君と見た夕焼けは赤かった
雨は、もう十年以上「うるさい」と言われていなかった。
都市全域の気候制御システムによって調整された降雨は、一定の音量を超えない。窓を叩く強さも、排水量も、通行への支障も全て管理されている。
だから誰も、雨に苛立たない。
二〇九八年。
第三区統合学園・二年A組。
始業十分前の教室には、既に全員が揃っていた。
私語は少ない。
しかし、それは校則による沈黙ではなかった。
話す必要が無いだけだ。
生徒達は各々、机上に展開された半透明の情報端末を眺めている。課題確認。健康状態の自動送信。進路適正AIから提示される推奨職業の閲覧。
誰かが誰かに話しかける事はほとんど無い。
必要があれば話す。
必要が無ければ話さない。
それが現在の社会で最も合理的なコミュニケーションとされていた。
教室後方の窓際。
霧島悠真は、降雨量グラフを眺めながらぼんやり外を見ていた。
灰色の空。
規格化された高層住宅。
遠くを走る無人輸送レール。
いつも通りの朝だった。
「霧島」
担任の声。
悠真は視線だけを向ける。
「転入生のサポート担当を依頼する」
「了解しました」
断る理由は無い。
担任もそれ以上は言わなかった。
感情抑制処置が一般化された現代では、教師が生徒の機嫌を窺う必要も、生徒が不満を態度に出す必要も無い。
会話は簡潔だった。
教室前方の電子掲示板に、新しい名前が表示される。
【朝比奈 澪】
その瞬間も、教室の空気は変わらない。
興味を示す者はいなかった。
転入など珍しい事ではない。
悠真も特に何も思わなかった。
ただ、担任が次に言った一言だけは、教室内に微かな沈黙を作った。
「国外居住者だ。情動制御処置は未適用」
数人が顔を上げた。
それだけだった。
ざわめきは起きない。
誰も表情を変えない。
だが、“処置未適用”という単語は、教室内にわずかな異物感を落とした。
現代において、情動制御処置を受けていない人間は珍しい。
特に先進区域では。
担任がドアへ視線を向ける。
「入れ」
扉が開く。
その瞬間、悠真は初めて理解できない感覚を覚えた。
入ってきた少女は、周囲を見回していた。
不必要なほど大きく。
落ち着きなく。
視線が動く。
表情が動く。
感情が、顔に出ている。
悠真は無意識に瞬きをした。
少女は教壇横まで来ると、教室を見て言った。
「……静かすぎない?」
教室は沈黙したままだった。
少女は困ったように眉を寄せる。
その動きさえ、悠真には妙に不自然に見えた。
まるで映像データの中の旧時代人類を見ているようだった。
「朝比奈澪です。よろしく」
言い終えると、少女は小さく笑った。
口角が上がる。
目元が細くなる。
頬が僅かに緩む。
その瞬間。
悠真は、自分の視線が彼女から外せなくなっている事に気付いた。
理由は分からなかった。
ただ一つだけ、理解できる事があった。
教室の風景に。
彼女だけが、あまりにも馴染んでいなかった。
ホームルーム終了後、生徒達は一斉に立ち上がった。
だが、教室は静かなままだった。
椅子の引かれる音。
端末を閉じる音。
鞄を持つ音。
それだけが整然と重なる。
誰かが転校生に話しかける事もない。
朝比奈澪は、その光景を数秒見回した後、小さく息を吐いた。
「……マジなんだ」
その呟きを、悠真は偶然聞いていた。
「霧島」
担任が呼ぶ。
「案内を」
「了解しました」
悠真は席を立った。
澪がこちらを見る。
目が合った瞬間、彼女の表情が変わる。
笑った、のだと思う。
「よろしく。えっと……」
「霧島悠真です」
「じゃあ悠真でいい?」
悠真は一瞬返答に迷った。
現代では名前を省略する文化は薄れている。
識別コードとしての氏名が一般的で、親密性を示す呼称変化はあまり行われない。
「……好きにしてください」
「変なの」
澪はそう言って肩を揺らした。
悠真は少し考える。
今の反応は何だろう。
音声記録から感情推定を行うAI教材では、似た動作を「笑う」と分類していた気がする。
しかし実際に目の前で見ると、妙に落ち着かなかった。
廊下へ出る。
白い照明。
無機質な壁。
一定間隔で配置された植物型空気清浄機。
生徒達は互いに距離を保ち、必要最低限の接触だけで移動している。
澪は周囲を見回しながら歩いていた。
「ねぇ」
「何ですか」
「みんな友達とかいないの?」
悠真は質問の意図を理解するのに少し時間がかかった。
「友人関係は存在します」
「いや、そういうデータみたいな答えじゃなくて」
澪は立ち止まる。
「昼休みに集まって話したりとか、放課後遊びに行ったりとか」
「必要性がありません」
即答だった。
澪は目を丸くする。
また表情が動いた。
「必要性……」
「交流行為はオンライン空間で十分代替可能です。現在の対人ストレス率低下にも貢献しています」
「それ、楽しいの?」
悠真はまた沈黙した。
楽しい。
その単語の意味は知っている。
だが実感として理解した事は無かった。
「比較対象が存在しないので判断できません」
「なにそれ……」
澪は苦笑した。
その顔を見て、悠真はまた奇妙な感覚を覚える。
彼女は感情を隠さない。
いや、隠せないのかもしれない。
視線。
口調。
歩幅。
全部が周囲の人間と違う。
まるで教室の中に、一人だけ別の時代の人間が混ざっているようだった。
階段を下りながら、澪が窓の外を見た。
雨はまだ降っている。
「この街、灰色だね」
悠真も窓を見る。
高層ビル。
統一色の道路。
広告のない街並み。
効率化された輸送ドローン。
それは彼にとって見慣れた風景だった。
「視覚刺激による情緒負荷軽減のため、都市景観は統一されています」
「うわ、ほんとに説明書みたいに喋るんだ」
澪は呆れたように笑った。
まただ、と悠真は思った。
彼女はよく笑う。
そんなに頻繁に顔を動かして、疲れないのだろうか。
「……何?」
「いえ」
「さっきからじっと見るよね」
悠真は少し考えてから答えた。
「朝比奈さんは、表情変化が多いので」
澪はきょとんとした後、吹き出した。
「なにそれ」
声を上げて笑う。
廊下を歩いていた数人が視線だけを向けた。
責めるわけでもなく。
興味でもなく。
ただ、異音を認識したような視線だった。
その空気に気付いたのか、澪の笑い声が少し弱くなる。
彼女は周囲を見回し、小さく呟いた。
「……なんか、ロボットの群れみたい」
悠真は否定しなかった。
否定する理由が、思いつかなかったからだ。
昼休みになると、生徒達は静かに移動を始めた。
食堂へ向かう者。
個別学習室へ入る者。
自席で栄養バーを摂取する者。
行動は違っても、空気は変わらない。
雑談は少なく、笑い声も無い。
必要最低限の会話だけが点在していた。
悠真は教室後方の席で、栄養パックの封を開ける。
味覚最適化によって不快感は排除されているが、特別美味しいとも感じない。
栄養摂取に適した温度と成分。
それだけだった。
「……ほんとにそれ食べるんだ」
向かい側から声。
澪が呆れた顔で立っていた。
今日は既に何度も表情を変えている。
悠真は少し考えてから答えた。
「昼食です」
「見れば分かるって」
澪は手に持っていた包みを机へ置いた。
透明フィルムに包まれたサンドイッチ。
校内で見るには珍しい形だった。
「国外製ですか」
「母親が作った」
「……手作業で?」
「そうだけど」
澪は椅子へ座る。
周囲の生徒達が一瞬だけ視線を向け、すぐ端末へ戻った。
誰も止めない。
だが誰も混ざらない。
その距離感に、悠真は今まで疑問を持った事が無かった。
「ねぇ、悠真」
「何ですか」
「このクラスって、いつもこうなの?」
「こう、とは」
「静かすぎる」
澪はサンドイッチを一口かじる。
「前の学校なんて昼休みうるさかったよ。誰か喋って、笑って、騒いで」
「騒音は集中力低下を招きます」
「またそれ」
澪は小さく笑った。
「効率とか合理性とか、みんな同じ事しか言わない」
悠真は返答しなかった。
実際、その通りだからだ。
感情による衝突を減らし、安定した社会を維持する。
それは幼少期から教育されてきた価値観だった。
不満を持つ理由が分からない。
その時だった。
「……朝比奈さん」
教室前方の女子生徒が声を掛けた。
澪が顔を上げる。
「何?」
「笑い声は少し抑えてください」
責める口調ではない。
感情も無い。
ただ、事務的だった。
「周囲の集中維持に影響が出ます」
「……あ、ごめん」
澪は少しだけ視線を落とした。
女子生徒は軽く頷き、自席へ戻る。
それで終わりだった。
注意も。
怒気も。
悪意も。
悠真は澪を見る。
彼女はサンドイッチを見たまま動かなかった。
「朝比奈さん」
「……ねぇ」
声が重なる。
澪は少し遅れて笑った。
だが、朝とは違う。
口元だけだった。
「これ、結構きついかも」
悠真は言葉の意味を測る。
「環境に適応できませんか」
「うーん……」
澪は窓の外を見る。
灰色の空。
灰色の街。
静かな校舎。
「嫌われてる訳じゃないのは分かるんだ」
小さな声だった。
「でも、誰も私に興味ない」
悠真は答えられなかった。
興味。
その感覚自体が、彼には曖昧だった。
誰かに強く関心を持つ必要性を、今まで感じた事が無い。
だがその瞬間、不意に思う。
自分はなぜ、朝から彼女を目で追っているのだろう、と。
合理的理由は見つからなかった。
その沈黙を、澪はどう受け取ったのか。
彼女はふっと笑って立ち上がる。
「ま、いっか」
そして教室を出ていった。
自動ドアが閉まる。
再び静寂が戻る。
だが悠真は、端末画面に視線を戻せなかった。
脳裏に残っていたのは、
最後に見せた澪の表情だった。
あれはきっと。
“寂しい”という感情なのだろう。
放課後。
校舎内の照明は昼間より少し白くなる。
帰宅時間帯の集中力維持に適した色温度へ自動調整されているらしい。
悠真は個別学習室から出ると、廊下の窓越しに外を見た。
雨は止んでいた。
濡れた道路を無人車両が静かに走っている。
校門へ向かう生徒達も、ほとんど会話をしない。
必要事項だけを短く交わし、各々帰路につく。
その流れの中に、澪の姿が見えた。
彼女は一人で中庭のベンチに座っていた。
端末も見ていない。
ただ空を見上げている。
悠真は数秒迷い、そのまま階段を降りた。
近付くと、澪がこちらに気付く。
「お、優等生」
「その呼称は一般的ではありません」
「そこ否定するんだ」
澪は少し笑う。
今日は笑い方が弱い。
悠真は彼女の前で立ち止まった。
「帰宅しないんですか」
「ちょっとぼーっとしてた」
「何故ですか」
「……考え事」
悠真は隣へ座った。
その行動に、自分でも少し違和感があった。
必要性は特に無い。
だが立ち去る気にもならなかった。
しばらく沈黙が続く。
風だけが植栽を揺らしていた。
「ねぇ悠真」
「何ですか」
「この国ってさ、昔からこうだったの?」
「いいえ」
悠真は記憶を辿る。
歴史教育で学んだ内容。
「六十年前までは、情動制御処置は一般化されていませんでした」
「そんな最近なんだ」
「感情起因犯罪率の増加、情報暴力、自傷率上昇、社会的不安定化が原因とされています」
「教科書みたい」
「教科書なので」
澪が吹き出す。
少しだけ、本当に少しだけ、悠真は安心した。
何に対して安心したのかは分からない。
「……ねぇ」
澪が空を見たまま言う。
「悠真って、怒った事ある?」
質問の意味が理解できず、悠真は数秒黙った。
「記録上、幼少期に感情発露は存在しています」
「いや、記録じゃなくて」
澪は苦笑する。
「ムカついたりとか、嫌いとか、そういうの」
「ありません」
即答だった。
澪は小さく息を吐く。
「すごいね」
「一般的です」
「私からすると全然一般的じゃないけど」
また沈黙。
空が少し赤く染まり始めていた。
都市気象制御の関係で、夕焼けは薄い。
刺激を抑えた色彩設計。
その景色を眺めながら、澪がぽつりと言った。
「私、前の学校でさ」
悠真は視線を向ける。
「結構嫌われてたんだ」
「……何故ですか」
「感情的すぎるって」
澪は笑った。
だが目は笑っていなかった。
「うるさいし、空気読めないし、すぐ怒るし」
「それは改善対象では」
「ほら、そういう言い方」
澪は膝を抱える。
「こっち来れば少しは違うかなって思ったんだけどなぁ」
悠真は返答に困った。
慰め方を知らない。
そもそも、慰めるという行為自体が教育課程にほぼ存在しない。
「……ですが」
自分でも意外なほど、言葉は自然に出た。
「朝比奈さんは、他の生徒より印象に残ります」
澪が目を瞬かせる。
「それ褒めてる?」
「分かりません」
正直な答えだった。
ただ、本当にそう思った。
彼女は周囲と違う。
予測しづらい。
非合理的。
なのに、目で追ってしまう。
澪は数秒こちらを見た後、不意に笑った。
今度は少しだけ自然だった。
「……変な奴」
その言葉を聞いた瞬間。
悠真の胸の奥に、小さな違和感が生まれる。
温度のような。
圧迫感のような。
説明できない何か。
彼は無意識に、自分の胸元へ視線を落とした。
その夜、悠真は珍しく眠りが浅かった。
原因は分かっている。
朝比奈澪。
転校生。
情動制御未適用者。
脳内で整理しようとしても、彼女に関する情報だけが妙に引っ掛かる。
ベッドの上で天井を見つめながら、悠真は昼間の会話を思い返していた。
――怒った事ある?
――寂しくないの?
――楽しいの?
どれも理解しづらい質問だった。
感情は、制御すべきノイズ。
社会科でも倫理学でもそう教わってきた。
感情の暴走は人類を不安定化させる。
だから現代社会は、情動制御処置によって秩序を得た。
それで問題は解決したはずだった。
なのに。
「……印象に残る」
自分の呟きに、悠真は少し眉を寄せる。
その時、部屋のドアが軽く叩かれた。
「悠真、起きてるかい」
祖母の声だった。
「はい」
ドアが開く。
白髪の老女が、湯気の立つカップを持って入ってきた。
霧島千鶴。
現在では珍しい、“旧世代”の人間。
情動制御処置が完全普及する前に成人していた世代だった。
「珍しいねぇ、まだ起きてるなんて」
千鶴は柔らかく笑う。
悠真はその顔を見る度、少し落ち着かない気分になる。
顔の筋肉が動きすぎるのだ。
目元。
頬。
口元。
感情が、形として浮かぶ。
「何ですか、それ」
「ホットミルク」
「睡眠補助剤で十分です」
「たまにはこういうのもいいんだよ」
千鶴はベッド脇へカップを置く。
そして悠真の顔を見て、少し首を傾げた。
「何かあったのかい」
「……転校生が来ました」
「へぇ」
「国外出身で、未処置です」
その瞬間、千鶴の目が少し細くなる。
懐かしむように。
「そうかい」
「感情変化が非常に多い人物です」
「ふふ」
また笑った。
悠真は思わず聞く。
「祖母は、何故そんなに顔が動くんですか」
千鶴は一瞬きょとんとした後、小さく吹き出した。
「顔が動くって」
「不自然です」
「昔はみんなこんなだったよ」
悠真には信じ難かった。
もし全員が朝比奈澪や祖母のように感情を顔へ出していたなら、社会はかなり騒がしかったはずだ。
「疲れませんか」
「感情を出す事が?」
「はい」
千鶴は少し考えた後、ベッド横の椅子へ腰掛ける。
「疲れる事もあったねぇ」
静かな声だった。
「怒ったり、泣いたり、喧嘩したり」
窓の外を見る。
遠くでドローンの光が流れていく。
「でもね、その分楽しい事も多かったよ」
「楽しい」
「大笑いしたり、誰かを好きになったり」
好き。
その単語に、悠真は少しだけ反応する。
「祖母は、その時代の方が良かったと思ってるんですか」
千鶴はすぐには答えなかった。
しばらく考え、静かに言う。
「難しいねぇ」
その顔には、複雑な感情が浮かんでいた。
少なくとも悠真にはそう見えた。
「今の時代は平和だよ。優しい子も多い」
「はい」
「でも……静かすぎる時がある」
悠真は黙る。
千鶴は彼を見て微笑んだ。
「その子、どんな子なんだい?」
悠真は少し迷う。
どう説明すればいいのか分からない。
だが口を開いた時、自分でも意外なほど自然に言葉が出た。
「よく笑います」
千鶴の目が少し細くなる。
「そうかい」
「あと……よく表情が変わります」
「うん」
「見ていると、少し落ち着きません」
そこまで言って、悠真は気付く。
自分は今、
かなり長時間、一人の人間について話している。
それは今までほとんど無かった事だった。
千鶴は何も言わず、ただ穏やかに笑った。
その表情を見て。
悠真はなぜか、昼間よりも“笑顔”というものが理解できない気がした。
翌朝。
教室へ入った瞬間、悠真は違和感に気付いた。
窓際。
朝比奈澪の席の周囲だけ、微妙に空間が空いている。
誰かが意図的に避けたわけではない。
だが、生徒達は自然と彼女から一定距離を取っていた。
理由は簡単だ。
予測不能だから。
感情変化の大きい人間は、現代社会では“扱いづらい存在”だった。
澪本人は、それに気付いていないように見えた。
机へ頬杖をつき、窓の外を眺めている。
今日は晴れていた。
制御空の青は均一で、雲の配置まで計算されている。
「おはよ」
悠真に気付いた澪が手を上げる。
教室内で、その動作だけが妙に目立った。
「おはようございます」
「敬語やめれば?」
「理由がありません」
「ほんと融通きかないなぁ」
澪は笑う。
その瞬間、前方の男子生徒が一瞬だけ視線を向けた。
ほんの数秒。
すぐ端末へ戻る。
敵意は無い。
不快感も薄い。
ただ、“ノイズを認識した”という反応に近かった。
澪もそれに気付いたのか、少しだけ笑顔を引っ込めた。
悠真はその変化を見逃さなかった。
「朝比奈さん」
「ん?」
「何故、表情を変えたんですか」
「……は?」
「今、笑うのを止めました」
澪は数秒固まった後、吹き出した。
「いや怖いって。観察しすぎ」
「事実確認です」
「普通そんな細かく見ないから」
そう言いながらも、澪はどこか嬉しそうだった。
その感情の理由は悠真には分からない。
始業チャイム。
生徒達が席へ着く。
担任教師が入室し、電子掲示板へ授業データを投影する。
「本日は情動史学の外部講義を行う」
教室の空気が少しだけ変わる。
情動史学。
旧時代の感情文化について学ぶ授業だ。
悠真は視線を前へ向けた。
教壇横の大型モニターへ、古い映像が映し出される。
そこには、旧時代の学生達がいた。
騒がしい教室。
笑い声。
ふざけ合い。
誰かが怒鳴り、誰かが泣いている。
澪が小さく呟く。
「うわ、懐かしい」
対して教室内の多くの生徒は無反応だった。
映像資料として見ている。
歴史映像。
それ以上ではない。
講師の声が流れる。
『二十一世紀初頭、人類は極めて感情依存的な社会構造を形成していました』
『恋愛、集団帰属意識、承認欲求、対立感情』
『それらは創造性を生む一方、深刻な社会的不安定化を招きました』
映像が切り替わる。
SNS炎上。
暴動。
戦争。
いじめ問題。
泣き叫ぶ学生。
『現代社会における情動制御技術は、人類史上最大級の社会安定化を実現しています』
淡々とした説明。
教室内の生徒達は静かに聞いている。
その時だった。
「でもさ」
澪が声を上げた。
教室の視線が集まる。
「それって、“悪い感情”だけじゃなかったでしょ」
講師が一瞬沈黙する。
「どういう意味ですか、朝比奈さん」
「好きとか、楽しいとか、感動とか。そういうのも昔の人は持ってたんでしょ?」
教室内が静まり返る。
誰も反論しない。
だが空気が止まった。
講師は数秒考え、事務的に答える。
『それらは現在も軽度保持されています』
「軽度って」
澪は苦笑する。
「それ、本当に同じものなの?」
悠真は、その横顔を見ていた。
彼女だけが、
この教室で唯一、“感情”を現実として扱っていた。
授業終了後。
教室には奇妙な静けさが残っていた。
普段と変わらないはずの沈黙。
だが悠真には、どこか空気が張っているように感じられた。
原因は分かっている。
朝比奈澪だ。
彼女の発言は、規則違反ではない。
問題行動でもない。
それでも、“場を乱した”という感覚だけが教室に残っていた。
生徒達はそれを言語化しない。
感情をぶつける文化が存在しないからだ。
ただ、微妙な距離だけが生まれる。
それは今まで悠真が疑問に思った事のない、現代的な排除だった。
「ねぇ」
澪が机へ突っ伏しながら呟く。
「やらかした?」
「規律違反ではありません」
「そういう話じゃなくて」
悠真は少し考える。
適切な言葉が見つからない。
だが彼女の言いたい事は、何となく理解できた。
「……周囲は困惑していました」
「だよねぇ」
澪は顔を上げる。
その顔に浮かんでいたのは、昨日見たものと似ていた。
寂しさ。
あるいは、不安。
「なんかさ」
彼女は窓の外を見る。
「誰も怒んないの、逆にきつい」
悠真は黙る。
怒る。
その行為の必要性を、彼はよく知らない。
「昔、クラスで嫌われた時はさ」
澪は続ける。
「陰口とか普通にあったんだよね」
「非効率です」
「うん。でも、その方がまだ分かりやすかった」
悠真は理解できず、視線を向ける。
澪は苦笑した。
「嫌われてるって、ちゃんと実感できるから」
その言葉に、悠真は返答できなかった。
今の社会では、露骨な敵意は少ない。
だが同時に、
“好意”もまた薄い。
誰も強く拒絶しない代わりに、
誰も強く求めない。
その静かな距離感が、澪には耐え難いのかもしれなかった。
「……朝比奈さん」
「ん?」
「何故そこまで他者との関係を求めるんですか」
澪は目を瞬かせた。
「え?」
「孤立しても、生活に支障はありません」
「いや、あるでしょ普通に」
「具体的には」
澪は数秒黙り、それから小さく笑った。
「ほんと、あんた達って別の生き物みたい」
そう言ってから、彼女は少し真面目な顔になる。
「寂しいんだよ」
またその単語だった。
悠真の脳裏に昨夜の祖母の言葉が浮かぶ。
――静かすぎる時がある。
「誰ともちゃんと繋がってない感じがして」
澪はそう言って、自分の胸元を軽く押さえた。
「ここが、ずっとスカスカする」
悠真は無意識に、その動作を見ていた。
胸。
そこに何か感覚があるのだろうか。
彼には分からない。
だが次の瞬間。
彼はふと、自分の胸にも手を当てていた。
澪が目を丸くする。
「……何してんの?」
悠真は答えられなかった。
胸の奥が、少しだけ重い。
理由は不明。
体調異常だろうか。
しかし不快ではなかった。
むしろ、その感覚をもう少し確かめたいと思っている自分がいた。
その時、教室前方から声がした。
「霧島」
クラス委員の男子生徒だった。
「次の進路適性面談、時間変更されたらしい」
「了解しました」
悠真が返事をすると、男子生徒はそれだけで去る。
会話終了。
必要事項のみ。
澪はその光景を見て、ぽつりと呟いた。
「……ほんと、業務連絡みたい」
悠真は否定しなかった。
だが心のどこかで。
それを少しだけ、物足りないと感じ始めている自分がいた。
数日後。
朝比奈澪は、完全にクラスへ溶け込めないまま日常の一部になっていた。
誰も彼女を嫌わない。
誰も彼女を攻撃しない。
だが誰も、自分から近付こうとはしない。
彼女の周囲だけ、空気の密度が違う。
まるで教室の中に小さな異国が存在しているようだった。
悠真はその日、珍しく購買区画へ向かっていた。
祖母に頼まれた生活用品を受け取るためだ。
放課後の商業ブロックは静かだった。
自動案内音声。
無人レジ。
感情抑制社会に合わせ最適化された、刺激の少ない店内音楽。
人は多い。
だが会話は少ない。
そんな中。
「……最低」
その声だけが妙に浮いて聞こえた。
悠真は足を止める。
通路の先。
澪がいた。
見知らぬ男子生徒と向かい合っている。
相手は困ったような顔をしていた。
「だから、そういう意味じゃなくて」
「じゃあどういう意味?」
澪の声は少し強い。
感情が乗っている。
周囲の客が視線を向け始めていた。
不快音を認識するような目。
男子生徒は視線を泳がせる。
「……その、重いんだ」
澪が固まる。
「毎回そんな感情ぶつけられても、反応困るし」
「……」
「別に嫌いとかじゃないから」
その言葉は、現代では最大限配慮された拒絶だった。
だが澪の表情は明らかに傷付いていた。
悠真には、その変化がはっきり分かった。
目。
口元。
呼吸。
全部が乱れる。
「もういい」
澪は短く言うと、そのまま男子生徒の横を通り過ぎる。
その時、彼女と悠真の目が合った。
一瞬だった。
だが彼女はすぐ視線を逸らし、早足で去っていく。
悠真は少し迷った後、その背中を追った。
商業ブロックを抜けた先。
高架歩道の端で、澪は立ち止まっていた。
夕暮れ。
灰色の都市を赤い光が薄く染めている。
「……何」
振り返らないまま、澪が言う。
「追いかけてきたの?」
「はい」
「なんで」
悠真は答えに詰まった。
理由。
合理性。
説明。
どれも上手くまとまらない。
ただ、
放っておけなかった。
「……朝比奈さんの様子が通常ではなかったので」
「ほんと機械みたいな喋り方」
澪は笑った。
だが次の瞬間、その笑みが崩れる。
「っ……」
肩が震える。
悠真は目を見開いた。
彼女の目から、透明な液体が落ちていた。
涙。
知識としては知っている。
だが実際に見るのは初めてだった。
「……何故、水分が」
「泣いてんの!」
澪は半分怒鳴るように言った。
「人間は悲しいと泣くの!」
悲しい。
また感情だ。
悠真は動けなかった。
涙は止まらない。
澪は顔を隠しながら、小さく息を吐く。
「ごめん……ほんと最悪」
その姿を見た瞬間。
悠真の胸の奥が、強く痛んだ。
今まで感じた事のない感覚だった。
鈍い圧迫感。
苦しい。
呼吸が少し乱れる。
彼は無意識に胸を押さえた。
澪がそれに気付く。
「……悠真?」
悠真は数秒黙った後、小さく呟く。
「分かりません」
「え?」
「何故か、胸が苦しいです」
澪は涙を拭う手を止めた。
夕暮れの中。
二人だけが立っている。
都市の雑音は遠い。
悠真は初めて理解していた。
これはきっと。
“感情”なのだと。
その日以降。
悠真の中で、何かが変わり始めていた。
変化は小さい。
劇的でもない。
だが確実に、以前とは違っていた。
例えば。
教室へ入ると最初に澪を探してしまう。
彼女が笑えば、胸の奥の重さが少し軽くなる。
逆に、沈んだ顔をしていると落ち着かない。
理由は分からない。
だが“気になる”。
その感覚だけが増していった。
そして同時に。
澪の孤立も、少しずつ進んでいた。
誰も彼女を排除しない。
悪口も無い。
だが距離だけが開いていく。
昼休み。
澪が話しかける。
会話は成立する。
けれど数分後には皆、自分の端末へ戻っていく。
放課後。
誰も彼女を誘わない。
連絡先交換文化すら薄い社会では、人間関係は驚くほど希薄だった。
その静かな断絶は、
露骨ないじめより残酷なのかもしれない。
悠真は、そう考えるようになっていた。
その日も、澪は教室後方で窓の外を見ていた。
夕焼け。
人工制御された空は、今日も淡い色しか持たない。
「……綺麗じゃないね」
ぽつりと澪が言う。
「何がですか」
「空」
悠真も窓を見る。
均一な雲。
刺激抑制された色彩。
最適化された景観。
「視覚負荷軽減のためです」
「うん、知ってる」
澪は笑う。
最近、その笑顔は減っていた。
「でも昔の空ってもっと赤かったんだよ」
「記録映像では確認しています」
「記録じゃなくてさぁ」
澪は小さく息を吐く。
「なんで全部、知識としてしか話さないの」
悠真は答えられなかった。
自分でも最近、それを少し気にし始めていた。
知識。
情報。
理解。
だが澪はいつも、
“感覚”で話す。
悲しい。
嬉しい。
寂しい。
綺麗。
その曖昧さが、悠真にはまだ上手く理解できない。
だが。
理解したいとは思っていた。
「……朝比奈さん」
「ん?」
「以前、寂しいと言っていましたが」
「うん」
「最近も、そうですか」
澪は少し驚いた顔をする。
その後、困ったように笑った。
「なにそれ。心配してくれてんの?」
悠真は言葉に詰まる。
心配。
それも感情表現だ。
だが否定できなかった。
「……分かりません」
澪は数秒こちらを見た後、小さく笑う。
「そっか」
沈黙。
教室には二人しかいない。
静かだった。
静かすぎるほどに。
その時、不意に澪が言った。
「ねぇ悠真」
「何ですか」
「私、この国ダメかも」
悠真の胸が強く脈打つ。
彼はその感覚に少し驚いた。
「……何故ですか」
「疲れる」
澪は窓へ寄りかかる。
「誰も怒らない。誰も笑わない。誰も本気で誰かを好きにならない」
淡々とした声。
だがその奥に、確かな寂しさがあった。
「まるで、世界に一人だけ取り残されてるみたい」
悠真は何か言おうとする。
だが言葉が出ない。
慰め方を知らない。
引き止め方も分からない。
すると澪がこちらを見る。
少しだけ笑った。
「でも悠真は、ちょっと違うね」
「……違う?」
「前より顔変わるようになった」
悠真は目を瞬かせる。
「顔が?」
「うん」
澪は彼の目元を指差した。
「前より、ちゃんと人間っぽい」
その言葉を聞いた瞬間。
悠真の胸の奥が、小さく熱を持った。
週末。
悠真は祖母の住む居住区画を訪れていた。
正確には同居ではあるが、世代別生活様式の違いから居住スペースは分けられている。
旧世代居住区は、現代区域より色彩が多かった。
観葉植物。
紙の本。
木製家具。
感情刺激軽減設計から外れた、少し雑多な空間。
悠真は昔からこの部屋が少し苦手だった。
情報量が多いのだ。
「いらっしゃい」
千鶴が笑う。
やはり顔がよく動く。
「何だか最近、来る回数増えたねぇ」
「そうでしょうか」
「うん」
千鶴は楽しそうに笑った。
その表情を見ると、悠真はまた少し落ち着かなくなる。
「その子の事かい?」
悠真は動きを止めた。
「……何故分かったんですか」
「顔」
「顔?」
「前より色々出るようになったよ」
悠真は無意識に自分の頬へ触れる。
特に変化は感じない。
だが最近、澪にも似た事を言われた。
「そんなに変化していますか」
「うん。昔の子みたい」
千鶴は温かい飲み物を机へ置きながら言う。
「それで、その子とはどうなんだい?」
どう。
その質問の範囲が曖昧だった。
「現在、クラス内で孤立傾向があります」
「ふぅん」
「本人は環境への不適合を感じています」
「うん」
「ですが、自分には適切な対応方法が分かりません」
千鶴は少し黙る。
それから、穏やかな声で聞いた。
「悠真は、その子に居なくなってほしい?」
即答だった。
「いいえ」
言ってから、悠真自身が少し驚く。
迷わなかった。
千鶴は微笑む。
「なら、それが答えじゃないかね」
「……?」
「昔はね」
千鶴は窓の外を見る。
夕方の光が白髪を照らしていた。
「好きな人が居ると、その人が笑うだけで嬉しかったんだよ」
悠真の胸が少しざわつく。
「逆に、泣いてると苦しくなった」
その瞬間。
高架歩道で涙を流していた澪の姿が脳裏を過ぎる。
胸の痛みまで鮮明に思い出した。
「それは、非合理的です」
「そうだねぇ」
千鶴は笑う。
「でも人間って、昔からそういう生き物だったんだよ」
悠真は沈黙した。
好き。
その感情の定義は知っている。
だが実感としては曖昧だ。
しかし最近、自分の中で起きている変化は確かに存在していた。
澪が笑うと安心する。
沈んでいると苦しい。
探してしまう。
目で追ってしまう。
会話したくなる。
それらを整理しようとした時。
机上の端末へ通知が入った。
送信者――朝比奈澪。
悠真は少し驚く。
個人間通信自体が珍しい。
メッセージを開く。
短い文章だった。
『今から会えない?』
その一文を見た瞬間。
胸の奥が強く脈打つ。
千鶴はそれを見て、小さく笑った。
「行っておいで」
悠真は数秒画面を見つめた後、静かに立ち上がった。
理由は説明できない。
だが今。
彼は確かに、
“会いたい”と思っていた。
待ち合わせ場所は、第三区中央駅の屋上庭園だった。
都市景観緩和のために作られた人工緑地。
夜になると利用者は少ない。
静かな場所だった。
悠真が到着した時、澪はフェンス際に立っていた。
夜風が髪を揺らしている。
「来た」
こちらを見ると、彼女は少し笑った。
だがやはり以前より弱い。
「急に呼び出してすみません」
「いや、呼んだの私だし」
澪はフェンスへ背中を預ける。
遠くでは無人輸送機のライトが流れていた。
「……ねぇ悠真」
「何ですか」
「この国ってさ、人を傷付けない代わりに、人を救うのも下手だよね」
悠真は答えられなかった。
澪は続ける。
「今日さ、進路面談だったんだけど」
視線を夜景へ向ける。
「処置の話された」
悠真の動きが止まる。
情動制御処置。
それは現代社会では一般的な医療行為だ。
成人前の適応補助として推奨される事も珍しくない。
「国外生徒にも、最近は勧めてるんだって」
澪は苦笑する。
「“社会適応負荷軽減のため”らしいよ」
教科書で何度も聞いた言葉だった。
合理的。
安定的。
効率的。
「……朝比奈さんは、受けるんですか」
澪はすぐ答えなかった。
しばらく夜景を見つめた後、小さく言う。
「分かんない」
風が吹く。
遠くで広告ドローンの光が流れた。
「最近ちょっと思うんだよね」
澪は自分の胸元を押さえる。
「感情って、しんどいなって」
悠真は静かに彼女を見る。
「嬉しい時はすごく嬉しい。でもその分、苦しい時もめちゃくちゃ苦しい」
その声は少し震えていた。
「この国の人達って、多分それを最初から持ってないんだよね」
「完全には消失していません」
「でも薄いでしょ」
悠真は否定できなかった。
澪は笑う。
どこか疲れた笑顔だった。
「羨ましいって思っちゃったんだ」
その言葉を聞いた瞬間。
悠真の胸が強く痛んだ。
嫌だった。
理由は分からない。
だが、
彼女が変わってしまう想像をした瞬間、息が詰まりそうになる。
「……朝比奈さん」
「ん?」
悠真は言葉を探す。
だが上手くまとまらない。
引き止めたい。
けれど何故なのか説明できない。
合理的理由が存在しない。
沈黙。
澪はそんな彼を見て、小さく笑った。
「困ってる」
「……はい」
「やっぱ悠真、変わったね」
彼女は一歩近付く。
距離が近い。
悠真の鼓動が速くなる。
「最初は本当にロボットみたいだったのに」
澪は彼の胸元へ軽く触れた。
「今、ちゃんとここ動いてる」
その瞬間。
悠真は初めて理解した。
自分は。
彼女が居なくなる事を、恐れている。
その感覚は不安定で、苦しくて、非合理的だった。
だが同時に。
今まで感じたどんなものよりも、
“生きている”感覚に近かった。
数週間後。
教室の空気は、以前よりさらに静かになった気がした。
実際には変わっていないのかもしれない。
だが悠真にはそう感じられた。
感情を知ってしまったから。
“静かすぎる”という感覚を理解してしまったから。
朝比奈澪は以前より話さなくなっていた。
笑う回数も減った。
教室で一人窓を見ている事が多い。
誰かが彼女を傷付けたわけではない。
ただ、
誰も彼女の感情へ踏み込めなかった。
それだけだった。
昼休み。
悠真は自席で端末を閉じる。
ふと視線を向けると、澪がぼんやり外を見ていた。
その横顔を見た瞬間。
胸が痛む。
最近ではもう、その感覚に名前が付いていた。
苦しい。
寂しい。
不安。
曖昧だが、少しずつ理解できるようになってきていた。
悠真は立ち上がる。
彼女の席へ向かう。
クラスメイト達が一瞬だけこちらを見る。
ほんの僅か。
以前なら気にならなかった視線。
だが今は分かる。
“異物を見る目”だ。
それでも足は止まらなかった。
「朝比奈さん」
澪がゆっくり振り返る。
「……悠真」
「本日、放課後は予定ありますか」
「え?」
「旧市街区域へ行きませんか」
澪が目を瞬かせる。
旧市街。
旧世代建築が保存されている区域。
感情文化時代の名残を残した、数少ない場所だった。
「どうしたの急に」
悠真は少し考えてから答える。
「祖母が、昔の街は夕焼けが綺麗だったと言っていたので」
澪は数秒固まる。
その後。
本当に久しぶりに、少し大きく笑った。
「なにそれ」
口元が緩む。
目が細くなる。
その表情を見た瞬間。
悠真の胸の奥が熱を持つ。
嬉しい。
多分、これがそうだった。
「行く」
澪は立ち上がる。
「行こう、悠真」
その時だった。
教室前方の女子生徒が、小さくこちらを見た。
表情は変わらない。
だが数秒後、静かに口を開く。
「霧島」
悠真は視線を向ける。
「最近、朝比奈さんとの接触頻度が増えています」
責める口調ではない。
感情も無い。
純粋な確認。
「情緒依存傾向の可能性があります。注意した方が」
澪の表情が固まる。
教室内が静まる。
誰も悪意は持っていない。
本当に。
ただ社会的リスクを指摘しているだけだ。
以前の悠真なら、
「了解しました」
と返していた。
だが今。
胸の奥がざわついた。
不快だった。
初めて。
自分の中に、明確な拒絶感が生まれる。
悠真は静かに女子生徒を見る。
そして。
「……問題ありません」
そう答えた。
女子生徒は少しだけ目を瞬かせた。
それ以上は何も言わない。
会話終了。
だが澪は、驚いたように悠真を見ていた。
教室を出た後。
廊下で澪が小さく言う。
「今、ちょっと怒ってた?」
悠真は立ち止まる。
怒る。
その感情。
以前なら理解できなかった。
だが今なら少し分かる。
誰かに否定される事。
失いたくないものを遠ざけられる事。
それが、不快だった。
「……分かりません」
そう言いながら。
悠真は自分の顔の筋肉が少し動くのを感じていた。
それを見た澪が、ふっと笑う。
「うそ。ちょっと分かってる顔してる」
夕陽が廊下を赤く染めていた。
人工都市では珍しいほど、今日は空が赤かった。
旧市街区域は、第三区の外縁部に残されていた。
再開発効率の低さから保存区扱いになった、旧世代の街並み。
低い建物。
色のばらついた看板。
露出した配線。
感情抑制時代以前の、人間中心設計。
駅を出た瞬間、澪が目を輝かせた。
「うわ……」
悠真はその反応を見る。
やはり彼女は、感情がすぐ顔に出る。
「すごい、ちゃんと“街”って感じする」
「現在区域も街です」
「違うんだって」
澪は笑いながら歩き出す。
古い喫茶店。
中古書店。
小さな映画館。
現代都市には少ない、“無駄”の多い景観。
「色が多い」
澪は空を見上げる。
「音も」
確かに、現代区域より騒がしかった。
人の話し声。
店内音楽。
子供の笑い声。
どれも悠真には少し落ち着かない。
だが不思議と、不快ではなかった。
「悠真」
澪が振り返る。
「こっち」
彼女は小さな露店へ駆け寄る。
感情表現の大きい動作。
悠真は自然と後を追っていた。
店先には古い写真が並んでいた。
紙媒体。
現代では珍しい。
澪が一枚を手に取る。
そこには、大勢の若者が笑いながら肩を組んでいる姿が写っていた。
「……楽しそう」
悠真は写真を見る。
誰もが表情を変えている。
笑っている。
泣いている者もいる。
情報量が多い。
だが以前ほど、理解不能ではなかった。
「これ、昔の学生?」
店主の老人が頷く。
「今から五十年くらい前だな」
澪が笑う。
「青春って感じ」
青春。
悠真はその言葉を脳内検索する。
旧時代特有の情動活性期間。
友人関係や恋愛感情が強く発生する時期。
そう定義されていた。
「今の学生さん達は静かだよねぇ」
店主が言う。
「楽そうだけど、ちょっと寂しくも見える」
悠真はその言葉に反応した。
最近、“寂しい”という感覚を以前より理解できる。
完全ではない。
だが確かに、輪郭が見え始めていた。
店を出る。
夕暮れが街を赤く染めていた。
旧市街には気象制御の影響が薄く、空の色も濃い。
澪が立ち止まる。
「……綺麗」
その声を聞いた瞬間。
悠真も空を見上げる。
赤。
橙。
雲の影。
ビルガラスへの反射。
今までなら、
ただの気象情報として処理していたはずだった。
だが今。
胸の奥が少し熱い。
言葉にならない感覚が広がる。
「悠真」
澪が小さく笑う。
「今、分かった顔してる」
悠真は視線を向ける。
彼女は夕陽を背に立っていた。
赤い光が頬を染めている。
その瞬間。
悠真は初めて、自分の中に生まれた感情をはっきり理解した。
この時間が終わってほしくない。
彼女ともっと一緒に居たい。
その願いは。
どうしようもなく非合理的で。
どうしようもなく、人間的だった。
帰り道。
旧市街から中央区へ戻る連絡車両の中は静かだった。
窓の外では、色の多い街並みが徐々に均一な灰色へ変わっていく。
澪は座席へ深く座り、ぼんやり外を見ていた。
「……やっぱ違うなぁ」
「何がですか」
「空気」
澪は窓へ額を預ける。
「旧市街の人達、ちゃんと他人に興味ある感じした」
悠真は思い返す。
露店の店主。
道端で話していた老人達。
笑い声。
確かに、現代区域より感情表現が多かった。
旧世代居住者の割合が高いからだろう。
「現行社会では、過度な感情干渉はストレス要因とされています」
「うん。でもさ」
澪は小さく笑う。
「人って、本来ちょっと面倒なくらいなんだと思う」
悠真は返答しなかった。
だが否定もできなかった。
以前の彼なら、
その“面倒”を非合理として切り捨てていただろう。
しかし今は違う。
感情があるから苦しい。
でも同時に。
感情があるから、夕焼けを綺麗だと思えた。
誰かと一緒に居たいと思えた。
その矛盾を、彼は少しずつ理解し始めていた。
車両が中央区へ入る。
窓の外の色彩が薄れていく。
照明も。
広告も。
空も。
全てが刺激抑制仕様へ戻る。
澪はそれを見ながら、小さく息を吐いた。
「ねぇ悠真」
「何ですか」
「私さ」
彼女は少し迷うように視線を落とす。
「処置、受けようかなって思ってた」
悠真の呼吸が止まる。
胸の奥が強く締め付けられた。
「……ですが」
「でも今日、ちょっと怖くなった」
澪は苦笑する。
「もし全部薄くなったら、今見た夕焼けとかもどうでもよくなるのかなって」
悠真は何も言えない。
言葉が見つからない。
ただ一つだけ、はっきり分かる事があった。
嫌だった。
彼女から感情が消える事を、望みたくなかった。
「悠真」
澪がこちらを見る。
「もし私が処置受けたらさ」
その目は少し不安そうだった。
「今みたいに、また話してくれる?」
その瞬間。
悠真の胸の奥に、はっきりとした拒絶が生まれる。
嫌だ。
そう思った。
初めて、
“嫌だ”という感情を理解した。
「……嫌です」
澪が目を見開く。
悠真自身も驚いていた。
こんなにも即座に、感情が言葉になった事が無かった。
「朝比奈さんが、変わるのは」
呼吸が乱れる。
胸が熱い。
苦しい。
でも止めたくなかった。
「自分は、多分……嫌です」
沈黙。
車両の駆動音だけが響く。
澪はしばらく彼を見つめた後。
ふっと笑った。
その笑顔は、久しぶりに以前の彼女へ近かった。
「……そっか」
小さな声だった。
だがその瞬間。
悠真は初めて思った。
この笑顔を守りたい、と。
それはきっと。
この世界が不要と判断した、
非合理な感情だった。
冬が近付いていた。
都市気温は管理されているため極端な寒暖差は存在しない。
それでも街の照明色や植栽演出によって、人々は季節を認識する。
教室の窓際には、淡い白色の光が落ちていた。
悠真は最近、自分が変わっていくのを自覚していた。
以前より考える事が増えた。
無駄な時間も増えた。
澪の事を考える時間。
旧市街の夕焼け。
祖母の言葉。
“寂しい”という感覚。
そして。
“好き”という感情。
その定義を、彼は最近何度も検索していた。
だが説明文を読んでも、完全には理解できない。
胸が苦しくなる。
会いたくなる。
居なくなってほしくない。
それが本当に“好き”なのかは分からなかった。
昼休み。
悠真は教室後方へ視線を向ける。
澪の席は空だった。
数秒後、端末へ通知が届く。
『保健管理室』
それだけ。
悠真は立ち上がる。
周囲の視線を感じた。
最近、自分を見る目が少し変わった気がする。
情動傾向の増加。
周囲はそれを認識し始めている。
だがもう、以前ほど気にならなかった。
保健管理室の前へ着く。
自動ドアが開く。
澪は窓際の椅子に座っていた。
「……来た」
少し疲れた顔だった。
「体調不良ですか」
「んー、ちょっと」
澪は曖昧に笑う。
その笑顔を見た瞬間、悠真は違和感に気付いた。
弱い。
何かを無理に隠しているような笑顔。
「何かありましたか」
澪はしばらく黙っていた。
やがて、小さく口を開く。
「今日、母親と話した」
窓の外を見る。
白い空。
静かな街。
「向こう帰るかも」
悠真の思考が止まる。
「……帰国、ですか」
「うん」
澪は笑う。
だが今度の笑顔は明らかに苦しかった。
「“もう限界でしょ”って」
悠真は何も言えなかった。
胸の奥が、強く締め付けられる。
「最近さ」
澪は俯く。
「私、自分がどんどん変になってく感じするんだ」
「変?」
「笑う回数減ってるし、感情出すの怖くなってる」
その声は少し震えていた。
「周りに合わせようとしてる自分が居る」
悠真は息を呑む。
それはつまり。
この社会へ適応し始めているという事だった。
「でも、合わせたら多分」
澪は自分の胸元を押さえる。
「何か、大事なものが消える気がする」
沈黙。
悠真は言葉を探した。
だが上手くまとまらない。
頭の中は混乱していた。
帰ってほしくない。
変わってほしくない。
もっと一緒に居たい。
感情が溢れる。
整理できない。
その時だった。
「悠真」
澪がこちらを見る。
少しだけ泣きそうな顔だった。
「私、どうしたらいいと思う?」
その質問に。
悠真は初めて、
“正解”ではなく“自分の気持ち”を探した。
そして。
静かに口を開く。
「……分かりません」
澪が少し笑う。
「だよね」
「ですが」
悠真は続ける。
胸の鼓動が速い。
怖い。
でも、言わなければいけない気がした。
「自分は、朝比奈さんに居てほしいです」
澪の目が揺れる。
「感情がある朝比奈さんを、自分は……嫌いじゃありません」
沈黙。
次の瞬間。
澪の目から涙が零れた。
だが今度の涙は、以前とは少し違って見えた。
悲しさだけではない。
もっと温かい何かが混ざっている気がした。
彼女は泣きながら笑う。
「……それ、たぶん」
声が震える。
「“好き”って言うんだよ」
その瞬間。
悠真の胸の奥で、何かが静かに形を持った。
卒業式の日。
空は白かった。
制御気象による安定空域。
雪も雨も無い、穏やかな天候。
第三区統合学園・講堂。
整然と並ぶ生徒達。
静かな拍手。
淡々と進む式典。
誰も泣かない。
誰も騒がない。
感情の波が極端に抑えられた空間は、どこまでも穏やかだった。
だが悠真には、その静けさが以前より少しだけ遠く感じられていた。
壇上では卒業認証が進んでいる。
名前。
返事。
認証。
それだけ。
澪は数列前の席に座っていた。
髪が少し伸びている。
あの日以降、彼女は以前ほど無理に笑わなくなった。
けれど完全に感情を閉ざした訳でもなかった。
相変わらず時々泣くし、笑うし、怒る。
ただ以前より、
“静かな感情”を覚えたように見えた。
帰国はしなかった。
処置も受けていない。
その代わり。
この社会でどう生きるかを、少しずつ探しているようだった。
そして悠真もまた。
変わっていた。
以前ほど合理性だけでは物事を測れなくなった。
夕焼けを綺麗だと思う。
誰かの表情が気になる。
胸が痛む事がある。
寂しいという感覚も、今では少し理解できる。
感情は不安定だ。
非合理的だ。
苦しい事も多い。
だが。
それだけではない事を、彼は知ってしまった。
式典終了後。
生徒達は静かに講堂を後にしていく。
廊下。
窓際。
白い光。
悠真はそこで澪を見つけた。
「終わったね」
彼女が笑う。
柔らかい笑顔だった。
「はい」
少し沈黙。
以前なら、ここで会話は終わっていただろう。
だが今の悠真は違う。
「……朝比奈さん」
「ん?」
「卒業後は、どうするんですか」
澪は窓の外を見る。
「まだ分かんない」
苦笑する。
「でも、多分ここに居る」
悠真の胸が少し熱を持つ。
安心。
それを彼は理解していた。
「悠真は?」
「進学予定です」
「そっか」
また沈黙。
だが不快ではない。
その時、遠くから千鶴の声がした。
「悠真ー」
祖母が手を振っている。
周囲の保護者達より、やはり表情が豊かだった。
澪が小さく笑う。
「おばあちゃん、ほんと顔動くよね」
「はい」
悠真も少しだけ笑った。
その瞬間だった。
千鶴が目を丸くする。
そして。
どこか嬉しそうに言った。
「……今、笑ったねぇ」
悠真は動きを止める。
笑った。
自分が。
無意識に頬へ触れる。
確かに少し、筋肉が動いている。
胸の奥が温かい。
理由は分かっていた。
隣を見る。
澪がこちらを見ていた。
目が合う。
彼女はふっと笑う。
その笑顔を見た瞬間。
悠真の胸はまた静かに熱を持った。
感情は、苦しい。
人を孤独にもする。
世界を乱す事もある。
だからこの社会は、それを削った。
きっと間違いではない。
それでも。
もし。
この温かさまで失うのだとしたら。
それは本当に、
“進化”だったのだろうか。
白い空を見上げながら。
悠真は初めて、自分の意思でそんな事を考えていた。




