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かけた薄明  作者: 緑茶 萩
白い部屋、灰色の瞳
3/5

面会者の声

 病室の窓に冬の陽射しが斜めに差し込み、床へ長い影を敷いている。

 静かな昼過ぎ。午前の検査も昼食も終え、私はベッドに置いた文庫本を閉じた。ページの余韻が胸に残っている。時計を見ると、一三時二十分。

 ──そろそろ、来る頃だ。


 コツ、コツ、と廊下を叩く硬質の音。だが間隔が不規則で、足音ではない。私は耳を澄ます。

 音の正体は、車椅子の前輪が敷居を越えるわずかな跳ねだ。タイヤと床材が擦れる乾いた響き。続いて、ノック。


「……入るぞ」


 扉がわずかに開いた隙間から、黒髪の少年が顔をのぞかせた。明星斥。

 彼の上半身には冬制服のジャケット。下半身は制服のスラックスだが、動きはない。車椅子のフットレストに乗せられた両脚は、膝下から緩やかに垂れているだけだった。


 斥は片手でリムを回しながら病室に入ってくる。動きは慎重だが、ぎこちなくはない。両腕の筋肉が、薄い制服越しにわずかに盛り上がる。彼にとって腕は脚のかわり。私と同じく、彼にももうひとつの心臓がある。


「来るの、無理しなくても良かったのに」

「いや……昨日のメモ、ちゃんと届いたか気になって」


 斥は照れたように笑い、車椅子のブレーキをかけた。いつもそうする前に一拍おいて、音を立てない角度にブレーキを倒す。車椅子を初めて見た頃、私はその所作の静かさに息を呑んだ。


「窓際、光が強いけど大丈夫?」

「ああ。眩しいのは平気だ。明るい方が……いくらか安心できる」


 斥はタイヤを軽く押し直し、ベッドサイドに横付けする。私は背もたれを起こして姿勢を整えた。胸の筋肉の張りが少し痛むが、身体を起こしたほうが呼吸が楽だ。


 彼の黒目と私の灰色の目が真正面で合う。病室で顔を合わせるのは三回目。けれど今日は、これまでより彼の表情が柔らかい気がした。


「さっき、屋上の花壇見たよ。スイートピー、もう膨らんでいた」

「うん。春には間に合いそう」

「……春か」


 斥は前髪を指でかきあげる。右手の甲に小さな瘢痕があった。二度目の襲撃で負った傷跡だと、彼は以前話してくれた。触れるたびに思い出すのかもしれない。でも今日は、手が震えていない。


「有希。来週から学校、来るんだって?」

「どうして知ってるの?」

「D組の担任が言ってた。エレベーター近いから、俺の車椅子と同じ導線だって」


 なるほど、と私は笑った。敷かれた動線。その未来図は、誰かの配慮の上にある。


「斥くんの車椅子、モデル変えた?」

「わかる? 昨日、補助金でカーボンリムにした。軽くて助かる」


 そう言いながら彼は手首を返し、リムを軽く叩いて見せた。乾いた音が室内に弾ける。

 車椅子は彼の脚そのものだ。新しい靴を買った子どものように、斥はその音色を確かめている。


「重さ、何キロ?」

「フレーム五キロ弱。前より一・二キロ軽い。……あ、ごめん。興味ない?」

「興味ある。むしろ私のほうが詳しくなりたい。……ねえ、今度触ってもいい?」

「もちろん。俺の脚、貸すよ」


 軽口のようで、しかし彼の目は真剣だった。私は頷き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 


 会話が途切れた隙間に、エアコンの風がカーテンを揺らす。

 私は視線を窓外へ流した。蜃気楼のように揺らぐ冬空。弦を震わせるような風の音が遠くで鳴っている。斥も同じ方向を見る。


「……有希」

「うん?」

「今日、帰りに街を少し回っていいか、医師に相談した。タクシーじゃなくて、バスで。まだ乗ったことなくて」


 斥は言って、リムに置いた手に力を込める。

 路線バス。車椅子乗車が可能なノンステップ車両。だがバス停では小さな段差も多い。転倒すれば下半身は守れない。恐怖は容易に想像できる。


 私は深く息を吸った。胸痛がひどくならないよう、ゆっくり吐く。

「乗るの?」

「……怖い。でも、やってみたい。――次に君が外来で出てくる頃には、一緒に並んで乗れたら、って」


 彼の言葉は風にかき消されそうなくらい小さい。それでも、その震えは鋼の芯を持っていた。下半身不随の体でバスに乗る。挑戦は、歩行者が一段上るより遥かに大きい。


 私は笑う。

「じゃあ私も無理矢理でも外来に行く理由を作らなきゃ」

「論文資料の図書館視察は? ……いや、俺が口出すことじゃ」

「いい提案。医師に相談してみる」


 斥の肩が、ほっと緩むのが分かった。


 


 「聴く?」と斥がイヤホンを差し出した。

 シルバーのスマートフォンには、再生中の曲タイトルが表示されていた。私は片方を受け取る。イヤホンを消毒綿でさっと拭いてから、左耳へ。


 ピアノの低音が静かに波を描き、やがて弦楽が重なる。夜明け前の静寂を切り取ったような旋律。胸の痛みが微かに緩む。


「好きな曲?」

「うん。……夜が怖いとき、これで朝を思い出す」


 斥は遠い窓外に焦点を合わせたまま言った。その視線の先に、かつて自分が立っていたサッカー場の芝を見ているのかもしれない。私はイヤホンのコードを指でなぞる。コードは二人を結ぶ細い橋だった。


 曲が終わる。静寂が戻った。

 私はイヤホンを外し、彼に返す。

「……ありがとう。夜明け、聴こえたよ」

「そうか。じゃあ、また持ってくる」


 斥はスマホを胸ポケットにしまい、手袋を直す仕草をした。指先が少し震えている。緊張の震え。真冬の校庭でボールを蹴る前に味わった感覚だと、彼はいつか語った。


 


 面会時間終了のアナウンスが流れる。斥はブレーキを解除し、力を込めて車椅子を回転させた。

 私は咳払いし、小さな声で呼び止める。

「斥くん」

「ん?」

「バス、もし怖くなったら……電話して。私、大声で励ますから」

「有希の声、そんな大きくないだろ」

「じゃあ菜奈さんに代わってもらう」

「はは……頼りにしてる」


 彼は笑った。笑みが完全に溶けきらないうちに視線を私から逸らす。

 廊下へ出ようとしたとき、前輪が敷居に引っかかった。斥は瞬間的に体を前に倒し、腕でリムを引き上げる。小さく“ガタン”と音がして、車体は段差を越えた。

 私は息を呑む。しかし彼は振り返り、少し照れた顔で親指を立ててみせる。


 動脈の拍動が強く脈打つ。私の胸ではなく彼の腕の中で、血が勢いよく流れているのを見た気がする。


「また来る」

「気をつけて」


 扉が閉まり、車輪の音が遠ざかる。私はベッドにもたれ、肺を大きく膨らませた。呼吸が浅くなる。

 ──怖いのに、進む人。

 私は窓を見やる。光が傾き、屋上のスイートピーの影が伸びていた。花はまだ咲かない。けれど風が影を揺らし、まるで遠くで手を振る誰かのようだった。


 針が一秒進む。私の胸も、一拍遅れて動く。

 斥の背中を追いかけるように、時間が静かに未来へ滑っていった。

今意欲がすごいので三話の半分まで書いてます。

明日の午後までには登校できるかもです

1番苦痛なのは読み直してふりがなつけたり、誤字を探すことです。


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