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くまをきる  作者: 久慈望
9/12

 それから、少なくとも表面上は、何事もなく時が過ぎていった。


 道で倒れていたあのへびは、ぼくの知っているへびなのかもしれない。日を追うごとに、その確信が深まっていった。少なくとも黒い犬たちに囲まれたへび死体を見てから、ぼくの前にを姿は現していない。


 店には平穏が訪れた。


 ひつじ毛も以前のように頭の上に盛り上がり、すべては元通りになった。ひつじははじめこそ、あんなことを言ってすまなかった。最近ストレスがたまっていてね、と酒が入るたびに謝り倒していたものだが、しばらくすると、明るく笑いながら酒を飲むようになった。


 なにもかも変わらない日常。けれど、ぼくの心は穏やかではなかった。ねこのことが気になっていたからだ。


 あれ以来、うまは店に来ていない。 うまに手を回したのはねこで間違いはないだろう。本人が言っていたのだし、酒が入っていなければ、案外素直だったのかもしれない。しかしへびはどうだろう。ねこはへびに話をした、と言っていた。


 うまとへび、それがねこにつながっている。関係ない、関係あるはずがない。ぼくは自分に必死に言い聞かせた。店に来ないようにと言ったかもしれないが、それとぼくがへびの死体を見たこととは別の問題だ。きっとそうに違いない。


 ぼくはさらに、一つの大きな問題を抱えていた。へびから逃げたあの夜のドラゴンの言葉だ。彼女の言葉がぼくの頭から離れなかった。


 ぼくはあの時、どうすればよかったのだろう。ドラゴンは特に変わった様子はない。いつものように早く来て、カウンターに座り、ドライマティーニを飲んでいる。


 何気ない会話をぼくに振り、そしてさるのテーブルが盛り上がると、話に加わる。あの夜以前と何も変わらない。変わらないからこそ、ぼくは悩んだ。かといって、ドラゴンになにかを言うことはできず、ぼくは大きなもやもやを抱えたまま、ここ数週間を生きていた。


「何か考え事でもしているの?」


 というドラゴンの言葉ではっとした。


「いえ、少しぼんやりしていました。すいません」


 ドラゴンはしばらくぼくの顔を見つめて、


「ふーん、最近様子がおかしいね。どうかしたの? 悩み事だったら聞くけど」


 ぼくはいっそのことすべてを話してしまおうかと思った。うまのこと、ねこのこと、へびのこと、そして何より、あの夜のこと……


「実は……」


「おい! どういうことだ? それ本気かよ!」


 さるの大きな声が聞こえた。そちらの方に目を向けると、さかなががテーブルに視線を落として黙っていた。


「どうしたの?」


 ドラゴンが声をかける。


「いやこいつが……」


 さるがいいかけて、さかなが顔を上げた。


「ぼくはもう、ここに来るのをやめようと思う」


「ほらな! こんな事を言いやがるんだ」


 ぼくはドラゴンの横顔が強張るのを見逃さなかった。


「何か理由があるの?」


 ドラゴンが声を落としてさかなに聞いた。とても落ち着いた声だった。


「それが先ほどから聞いてるんですが、答えてくれないんですよ」


 ひつじが困り顔で答えた。さかなは黙ったままでいる。


 店内が静まり返る。すると、にわとりが、


「そうか! わかったぞ!」


 と大声をあげ、全員が彼に注目した。


「ここに好物がないのをずっと我慢していたのだろう! 確かにここは明確なメニューというものがない。しかしこの唐揚げも元はなかったものだ。自分の好きなものを頼んでみるといいぞ! 今日は無理だとしても、次回までには用意してくれるはずだ!」


 にわとりはと満足した顔をしていた。


「いや違うだろ!」


 さるが言うが、


「何が違う?」


 とにわとりは不思議そうな顔をしている。それでさるは黙ってしまった。


 確かにそうかもしれない。店の皆が、誰も、さかなのことを知らなかった。今まで不満があったのかどうかも分からないし、もしかすると仕事で転勤だったりするのかもしれないが、そもそも仕事をやっているのかどうかすらわからなかった。


 にわとりの言うように、好きな料理がないからかもしれないのだ。皆が静まり返って、さかなはようやく顔を上げて口を開いた。


「ここが嫌になったわけじゃない。ただ、行かなくちゃならない。やることがたくさんある。僕がやってきたのは、金を稼ぐことだけだ。大学に行きたい」


 さかなが言葉を区切りながら答えた。するとさるが、


「なんだよ、そういうことかよ……別に、大学行きながらでも来れるだろ?」


 さかなを説得するように言う。さかなはパクパク口を動かしている。


「引き留めてくれるのはうれしい。でもダメなんだ。ここに居たら、僕は僕のままで終わってしまう。大学へ行き、やりたいことを見つけたい」


 そして再び黙った。


「なんだよそれ! 適当な言い訳並べやがって、要は来たくなくなったんだろ! 勝手にしろよ」


 さるは金をテーブルにたたきつけるように置き、


「くま! 釣りは今度貰うぜ」


 と言い捨てて店を出て行ってしまった。


「待ってください! さかなさん、考え直して次も来てくださいね」


 ひつじがさるの後を追った。さると同じように代金をテーブルに置き、店を出ていった。しばらく沈黙が流れていたが、さかなが口を開いた。


「みなさん、いままでありがとうございました。とても楽しかった」


「からあげくうか?」


 にわとりが皿を差し出した。


「もらいます」


 さかなは皿の中から一つの唐揚げをつまんで、口に放り込んだ。


「おいしいです」


「そうだろう! 大学がんばれよ」


 ドラゴンはなにかを言おうとしてやめる、と言うのを繰り返し、ようやく、


「元気でね」


 絞り出すような声で言った。さかなは今はまだ先のことはわかりません、と言い、申し訳なさそうな顔をしていた。


「大学というのはどんな場所ですか?」


 場をとりなすように、さかなが言った。


「ああ、そういえば、くまくんは大学生だったよねどんなかんじ?」


 声の調子を上げて、無理に明るく振舞うようにドラゴンが言った。ぼくはここで何か気の利いたことを言わなければならなかったが、特に思いつかなかった。


「たのしいですよ。でも楽しすぎて、遊びまわっている人もいます。でも真面目な人にとってはとても学び甲斐のある場所だと思います」


「くまくんは?」


 ドラゴンが口をはさむ。


「もちろん前者です」


 そう答えると笑ってくれた。


「サークルにも入ってみると良い。勉強ばかりでは体を壊す。適度な運動が必要だ」


「でも、しっかり選ばないとね。サークルっていっても趣味の集まりだから、結局遊び仲間を作るだけになっちゃう」


 にわとりの言葉にドラゴンが付け加えた。


 さかなは呆然と口をパクパクさせていたが、考え事をするように瞬きをして、


「ありがとうございます」


 と言った。それから、コークハイを飲み干して、席を立ち、ぼくにお札を何枚か手渡した。


「みなさんのぶんです」


 その言葉を最後に、さかなは店を出ていった。さかながいなくなり、店はにわとりとドラゴンだけになった。


 にわとりはその姿に似合わず落ち込んでいるようで、


「仕方のないことだが、ひとがいなくなるというのはさびしいものだな」


 と独り言のように言った。


「あーあ、今度はもっと長く続くかなって思ったんだけどな」


 ドラゴンもつぶやく。ぼくは、なんと言っていいのかわからず黙っていた。とりあえずさかなとさるとひつじの居たテーブルを片付け、置かれていたお金を回収した。


 さかなのことはよくわからないままではあったが、心のどこかに穴が開いてしまったような寂しさを覚えていた。にわとりが席を立ち、カウンターにグラスと、まだ残っている唐揚げを置いた。


「良かったら食べてくれ、今日は帰ることにする。このような気分での油は体に良くない。健康な心があってこそ、唐揚げは体に浸透し、力になる」


 ドラゴンは笑いながら、


「そういうものなの? わかりました。私とくまくんで処理しておきます」


「すまない」


 そしてにわとりも店を出ていった。


「あなたも飲んだら? 唐揚げだけってのもあれでしょ?」


 ぼくはドラゴンに進められて、自腹でカルーアミルクを、と思ったがさすがに唐揚げには合わないと思ったのでコークハイにした。さかながいつも頼んでいたものだ。


 ドラゴンが手を休めて、


「きっとね、おさるさんはさかなくんのことを、自分の後輩みたいに思ってたのよ。普段会社ではうまくいかないけれど、さかなくんと仲良くできていたから、心の安定になっていたんだと思うな」


「ずいぶんと気に入っていたみたいですもんね」


 店に来て日が浅いぼくですら、さるがさかなと話すのが楽しくてしょうがないというのが分かったほどだった。酒も少し回ったころ、


「私も帰ろうかな」


 と言ってドラゴンがグラスを空けた。


「今日も一緒に帰ろうか」


「はい、準備しますね」


 ぼくはなんの抵抗もなく応えた。酔いが回っていたということもあるが、ドラゴンに誘われた驚きよりも、この店に漂う寂しさのような何かを埋めたかったのかもしれない。さっとテーブルを拭き、床を掃除し、とらに声をかけてから店を出た。


 外は少し寒くなっていた。店で働くようになってから数カ月が経っている。ドラゴンが寒いね、と言い、ぼくは、そうですね、と答えた。なにもない。普通に帰るだけだ。へびはもういないし、この前のようなことは起こらないはずだ。


 空には月が輝いて、ぼくとドラゴンの影が地面に伸びていた。


「言ったとおりだったでしょ」


 突然、ドラゴンが口を開いた。


「へ?」


「この前行ったこと、覚えてる? みんなさ、どこかのタイミングで、ここには来れないっていうのよ。それも、やむにやまれぬ事情とかじゃなくて、なにかしたいとか、やることがあるなんて言い出して、それでいなくなっちゃうの」


「大学は、立派な理由だと思います」


 ぼくはさかなのような強い気持ちはなく、だらだらと通っているだけだったが、彼なら、大学の時間を有意義に使えるだろう。


「そう! そうなのよ! だいたいみんなちゃんとした理由なの。だから誰も引き止められない。そうやって、ひとりまたひとりっていなくなって、結局私だけが残ってしまう」


 ドラゴンが気落ちした声で言う。


「大丈夫ですよ。他の方々だって、いるじゃないですか」


「でも先のことはわからないでしょ。無責任なこと言わないで」


「すみません……」


 たしかに、余計なことを言ってしまったかもしれない。でも、誰だって先のことはわからないじゃないか。このままずっと、今の常連が通い続けることだってあり得るのだ。


「ごめんね。ちょっと私おかしいみたい」


「そんなことないですよ」


「あなたはやさしいね」


 ぼくは月明かりに照らされた道の向こうを見た。照明の強く光る駅が遠くに見える。ぼくは優しくなんてない。彼女には何もしてやれることはない。人がいなくなるという悲しさはわからないし、ずっと見送ってきたという彼女の気持ちは言葉ではわかっても、完全に理解することなんてできない。


「今日はさ」


「はい?」


「うちにくる? もうちょっとさ、飲みたいなって思って」


 ドラゴンが立ち止まり、ぼくも立ち止まる。吸い込まれそうな爬虫類の瞳が、ぼくを見つめている。ぼくに選択肢はなかった。


 それからの記憶は、きわめて断片的だ。アルコールが入っていたことも大きい。タクシーが呼ばれ、移動し、ドラゴンの住むマンションに着く。彼女の後ろをついて部屋に入ると、ドラゴンは冷蔵庫からビールを出してくれた。


 一人暮らしの女性の家に呼ばれるなんてことは、初めてのことだった。とても嬉しいことのはずなのに、ぼくの心はそれほど弾まなかった。彼女の家は、これが正しい表現なのかはわからないが、荒涼としていた。


 必要なものしか置いていない、簡素な部屋。白と黒、後は銀色だけで構成された家具と家電製品が、その印象を与えていたのだと思う。聞こえるのは冷蔵庫の駆動音だけで、部屋の中なのに外以上に冷え込んでいる気がした。


 ぼくは勧められるがまま、床に座り、テーブルの上に置かれた缶ビールに口をつけた。


 普段はあまり飲んだりしないから、アルコールが体に行き渡っていくのがわかる。そうしなければ、この部屋に飲まれてしまいそうだと思ったからだ。


 ドラゴンから聞かされる、さかなを中心とした常連たちとの思い出話を聞きながら、ぼくはビールを喉に流し込んでいた。ドラゴンは、ぼくが気づいたころには部屋着のシャツ姿になっていて、このあたりから、記憶があやふやになっている。きっと、酔いが回っていたのだ。


「よった?」


「はい、ちょっと飲みすぎてしまったようです」


「そう……」


 ドラゴンがぼくの毛むくじゃらの首に手を伸ばす。そしてゆっくりと、牙のついた口先をぼくの鼻先に近づける。ぼくはぼんやりとした頭で、


「どうしたんですか?」


 と聞いた記憶がある。ドラゴンはぼくの体から離れて、服を脱ぎ始めた。なめらかな鱗と柔らかそうな腹部があらわになる。ぼくはその姿を見て、素直に、きれいだと思った。ドラゴンはぼくに身を預け、口先を何度もぼくの毛皮にうずめた。


「もし嫌だったらごめんね」


 とドラゴンが言ったことを覚えている。ぼくは、いえ、そんなことは、なんてことを言っていたように思う。


 最後に見たものは、ドラゴンの大きな口と鋭くて白い歯だった。


 それからのことはよく覚えていない。

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