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かけた薄明  作者: 緑茶 萩
白い部屋、灰色の瞳
4/5

曇ったガラス

 静まり返った病室に、また針の音だけが戻ってきた。

 扉を閉めて去って行く斥の車輪の気配が、まだ鼓膜の奥にうっすら残っている。


 ――ちゃんと乗れたかな。


 私はそう心の中で問いかけながら、壁の時計へ視線を移した。長針は二時を少し過ぎ、秒針が淡い円を描き続けている。窓ガラスには雲が映り込み、薄い陽射しが文字盤をかすめた。


 斥の車椅子が、病院前の停留所でうまくバスに乗り込めただろうか。運転手はスロープを出してくれただろうか。段差は思いのほか急かもしれない。冬の風が強くて、リムを押す手が震えてはいないか。

 針が一周するあいだ、想像は幾通りも枝分かれし、どれも彼の腕の筋肉に負担がかかる絵面に辿り着く。私は唇を結び直した。


 コツン、と秒針が文字盤の頂を越える。

 その瞬間、胸の奥で小さな痛みが波を打った。


 ――明日もまた、生きていられるかな。


 その予感は、唐突に、けれど私にはとても馴染み深い闇として訪れる。理由は――まだ部屋のどこにも、言葉の形を取っていない。でも、身体が覚えている。夜に空気が沈むと、肺は浅くなり、心臓は跳ねるように動きを変える。

 時計の針を追うまばたきが、不意に重くなった。呼吸を整えようと目を閉じると、さっきまで聞こえていた車輪の音が遠く反響した気がする。


 もし明日が訪れなかったとして、誰が時計の針を進めるのだろう。

 ――そんな考えが胸の隅を曇らせていく。


 私の掌は冷え、指先に力が入らない。ベッド柵をぎゅっと握り込むと、爪の白い弧が薄く歪んだ。


 ふと、ナーステーブルの隅に置いたメモパッドが目に入る。七種菜奈さんがお土産にくれた、手のひらより小さな淡水色の付箋帳。端の角が鈍く反り返り、まだほとんど使っていない。私は息を吐き、胸に波打つ影を振り払うように上体を倒す。脇に置いたボールペンを取り、付箋を一枚はがした。


 ――明日やりたいことを、一つだけ。


 紙面はわずか二センチ四方。たった一行分の隙間。その狭さが、逆にぴたりと胸に収まった。

 何を書く? 咳き込まない日を送りたい? 論文の続きを完成させたい? どれも「目標」として大きすぎる。望みは小さくていい。小さければ、明日を呼び込みやすい。


 私はゆっくりとペンを走らせた。


  〈少し遠出をする〉


 字は震え、ところどころ掠れている。けれど、それで充分だった。


 書き終えると、付箋をそっと折り畳み、枕元の小さな木箱に仕舞った。箱の中には、同じ付箋がまだ数枚眠っている。日付も署名もない秘密の切片たち。


 箱の蓋を閉じると、胸の奥で波打っていた暗い水面がほんのわずかに静まった。

 希望――その言葉は頭に浮かばない。ただ、針の音が先ほどより柔らかく耳に届く。それだけで、今は足りている気がした。


 私は再び時計を見上げる。長針は十五分を刻んだところ。

 斥は――もう停留所を発っただろうか。それとも、まだ風を読んでいるだろうか。


 窓ガラスの曇りに、自分の影が薄く映る。輪郭が淡く滲むその像に向かって、私は声にならない小さな呼吸を落とした。


 ――明日、会えたら。


 言葉にならない願いは、白い壁に溶け、針の音とともに薄明へ沈んでいく。

轢かれかけました。死ぬかと思いました。


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