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かけた薄明  作者: 緑茶 萩
白い部屋、灰色の瞳
2/5

白い部屋と時計の砂

 朝が来た、と壁際の時計が告げる。

 秒針が吸い寄せられるように文字盤を踏み、踏むたびに小さな音が部屋の白を震わせた。私はベッドの上で目を開け、ほんの数秒、まばたきを忘れる。灰の目の奥で震える不安が、ふっと針の音に押し流されていくのを感じた。


 眠りは浅かった。もともと深く眠れたためしなどないが、昨夜はことさらに胸の奥がざわついて、夢を何度も追い払った。


 窓は東を向いている。冬の終わりの空が、淡い色を塗り重ねるキャンバスのようにそこにあった。白に近い薄桃色が雲の端に溜まり、雲はゆっくりと筆でぼかしたように、灰と群青を抱えながら動いている。私は視線だけで空の輪郭をなぞり、それから小さく呼気を漏らした。


 呼吸は浅い。肺が縮むたび、胸郭の奥でかすかな痛みが弾ける。

私は胸の上で両手を組み、指先が氷のように冷えているのを確かめる。手の甲に浮く血管は、昨夜よりも心持ち青い気がした。


 ベッド脇のナーステーブルに積まれたファイル。A4サイズのカルテは今日も薄く更新されている。ピンクの付箋が端に一枚、めくれかけているのが見えた。〈午前九時 血液検査〉と青いインクで書かれている。数字だけは、いつも私を確実に現在へと縫い留める。


 扉がやわらかくノックされた。


「有希、おはようございます」


 看護師の七種(さえぐさ) 菜奈(なな)さんの声。長年の付き添いで、私の体調の微かな変化を真っ先に嗅ぎ取る人だ。彼女は清潔な白衣の裾をすべらせながら、そっとカーテンを開け、ベッドサイドに朝の光が差し込む。光は、まるで私に触れないように慎重に床を染め、機械の金属を淡く照らした。


「よく眠れましたか?」

「ええ、夢見は良くないけれど眠れたわ」


 私がそう言うと、彼女は困ったような、でも慣れた笑みを浮かべる。無神経な冗談、と言われたことは何度もあるが、菜奈さんは怒らない。ただ、血圧計を巻きながらやわらかな声で「あとで朝食を持ってきますね」とだけ言った。


 チューブの整理と体位変換が終わると、背後の窓が開いた。窓際の花壇は冬でも管理されていて、スイートピーの莢が膨らみ始めている。ピンクと白の幼い影が、風に揺らめいているのが見えた。


「春が近いわね」

「えぇ、きっと綺麗に咲きます」


 菜奈さんはバルコニーに一歩だけ出て、外気を胸一杯に吸った。それから私の肩へ視線を戻す。


「今日も少し冷えます。呼吸、無理はしないで」


 私は頷いた。呼吸という単語は、針の音よりも重かった。


 


 朝食は流動食。リンゴと人参を合わせたポタージュに、温めた蜂蜜ミルクが添えられている。視覚的にはまるで絵の具のパレットだ。私はゆっくりと(さじ)を運んだ。舌の上を、ほんのかすかな甘味が滑っていく。味覚は壊れかけのラジオのように、ときどき雑音を挟む。けれど今日は――ほんの少し甘い。


 スプーンを置いたとき、扉が再びノックされる。今度のノックは、菜奈さんのように柔らかではなかった。


「入るぞ」


 低いがどこか朗らかな声。父の綾瀬瑞希(あやせ みずき)が、グレーのスーツ姿で立っていた。背広のポケットに差した社章が光を跳ね返す。執務の合間を縫って来たのだろう。父はいつも忙しい。だから、私の病室では時間の流れを極端に短縮したような話し方をする。


「体調は?」

「悪くないみたい。さっき、蜂蜜の味がしたもの」

「それは良かった」


 父は沙沙(ささ)と書類を取り出し、テーブルに並べた。学校のパンフレット。私立綾瀬高等学園。そこに私の名前が印字されている入学許可証。


「手続きが正式に通った。来週の月曜から、通学という形になる」


 私は視線をパンフレットの写真に落とす。巨大な吹き抜けロビー、木製の大階段、そして日差しを取り込むガラスの天井。豪華だ、と誰もが言うだろう建築。

ページをめくると制服姿の生徒たちが笑っている写真があった。私は、その中に自分の姿をイメージしてみる。灰色の目をした華奢な少女が、カメラの奥を見ないまま立っている。違和感はなく、ただ透明だった。


「もちろん、通学と言っても毎日行く必要はない。病状を見ながら、病院と学園をオンラインで併用する形を理事長と話し合った。出席日数は特例扱いだ。可能な範囲でいい」


 父の声は実務的だった。でも、その背後に小さく息を詰める音が混じる。


 私は書類を撫でるようにめくった。心臓が鼓動を訴える。

 ――私が、通う。

 世界のどこかにある教室と廊下に、私の影が落ちる。そこに時計はあり、友人たちは息をして、笑い、走る。私は、もしかすると笑うかもしれない。


 不可思議な高揚が胸の奥で小さく跳ねた。心臓のヒリつきが、逆に私を現実へと繋ぎとめる。


「ありがとう、お父様」


 素直な言葉が出た。父はわずかに目を見開いて、それから微笑んだ。


「君が望むなら、私たちは何でも用意する。だが、無理はするな。……お前が笑うことの方が、何より大事だ」


 私は首を振った。


「望んでるのは、私じゃないかもしれない。みんなが――」


 言葉は途中で絡まり、胸の奥へ沈んだ。私はそっと微笑み、父もそれ以上は何も聞かなかった。


 


 父が帰ったあと、病室には再び静寂が戻った。私は机に向かい、薄いノートPCを開いた。研究資料が散らばったデスクトップ。自分の論文のフィードバックメールが三通、未読のまま光っている。指先でタッチパッドを滑らせ、件名を追う。〈筋原線維変性(きんげんせんいへんせい)におけるミトコンドリア機能低下の新規モデル〉――読まなければ、と思う。だが今日は、視線が文字に焦点を合わせない。


 画面を閉じた。代わりに、隣に積んであった文庫本を手に取る。明星くんがオススメだと言って、菜奈さん経由で置いていった本だ。ページを開くと、インクの匂いがふわりと立つ。人工的な消毒液の香りに染まったこの部屋で、それは久しぶりに感じる「外」の匂いだった。


 私はページをめくり、一行目を目で追う。言葉がすとんと胸に落ちる。登場人物が息をし、空気がページの間から滲むように伝わってくる。私は読み進めながら、ふと壁の時計に目をやる。


 午前十時二十五分。


 ――私は今、生きている。


 一節に書かれたその言葉が、私の中に熱を灯した。熱は弱いが確かな炎だ。私は手に収まる小さな本のページ捲った。


 


 昼前、窓の外で鳥の鳴く声がした。病院は街の中心から離れた丘にあって、空気の温度は街より少し低い。けれどその鳥の声は、春の序章を予告するかのように高らかだった。


 私はベッドの脇で折りたたみ車椅子に乗り換え、菜奈さんの手を借りて屋上へ出た。風は冷たく、しかし頬に当たる感触はどこか柔らかい。スイートピーの莢はさらに膨らみ、茎の影が細長い指のように私の足元へ伸びている。


 影――。


 私は足元の影と、空に揺れる莢の狭間に、薄い時間の幅を見た。昼でも夜でもない、薄明の時間。欠けた光と欠けた影が、互いを飲み込む前の、刹那のへり


 私は息を吸い、小さく咳き込む。胸が痛む。


 心臓が、また拍子を外した。

 時計を見ないその瞬間で、私は時間の流れを感じた。


 


 病室に戻ると、机の上に小さなメモが置かれていた。菜奈さんの字ではない。誰かがそっと置いたのだろう。

 メモにはただ一言。


 〈また来る。話したいことがある〉


 名前はない。でも、文字の形で分かる。斥くんの筆跡だった。


 私の胸の内側で、針がひときわ大きな音を立てた。


 


 夕刻、窓の外が薄青から茜色へと染まって行く。

病室の壁に映る影は長く伸び、やがて室内灯に溶ける。夜勤の看護師が「点滴を替えますね」と静かに言い、私は頷いた。


 そのとき、遠くの廊下で子どもの笑い声が響いた。面会時間ぎりぎりに来た家族だろうか。笑いは高く、そしてすぐに途切れた。


 私は自分の喉が少しだけ熱を帯びるのを感じた。笑い声――もう何年、自分の声で笑っていないだろう。思い出そうとして、思い出せない。


 血管に冷たい薬液が流れ込む。私は目を閉じ、しかし眠気はこない。代わりに、時計の音が心臓の鼓動と重なり、やがてズレ、再び重なる。


 ふと、父が置いていったパンフレットを思い出す。そこには「春の学園生活」のページがあった。修学旅行、体育祭、聖火祭、そして学園祭。一つ一つの写真が光を放ち、私の頭の中で動き出す。


 ――私はそこに行けるのか。行くだろうか。行きたい。


 痛みが胸を貫いた。咳をこらえる。

 私はそっと、ベッド柵のリモコンで室内灯を落とした。暗闇の中、時計の針だけが光を帯びて見える。


 午前零時まで、あと五時間。時計の針はまだ世界のどこにも届かない闇を、淡い円で切り分け続けている。そして私は、そのど真ん中で、息をひそめる。


 もしかすると今夜も眠れないだろう。けれど――それでもいい。

 時計の針と心臓のズレが、不思議と怖くなかった。


 世界がまた一秒、私を迎え入れた。

 それなら今日の私は、まだ終わらなくていい。


 白い部屋で、薄明を待つ。

 私の名前を呼ぶ、まだ見ぬ朝を待つ。


 針の音が、確かに私を生かしている。

 私は目を閉じ、まぶたの裏に微かな光を思い描いた。

筋原繊維変性、ミオパチーのことです。

医学の知識が少ないのでらしい事を調べるのに大分と苦労しました。

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