刑法39条と国民
第一章:開廷の静寂と、閉ざされた心
私は、冷たい傍聴席のベンチに深く腰を下ろしていた。法廷内の空気は、冬の朝のように張り詰めている。
被告人席に座る男は、時折、虚空を見つめて意味不明な独白を漏らす。その目は、ここではないどこか、彼にしか見えない「世界」を彷徨っているようだった。
事件の内容は凄惨を極める。何の罪もない家族が、彼の妄想の犠牲になった。
SNSでは連日、「死刑以外ありえない」「精神病を免罪符にするな」という怒号が渦巻いている。飲酒運転が「未必の故意」に近い扱いで厳罰化された現代において、世論は「結果の重大さ」こそが刑罰の重さを決めるべきだと信じて疑わない。酒を飲んで理性を失おうが、病で理性を失おうが、奪われた命の重さは同じではないか――。その感情は、あまりに人間らしく、そして正しい。
しかし、裁判長・黒田が口を開いた瞬間、法廷の空気は「感情」から「論理」へと、残酷なまでの転換を強いられた。
第二章:医学を「証拠」として突き放す勇気
証言台に立った精神科医は、淡々と被告人の病状を述べた。脳の器質的な変容、制御不能なドーパミンの嵐。
「彼は、自分の行動が悪いことだと理解する能力を完全に失っていました」
私は思った。ならば、医師が「無罪」を宣告すればいいではないか。なぜわざわざ、医学の素人である裁判官が判断を下す必要があるのか。
だが、黒田裁判官の眼差しは、医師の言葉を鵜呑みにはしていなかった。
「医師の先生。あなたは『病気』を診断されました。しかし、私が判断するのは、彼が社会のルールに縛られる『主体』であったかどうか、という法律判断です」
その言葉に、私は戦慄を覚えた。裁判官は医学的事実を「考慮材料」として受け取りつつ、それを「法」というフィルターで濾過していく。
もし医師の診断がそのまま判決になるなら、それは「科学による支配」であって「法の支配」ではない。裁判官は、専門家の意見を尊重しつつも、最後には「社会の正義」として、その病が責任能力(刑法39条)を阻却するに足るものかを独りで決めなければならないのだ。
第三章:責任主義
黒田裁判官の説示は、現代の国民感情という「巨大な波」に真っ向から立ち向かうものだった。
「国民の皆様が抱く憤りは、もっともです。しかし、刑法の根幹には責任主義があります。自分の意思で悪を選んだからこそ、国は彼を叱ることができるのです」
私は傍聴席で、その矛盾の鋭さに息を呑んだ。
国民は「犯罪者が生まれないように」「二度と起こさないように」と、威嚇としての厳罰を求める。しかし、刑法39条は、その威嚇が通用しない人間――つまり「警告を受け取るアンテナ」が壊れてしまった人間――を罰することを禁じている。
「アンテナがない者に、電波が届かなかったことを責めても意味がない」。
論理としては完璧だ。だが、被害者の遺族にとって、これほど残酷な正理があるだろうか。
第四章:司法の番人が背負う「孤立した合理性」
判決が下される。
「被告人は、心神喪失の状態にあった。刑法39条1項により、無罪」
法廷内が騒然となる。「ふざけるな!」という罵声が飛ぶ。
私は、壇上の黒田裁判官を見上げた。彼は微動だにせず、ただ真っ直ぐに法典を見つめていた。
彼は、犯罪者を「守って」いるのではない。
彼は、「感情によって法が曲げられない」という秩序を守っているのだ。
もし今日、国民の怒りに屈して、責任能力のない彼を処罰してしまったら。それは、いつか我々の中の誰かが、不可抗力のミスで人を傷つけたとき、同じように「国民感情」という名の刃で吊るし上げられる未来を肯定することになる。
第五章:傍聴席からの肯定
私は、彼の判断を肯定せざるを得なかった。
しかし、その肯定は苦い。
「責任主義」という合理的な論理を貫けば貫くほど、法は被害者の感情や、世論の切実な願いから乖離していく。この「合理化の難しさ」こそが、現代司法の宿痾なのだ。
裁判官は、医学という「科学」と、国民感情という「熱量」の狭間に立ち、そのどちらにも魂を売ることなく、無機質な「法」という糸を紡ぎ続ける。
それは、誰からも感謝されない、孤独で、尊い仕事だ。
私は法廷を後にした。外の空気は冷たいが、どこか清々しさも感じていた。
「責任がない者に罰を与えない」という、一見すると不条理な優しさが、実は私たちが「人間」として扱われるための最後の砦であることを、私は今日、黒田裁判官の背中に見た気がした。
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません




