痰を吐いたら魔物が襲ってきた 第1話『痰が魔物に』
第1話『痰が魔物に』
蓮は、スマートフォンの画面をぼんやりと見つめていた。SNSのタイムラインには、華やかな日常を切り取った投稿が溢れている。友人たちの笑顔、豪華な旅行先、素敵な恋人とのツーショット――そんな写真が次々と流れてくるたびに、蓮の心は沈んでいった。
「なんでみんな、あんなに楽しそうなんだろうな……」
蓮は自分の投稿ページを開く。そこには何週間も更新されていない画面が広がっていた。投稿するような特別な出来事もなければ、誰かに羨ましがられるような生活もない。それどころか、どんな顔をして写真を撮ればいいのかさえ分からなかった。
学校生活も同じだった。仲の良い友人はいるが、いつも「空気を読む」ことばかり考えている。冗談を言えば「つまらない」と言われないか気を使い、発言するたびに「変なことを言ってしまったかも」と後悔する。気楽に話しているように見える周りのクラスメイトたちと比べて、自分はどこか浮いている気がしてならなかった。
その夜、蓮は何もする気になれず、ベッドから抜け出して家を出た。向かった先は、いつも人が少ない近所の公園だ。街灯の薄暗い光に照らされたブランコに腰を下ろすと、大きく息を吐いた。
「俺なんか、何をやってもダメだ……」
口に出してみると、その言葉は自分の中に隠していた本音そのものだった。自分では気づかないうちに、他人と比べることで生まれた劣等感が心を占めていた。苦しいのに、それを誰かに話すのは怖かった。こんなことを言ったら「めんどくさい奴」だと思われるかもしれない。
苛立ちを抑えきれず、蓮は喉の奥に溜まった痰を地面に吐き捨てた。吐き出した痰は月明かりに一瞬だけ光り、冷たい地面にべたりと張り付いた。その行為はなんの解決にもならなかったが、それでも少しだけ胸が軽くなったような気がした。
「どうせ何も変わらないよな……」
そのまま公園を後にし、ゆっくりと家に帰る途中、蓮は背後に誰かの視線を感じた。振り返っても、そこには何もない。ただ、妙に重苦しい空気が背中にまとわりつくような感覚だけが残っていた。
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翌朝、蓮は嫌々ながらも学校へ向かった。教室に着くと、すでにクラスメイトたちが思い思いに過ごしていた。誰かの笑い声が響く中、蓮は自分の席に腰を下ろし、机に突っ伏した。眠気とともに、昨夜感じた妙な視線の記憶が蘇る。
「なんだったんだ、あれ……」
蓮は振り払うように頭を振り、いつも通りの一日を過ごそうとした。しかし、授業が進むにつれて、また奇妙な感覚が背中を這うように続いていた。視線を感じる。だが振り返っても誰もいない。教室の窓から外を眺めても、そこにはただの校庭が広がるだけだ。
昼休み、蓮は人気の少ない階段に移動し、一人で弁当を食べることにした。周囲の賑やかさに疲れていたのだ。箸を動かしながら、スマホを開いてSNSをチェックする。すると、画面に映る明るい投稿が再び蓮の気持ちをかき乱した。
「俺がこんな場所で一人で飯食ってる間に、みんな楽しそうにしてるんだろうな……」
ふと、階段の下の方から物音が聞こえた。蓮は音の方に視線を向けたが、そこには誰もいない。ただ、薄暗い階段の奥から、かすかに何かが這いずるような音が続いていた。
「なんだ……?」
不審に思いながらも、蓮はゆっくりと階段を降りて音のする方向へ向かった。そして、その瞬間、息を呑んだ。階段の影から現れたのは、人間ではなかった。
それは何とも言えない不気味な存在だった。黒く濁った粘液のような体が不規則に動き、無数の赤い目が蓮をじっと見つめている。蓮は足がすくみ、声を出すことさえできなかった。
突然、その生き物――いや、魔物が動いた。蓮に向かってずるりと這い寄ってくる。蓮は恐怖に駆られ、階段を駆け上がった。背後からはぬるりとした音と不快な匂いが追いかけてくる。
「なんだよ、これ……!」
蓮は叫びながら廊下を全力で走り続けたが、魔物は執拗に追いかけてくる。廊下の角を曲がったところで蓮はつまずき、床に倒れ込んだ。その瞬間、魔物が目の前まで迫る。赤い目が蓮を見下ろし、不気味な形の口がゆっくりと開いた。
そのとき、魔物がかすれた声で低く囁いた。
「お前の弱さ……俺だ……」
蓮は恐怖に凍りつき、目の前の存在が何なのか理解しようとする。しかし、頭の中はパニックで何も考えられなかった。ただ一つだけ確かだったのは、この魔物が自分に関係しているということだ。
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蓮は魔物の前で体を震わせていた。目の前の存在は現実感を欠いているのに、その冷たい圧力は確かに彼を押しつぶそうとしている。逃げたいという本能だけが頭を支配する中、魔物がさらに低い声で語りかけてきた。
「俺はお前が吐き捨てた弱さそのもの……お前の無力さ、苛立ち、逃げたい心が形になった」
その言葉に、蓮の頭は混乱した。「吐き捨てた弱さ」とは何のことなのか――そう考えた瞬間、昨夜の出来事が脳裏をよぎる。公園で苛立ちと共に吐き捨てた痰。そして、その直後に感じた視線。
「まさか、あれが……?」
蓮は震える声で問いかけた。「お前は本当に……俺が吐き出したものなのか?」
魔物は応えるように不気味な笑い声を上げた。それはまるで蓮の心を揺さぶるような、嫌悪感を引き起こす響きだった。蓮は背中を壁に押し付け、じりじりと後退する。
「なんで……なんでこんなことが……」
恐怖と混乱に苛まれながら、蓮の頭の中には祖父の言葉が浮かんだ。子供の頃、祖父はよくこう言っていた。「人は自分の弱さから逃げるとき、一番苦しむもんだ。けど、弱さを見つめて受け入れたとき、初めて強くなれるんだよ」
蓮はその言葉にかすかな希望を見出した。しかし、それはあまりに抽象的で、この状況でどうすればいいのかは分からなかった。
魔物がさらに近づき、蓮の目の前で立ち止まる。その赤い目がじっと蓮を見つめている。まるで、自分がどうするのか試されているようだった。蓮は息をのみながらも、ついに意を決した。
「俺の弱さが、お前だっていうなら……」
蓮は震える声で続けた。
「確かに、俺は弱い。無力だし、何をやっても中途半端だ。それが嫌で、ずっと逃げてた。でも……それでも俺は、生きたい!」
その瞬間、魔物の動きが止まった。その体が小刻みに震え、濁った粘液のような肉体が崩れ始める。赤い目は次第に薄れ、やがて消えた。蓮はその場にへたり込み、心臓が破れそうなほど鼓動しているのを感じながら、ただ見つめていた。
魔物が完全に消え去ると、廊下には再び静寂が戻った。だが、蓮の胸には重たい感情が残されていた。自分の弱さがあのような形になり、自分を襲う――それは逃げることでは解決しない課題だと気づかされた。
「俺の中に、まだあれが潜んでいるのかもしれない……」
蓮は立ち上がり、深い息を吐いた。そして心の中で誓う。この奇妙な現象の正体を突き止め、自分の弱さと向き合うために。
第1話『痰が魔物に』(完)