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かけた薄明  作者: 緑茶 萩
白い部屋、灰色の瞳
5/5

新しい朝

 朝七時。

 窓の向こうが淡い白から淡桃に溶け変わる瞬間を、私はベッドの端で静かに待った。胸に絡みつく重さは、眠る前より少しだけ軽い。昨夜、小さな付箋に書いた小さな文字が呼吸の奥底で微かな灯になっている。


 遠出、と言っても病院の敷地を一歩出るわけではない。屋上でもない。今日は、病院一階の奥にある中庭を歩く。ただそれだけ。けれど私にとって今はまだ長い旅に等しい。


 


 午前九時を回ったころ、七種菜奈さんが病室へやって来た。車椅子と、折り畳み式の細身の歩行器を押している。


「今日は中庭まで行くんでしたね」

「お願いします」


 私はゆっくり立ち上がり、歩行器のハンドグリップに手を添えた。脚は力が入りにくく、ふくらはぎが重く痺れている。立位は一分も保てない日もあるが、今日はそこまで悪くない。


 私が患っている「先天性ミオパチー」は、生まれつき筋肉の構造に不具合がある病気だ。全身の筋力が年齢とともに少しずつ低下し、特に呼吸筋と心筋が疲労しやすくなる。長距離を歩くと、脚より先に胸が悲鳴を上げる。私にとって数十メートルすら“遠出”なのだ。


 菜奈さんは酸素サチュレーション計を指先に装着し、数値を確認してから頷く。

「休憩しながら行きましょう。もし苦しくなったらすぐ座ってくださいね」

「うん」


 歩行器の脚先にテニスボール状の緩衝材が付いていて、床を擦る音がやわらかい。私は一歩ずつ前へ。膝まわりの筋肉がじわじわと震える。呼吸は浅く、脇腹で吸気が止まりそうになるたび、意識して小さく咳払いをした。


 エレベーター前の曲がり角で、車椅子に乗った斥が手を振っていた。黒髪が光を帯び、制服のジャケットは昨日より襟を正している。


「有希、準備万端だな」

「付き合ってくれるの?」

「もちろん」


 斥はリムに手を掛け、私の歩幅に合わせて並走位置をつくった。菜奈さんが後方で車椅子を押す準備をしながら、笑みだけ浮かべて控える。


 エレベーターで一階へ降りる。自動ドアを抜けると、冷たい朝の空気が頬を撫でた。病棟の外壁を回り込んだ突き当たりに、木柵に囲まれた長方形の庭がある。冬越しの低木が列をなし、中央にベンチを置いた小径が敷かれている。


 私は歩行器を押し出し、中庭の石畳へ足を踏み入れた。砂利が靴底を支え、わずかな段差が膝へ伝わる。首の筋肉が震えた。深く呼吸をして、足先をさらに前へ。


 斥が横で声を落とす。

「中庭、来るのは久しぶり?」

「屋上ばかりだったから。地面があるの、なんだか新鮮」

「俺は逆に地面しか感じないから、屋上の方が怖いかもしれない」


 彼はそう言って笑い、車輪を少し強く押した。タイヤのラバーが石畳を噛む音が小気味いい。


「歩くと、脚より先に呼吸が詰まるんだよね?」

「うん。すぐ酸欠になっちゃう」


胸の奥でひりつく痛みが増した。息が浅い。菜奈さんがそっと注意深く見守っているのが視線の端に入る。


 木柵の隅に、冬咲きのパンジーが寄せ植えされている。紫と黄色が並び、霜にふれた花弁が少しだけ縮んでいた。私は歩行器を止め、腰をかがめる。


「きれいだけど、寒そう」

「春になったら、もっと増えるな。……学校の中庭にも、こんな花壇あったよ」


 斥の声が遠くを思い出すように淡くなる。私は視線を彼へ返した。

「学校に行けたら、まず何しようか」

「色んな教室を見て回りたい、かな」

「今歩いた距離より広いよ?」

「脚より先に心臓が降参しそうね」


 ほんの数十メートルの直線。そこに未来のすべてを詰め込むみたいに想像して、私は胸が熱くなるのを感じた。


「図書室にも行こう。私、紙の匂いが好き」

「だったら昼休みは図書室集合で決まりだ」

「そのあと屋上でお弁当食べたい。でも三階分の階段がきついかも」

「エレベーターがあるさ。……そう言えば、屋上にはまだ行ったことないんだ」

「じゃあ、初めての屋上は一緒に」


 会話は光の粒のように交換され、石畳の上に浮かんでは消える。私の肺は、少しきしむ音を立てている。でも呼吸を止めたくはなかった。生きている音を、斥に聞かれても良いと思えた。


 中庭を半周したところで、身を起こす筋力が限界に近づいた。菜奈さんが歩行器の手すりを押さえ、私を横のベンチへ誘導する。私はそろそろと腰を下ろす。


 胸に手を当て、ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。脈は速いが、乱れてはいない。

 斥は私の隣でブレーキをかけ、手袋を外して両手を膝に置いた。


「大丈夫そう?」

「うん。これくらいなら……」


 言いかけて、私は視線を落とす。斥の足首は固定ベルトに守られ、膝の上でブランケットが揺れている。自分の脚と、彼の脚。形は違うけれど、どちらも思うように動けない。けれど、こうして同じ距離を旅する。


「ねえ、斥くん」

「ん?」

「バス、昨日乗れた?」

「乗れたよ。……怖かった。でも、景色が動くのを見たら少しだけ自由になった気がした」

「私も今日、少し自由になれた」


 斥は、私の言葉の意味を探るように目を細めた。私は中庭の中央に立つ背の低い木を指さす。

「いつか、あの木の影を二人でまたいでみたい。大袈裟だけど、今はそれが遠くに見える」

「遠くても、いずれ追いつくさ。ゆっくり行こう」


 彼はそう言って、手の甲でそっと私の肩を小突いた。驚くほど優しい力だった。私は片手で返すように腕を伸ばし、空を仰いだ。


 雲の切れ目から陽が差し、石畳に私たちの影が重なる。影はひとつの輪郭を保ったまま、小さく揺れた。


 まぶたの裏に、昨日折り畳んだ付箋が浮かぶ。〈少し遠出をする〉。

 私は達成感を噛み締めたわけではない。ただ、胸に灯った小さな火が、まだ消えていないことを知った。


 斥はポケットからスマホを取り出し、無言でカメラを構えた。シャッター音が小さく鳴る。

「記念?」

「うん。あとで見返して、また進んでるって思えるように」

「じゃあ、次はグラウンドの芝で撮ろう」

「目標が増えた」


 彼は笑い、画面を私へ向けた。そこには、ベンチに並んで座る私たちの横顔が映っている。背景の木立はまだ冬枯れで、空は薄い灰色。でも私の頬は少し赤く、彼の目尻には小さな光が映っていた。


 遠出は、私の心拍を速めた。けれど同時に、胸を覆う曇りを薄く引き剥がしてくれた。


 短い休憩を終えると、私は再び歩行器に手を掛けた。まだ戻る距離がある。時間をかけて、ゆっくり戻ろう。斥も腕を伸ばし、車椅子を押し出す。


 歩くたび、石畳がわずかに震え、肺に冷たい空気が流れ込む。私たちの呼吸のテンポは、いつしかほぼ同じ速さで刻まれていた。


 病棟に戻る直前、私は振り返り、中庭の中央に立つ木をもう一度目に焼きつけた。あの影に、次は私たち二人分の未来を落とすのだ、と胸の奥でそっと誓う。


 視界が揺れた。だが怖くはない。この揺れは、遠くへ渡る橋がまだ続いている証だ。


 私は歩行器のハンドグリップを握り直し、次の一歩を踏み出した。


6/18、20歳になりました。

お酒飲んできます。


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