1.ヒロインに命を助けられたので主人公やめられません
主人公になって三年が経った頃、主人公をやめたいと思った。
もう痛い思いは十分にしたし、辛い思いもした。何より、主人公になったからといって恋人ができたりもせず、いいことなどないと気づいたからだ。
――それなのに。
またヒロインを一人、助けてしまった。
「はぁ……」
自分のお人好しにため息が出た。全身にできた傷に冬の風がしみる。この痛みと疲労感に「やめときゃよかった」と思うのはいったい何度目だったろう。
「ありがとう、渉。この恩は忘れないよ」
金髪碧眼のヒロインが俺に頭を下げる。どうせすぐ忘れるくせに、と心のなかで呟きながらも笑顔を取り繕う。
ヒロインは顔を上げると、
「きっと、またいつか会いに来るから」
と俺に微笑みかける。同じようなセリフを今まで何度となく聞いてきたが、実際に会いに来てくれたヒロインは今まで一人もいない。これが社交辞令というものか、と感じるようになったのは自分が大人になったからだろうか、それともずるくなっただけだろうか。
この微笑みもきっと嘘だ。美しい顔立ちでの微笑は普通なら魅力的に感じるのだろうが、俺にはもう、ビニールでできた食品サンプルみたいにしか見えない。
心のなかで一通り愚痴りながら、光に包まれて姿を消したヒロインを見送ったあと、
「はぁ……」
またため息をついた。
だいたいヒロインというのはいつも無責任だ。可愛ければそれだけで主人公が助けてくれると思っている。それで助けてくれなければ泣きつけばいいと思っている。
そして俺の方もそれをわかっていて助けてしまうからたちが悪い。
だからヒロインはみんなほんの少しの感謝の言葉と社交辞令だけで俺の前から姿を消すのだ。なんのお礼もする気などない。 俺はいいように使われているだけだ。
ヒロインとはそういう生き物で、そしてそれを無条件に助けてしまうのが俺たち主人公という生き物なのである。
帰って豆乳でも飲もう、と思いながら歩み出そうとして、
「つっ!」
右膝の関節が悲鳴を上げる。激痛に涙が出そうになった。
「ほんと、俺って何やってんだろうな」
得るもののない戦いに体と精神を磨り減らし、ぼろぼろになって日常に帰る。主人公だからそれもだいたい一晩寝れば治るが、俺だって痛いのは嫌いだ。
昼下がりの空の青さは俺をバカにしているかのように明るく、けれどそれに怒りを覚える気力さえもなかった。
右膝を庇いながら塀に沿って、また一歩ずつ踏み出していく。
主人公なんていいもんじゃない。今の俺を見て誰がカッコいいと思うだろうか。
「おっ、渉じゃねぇか」
自転車のブレーキ音とともに、横から声がした。
「よ、よう、一真……」
見ていると羨ましくなるこの爽やかなイケメン、小野寺一真は俺のクラスメートで、小学校の頃からの親友だ。
「どうした、また派手に転んだか?」
「おう……」
彼が満身創痍の俺を見ても驚かないのは、俺がいつも「よく派手に転ぶ」と言って戦いの傷を誤魔化してきたからである。初めのうちはそれでも俺を心配していたが、そのうち慣れたらしく、このようにほとんど気に留めなくなっていた。
「ハハハ、相変わらずドジだな!」
一真が笑うので、俺も笑った。
全くだよ、ドジだ、自分の不幸を呪わずにはいられないね。
「じゃ、また今度遊ぼうぜ」
そう言い残し、一真は颯爽と自転車で去っていった。
さあ、帰ろう――と思った刹那、突然、左脚の膝の力が抜けて、俺は路面に倒れ込んだ。
(――冷たい)
一月の路面は、ゾッとするぐらい冷たかった。
立ち上がろうとするが、体がいうことを聞かない。
「……今回、ちょっとドジりすぎたかな」
少し首を動かすと、自分を中心に血溜まりができていた。死ぬのかな、と思った。
ヒロインたちに散々に使われて、冷たい路面に打ち捨てられて。これが俺の末路なら、酷すぎる物語の幕引きだ。
悔しい、とは思ったが、不思議と涙は出ず、むしろ笑えてきた。
「本当に、俺ってドジだな――」
しだいに沈んでいくように眠気が来て、抗えず、ゆっくりと目を閉じる。
その時、白い影が俺を覗き込んだような気がしたが、
(幽霊、かな――)
考える余裕はなく、そのまま俺は意識を手放した。
気がつくと、そこは冷たい床の上だった。
(……?)
目を開けると、薄暗かったが、目の前には段ボールがあった。
首を動かしてみると、至るところに段ボールが積まれ、床も壁も薄汚れたコンクリートに覆われた場所だと分かった。どこかの倉庫だろうか。
死んだのだろうか、とも思ったが、死後の世界にしてはやけに殺風景というか――そもそも死後の世界で段ボールなんて置いているものだろうか?
寝たままではよくわからない。周囲の状況を確かめるため、俺は無理に体を起こそうとして、
「痛っ! ……くない。あれ?」
体の痛みがすっかり消えていることに気づいた。
見ると、全身の傷は一つもない。一晩経ったのだろうか、とも思ったが、それにしてもおかしい。いくら俺が主人公でも、あれは一晩で治る傷の量ではなかったはずだ。
夢だったのだろうか? いや、それならどうして俺はこんなところに、と思ったその時、段ボールの陰に気配を感じて、全身が粟立つ。
――何かがいる。
人だろうか? いや、こんなところに人がいるとは考えにくい。とにかく、確認しておこうと思った。
いざというときのために、全身がそれぞれちゃんと動くかをもう一度確認したあと、ゆっくりとその気配の方へと近づいていく。
気配が近い。深呼吸をしたあと、段ボールの陰からゆっくりと顔だけを出して覗き込み――
「!」
息を呑んだ。
月明かりに照らされた一角、その中心にあったのは、輝いて見えるほどに白い着物を身にまとい、床に身を横たえる黒髪の少女の姿だった。
その様子は、どこか神秘的でさえある。
「……寝てる?」
耳を澄ますと、微かな寝息が聞こえていた。
(いや、油断してはダメだ。まだ何があるかわからない)
そう思って後退りしたその時、右足の踵が何かに当たった。
「あ――」
嫌な予感に、再び息を呑む。すぐに振り返るが、もう遅かった。俺の後ろに積まれた段ボールはぐらり、と大きく揺れ、バランスを失い――止めるすべもなく、派手な音を立てて崩れた。
オーマイガッ、と叫びたい気持ちを抑える。下手に声を出しては、少女が目を覚ま――
「んっ……」
少女の小さな声が聞こえて、心臓が口から飛び出るかと思った。
ゆっくりとそちらを見る。身を起こし、片目を擦っていた少女と目が合った。
少女はこちらを見つめたまま、髪に指を通し、髪を舞わせる。ふわり、と黒髪が宙を漂った。月明かりを反射して煌めくその艶やかな髪の美しさは、ちょうど今広がっているであろう冬の星空を連想させた。
俺が思わずため息をつきそうになったその時、
「気が付いたんだね」
少女が微笑んだ。
「君、は……?」
俺は警戒するのを忘れず、退路を確認しながら、問う。
すると少女はすくっ、と立ち上がった。
「あなたの命の恩人、だよ」
こちらを指差し、再び微笑む。愛嬌のある笑みに、俺の警戒心が少しずつほぐされてしまうような気がした。
「命の、恩人?」
ゆっくりと構えを解きながら、問う。
「そうだよ、日高渉」
少女が口にしたのは、俺の名前だった。
(俺の名前を知っている……?)
俺は再び身構えようとした。
「ふふっ、警戒しないで。私は白のヒロイン『白灰の白雪』、ミユキ」
ミユキと名乗った少女は、変わらず微笑んでいた。
「白のヒロイン……?」
首をかしげる。俺は何人ものヒロインに出会ってきたが、自分のことを「ヒロイン」と呼んだヒロインは初めてだった。
「おかしいと思わなかった? あなたの能力『主人公補正』でも治しきれないはずの怪我がきれいに治っていたことを」
俺は驚愕し、後退る。転がっていた段ボールの一つに踵が当たった。
少女は俺の名前だけでなく、能力まで知っている。今まで俺の前に現れたヒロインたちはみな偶然俺の前に現れていたが、ミユキは初めから俺を探していたとでもいうのだろうか? だとしたら――
「君は、いったい」
問おうとしたとき、ふわり、と少女の両手から、白い光の粒子が舞う。雪のように見えた。その光の粒子の一つがこちらへと漂ってきて、俺の手に触れる。それは、見た目とは裏腹に暖かかったが、しばらくすると、光が弱まり、消えてしまった。
ミユキは答える。
「私はあなたの、ヒロイン」
そう言ったミユキは、やっぱり微笑んでいた。その愛らしさには、どこか心惹かれるものがある。
そういえば――ヒロインを救うことはあっても、ヒロインに救われたのは、いつぶりだろうか、と思った。
「それでね、助けた代わり、なんて言うと変だけど――あなたに、お願いがあるの」
そう言って、ミユキは目を伏せる。その先に続く言葉は分かっていた。
「私を、助けて」
どうやら俺は当分、主人公をやめられないらしい。