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夜とお江戸と言い伝え 【粉雪姫と泉の女神様】

作者: 琵琶法師

其れは、三百年の大昔。

日本国にっぽんこくを見下ろした星が語るは、静かで不思議な星月夜、深い深い冬の森でのおはなしです。


雪に濡れた空気と、独特な森の匂い。ふくろうの声は、儚く暗闇に溶けて行きました。

夜の空気に冷える泉に、僅かに踊るは浮かぶ花と葉、銀鱗ぎんうろこ


雲の切れ目を覗く夜空には星が散らされ、照らされる夜の森には優雅な暗さが覗きます。


中でも差し込む星の光を反照はんしょうする泉は特に輝き、煌めく水面は風が吹くたびさざなみ立って、光はゆらゆら舞いました。宝石箱が光を受け輝いているようにも見えます。


不思議な事に、辺りが闇が溶けても泉はだけは何時どんな時でも光り輝いていました。


淡く柔らかい光を反射する、夜空を切り取ったようなその泉。

はらりと舞い散る粉雪は水面に触れるとふっと溶け、まるで幻の様に泉の中へと飲み込まれて行きます。


そんな、静かで麗しい夜の森。其処に、珍しい事に客人がやって参りました。


泉へ続く僅かな沢を辿り、必死に闇を掻き分け進んでいます。

珍しい。客人は未だ幼くか弱い少女でした。ふらふら霞む足取りは危うく、頼りないです。

どうやら、泉を目指して歩いているようですね……。 


仄かに舞い落ちる粉雪が、彼女の体を残酷に降り積もります。

泥だらけの着物はぐっしょりと濡れ、着物から見える白い体は冷たい雫が滴り震えていました。

桜色の筈の肌は藍白あいじろ色で、悴んで感覚さえありません。

粉雪のように儚い少女です。恐らく、触れるだけで消えて仕舞うでしょう。


「はぁ、ふぅ……ぜぇ……ひゅう、はぁ……」


荒い息は掠れ、幾ら震えても体温の上がらない体は、何時までもかたかた震え続けています。

少女の瞳に涙が滲み、頬を滑り落ちました。なんと哀れで痛ましい少女でしょう。


何とか無事にその少女は、輝く泉の側に辿り着くことが出来ました。

その瞬間、ほっとしたのでしょう。足がもつれ、倒れこんで仕舞いました。

見れば体は傷だらけで、所々血が流れています。


「はぁ……げほっ……はぁ」


咽せつつ、立ち上がろうする少女の顔が強張りました。

疲労の所為か寒さの所為か、足が動かないようです。

幾ら力を入れども、唯がくがく震えるだけの己の足に少女の顔が、泣きそうに歪みました。


泉はもう目と鼻の先なのに、如何して此処で転んでしまったのでしょう。


……けれど。なんと少女は其の儘の体勢で、泉の縁へと這っているでは有りませんか!何という執念でしょう。

その白く細い腕を必死に伸ばし、水面から水を掬い、口を付け懸命に飲み干しました。


「んっ、んっ、んん……」


喉を潤したせいか、それとも他の理由でしょうか。兎に角少女はその水を飲み、不思議と元気が出たようです。

僅かに桃掛かった白い体を懸命に持ち上げ、泉のふちに正座しました。その拍子に姿が水面に映ります。


水面に映った少女の姿は、それはそれは綺麗な姿でした。


黒く乱れた緑髪りょくはつは、星の明かりに輝いて、美しいお武家の姫かと思う程、雅やかな気品を感じさせました。

白く雪の如き肌は、泉の光を反照し、粉雪を散らした様に煌めいて、見つめる瞳は澄んでいました。

紅く湿った唇は、可憐なのにも関わらず、己さえ噛み殺さんと噛み締めて、思い詰めた意思が感じられます。


眩いばかりに美しいですが、何か覚悟めいたものを感じる不思議な少女です。


「泉の女神様。私の願いを聞いて下さい」


ふと、噛み締めた唇から、祝詞が小さく溢れました。

どうやら少女は、泉に祈るため遠路遥々過酷な道を遣って来た様です。


「私のお姉ちゃんはずっと前に、吉原に売られてしまいました」


吉原、それは女が春を売る所。

哀れ、少女の姉は其処で身を売り独りきり、その若き身で男の相手をして居るそうです。


「お姉ちゃん、何時も凄く辛そうでした。叔父ちゃんが渡してくれる手紙には、たくさんたくさん、悲しいよ、辛いよって書いてありました」


それはそうでしょう。うら若き少女に、吉原はあまりにも過酷です。好きでもない男と愛を交わし、愛する家族とは言葉すら交わせない。不安で堪らないでしょう。恋に恋する年頃なら尚の事です。


「でも、私が代わりに働く、と書いたら決まって私が頑張るからいいよ、って書くんです。優しい、大好きなお姉ちゃんなんです……っ」


僅かに声が震えました。どうやら、泣くのを堪えている様です。


「そして、この前、何時もより長い手紙が届きました……」


少女の目から涙が溢れ、乗り出した頬から泉へ落ちました。


「手紙には、お姉ちゃんを助けてくれる男の人のことが書いてありました。お姉ちゃんと男の人は好き合っていて、次の新月の夜に吉原から逃げ出す手伝いをして呉れるんだそうです」


遊女が逃げる事、すなわち『足抜け』でしょう。少女の姉は吉原の暮らしに耐えかねて、客の手引きで逃げ出す事にしたのです。ですが……


「でも……、叔父ちゃんが言ってました。足抜けって云うのはとっても難しくて大抵失敗しちゃうんだって、捕まって酷い目に遭わされちゃうんだ、って」


はい。見張りも厳しい上に周囲は複雑で、その上捕まれば、辛く苦しい拷問がその体を襲うのです。本当に死んでしまう女も幾人か居ました。


「でも、私、吉原なんて入れて貰えないし、手紙も間に合いません……私には、お姉ちゃんを助けることも、止めることさえもできないんですっ……!」


ボロボロと涙は頬を伝い、水面に無数の波紋を描きます。合わせた小さな手は己への憤りで震えていました。


「お姉ちゃんは、私たちの為に頑張ってくれてたのに……私、お姉ちゃんがいなかったらもうとっくに飢え死にしてたのに、全部全部お姉ちゃんのお陰なんです。なのに……お姉ちゃん……お姉ちゃん……!!」


歪んで震える唇からは嗚咽が、瞳からは涙が止めなく泉へ溢れ落ちて行きます。

少女の視界は雫に覆われ滲み、それでも手は一層強く合わせられました。


「お願いします、泉の女神様。私の代わりに、お姉ちゃんを助けて下さい!」


そう言うと少女は、懐から小さな巾着袋を取り出しました。今にもはち切れそうな、粗末な造りです。


「これ……少ないけど、私の全財産です。私、色んな人に頼み込んで働かせて貰ったんです。一杯一杯働きました。辛いことも嫌なことも、お姉ちゃんの為なら何だって出来ます。私、何だってします!」


ぼちゃぼちゃぼちゃ!と泉に中身を落としました。鈍い色が水面を波立たせ、吸い込まれて行きます。色から察すると、正体は沢山の銭のようです。


「だから、如何か女神様、お願いします!お姉ちゃんを……お姉ちゃん……と……」


ですが、その続きが言われることは有りませんでした。

今までの疲労が祟り、少女は意識を失い、粉雪と共に泉の底へ飲み込まれ、消えて仕舞ったのです。


この泉に宿ると云う泉の女神は、その献身を、その思いを飲み込み如何感じたのでしょう。

しかし其れは神のみぞ知る事。水面は銭と少女に揺らめいて……、やがて、まるで幻だったとでも言うように、ふっと闇に溶けて行きました。雲に隠れた星明かり。星の瞬きはきゅっと口を結んで、息を潜めているようです。黙りこくって、何も照らしません。



後に残るは、夜の闇。ずしりと重いその闇だけが日本国に伸し掛かります。




翌日、少女は家に帰って来ませんでした。屹度きっと、もう二度と帰って来ないでしょう。


吉原では一人の遊女が足抜けしたと、密かな噂が立って降ります。なんでも、余りの暗闇で逃してしまったとか。それは、大層、運の良い事で……。

客の一人が花魁に、走る“三人の親子”を見たとささやいておりましたが……さてさて、それは酒の入った酔い話。真相は定かでは、御座いません。


水面に消える粉雪か、闇夜に溶ける梟か、何れも落ち行く涙の様で。夢か現か幻か、銭も祈りも親子さえ、何処かへ消えて行きました。 

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[一言] 作者が琵琶法師っていうのは意味あるんですか?
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