雪乃の憂鬱
雪乃の「実戦向け」の鍛錬に付き合わされて半月ほど経ち、月をまたいだ頃――。
「先生! 柊先生!」
若い剣士が小走りに、鍛錬の最中であった晴奈と雪乃のところにやって来た。その手に手紙が握られているのを見て、二人は目を合わせた。
「もしや?」
「多分ね」
雪乃は剣士から手紙を受け取りつつ、こう尋ねる。
「これはどこで?」
「塞を訪ねてきた客からです」
「赤毛の熊獣人?」
「えっ、あ、はい。三の丸の前で陣取っております」
「そう」
答えて、雪乃は受け取った手紙を読みもせずに、刀の先で火を点けて燃やす。
「『峡月堂で待っている』と伝えて連れてきて。安心してちょうだい。さっさと応対してさっさと帰すから」
「承知しました」
慌てて走り去る剣士の姿を見送ってから、雪乃は大儀そうな顔を晴奈に向けた。
「来ちゃったわねー」
「やはりですか。……私も後学のため、立ち会ってもよろしいでしょうか」
「むしろお願い。わたしとあいつだけなんて、怖気が走るわ」
「さようですか」
あからさまに疎ましがる姿を見て、やはり晴奈は意外だと感じていた。
峡月堂に着いても、やはり雪乃は憂鬱そうだった。
「はあ……」
相手を待つ間に何十回ついたかも分からないため息を、また一つつく。普段の優しく、そしてかっこ良い姿を見慣れている晴奈にとっては、何とも心苦しい光景だった。
「遅い、ですね」
「そうね」
場を持たせようと声をかけてみるが、素っ気無い返事がポンと返ってきただけで、晴奈はそれ以上言葉をつなげられない。元来弁が立つ方でもないためそれ以上は口を開けず、自分の尻尾を手入れしつつ、相手が来るのを待つしかできなかった。
「……クスッ」
と、晴奈の様子を眺めていたらしい雪乃が、笑みを漏らす。
「晴奈。あなた良く、尻尾をいじっているわね」
「え? あ、はい。そうですね」
半ば無意識の行動だったので、晴奈は少し気恥ずかしくなり、尻尾から手を離す。
「手なぐさみに丁度いいと申しますか……」
「尻尾の長い獣人ってみんな良く、そうやって手入れしているみたいね。毛量が多い人だと、櫛まで使って綺麗に梳かしていたりするし」
「それはまあ、自分の体の一部ですから。乱れていると気になるものです」
「ねえ。ちょっと触っていい?」
唐突にそんなことを言ってきたので、晴奈は面食らう。
「私のをですか?」
「わたし持ってないもの」
「それはまあそうですが」
「ダメかしら」
「いえ、構いませんが」
晴奈は半ば雪乃に背を向け、尻尾を向ける。途端に雪乃は――ここまでの不機嫌そうな様子が嘘のように――顔をほころばせた。
「ふわふわ……と言うか、ふさふさね。ううん、ちょっとさらさらした感じもあるかしら」
雪乃は晴奈の尻尾をもそもそと撫で、楽しげな声を漏らす。
(触っても良いとはもちろん言ったが……微妙にくすぐったくて……少し恥ずかしい)
たまらず晴奈は、背中の雪乃に声をかけた。
「あの、師匠。質問してよろしいでしょうか」
「何かしら」
答えつつも、雪乃は尻尾から手を離さない。
「師匠が大変大儀そうであったので質問し辛かったのですが……相手の熊獣人とやら、どのような男なのです?」
「んっ、……うーん、まあ、その、……ねえ」
ようやく尻尾から手を離し、雪乃は言葉を選ぶように――しかし嫌っているのが隠せていない口調で――ぽつりぽつりと答えた。
「人間性が……何と言うか、あまり好ましくないと言うか……なんでこの人話聞いてくれないのかしらとか……もうちょっと空気読んでくれないかしらとか……一言で言うと面倒なのね」
「面倒? 強敵であると?」
「そう言う意味じゃなくて……いやそう言う意味も一部あるかもだけど……腕前って言う意味では、まったく強敵じゃないの。ただ、兎にも角にも乱暴者と言うか、厚顔無恥と言うか」
「なるほど……ある意味で強敵ですね」
「その上、自分がこの世で一番偉いと思い込んでるような男で、他人は邪魔者か虐げる対象としか思ってないみたいで。そんな男を公衆の面前で叩きのめしちゃったのよね、わたし」
「師匠の性格ならば、それは想像に難くありませんね」
「えっ、……わたしのこと、そう思ってたの?」
「私の目の前で酔っ払いの粗忽者3名を叩きのめした方ですから」
「あー……そんなこともあったわねー……じゃあ仕方ないわね」
雪乃が苦い顔をしたところで――ドスドスと重い足音が、戸の向こう側からようやく聞こえてきた。




