。

「それで、あなたは?」

「この子の叔父に当たる、大網と申します。私も時間がないので、ちょっとだけでいいんですが教えてもらえませんか? それでこの子も気持ちの整理がつくと思うので。なあ、桜」

「う、うん……」

 怪しさいっぱいだったけど、小西さんは頷いてくれた。そうして案内されたのは、受付の奥にあった小さなテーブル席だった。

 それにしてもすごい。

 さっそく私を使って、困った姪っ子のために時間を割いてやってきた親戚になりすましてしまった。賀茂にとっては何でもないことなんだろうけど、経験のない私は感動していた。

 これがプロの探偵なんだ。

「お父さんとは高校の同級生で、同窓会で顔を合わせてたこともあって、話を聞いた時にお願いしたんですよ」

 テーブルについた小西さんがだるそうに話し始める。

「話を聞いて? 小西さんから健に依頼をしたのでは?」

「いいえ? 縣さんから、何か測量とか地図の仕事はないかと聞かれたんですよ。その……娘さんを前にして言うのも何ですが、お金が入り用だったみたいで」

「桜、何か聞いてるか?」

 私は首を横に振った。確かにお母さんの心臓病の治療でいつもお金はなかったけど、それでもお父さんの給料だけで暮らしていくには充分な生活をしていたはず。

 それは私が出て行ってからも変わってなかったと思う。何かあったら、お母さんが言ってただろうし。

「特に何も……小西さん。父は何を買うか言ってましたか?」

「さあ。そこまで突っ込んだ話はしなかったので。でも、そこそこの額が欲しかったみたいですね。そこで、報酬はそれほどじゃなかったんですが、外国人向けの街歩きマップの制作をお願いしたんです」

 そう言って、小西さんは自分のデスクから一枚の紙を持ってきてテーブルに置いた。

 それはお父さんの遺品整理をしている時に見つけたものと同じ、街歩き用のマップだった。

 日暮里の谷中を中心としたA3サイズのもので、実際の道路地図へ被せるようにして、お寺や神社、有名な場所などが紹介されている。それぞれのスポットには吹き出しで建物の小さな写真に名前が添えられ、簡単な説明が日本語と英語で書かれている、実用的なものだった。

 「パワースポットめぐりマップ」とタイトルのある横に、台東区役所観光課制作というクレジットが見える。お父さんの名前はどこにも見当たらなかった。

「主に神社仏閣に焦点を当てて、そこにあるちょっとしたエピソードとご利益を書いてもらいました。海外の方からの評判も良くて、かなりの枚数を印刷してるんですよ」

「なるほど。あいつらしい真面目な内容ですしね。ちなみに、報酬はいくらだったんですか?」

 小西さんの表情が少し曇ったのを見た賀茂が、苦笑いしながら続けた。

「いえね。この子が親父さんと同じように測量――というか、地図制作をしてみたいと言い出したんですよ。イラストレーターにもなろうと絵の勉強をしてるので、参考までにお聞きしたかっただけで。あの後、通帳はろくに確認もせず金だけ下ろして銀行に返しちまったもんで」

 その言葉に、私は思わず目を白黒させてしまった。

「そう言えば、縣さんも言ってましたね。娘さんが絵の勉強をしているとか。うちの部署も予算が少なかったので、途中まで書いてもらったものをうちで整形して納品する約束で……二十万で請け負っていただきました。なので、そのままの額を振り込んでいます」

「なるほど。参考になりました」

 賀茂が頭を下げる。

「ちなみに、縣はこの地図を作ってる時に何か言ってませんでしたか? ご存知だと思いますが、まだあいつを殺した犯人が捕まってなくて……些細なことでもいいんですが」

「それなら、私のところにも刑事さんが来ましたね。しかし、捜査のお役に立てることは何もありませんでした。せいぜい、昔あったお寺がビルになってたとか、その程度で。調べるのが大変だとか、そのぐらいの愚痴しか」

「なるほど。ちなみに、アリバイなどは聞かれましたか?」

 小西さんが苦笑いして頷く。

「ええ、一応聞かれましたよ。確か夜中だったんですよね? あいにくその時間は一人で部屋にいただけなので、証明できませんでしたが。まあ、私はハナから対象外だったようで、逮捕はされていませんけども」

「まあ、そうでしょうね。接点があるだけで疑ってたらキリがない」

 賀茂もそう合わせると、次に私を振り向いた。他に何か聞くことはないか。そんなことを聞いているような目だった。

「あの……小西さん。父はそんなに切羽詰まってたんでしょうか? その……お金に」

「すいません。本当に何も聞いてないんですよ。ああ」

 思い出したように小西さんが頷く。

「でも、何か言ってましたね。これを何回かやれば、あとは俺のほうで何とかできるとか。それぐらいしか覚えてないんですよ」

 二十万円を何回か。三回で六十万、五回で百万円。後はお父さんがどうにかできるぐらいの蓄えがあったのか。

 でも、通帳を整理していても貯金なんてほとんど残ってなかったし、ローンとか銀行からお金を借りた形跡もなかった。

 私が混乱しているのを察したらしい賀茂が小西さんに頭を下げる。

「お忙しいところお時間いただき、ありがとうございました」

「いえいえ。こちらこそお役に立てずすいませんでした。また何かありましたらどうぞ。私は大抵ここにいますので」

 そんな流れで、この場はお開きになった。小西さんに改めてお礼をすると、私と賀茂は観光課を後にして区役所を出る。

 少し歩きながら、近くに人がいないのを確認して、どうしても気になったところを賀茂に質問した。

「さっき、何で嘘ついたの?」

「親戚とでも言わなきゃ、疑われるだろ」

「そうじゃなくて、私がイラストレーターになろうとしてるってこと。適当なこと言わないで」

「……集合ポストの暗証番号は、考えて設定しておいたほうがいいぞ」

 歩きながらニヤリと笑った賀茂に、私はえっと声を上げてしまった。

「三月三日、ひな祭りの生まれ。〇三〇三――中から出てきたのは、お前が宛先のイラスト通信講座のダイレクトメール。自分で申し込まないと送ってこないだろ?」

「どうして誕生日が……?」

「今時はバカがこぞってネットに晒してるからな。苗字が珍しいと探すのも楽だ。お前のもSNSですぐに見つかったぞ。誕生日からメールアドレス、イラストもな。ありゃ、ヘタウマってヤツか」

 ヘタウマ。一番言われていやな単語。

「何で勝手に見たのよ!」

「お前も勝手に俺の事務所と行きつけの店を見つけ出しただろうが。何を今さら。お互い様だろ」

「くっ……」

 返す言葉もなかった。後でキャッシュカードの暗証番号を変えるようにしておかないと。

「それより、おかしいと思わなかったか?」

 からかっていたような賀茂は真面目な顔に戻して、私を振り向いた。

「あれだけの地図を東京都の自治体が依頼しておいて、たった二十万か? いくら親父さんから金欲しさに話を持ちかけたとしても、安すぎるだろ?」

「相場とか分からないし……」

「自分がやる前提で考えてみろ。まあ、二十歳のガキじゃ分からんだろうが……第三世界じゃあるまいし、仕事にゃそれ相応の報酬が必要なんだよ」

 こいつは本当に私を子供扱いしているらしい。

「いいか? 親父さんはプロだ。一日の作業として少なくとも一万五千から二万ぐらいはもらえる仕事をしているはずだ。あの地図にはどれぐらいの時間がかかる? 一週間で終わる量か?」

 道路地図を起こして、掲載するお寺や神社、見どころを決めて、説明文も二つの言語で併記していく。

 今ではビルになっているものもあったってこぼしてたぐらいだから、実際に全部のスポットを訪ね歩いたはず。

「無理だと思う。一ヶ月とかそんぐらい? だとしたら……安くて四十五万、高くて六十万」

「実作業としてはな。感覚としてはもっとかかるイメージだ」

「だとしても、お父さんはお金が欲しかったんだから、安くても請け負ったんじゃないの?」

「遊ぶ金が欲しいガキでも、割に合わない作業だと思うだろうな。親父さんはプロなんだろ? 何十年と積み上げたその技術を安売りする、つまりプライドを捨ててそんなことをする人間なのか?」

 私は首を横に振った。

「じゃあ、どういうことなの?」

「あの小西ってのが値切ったんだろ。次も仕事を回す、そんな約束をさせてな。だから、何回か繰り返せばとで言ったんだろ」

 賀茂が小さくため息をつく。

「俺の予想じゃ、小西は差額を横領してたはずだ」

「え……」

 あの人がお父さんを騙した。どうして?

「観光立国を目指して、今じゃどこも観光に力を入れてる。元の予算はそれなりに積んでたはずだ。おそらくは五十万程度」

「何でそんなことが分かるの?」

「金を抜き取る側の気持ちになってみろ。そいつだって金が欲しい。これが一千万や一億の仕事だったら半分でもいいかも知れん。だが、出来る限り多く分捕りたいってのが人情だろ?」

 私は頷いた。

「五十万の半分は二十五万。その程度の金じゃ満足できない。だが、限度もある。そういう時、人間ってのは三分の二ぐらいを求めるんだ。自分が半分以上かすめ取ったっていう、しょうもない自尊心と、それでも仕事をやらせてやったっていう下らない優越感にひたるために」

 何だろう。さっきから私は納得しかしてなかった。賀茂の話はいちいち分かりやすくて、それが正解だとしか思えなかったから。

 これが大人なんだろうか。

 私も二十歳になって大人の仲間入りをしたはずだけど、どう頑張ったって賀茂みたいな考えができるとは思えない。

 私はデジャヴを感じた。

 この感覚。中学生の時、測量の仕事についていったお父さんの背中を見ながら思ったことと同じだった。

「五万引いて満足して、お父さんに二十万……でも、何でお父さんを騙したの?」

「小銭をかすめ取るヤツに大層な目的はない。遊ぶ金欲しさだろ。そういうこすいことを平気でするとしたら、あいつが親父さんの死に関わってる可能性もある。裏を取るぞ」

「私も行く」

 再び歩き出した賀茂の後ろをついていこうとしたら、何かを投げられて受け取った。それは鍵だった。

「事務所で待ってろ」

「イヤ。一緒に行く」

 賀茂が私を見つめて首を横に振った。

「今回はただ話を聞くだけだったから同席させたが、次は聞きこみに側調、尾行もするはずだ。足手まといになって真実が永遠に葬られるなら、それでも構わん。俺は別に問題ないからな」

 私はまた反論できなかった。

「親父さんの遺品に、あの地図か地図製作に関係しそうなメモやデータがないか調べろ。事務所でやってもいいし、家でやって持ってくるでもいい」

「あんたがそのまま消えない保証は?」

「お前、バカか?」

 賀茂が本当に苛ついた目で私を見下ろす。

「事務所を捨ててどこに行くってんだ? いいから、さっさと行け」

「逃げないでよね!」

 私はそんな捨て台詞を残して賀茂を睨みつけると、あいつを追い越しながら駅に向かって歩き出した。

 ちょっとだけ尊敬したのに、やっぱり嫌なヤツだ。

 でも、本当に逃げないだろうかと心配になってくる。そもそもお父さんを殺した容疑者が、自分が犯人になるかどうかも分からない調査をするだなんて変すぎる。

 犯人じゃないと確信してるから? だとしたら、最初からそう言えばいいはず。

 もしかしたら、私はあいつのいいように納得させられて、自分が犯人じゃない証拠を作る手伝いをさせられてるのかも知れない。

 もう訳が分からない。それでもあいつを逃がしちゃいけないと、私はいったん部屋に戻ると、キャリーバッグの中からお父さんの遺品を探しだした。

 と言っても、ほとんどは売るか捨てちゃったから、残っているのは三人で撮った写真にノートパソコンぐらいしかない。

 事件があった後、警察で捜査の手がかりになるかも知れないと言われてノートパソコンを渡したけど、何も出てこなかったと言われて返されたのを思い出す。

 それでも、地図製作はこれでやっていたはずだから、何か情報が残ってると思ってリュックに詰めた。

 家だと電気代もかかるしネットも使えないからと、賀茂の事務所へと向かった。念のために近くのディスカウントショップに寄って包丁も買っていく。

 そうして事務所にたどり着いた頃にはお昼になってた。

 鍵は本物だったらしく、中に入った私は全部の電気を点けて明るくすると、適当な机に座ってリュックから出したノートパソコンを開き、電源を入れた。

 まず調べたのはメールから。検索しても小西さんの名前は出てこなかった。街歩きマップ、二十万円のキーワードで探してもヒットしない。

 一年半ぐらい前の受信トレイを片っ端から見ていったけど、会社の人と仕事の話をしてるものしか出てこなかった。

 きっと電話で話をしてたんだと思う。ブラインドタッチもできないし、昔からメールは面倒だと言ってたから。

 次は街歩きマップの資料とか作業の形跡がないか調べてみた。すると、これはすぐに出てきた。

 台東区から提供されたらしい道路地図に、デジカメで撮影したお寺や神社の写真がたくさん。それらを一枚にまとめた、私も使ったことのあるグラフィックデザインソフトのファイルがたくさん出てきた。

 几帳面なお父さんらしくファイルの名前には日付がつけてあって、作業した日ごとにバックアップをしながら仕事を進めていたみたい。

 この中に手がかりがあるんだろうか。最後のファイルを開いてみると、それは観光課で配っているものと同じだった。

 じゃあ最初のはと思って、一番古い日付のものを見てみたら、道路地図を下敷きにして自分で線を引いただけのものだった。ファイルの日付を見ると三ヶ月ぐらい作業していたみたいで、途中のものを確認してみても、まさしく作業途中というような雰囲気しかなくて、特に違和感はなかった。

 何もない気がする。

 でも、見逃していたら嫌だ。でも、残り三十個近くあるファイルを一つずつチェックしていくのも面倒。でも、でも、でも……。

 一気にチェックできる方法はないのかな。パラパラ漫画みたいにして制作過程を追っていくと、何か分かるかも知れない。確か、複数のファイルをいっぺんに画像として変換してくれる機能があったはず。

 準備をしてソフトに実行させた。すごくゆっくりだけど、一つずつ地図の画像ファイルが出来上がっていく。あとはこれをスライドショーみたいにして見ていけばいいだけ。

 ちょっと休憩しようかなと思って両腕を伸ばしかけた、その時。

「お兄さま!」

 事務所のドアが突然開いたから、私はびっくりして椅子の上で飛び跳ねてしまった。

 入ってきたのは、私より少し年上の女の人。グレーのジャケットにスカート、スカイブルーのワイシャツと飾りっけのない革のバッグが、キャリアウーマンみたいに見える。

 おかっぱ風の髪もそんなに違和感ないし、鋭い目つきにすっと通った鼻筋が素敵な、美人のお姉さんだった。

「お兄さま!?」

 その綺麗なお姉さんはハイヒールを鳴らしながらずかずかと入ってくると、もう一度そう叫びながら事務所の中をぐるりと見回した。

「お兄さま! いるのは分かっているのです! 出てきてくださいませ!」

 私を一瞥すると、今度はあちこちを見て回りだした。

 最初にトイレ、次に給湯室。事務机の下を覗いて回って、ベランダに出てもう一度叫ぶと、部屋の中へと戻ってくる。

「今日は怒りませんけど、いい加減、何も動いていないこの状況の説明を要求しますわ! それと別件もありますの! まったくもう!」

 そう言いながら怒っていた。

 今度は窓にかかっているシャープシェードの裏、打ち合わせテーブルの下、さらにゴミ箱の中まで見始める。

「ぬう……いませんわね」

 お姉さんは低く唸ると、私をぎらりとした目で振り向いた。

「そこのあなた。お兄さま……いえ、賀茂さんがどこに逃げたかご存知ありませんか?」

「い、いえ……」

 見た目はぴしっとしてるのに、話し方と動きがおかしい。

「もしかして、その……あなたも、あいつと同じ種類の人なんですか? その、何て言うか……特殊な……」

 そう聞くと、お姉さんはつかつかと寄ってきて、じっくりと、舐めるように私を見てくる。そして、何か理解したように頷いた。

「なるほど。何か事情がおありのようですわね。ちょっと立っていただいても?」

「は、はあ……」

 言われた通りに立ち上がった私。お姉さんが顔を近づけてくる。肌が透き通ってるみたいに綺麗で、うっすらとしたお化粧もすごく自然。大人の女性って感じ。

 こんな風に私もなれるかなと思って見とれていると、彼女はにっこりと笑いながらその手が伸びてきて、私の髪に触れたかと思うと、突然、ぐいっと頭を引き寄せられて――、

「んんーっ!」

 キスされた。びっくりして動けない。それを知ったのか、さらに舌まで入れきた。

「ぷはっ!」

 やっとのことでお姉さんの腕から逃げると、私は思わず壁際まで後ずさってしまった。

「な……何するんですか! まさか、また呪い!?」

「また? ええ、まあそういうことですわ。私が何者かということを話さないよう、念じさせていただきました」

 そういうと、お姉さんは丁寧に頭を下げる。

「私はディフェンダーの六社と申します。漢数字の六にヤシロで六社。どうやら、お兄さまからディフェンダーについてはお聞きのようですわね」

 慣れてますとでも言いたげに微笑む六社さん。

「私とのキスも念のためですわ。これはディフェンダーとして欠かせない儀式ですの。でも大丈夫ですわ。ほら、女性同士はノーカンだとよく言うではありませんの」

 ファーストキスはあんなデブの殺人犯で、セカンドキスは口調の変な女の人。ノーカンなんて関係ない。もう泣きたかった。

 涙をこらえながら近くのデスクに置いてあったティッシュで唇をぬぐうと、六社さんを睨みつけた。

「それで何なんですか? あいつ――賀茂なら調査で出かけてますけど! それより、妹さんなんですか?」

「いえ。実の妹ではありませんの。家族ぐるみでお付き合いしていただけの、妹分ですわ。それより……あなたはどうしてお兄さまの事務所に? 何か事件でもあったのですか? もしかして……」

 どうしよう。事情を説明したら、お兄さまと呼んでいるあいつを殺人犯だと言うことになるし。言わないと言わないで面倒そうだし。

 迷っていると、助け舟の殺人犯が帰ってきてくれた。

「七子、来てたのか」

 振り向いた六社さんの顔がぱっと明るくなる。

「お兄さま! お帰りなさいませ! もしや今日は七子の依頼を進めてくださったのですか? きっとそうですわね! 見つかりましたの!?」

 その声を鬱陶しそうに聞いていた賀茂が、私と六社さんの視線を受けながら自分のデスクに腰を下ろす。

 そして手に下げていたおにぎりを食べ始めた。パッケージに「うにチョコ」と書いてあったのは、きっと気のせい。

「悪いが、全く手をつけとらん」

「なっ!」

 六社さんが頬をふくらませながら賀茂に詰め寄っていく。

「着手金が必要だとおっしゃるから、私の少ないお給料を割いてお支払いしましたのに! ひどい! お兄さまの裏切り者! ゲテモノ食い! でぶ!」

「何だとこの野郎」

 しかし、賀茂は笑っていた。

「ってか、ほっといてやれよ。一人前の男になるってお前の前から消えたんだぞ? 半人前の状態で見つけられることがどんなに男心を傷つけるか、分からん歳でもないだろ?」

「もう一人前だと何度も言いましたのに。だから生涯の契りを申し込んだら逃げて……むぅ」

 どうやら彼氏に逆プロポーズして逃げられたらしい。まあ、この感じだと無理もないかなと思ってしまった。

 失礼かも知れないけど、私がその彼氏だったら逃げただろうな。

「まだ手ェつけてないことは前にも話しただろ? 今日は別件で来たはずだ。何の用なんだ?」

「んもう。まあいいですわ。それでは本題に」

 不満そうに唇を尖らすと、六社さんは急に真面目な顔へと戻って賀茂に深く頭を下げた。

「内閣情報調査室を代表しまして、お兄さま――いえ、賀茂さまにこの通り、深くお詫び申し上げます」

 賀茂が深いため息をつく。

「昨日のはお前らの差し金だったってことか」

「差し金というと語弊になりますわ。事情があったのです。私の所属している部署とは別に、国内のディフェンダー対策部門があるのは既にご存知ですわよね?」

「ああ」

「そこに匿名の通報があったのです。危険人物が潜んでいる、排除してくれと」

「テロリスト呼ばわりか。で、どうしてお前らのチェックが漏れたんだ? 少なくとも名前ぐらいは連携するだろ?」

「本来であれば事前調査をして、情報の正確性を高めた上で連携し、排除のためにチームを組むのですが、今回はエージェントの子飼いディフェンダーが功を焦って先走りまして」

「ふん」

「報告を受けたのが今朝。事実関係の確認が済み、エージェントには半年の謹慎処分を下して、私のプロテクテッドに代わりこうして謝罪しに来た、というわけですわ」

「それにしては手土産がないようだが」

 びくっと六社さんが苦笑いする。

「そこはそれ……お兄さまなら、あの程度のは朝飯前でしょうし、内調も最近は人件費削減でお金がなくて……。今度、私がごちそうしますので、それでご勘弁を……」

「それはいい」

 賀茂がニヤリと笑った。

「ネットで見た深海魚専門店ってのに行ってみたくてな。万券が数枚飛んでくがそりゃあ旨いらしい。期待して待ってるぞ」

「う、うう……お給料が」

 六社さんの顔が青ざめる。

「年俸二千万が何を言う。それで、どこのバカが俺をテロリストだとタレこんだか分かってるのか? あいつらはこのガキが来たから俺を殺すチャンスができたとか言ってたが」

「まだ調査中ですが、その情報は私も存じております」

 二人の視線が私に注がれる。何も答えられない。

「恐らく、お兄さまに生きていられると邪魔だと思っているどこかの組織が、エージェントとあの二人を炊きつけて動かしたのでしょう。相手が分かり次第、連携させていただきますわ」

 そこで話に区切りがついたらしく、賀茂は二つ目のおにぎりを食べ始めた。ラベルには「チリわかめ」と書かれている。味が想像できて、げんなりした。

 ぱっと見はオフィスでの雑談みたいな雰囲気なのに、話している内容が重たすぎる。人が二人も死んで、しかもそれは無駄死みたいなものなのに、まるで事務手続きをしてるようなこの空気に私は少し怖くなった。

「あの……六社さんも魔法使いなんですよね? なのに政治の仕事をしてるんですか? 内閣がどうとか……」

 すると、六社さんはにこやかに笑顔を浮かべながら、持っていたバッグから名刺を取り出して渡してくれた。

 内閣情報調査室、国際部調査員、六社七子。なんだか漢字が多くて目がチカチカしてくる。

「FBIとかCIAは聞いたことがありますわね? それの日本版とでも思ってくださいませ。私は海外のディフェンダーに関する諜報活動をしておりますの。必要であれば、公安委員会や警察庁と協力して排除にも当たります。プロテクテッドは私の上司で、元警視総監の細草様ですわ。そもそも、チェイサーをやっておりましたの」

 今度は話の内容に頭がチカチカしてきた。

「チェイサーって何ですか? カーチェイスのチェイス? 追う人?」

「あら。お兄さまから聞いてなかったのですわね。お兄さまは元々チェイサーとして第一線で活躍されてまして、でも、任務の途中で最愛の方を――」

「おい、七子! もう用がないなら帰れ!」

 賀茂が三つ目のおにぎりを頬張りながら、そう怒鳴った。

「んもう。何も話してないのですわね。ええ、お望み通り帰りますわ」

 そう言って、六社さんがちらりと私を振り返る。

「ああ、最後に一つ。お兄さま、この女性はどういう方なんですの? 恋人にしては若すぎるかと」

「そんなんじゃありません! 私のお父さんがこいつに殺されたんです!」

 私は叫びながら、賀茂を指差した。

「正確には、殺した疑いがあるだけですけど。それで確かめたくてここに来たんです。そしたら、一緒に調べることになって……」

「正確には俺をボウガンで撃とうとした挙句、俺に助けられたがな」

「魔法が飛んでくるなんて、普通は思わないじゃない!」

「というわけだ」

 私の抗議なんてどこ吹く風で、賀茂はそう笑いながらおにぎりを飲み込む。三つ目の具が何か、見逃したのが少し悔しい。

 すると、六社さんが楽しそうに笑った。

「殺人犯と一緒に捜査とは、また楽しそうなことですわね。まあ、殺されかかるなんていつものことですから、お気になさらず。お兄さま、疑いはきちんと晴らしてくださいね。一般人を手にかけたとあっては、賀茂家の皆さまに私は顔向けできませんので」

「分かった、分かった。だから消えろ。俺を狙ったヤツらの正体と、メシをおごる日が決まったら連絡をよこせ」

「分かりましたわ。それではまた、近いうちに」

 六社さんは会釈すると、ハイヒールを鳴らしながら事務所をさっそうと出ていった。

 喋り方はちょっと変だし魔法使いだけど、スタイルも良くて政府の仕事をしてて、本当に格好いいなと思った。あんな女性になってみたい。今からじゃ遅いかな。

「で、何か分かったのか?」

 ナプキンで口を拭いている賀茂にそう聞かれて、私はスリープしていたノートパソコンを元に戻す。

 仕掛けておいた三十個の画像ファイルは出来上がっていた。

「今んとこは全然」

 何もないだろうなと思いながらも、画像をスライドショーみたいにしてパタパタと表示していく。

 道路地図があって、そこに線が引かれ、お寺や神社の吹き出しが徐々についていって、それが埋まっていくだけ。本当に? ううん、違う。

「……あった、かも」

 私は驚いて賀茂を見つめてしまった。

 あいつは玉ねぎ茶のペットボトルを口につけながら席を立つと、私の側へと寄ってきて後ろから画面を覗き込む。

 賀茂のためにもう一度、古いファイルからパラパラマンガみたいに画像を次々と表示させていった。

「制作途中だな」

「ここらへんはいいの」

 すると、まだファイルが残り半分ぐらいのところで動きがなくなった。ほぼ完成している状態なんだけど、吹き出しの中にあるテキストがちょこちょこと変わっていく。そうして、最後のファイルが表示された。

「……うん? 結局、何もなかったように見えたが」

「ううん。あったの。よく見てみて」

 私はもう一度、半分ぐらいのところまで戻って、画像を表示していった。あるところで手を止める。

「ここ。良く見てみて」

 私は画面の中、西日暮里駅にほど近い場所にある南泉寺というお寺を指差しながら画像を送っていった。

「道が増えたな」

 そう。あるファイルの画像から、いきなりお寺の中を突っ切るような道が増えていったの。

「お遊びで描いたんじゃないのか? 職人の中には、自己顕示欲のはけ口としてそういうことをするヤツもいるからな。家の梁にマークを刻んだり」

「お父さんはそんな人じゃない。バカにしないで」

「あんな人呼ばわりしてた割には、尊敬してるんだな」

「っ……」

 私は言い返せなくて、脇にいる賀茂を睨みつける。

「一般論を言ったまでだ。続けろ」

「ふん」

 どうしてこいつは私の心をえぐるようなことばかり言ってくるんだろう。

「人としては嫌いだけど、測量が仕事だからよ。あんただって、ちょっとした調査だからって手を抜かないでしょ」

「分かった、分かった。そうムキになるな」

 賀茂が少し楽しそうに笑っているのが、本当にうざかった。

「それで……わざとでもなく、間違えたわけでもない道が増えた理由は何なんだ? 意味があるってことなんだろ?」

 私は気を取り直すために空咳を一つすると、頷いて言った。

「多分、これはトラップストリートなの」

「それは何だ?」

「地図って作るのはすごく大変なのに、線とマークだけしかないから簡単に複製できちゃうの。文章とかイラストなら盗作だって分かるけど、地図は調べた結果が同じなら誰も文句言えないじゃない?」

「それでわざと存在しない道を入れたのか。著作権代わりの、盗用対策として」

 私は頷いた。

「間違った道とか存在しない街の名前とかを入れてね。地図以外にも、実在しない人を載せた百科事典とか、ありそうでない単語を掲載した辞書とかあるのよ。小さいころにお父さんから聞いたし、わざとやったんだと思う」

「なるほどな。俺の調査結果と同じだ」

「え?」

 賀茂は自分のデスクに戻ると、区役所で配っていたパワースポットめぐりマップを持ってきて、私に渡した。

「作業履歴にあるどのファイルとマッチするか調べながら聞け。全部印刷しながら」

「うん」

 三十個あるファイルのどれと合うのか見比べながら聞いた賀茂の話は、まさに転落の人生と言ってもいい内容だった。

 小西さんは典型的なギャンブル狂だったらしい。

 実家暮らしをいいことに区役所のお給料の半分以上を競馬とパチスロに、残りを行きつけの飲み屋でのご飯とお酒、余裕があれば風俗で使っていたという。

 でも、そんな生活は五年前に崩れてしまった。毎日のお酒と味の濃い食事で糖尿病になってしいまい、さらに腎臓も壊して通院を余儀なくされてしまう。

 そのストレスがさらにギャンブルへ向けられたものの、元々勝ててなかった小西さんはお金が足りなくなって、ついに借金に手を出してしまった。

「三枚のカードで合計五百万。頑張れば返せるんだろうが、今まで無断欠勤を何回かしたことで昇進もない、パチスロも下手で、しかも止められない。結局、こんな小銭稼ぎしかできないわけだ」

「お父さんと同じようなことをされた人がいたの?」

「二年前ぐらいに区の観光PRを頼んだイラストレーターへの支払いで、同じことをしてたそうだ。勘違いを装って仮納品のデータを使い、次も仕事をやるからと報酬を半分に減らされたんだと。そこそこ騒ぎになったから、親父さんも知ってたんだろ」

「でも、小西さんは途中のデータを渡す約束で、って」

「死人に口なし。証拠が出てきたら勘違いでごまかそうって腹だったはずだ」

「……だから、お父さんがこんなのを仕込んだんだ」

 私はファイルを見比べながら、大きなため息をついた。

 一つは、そんなことをしてまでギャンブルをする小西さんに対する哀れみから。もう一つは、そんな人から仕事を貰わないといけなかったお父さんに対する悲しみ。

「あった。最終版より二つ前のだ。ほら、トラップストリートも合ってるし、ちょこちょこ変わってた吹き出しの中身も一緒」

「これで同じことをしようとしてたと、証拠が出たわけだ」

「え……でも、待って」

 私は賀茂を見上げた。

「お父さんが、小西さんの不正をネタにしてゆすって、それで殺されたってこと? でも、お金は払ってるんでしょ?」

「だからだろ? 支払い前にモメたら、手違いだ何だとごまかしながら、正規の報酬を支払ったはずだ。だが、一度支払っちまったら動かない証拠になる」

 そういうことか。でも、ちょっと待って。

「ってことは、あんたは犯人じゃない?」

「いや? 親父さんが殺された時間帯のアリバイは小西にもなかった。疑いが晴れん以上は、俺も小西もまだ容疑者止まりだな」

「……容疑者になりたいの?」

「お前の親父さんと一緒だ。全部分かるまで適当なことは言わん」

「お父さんは、仕事が終わるまで何も言わない人ってだけ。あんたと一緒にしないで」

「どうでもいいさ」

 賀茂はパワースポットめぐりマップを手にして折りたたむと、

「まだ区役所にいるだろ。小西に揺さぶりをかけてくる。ほんのちょっとでも何か分かればいいが」

 置いていかれないようにノートパソコンを畳んだ私の肩を、賀茂が押さえつけた。

「だからお前は駄目だ」

「だって、今回は関係ないでしょ? 一度会ってるんだし、私の顔を見たら全部正直に話すかも知れないじゃない」

「自分に置き換えて考えてみろ。搾取した相手の娘が目の前にいて、素直に自白するか? 余計に構えて何も話さなくなるのがオチだ。こういう時に必要なのが、第三者なんだよ」

「じ、じゃあ……私はどうしたらいいの?」

「今日はもう用もない。だが、ついてきたら追い返すだけだ。――後は自分で考えろ」

 嫌な言葉を聞いた私は賀茂を睨みつけた。でも、返す言葉はない。

 せめて何かひとこと言いたくて、逃げないでよと口を開きかけると、

「俺はこの通り、逃げも隠れもしない。信じないならここで暇を潰してろ。それじゃ行ってくる」

 私のことなんて見透かしてると言わんばかりにそう告げて、賀茂は自分のデスクにあったバッグを拾い、折りたたんだマップと印刷しておいた三十枚の地図を入れて、事務所を出ていった。

 そうして一人、取り残された私。

 自分で考えろと言われて、胸が痛くなった。

 結局、誰かに道筋を立ててもらわないと何もできない自分を再認識したから。それは、お父さんに言われた言葉と同じだった。

 やっぱり地図製作以外の勉強もしたい。測量じゃない仕事も探したい。じゃあ、早く決めろ。そう言われたけど、私には地図ぐらいしか好きなものがなかった。

 早く決めろ。でもまだ見つかってないの。私には何が向いてると思う? そう聞いた時に帰ってきた答えがその言葉だった。

「よし……」

 考えてやろう。私は必死に頭を巡らせた。

 そもそも、本当に小西さんが犯人なんだろうか。お父さんに支払うはずのお金をかすめ取ったのは事実だと思うけど、それを指摘されたからって人を殺すとは思えない。

 そもそも、測量で山登りもよくしているようなお父さんが、病気で痩せこけているような人に倒されるはずもないし。

 あの人じゃない前提で考えるべきなのかな。だから賀茂も、何か少し分かればいいとか言ってたのかも。

 じゃあ、やっぱり賀茂なの? その考えも、今は薄れてきてた。

 賀茂とお父さんの接点なんてないし、小西さんの調査でアリバイが出たらまた唯一の容疑者になると分かってて、私と一緒に捜査するわけない。

 他の人に容疑をなすりつけるつもりなら別だけど、あくまで賀茂は自分がやった可能性もあると言っていた。

 小西さんでも賀茂でもないとしたら? 他に思い当たる人はいなかった。

 もう一度、最初から考え直してみたほうがいいのかも知れない。私はまたノートパソコンを開いて地図をもう一度確認した。

 お父さんを殺した犯人がいると思ったのは、地図にあった千駄木あたりの道路の線が書き直されたり、少しずれていたから。

 最初はソフトの使い方に慣れていないからなんだと思ったけど、正式な仕事として請け負った作業をお父さんが中途半端な状態で納品するはずがないと思ったから。

 下敷きにしたのは区からもらった道路地図。これはおかしなところはなかった。

 次は吹き出しの中に書かれたテキストを一つ一つ見ていく。何かヒントがあるかも知れないと思って、三十あるファイルを一つずつ、全部のスポットを舐めるようにしてチェックした。英文も併記されていたから、賀茂の机にあったLANケーブルをつないでインターネットの翻訳サイトで変換しながら確認する。

 これも無駄に時間がかかっただけで、特にめぼしい手がかりは得られなかった。

 納品した版とお父さんが作り続けた版の差をチェックする。五つのお寺と神社の説明が若干変わっていた程度だった。南泉寺にあったトラップストリートも一緒。

 そこで私は思いついた。トラップストリートも一つだけとは限らないということを。

 気づかれたら直されて終わり。私はネットで同じエリアの地図を検索して印刷すると、最初の版から道路地図の差分を見つけて回った。

「出てきた……」

 トラップストリートは全部で三つだった。

 一つは南泉寺のもの。もう一つは谷中霊園を水平に通っている小道。最後の一つは、日本美術院の建物を貫いている道路。

 この三種類は途中から存在してて、組み合わせることによっていつの版か分かるようにしてたみたいだった。

 パワースポットの説明は観光課で微修正するという話があったのかもしれない。だからこそ、いつの版が使われたか分かるように道路地図にトラップストリートを仕込んだんだ。

 あとはこの意味が何なのかを調べなきゃいけない。

 それぞれの建物の頭文字をつなげてみたけど、何の言葉にもならなそうだった。

 その場所に意味があるのかも。そう思った私は、それぞれの建物について由来とか事件がなかったかをネットで調べてみた。

 南泉寺は戦国時代からある古いお寺で、当時は色々あったんだろうけど、最近の話は特に何も見つからなかった。

 谷中霊園には有名な作家や政治家、大名のお墓もあって、昭和三十年代には心中事件で火事もあったらしいけど、それだけ。最近のニュースはなかった。

 日本美術院も有名な美術家たちが集まった場所みたいだけど、めぼしい情報はゼロ。

 ガタンという音がして事務所のドアが突然開く。びっくりして振り返ると、入ってきたのはレジ袋を手にした賀茂だった。

「いきなり入ってこないでよ……」

「俺の職場で誰に気を使う必要がある? それより、お前はずっとここで地図見てたのか」

 はっとして壁掛け時計を見上げると、午後六時を回ってるところだった。

 もう五時間ぐらいずっと調べていたことになる。どうりで疲れたはず。

「その顔だと、何も進展はないようだな」

 トラップストリートが二本増えただけで、確かに何も進展してない。

「そうよ。そっちは? 小西さんのアリバイはあったの?」

「まあ、そうせっつくな。俺も一息つく。お前もどうだ?」

 そう言いながら賀茂は自分の席に向かって椅子にどかんと腰を下ろすと、レジ袋の中身を机の上にぶちまけた。

 その中にあったペットボトルとお菓子を投げてよこす。

「食べ物を投げないでよ……って、何これ……」

 ジンジャーエール牛乳って書かれたラベルのペットボトルに、緑と黒のコントラストが気持ち悪い包装のわさびチョコ。

 はっとして賀茂の手元にあるのを見たら、ドリアンコーヒーの缶に青虫クッキーとデスソースあんみつ、タイや味グミのお菓子。

 この人の舌はおかしい。私は息を呑んだ。

「そのクッキー……本物を焼いてるんじゃないでしょうね」

「当たり前だろ。粉末にしたのを混ぜてるだけだ」

 私は口を押さえて目を背けた。見たくもない。

「何でそういうチョイスなのよ……もっとまともなもの食べればいいのに……」

 すると、賀茂は今まで見たことないぐらい真面目な目で私を見つめてきた。

「いいか? 人は体を選べない。子も親を選べない。親からもらった俺の舌がそれを欲してる。それだけだ」

 カッコよさげに言ったけど、ただの味覚オンチが遺伝しただけじゃない。

「で、何が分かったのよ」

「お前もそれを食いながら聞け」

 確かに喉が乾いていた。だけど、今から何か買ってくる気力もない。

 死ぬような原材料は入ってない……よね。私は意を決して、ジンジャーエール牛乳の蓋を開けて一口つけた。

「あ……意外とおいしいかも」

 ほんのり甘くて、市販の乳酸飲料みたいな味が口の中に広がった。疲れている時にはちょうどいい味だ。

「冒険しなきゃ得られない味もあるってこった」

 賀茂がドリアンコーヒーを飲みながら話を始める。

「……うん、これはまずい。でだ、小西のアリバイについて調べた。あいつの同僚といきつけの店、よく行くパチスロ屋、風俗。それで分かったが、あいつはシロだった」

「アリバイがあったの? ないって言ってたけど」

「公にはできないアリバイがあったってことだ」

 賀茂が青虫クッキーを開けたから、私は目を逸らした。

「親父さんの死亡推定時刻に、あいつは人と一緒だった。相手はお前より三つ年下の女。いわゆる女子高生だ」

「それって……」

「買春だな。区にはまだバレてないが、同僚はトラブルを知ってた。相手をした女は五万で約束したはずが、小西は二万しか払わなかったそうだ」

 また半分以上のクセだ。

「一年前にその女が区役所に小西宛てで訪ねてきて、騒ぎになったんだと」

 それは確かに、堂々とアリバイがあると言えない理由だわ。それにしても、あの人はどこまでいってもクズな人なんだと再認識した。

「念のため相手を探して話を聞いてみたが、日付ははっきりと覚えてたな。常連になることで和解したらしい。あやうく俺も二万払うところだったが」

「情報料?」

「サービス料としてだ。さすがに真っ昼間から風俗店のドアを開けるのは気が滅入った。あの男のプレイを聞くのも」

 人のそんな話なんて確かに聞きたくない。

「あいつの実家からも距離はあるし、女の言った時間が少し前後したところで犯行は難しいだろうな。仮にその証言が嘘だとしても、値切ってトラブルにさせる意味もない。だからシロだ」

「そうなると……やっぱり、あんたが犯人ってことじゃない」

「まあ、他に容疑者がいないならそうなるな。俺が親父さんを殺したんだろ、きっと」

 表情を変えずにそう言いながら青虫クッキーを食べ終えると、今度はタイヤ味グミを開けて頬張った。私はわさびチョコ。これはまずい。甘くて辛い。カレーに隠し味ではちみつとかお砂糖を入れるとおいしくなるのに、これはどうしたことか。

「で……やったの? やってないの?」

「さあな。分からん」

 どうしてこの人はやってないって言わないんだろう。

 容疑者になりたいの? 私に恨まれるだけでメリットなんか一つもないのに。

「もう一つ分からんことがある。お前は親父さんが殺された恨みを晴らしたいのか? それとも、お前自身の気持ちの整理をつけたいだけなのか?」

 そう問われて、私はわさびチョコの袋を机の上に置いた。何を聞きたいか分かったから。

「どっちでも一緒でしょ」

「親父さんの仇討ちなのに、親父さんと仲が悪かったらしいな。あんなヤツ呼ばわりしてたから一方的に嫌ってたんだろう。何故だ? 少なくとも、お前の実の親なんだ。どうして悪し様に言う?」

「そんなの、どうでもいいじゃない」

「いや? 仮にお前が親父さんを憎んでたとしたら、それが動機になることぐらい想像つくだろ? ってことは、お前も容疑者の仲間入りだ」

「なっ……」

「死亡推定時刻に、母親は病院で治療を受けてたらしいが、お前はその見舞いを終えてマンションに戻ってた。一人だっただろ? 警察は犯行の手口から身内の犯行じゃないと断定して容疑者リストからお前を外したらしいが、俺は違う」

 私は目を見開いて、賀茂の顔を見つめてしまった。

 最初から私が真犯人だと思って行動してた。だから自分が容疑者になっても全然余裕だったんだ。

「さて、聞こうか。なぜ憎んでた?」

「憎んでなんかない」

 でも、賀茂は確信した目で私を見据えてくる。

「じゃあ殺したのか?」

「殺してなんかない」

「……分からんな。どうしてあいつ呼ばわりなんだ? 何もなきゃ、そうは呼ばんだろ」

「そんなこと……ない」

「歯切れが悪いな」

 賀茂がふっと笑う。

「本当は親父さんの死なんて、どうでも良かったんじゃないか? いなくなれとでも思ってたんだろ?」

 私は答えることができなかった。そう思ってた時期があったからだ。

「なら、死んでも構わなかったんだろ? むしろ本望だったはずだ」

「だから、違うって!」

 苛ついて、思わず机を叩いてしまった。

「なら、なぜこのタイミングなんだ? 一年半も経ったこの時に? やることがなくなったからか? 何も決めてなかったんだろ? そんな程度だったからだな?」

「そうよ! それのどこが悪いの!?」

 怒鳴った自分の声の大きさに、私は驚いてしまった。

「何が嫌だったんだ? 親父さんのどこが――」

「そうやって人の心をえぐってくるからよ!」

 言ってしまった。

 でも、もう止まらない。

「何でもそう! 目標を立てて進め、先を見通せ、何が正しいかを常に考えて動け、社会に貢献できる仕事に就け。そんなの分からないじゃない!」

 バカがつくぐらい真面目で、正しいことのために動く人。

 特に取り柄もないしやりたいことの見つからない私に、自分で考えろと言い放ったお父さん。

 何度考えても分からずに聞いたら、そう言って迫ってきた。

「十六歳の子供に対して言うこと? そんなの毎日聞かされたら嫌んなるでしょ? 二年の頃にはもう口も効かなくなって、だから家を出てったのよ。自分が全部正しい人と一緒に生活するのが、どんなにきつかったか、分かる?」

「さあな」

 賀茂がニヤリと笑う。

「だが、親父さんは正しかった。適当に見つけたイラストレーターの道はどうだった? お前に合ってなかっただろ?」

 また図星を指された私は、歯噛みした。

 実際、お母さんにだけ電話で愚痴をこぼしたことがある。イラストレーターは向いてない。辞めて測量の道を進もうかなって。

 でも、こいつの前じゃ認めたくない。

「そんなの分からないじゃない。イラストとか漫画だって、絵の上手い下手じゃなくて、内容で感動を与えるのよ。社会に貢献だってできるでしょ? でも、そんなのじゃ駄目だって言うのよ! 可能性を潰すなんておかしいじゃない!」

「そうは思わん。絵で人の心を動かせるのは、ほんの一握りだ。お前にその才能がないと見抜いてたんだろ」

「だから、やってみないと分からないでしょ!」

「やる姿勢が見つからなかったんだろ。適当に見つけた道だからな。それも見抜いてたんだ。お前が一番好きなのは、地図制作に携わる仕事だったってことを」

 私は息を呑んだ。

「それは小さいころから……見てきたからよ。あんただって言ってたでしょ。親は選べない」

「親も、親の仕事も選べないが、自分がなりたいもの、好きになるものは選べる。お前は地図制作が好きなんだ。じゃなかったら、映像を元に地図からアタリをつけて俺を探し当てたり、トラップストリートに気づいたりしなかったはずだ。どうして素直になれなかったんだ?」

 私は歯噛みして賀茂を睨みつけた。

「正論を突きつけられて、逃げ出しただけだったんだろ? もっと自分を見つめ直せ」

 私は机を叩いて立ち上がった。

「また明日来るから! 逃げないでよ!」

 そう言い捨てて、私はノートパソコンをリュックにしまいはじめた。

「まあ、それでいい。俺もようやく目が覚めたところだ」

 何を言い出した?

「何よ。私をバカにして楽しんだって言いたいの?」

「いや。お前が本当は親父さんを尊敬してたことが分かったってこった。つまり、殺してない」

「……っ!」

「それにな。お前が俺を殺しにこなかったら、分からなかったことが山ほどあったことも分かった。まあいい。また明日来い。逃げるなよ?」

 そう言って笑う賀茂。

「あんたこそ逃げないでよね! 包丁持ってくるから!」

「おー、こわ」

 そんな煽り文句を背中に受けながら、私は勢い良く事務所のドアを開けて出ていった。

 エレベーターで一階に降りると、とにかく離れたくて少し駆け足で駅へと向かった。

 夕暮れ間近のオレンジ色をした街には人がたくさんいた。

 友達と話しながら帰る制服姿の高校生たち。サラリーマンの人たちは四、五人で、どこで飲もうかお喋りしながら歩いてる。

 小学生の子供を後ろに乗せたお母さんが、今日の晩ごはんを話しながらさっそうと自転車で通り過ぎていく。

 私は一人ぼっちだった。

 何か気分転換したい。

 心の底から楽しんで、全部、何もかも見透かしたような賀茂のあの顔を忘れたかった。

 でも、私は他の子と違っておいしいものにも興味がなかったし、遊び歩くにしてもその知識がなかった。

 賀茂を殺して逃げるつもりだったから友達には連絡をしないようにしてたし、電話したところで何を話していいかも分からない。

 家に帰ったところでスマホゲームもやらないし、テレビも売ったから見るものもない。

 そもそも、キャリーバッグと布団だけの部屋でできることは、ストレッチぐらいしかなかった。

 結局、そのまま寝ちゃおうと考えた私は、途中のコンビニでお弁当を買って帰ると、それを食べてふて寝した。


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