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さよならにまつわる記憶・少年時代

作者: べんとら
掲載日:2025/10/04

十代の頃の記憶。

 転校の多い少年時代であった。

 引っ越しを繰り返す家庭に育ったから。

 金勘定の出来ない母親が家のことを取り仕切り、消費者金融や街金融からの借金が嵩んで家を売り清算することを繰り返していたから。

 東京、埼玉、千葉にまで跨がり住居は変わっていった。

 いま考えると、母親は発達障害を持って生まれてきたのかもしれない。他のことは概ね問題ないが、金の出し入れが上手く行かなければ、延々と不如意が続き、それが当たり前の環境で育った僕は、人生というものに期待しなくなる時期が、他の者より早かったように思う。


 小学校を卒業して中学に上がると、学校には知る者がひとりもいなかった。春休みに東京都練馬区から埼玉県新座市に引っ越したのである。

 知る者がいない利点も在る。それはリセットが出来ること。子供であっても人間関係というものは煩わしく、そういうしがらみがない状態であったから、人格、性格的なものも、自ら設定し演じることが出来た。黒い学生服を着るタイミングは、リセットに適していたように思う。思春期の始まりで、骨格が大人びてきて、声変わりの時でもあった。

 リセットは上手くいったようで、学校に行くことが楽しかった。しかし、それが長く続かないことは経験則から判っていた。どうせまた何処かに引っ越し、次のリセットは今回のようではないであろうことも。

 良いことのあとにはそうでないことが起きる。そういう世の理のようなものは既に理解していた。


 練馬区と新座市は、地理的には隣接していたが、学業のレベルのようなものが違っていた。練馬区では凡庸に毛が生えた程度の成績だったのに、新座市では優等生と云える成績であった。

 部活では、最も小さな大会で予選落ちするような弱小水泳部に所属し、それゆえ一年生から試合に出ることが出来た。

 二年生になるとガールフレンドらしきもできた。

 その少女はテニス部に所属していた。互いの部室が近く、競泳用のパンツを穿いてプールサイドに向かう僕には、白いテニスウェア姿の彼女の胸のふくらみや膝上から伸びる脚が眩しかった。

 ある日、その少女と豊島園に行くことになった。デートというやつである。

 僕等は流れるプールで泳ぎ、プールサイドでの昼食は彼女がつくってきたツナサンドであった。暑い季節で、食パンに挟まれたツナから微かに傷んだ匂いがしたが、僕はそれに気付かぬふりをし、ガッツリ頬張りながら少女の瞳を見て「美味い」と言った。

 プールから上がった僕等は、今でいう絶叫マシンに乗った。隣に座る少女は、最初の坂を下るあたりから僕の肩に顔を埋め、それはマシンから降りるまで続いた。


 ある日、母親から引っ越しをすることを告げられる。

 二年生の三学期から、別の中学に通うことになるらしい。

 二学期最後の日、昇降口の下駄箱で上履きからスニーカーに履き替える際、豊島園に行った少女から手紙を受け取った。

 帰宅し、二階の自室に上がり読んでみる。

 便箋は白く、縦書きの文字は青かった。文面は他愛のないものであったが、異性から手渡しで手紙を受け取った経験はそれが初めてで、僕はとても嬉しかった。


 転居先の最寄り駅は小田急線の参宮橋であった。

 新居の近所に劇団四季の稽古場があり、舞台女優と思しきキレイなおねえさんたちが付近を歩く姿をよく見かけた。

 冬休みを新居で迎えた僕は、ラジオのFM局にリクエストのハガキを送った。リクエスト曲はニュー・シーカーズの『恋するハーモニー』で、三学期から新しい学校です。いろいろ心配です。などと添え書きした。ダメ元でレコードをくださいとも記した。ラジオ局にハガキを送ったのはそれが初めてであったが、ディスクジョッキーに読まれ、『恋するハーモニー』がトランジスタラジオの小さなスピーカーから聴こえてきた。数日後、レコード会社がラジオ局へのデモ用につくったと思われるドーナツ盤の、中心部にレーベルやアーティスト名が記されていないものが数枚送られてきた。レッド・ツェッペリンの『移民の歌』やザ・フー『無法の世界』も含まれていた。

『恋するハーモニー』はコカ・コーラのテレビCMにも使われ、老若男女に広く認知される楽曲となった。


 三学期が始まった。

 登校初日に教壇の先生の横に立ち、自己紹介をして、先生に促された席に付く。小学生の頃から幾度となく経験している儀式とはいえ、やはり緊張する。

 数週間が経ち、警戒するべきはどの生徒かを概ね把握した頃、

「ねえ、もしかしてFMにリクエスのハガキを送らなかった? ディスクジョッキーが読んだ名前とあなたの名前が同じだった気がするの」

 隣席の女子生徒からそう訊かれ、あれは自分であると応えた。

 その少女を、毎夕のテレビ公開放送「銀座ナウ」で、カメラが客席に向く際に見かけることが度々あった。

「西城秀樹はテレビで見ると素敵だけど、実物は手脚が長すぎて蜘蛛みたいなの」

 少女はそんなことを呟いた。

 渋谷区立代々木中学は、学業を優先させていたようで、放課後の部活がなかった。僕の成績も凡庸に戻ってしまった。


 三年生になっても親しくしたいと感じる者は現れなかった。秋になって、僕は二年生の二学期までいた新座市の中学の文化祭に遊びに行った。

 夕方から旧友の部屋に四人が集まり、生まれて初めて酒屋に入店し、買ったサントリーレッドを湯呑み茶碗に注ぎストレートで飲んだ。その友人の父親はある企業の独身寮の寮長で、友人は寮の端の部屋をあてがわれ、ゆえに親の監視から遠かった。

 赤茶色の液体はとても苦く、大人たちがこんなものを飲む理由が分らなかったが、僕は美味いよな、などといきがってぐいぐいと飲んだ。

 最後の日に昇降口で少女から手紙を貰い、文通は今も続いている、と僕は自慢する。あの女は誰にでもそうする、などと言う者がいた。

「今でも付き合っているのか?」

「いや、文通だけさ」

 そういえば、彼女は昼間、顔を合わせても素っ気なかった。文通という秘密を共有しているからだと思っていたが、初めての酒盛りで、それをあっさりバラしてしまう僕はどうかしている。きっとサントリーレッドのせいだろう。 

 日が落ちて随分時間が経った頃、ボトルが空いて、パーティは終わった。初めて飲んだウイスキーはとても効いて、僕は友人宅から西武池袋線のひばりヶ丘駅まで歩く途中、真っ直ぐに歩けずに何度も転んだ。

 終点の池袋駅に着いて、山手線のホームまで移動する際も千鳥足であった。

 新宿駅に着き、小田急線各駅停車のシートに座ると、安心した僕は眠ってしまった。

 参宮橋は新宿からふたつ目の駅だが、遥か離れた柿生という駅で、駅員から肩を揺すられ起こされた。この車両はもう基地に入るので降りてほしいと駅員は言った。

 駅舎の時計は午前零時を示し、既に上りの最終が停車する時間は過ぎていた。

 おぼつかない足取りで無人の改札を抜ける。目抜き通りにはシャッターが閉まった店舗がぽつりぽつりと在ったが、百メートルも歩くと、道の両側にはススキが茂る野原が広がっていた。電話ボックスを見つけることは出来たが、財布の中は空で十円玉ひとつさえなかった。

 仕方なく、駅に近い派出所に入って、家に帰るタクシー代を貸して欲しい、と警官に頼んでみた。

 警官は僕の願いには応じず、どこかへ電話をかけた。数分後にはパトカーが派出所に横付けされた。黒い学生服姿の中学生はパトカーの後部座席で両腕を警官たちに抱えられ、神奈川県警登戸警察署まで連行されたのである。

 取り調べ用の小部屋に連れて行かれ、少年課の課長に調書を取られた。まともに呂律がまわらない僕は、課長からボールペンでアタマをビシピシと叩かれた。

 午前二時を過ぎた頃、切羽詰まった声が署内に響いた。母親が迎えに来たのである。

 神奈川県警からやっと放免され、タクシーで帰宅すると午前三時を過ぎていた。

 学校に通報されるのだろうな。高校受験での内申書に響くのだろうな。やはり良くないことが起きる順番だったのだな。

 眠りにつくまでのベッドで、そんなことが去来してきた。しかし、その件で職員室から呼び出しを食らうことはなかった。


 受験では第一志望には受からず、滑り止めの男子校に通った。

 その高校は仏教系の新興宗教団体が建てたもので、全ての教室にエアコンが設置されていて、学食も安く美味かった。その他諸々、設備が整っているわりには、月謝は都立高校に毛が生えた程度であった。附属中学があり、そこから上がってくる生徒の親は信徒であったが、高校からの者がその宗派に勧誘されることはなかった。

 フォークソングが流行っていた頃で、僕も当時のトップランナーであった吉田拓郎に感化されてギターを弾くようになっていた。

 高校一年の同じクラスには僕以外にもギター小僧が数人いて、彼等とロックバンドを組むことになった。アコースティックギターしか持っていなかった僕は、空いているベーシスト枠に収まった。ドラムスを叩く者はパールのドラムセットを持っていたが、絶望的に下手くそであった。当時は今のように、レンタルスタジオが何処にでもある状況ではなく、ドラムスの練習が自宅では出来ないことは理解していたので、仕方がないと思っていた。代わりの者がいるわけでもなかったし。

 高校生のバンドは珍しく、学園祭で演奏すると、客席は埋まり立ち見もでた。他の学校の学園祭でも演奏する機会があり、小さなライブハウスに出演することもあった。


 バンド面子のたまり場は、新宿紀伊国屋書店真下の広い喫茶店カトレアであった。

 僕の初めてのタバコは、一箱八十円のハイライトで、カトレアで無理をして吸っていたが、しばらくは頭痛と目眩に悩まされた。それは今でいうところの、マウントを取りに行く行為と云えた。

 ある日、面子はカトレアから追分団子付近に移動した。団子店の隣にはコタニがあった。コタニはレコードや楽器を扱う大型店舗である。エスカレーターで楽器を扱うフロアに上がると、エレキギターが陳列されている付近に、薄化粧をし、セーラー服のスカート丈が足首まである少女たちが数人群れていて、そのうちのひとりが、既に疎遠になっていた文通相手の少女であった。僕と目が合うと、

「あ、圭介だ」

 少女は呟いた。

 僕の胸の鼓動は速まったが、少女に気付かぬふりをして、フロアの奥のアコースティック・ギターが並んでいるブースで、ヤマハの赤ラベルを試奏した。

 僕は少女とはちがう世界に棲んでいると感じていた。

 あの手の少女たちの男友達は、リーゼントの髪型でボンタンと呼ばれる意味不明に太いパンツを穿く者たちで、僕はそういう類いの者ではなかった。とはいえ、僕はバンドの他面子のように髪を肩まで垂らすことはなかったし、オン・ステージの際に、ベルボトムのジーンズを履くこともなかった。

 赤ラベルを弾きながら、

「彼女が傍に来たら何を話したら良いのだろう」

 振り向かずに背中で気配を察していたが、そういうことは起こらずに、少女たちはいつの間にそのフロアからいなくなってしまった。


 最も太い弦を開放でピッキングすると、スピーカーが剥き出しの、ベースアンプの大径コーンが振動し、床の埃が舞った気がした。ドラマーのキックは相変わらず弱々しく不正確で、バスドラは僕の弾くAやEのルートと合っていない。

 西荻窪の小さなライブハウスの客席には、かつてFMにリクエストカードを送った事を訊ねてきた少女が座っていることがあった。

 ある晩、出番が終わった面子は、彼女が連れてきた少女たちを伴って、当時としては珍しかった居酒屋チェーンで打ち上げをした。

「村さ来」という屋号の店であった。捕鯨が禁止される以前のことで、クジラベーコンが最廉価メニューであった。ホッケの干物は頭部と尾鰭が皿からはみ出るくらいに大きかった。僕は生ビールの大ジョッキを何杯も空けた。


 打ち上げが終わると、僕等は西荻窪駅から黄色い総武線の車両に乗り込んだ。

 その頃になると、酒を飲みすぎて降りる駅を寝過ごすようなこともなくなっていた。バンド面子や少女たちは、各々が最寄りの駅で降りたのであろう。お持ち帰りされた少女もいたかもしれない。

 僕はいつの間に眠ってしまった。

 目覚めると、車両は江戸川の鉄橋を轟轟と渡っていた。

 住居は千葉県千葉市に変わっていて、最寄りの駅は新検見川であった。

 降車して東京湾を埋めたてた夜のニュータウンを歩く。

 海風か早春のからっ風か、ビョービョーと音を立てて吹いていた。

 ベースが入ったギグバッグを背負った僕は、ダッフルコートのフードを深く被り、家路を急いだ。


              〈了〉

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― 新着の感想 ―
ノンフィクションなのか、フィクションなのか気になる所ですが、描かれている青春の記憶が鮮やかすぎて、つい最後まで読み切ってしまいました。 その時代、その場所に確かにあった青春の影を感じられる気がします。…
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