【Ⅴ】刷り込み
【第1章5話】
穏やかに優しい笑顔でヨシュアを抱きしめてくれたのはビクター老人だった。毎日ヨシュアに希望や夢、愛を語りかけてくれた。だが、ヨシュアの顔から笑顔は消えていた。ナチスからのマインドコントロールと最後にはあの残酷な思い出が10歳の少年の中の何かを壊してしまっていた。
「うわーーー!!」
よくヨシュアは、夜中になって悪夢をみた。ローソクだけの明かりが灯る暗い部屋に黒いマスクを被った男がひとり。そのマスクの顔面には大きな赤い卍のマークがあり、ヨシュアに近づくこうとするとヨシュアは恐怖を感じて叫ぶのだった。ビクター老人はそのつどヨシュアを抱きしめ
「大丈夫だよ。もう何も心配することはない。大丈夫なんだよ。」
と、ヨシュアの心に暗示をかけるように言い続けた。イスラエルに来たばかりの頃はそんなビクター老人の腕などを掻き毟りケガもさせたが、ビクターは気にせず抱きしめ続けるのだった。
そんな悪夢をみた時は体の体調も悪く、頭が霞がかっているようになるので、ヨシュアはよく家の玄関先で座りこんでイスラエルの町の人々を観察するようにジーッとみていた。そんな時隣の家に住んでいた汚れた人形を持った女の子がヨシュアに近づいてきた。
「ねー何をみてるの?」
「・・・・。」
ヨシュアは女の子が何度か声をかけてもまったく反応せずにずっと同じ方向をみつめているだけだった。女の子の名前はディナといった。ディナは毎日、ヨシュアの隣に座って何も返事もしないヨシュアに対してずっと話しかけてくれていた。そんな姿をみていたビクター老人は微笑んだ。
「ありがとうね。ディナ。」
と、優しく声をかけるのだった。ディナがめずらしくいなかった。ヨシュアは自然とディナを座りながら目で探していた。今日はディナは出掛けているとおもってあきらめていると、急にディナが家の横から両手をうしろにして出てきた。そして、その両手を前に出した。ディナが持っていたのは子犬だった。
「うわ!!」
急に生き物を目の前に出されたヨシュアは声を出した。
「きゃはッ。ヨシュアが声出した。」
と、ものすごく笑ったディナの顔を見て
ヨシュアも笑った。さらに子犬はヨシュアの顔を舐めるのを見て二人は一緒に笑った。すると、ヨシュアは笑っているのに目から涙が溢れだした。ディナは驚いて
「どうしたの!?子犬が怖かったの?・・・ごめんね・・・」
と、心配そうに声をかけた。
「ううん。違うんだ。違うんだよ・・・」
ヨシュアはどうして涙が出るのか自分でも分からずに三角座りのひざに顔を隠して動かなくなった。ディナは黙ってヨシュアの頭を心配そうに撫でる事しかできなかった。
めずらしく笑い声が聞こえたので様子を見ていたビクター老人の目にも涙がこぼれるのだった。
戦争という争いの中で深い傷を負わされた人間にもまた笑いは戻るものだと教えられる。人間の中には善と悪がいりまじり、ある時は悪がある時は善が出てくる。善の方が強いのだと信じる心こそが動物とは違い人間だけが持っている良心があるのだという証拠だろう。
【第1章5話】完