2話
街の喧噪は、血の匂いと一緒に遅れて残る。俺たちは北門から真っ直ぐギルド本部へ戻った。
石造りの大きな扉の前には、もう市民が集まっている。「本当に終わったのか」「子どもが……」「今夜は門を閉めるのか」——声はどれも少し震えている。兵士が柵を作り、受付係が押し寄せる人波を抑えた。
扉が開く。広間の空気は外より少しだけ静かで、少しだけ温かい。
「お帰りなさい!」受付の青年が立ち上がり、深く頭を下げた。「会議室、準備できています」
「助かる」オルフェンが短く返す。大剣を背から外し、鞘ごと肩に担いだまま歩く姿は、血のにおいより先に安心を運ぶ。
(便利だな、その笑顔)
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円卓の部屋は、石壁が冷たく、灯りが丸い影を机の縁に落としていた。七つの椅子が等間隔に並び、俺たちはそれぞれの定位置に腰を下ろす。
オルフェンは大剣を壁に立てかけ、両肘を背凭れに預けた。ガルドは拳で机を小さく鳴らし、カイルは汗を拭きながら深呼吸を繰り返している。セリナは弓を抱えたまま姿勢を崩さず、リィナは紙束と羽ペンを広げた。シュナイダーは音を消して座り、影の輪郭だけがそこにある。
「……ライネル。どう見る?」開口一番、オルフェン。
「自然じゃない。香と笛で群れを揃えていた」俺は短く言う。言葉は短いほど刺さる。
空気がぴたりと止まった。セリナが眉を寄せる。「誰がそんなことを? 魔物を街へ誘導するなんて」
「人間か、あるいは」俺はそこで切る。
「知性を持った魔物、か」シュナイダーの声は水面の波紋みたいに小さく、しかしはっきり届く。
「兄貴……本当にそんな大ごとなのか?」カイルがガルドを見る。声の端にまだ戦場の震えが残っていた。
「大ごとだ」ガルドは即答する。拳が一度、机に落ちる。「スタンピードは自然に起きる。だが仕掛けられるなら、街は狙えるってことだ」
「国も黙っちゃいないだろうな」オルフェンが苦笑する。「どうせ明日には管理棟から呼び出しだ。浅層を見てこい、ってな」
「なら、今夜のうちに報告をまとめましょう」リィナが羽ペンを握り直した。声は落ち着いているが、目は強い。
俺は白い手袋の縫い目を整え、指を少しだけ動かす。窓の隙間から入っていた冷たい空気が、紙の角を揃えるように静かに流れた。(指輪は静か。今は道具じゃない、ただの抑えだ)
「確認しておく」セリナが矢筒を膝へ引き寄せた。「屋根の上で見つけたのは、香を焚く管が三。笛が二。印はない。安物ではない作り」
「持ち手は?」
「捨て駒。身につけていたものに手がかりがない。靴底も新品、土のつき方もわざとらしい」シュナイダーが淡々と報告する。
「つまり、誰かが“捨ててもいい誰か”を経由させた」俺が言うと、ガルドが舌打ちしかけて、飲み込んだ。
「……気に食わねえやり口だな」
リィナの羽ペンが走る音が、部屋の中心のリズムになる。インクの匂いが少しずつ濃くなる。カイルは前屈みで皆の言葉を追い、時折、机の端で手のひらを握っては開いた。
「カイル」俺は呼ぶ。
「はい!」
「お前の動きは二息遅い。だが、最後の三手は良かった。呼吸を置いた分だけ刃が通った」
「……はい!」胸を張ろうとして、張りきれず、結局うなずく。その不格好さを笑う者はいない。
「被害状況は?」オルフェン。
「重傷者はなし。切創と打撲が多数。兵士の二名が明日まで静養」リィナが即答した。「市民は逃げ惑ったけど、圧死や転倒の連鎖は起こらなかった」
「良い誘導だった」セリナが小さく言う。
(声をかける場所、息、視線——リィナは人を戻す術を知っている。戦場に必要な“前提”を整える者だ)
「じゃ、結論だ」オルフェンが手を叩く。「報告書をまとめて詰所へ提出。香と笛の件は“人為の可能性高”と明記。明朝までに管理棟へ上げさせる。いいな?」
「異論なし」
「了解」
「……了解」
円卓の返事は短い。短いほど、全員が動ける。
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羽ペンが紙を満たす間、広間から小さく笑い声が上がった。救護所代わりのテーブルで、水を飲む兵士が少しだけ顔色を戻している。窓の外では、門番の交代の靴音が通り過ぎた。
(街の鼓動が戻る音だ。戻る、という動詞は便利だ。何がどう戻るのかは、人の数だけ違うのに、誰にでも通じる)
「ライネル、ここの表現で迷ってる」リィナが紙を傾ける。「『人為的な誘導があった』と断言するか、『疑いが濃い』に留めるか」
「前者だ。根拠は屋根の小道具。曖昧にすれば、次が遅れる」
「了解」
セリナが小瓶を机に並べる。「残留していた香の破片。国に渡す前に匂いを記録しておくべき」
「任せろ」俺は指先をわずかにすべらせ、空気を集める。香の線が細く束になって鼻先へ届く。甘いようで刺す、きつい匂い。魔物の興奮を拾う調合だ。(雑ではない。作り手は慣れている)
「……俺にはただの臭い匂いにしか」カイルが顔をしかめた。
「最初は皆そうだ」ガルドが笑う。「慣れると嫌でもわかる」
「慣れたくはないですね……」リィナの苦笑に、少しだけ緊張が緩む。
記述は進む。「敵数四十余」「市街侵入は阻止」「負傷者軽微」「市中混乱あり」「屋根上にて小道具回収」。俺は要点だけを投げ、リィナが整然とした文章に仕立てる。セリナは矢羽根の角度を確認し、シュナイダーは何も言わず小瓶の封を厳重に巻いた。
「できた」リィナが紙束を揃えた。まだインクがわずかに光っている。
「行くぞ」オルフェンが立ち上がる。大剣の鞘が壁を軽く叩き、鈍い音が返ってきた。
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王都の詰所は、紙の山とインクの匂いでむせ返る。廊下の端で誰かが小声で口論し、別の誰かが走り去る足音だけを残して消える。
「ギルド本部の報告書を持参した」オルフェンが扉を押すと、中の小太りの役人が飛び上がった。
「し、失礼しました! あ、ありがとうございます!」椅子を蹴りそうになりながら立ち上がり、深く頭を下げる。
机に紙束を置くと、役人の手が震えているのが目に入った。俺は一枚、上から香の破片を包んだ封筒を添える。
「屋根で回収したものだ。香と笛。作りは雑じゃない」
「ひ、人為、ですか……?」
「断言していい」オルフェンが言い切る。「管理棟に急ぎ上げてくれ」
「は、はい! 直ちに!」役人は封筒と紙束を抱え、扉の向こうへ消えた。残されたインクの匂いだけが濃い。
「国も慌ただしいな」ガルドが肩を回した。
「当然ね」セリナが扉の外を一瞥する。「巨大ダンジョンを抱えた街で、外の群れが“揃って”動いた。理由を求めないわけがない」
(理由は求めるほど見えなくなる、という性質がある。だが求めない者には、何も見えない。難儀だ)
詰所を出ると、外は薄闇だった。空は曇りがちで、風は冷たく、血の匂いはもうほとんど残っていない。代わりに、夜のパン屋の甘い匂いと、遠くの楽師の音が街を柔らかく包む。
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ギルド本部へ戻る途中、広場の片隅で子どもが兵士の盾を触っていた。「重い?」と聞くと、兵士が笑って「少しな」と答える。子どもの手は汚れていて、でも目はきれいだった。
(街は、こういう目のために保たれる)
広間に入ると、疲れた冒険者たちが椅子に沈み、簡単な食事が配られていた。スープの匂いに胃が反応する。カイルの腹が素直に鳴った。
「カイル、食べろ」ガルドが笑いながら背中を押す。「腹が減っては戦えねえ」
「はい!」スプーンを握る手が少し震えていたが、口に入れた瞬間に顔色が和らいだ。
「副団長」受付の青年が小走りで近づく。「屋根で回収された管と笛の件、保管庫に番号を振って預けました。鍵はこれです」
「預かる。勝手に触らせないように」
「はい!」
(若い。だが、目が仕事を覚えている)
円卓の部屋に戻ると、灯りが少しだけ弱くなっていた。オルフェンが背伸びをし、椅子を引き、座り直す。
「明日の呼び出し前に決めておく。浅層の第三区、あそこから流れてきた可能性が高い。メンバーは——」
「七人で行く」俺が先に言う。
「お、珍しいな。普段なら『四でいい』とか言うのに」ガルドが目を細める。
「実地で見せる必要がある。特にカイルに」
「……はい!」スープを飲み終えたばかりのカイルが背筋を伸ばす。「見せてください!」
(見せる、は教えるとは違う。見せられたものをどう取るかは本人の炉次第だ。それでも、入口は必要だ)
セリナが弓弦を指で弾く。「矢は明朝までに補充しておく。香の残り香に合わせて羽根を選ぶ」
リィナが頷く。「私も薬と包帯を増やしておくわ。浅層は足場が悪いから、捻挫が出やすい」
「俺は道具を整える」シュナイダーが立ち上がる。「繋ぎ用の糸と、封の強い瓶」
「解散だ。各自、休め。……ライネル、お前は?」オルフェンがこちらを見る。
「少し風を見てから寝る」
「了解」
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屋上。夜風は乾いていて、血の匂いはもうない。かわりに、石の冷たさが手袋越しに伝わる。下の路地で猫が鳴き、遠くの鐘が一度、低く鳴った。
指を軽く動かす。屋根の縁をなぞる風が向きを変え、北門の方角から南へと流れた。香の細い残り香は、もう拾えない。代わりに、地下から漏れる薄い魔力のうねりが肺に触れる。
(滲みが強い。巨大ダンジョンの“呼吸”が速い。季節のせいか、誰かのせいか。どちらでも、結果は同じだ)
白い手袋の中で、指輪は冷たい。俺はそれを回し、止める。強い魔法のときに指を鳴らす癖は、今日は使わなかった。使う相手も、場も、まだ下にいる。
「やっぱりここにいたか」背後からオルフェンの声。足音を隠すつもりはないらしい。
「寝ろ」
「寝るさ。お前もな」肩を叩く重さは変わらず、安心だけが少し強い。「明日、管理棟が呼ぶ。早いぞ」
「知ってる」
「……お前が知ってることは、たいてい面倒事だ」オルフェンは笑って、扉の向こうへ消えた。
(面倒事は、放っておくと増える)
風を止め、屋上を降りる。階段の石が足の裏で微かに鳴り、灯りが壁に長い影を作る。廊下を曲がると、救護所の灯りは落ち、広間のスープの匂いだけがほんのり残っていた。
部屋に入る。椅子の背に手袋を置き、指輪を確かめ、灯りを消す。
(明日は潜る。浅いはずの浅層で、深い手が動いているなら——)
眠りは浅くていい。深いのは明日で足りる。




