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くまをきる  作者: 久慈望
8/12

 その日、ひつじは荒れていた。


 彼はいつもより遅くに店に現れた。ほかの常連はすでに皆揃っていて、さるが一人で話を回していた。さるはいつにもまして上機嫌で、扉が開くと勢いよく、


「さあ、お出ましだ」


 と、扉に向かって声をかけた。しかし、次の言葉は出なかった。店内の全員が言葉を失い、静寂が訪れた。ひつじの姿がいつもと違っていた。それはわずかな変化ではなくて、誰が見ても分かるような大きな変化だった。


 あれだけ頭上に盛り上がっていた大量の毛が、今や完全になくなっている。しかもまだらで、汚く刈られていた。


「おい、どうしたんだよ」


 さすがに心配になったのか、笑顔を失ったさるが声をかけると、ひつじは何も答えず、いつものテーブル席に着いた。


 店内がひつじに注目し、沈黙が続く。するとひつじは、


「私はもう、すべてが嫌になってしまったんです。ほんとうは今日だってここに来るべきではなかった。私はだめで愚かな人間です。きっとここに来たのは誰かに慰めてもらいたかったからだ。そんなことをしても無意味だというのに」


「お前、まさか、また見合いでもやったのか?」


 さるが聞くと、ひつじはゆっくりと頷いた。


「まじかよ。前にも言っただろ、気にすんなって、営業と同じなんだよ。そんなもんは、数うちゃ当たるんだから」


「私はあなたとは違うんです! そうやって人から断られるという現実を受け入れることができない。全部、この醜い体がいけないんだ」


 ひつじが珍しく、さるの言葉に食ってかかる。


「だからって、自分を傷つけることはないでしょ」


 ドラゴンが諭すように言った。


「そうだぞ! いじめていいのは筋肉をだけだ」


 にわとりがいつものようにピントの外れたことを言うが、今回ばかりは、この状況にあっている気もした。


「まあまあ! とりあえず飲めよ! 飲めば忘れられるさ。今度新しいのでこいよ、な! とりあえず飲め! おい! くま!」


 さるがぼくに声をかけ、ぼくはとらにいつもの電気ブランを注文した。テーブルの上に酒が置かれても、ひつじはまったく喋らなかった。場の空気を和ませようと、さるはいつも以上に喋っていたし、あのさかなですら、いつもよりも明るく振舞っているように思えた。


 ぼくはひつじの気持ちがよくわからない。それは、ぼくがこの店にいる時間が短く、共にした時間が短かったためだろう。ぼくは改めて、この常連たちのことを知りたいと思った。


 うまのことがあってから、たとえ、うま自体の存在を忘れていたとしても、店に来る人々に対する見方が少しだけ変わっていた。常連たちは、なにかしらのものを抱えながら、この店にやってきているのかもしれない。そう考えるようになっていた。


 さるとひつじ、さかなはいつもよりも早く店を出た。にわとりも後に続いた。ひつじを励ますために、別の店でもう少し飲もうというわけだ。


 ドラゴンは一人だけ店内に残った。しばらくひつじについて何故モテないのか、ということについて話していたが、急に、


「ねえ、私たちも外に出ない? 私が出たらこの店を閉めるんでしょ」


 と言い出した。突然の申し出に、ぼくは上手く返答できなかった。


「どうするの?」


「ええ! はい! そうしましょう!」


 反射的に答えてしまい、ぼくは急いで準備をすることになった。テーブルを片付け、掃除をしている間、ドラゴンはずっと待っていた。


 とらに声をかけ、ぼくとドラゴンは二人で一緒に外に出た。ここで勤めてから数カ月がたつが、こんなことは初めてのことだった。


 特に何かが起こるわけでもない。ぼくは自分を落ち着かせようと必死だった。何故落ち着かせなければならないのか。なにを焦っているんだ。そんなことを考えながら、ドラゴンと二人で、暗くなった夜道を歩いていた。


 まだ十一時前。このまま駅に向かって歩いていけば、どう間違っても最終電車に乗り遅れることはない。


「なんていうかさ」


 先に口を開いたのはドラゴンだった。


「こうやって二人で歩いていると、店とはまた違った感じになるね」


「そうですね」


 言われてみればそうだ。店でのぼくとドラゴンの関係は客と店員の関係だが、今は違う。普段であれば適当な話題を振ることができるはずなのに、まったくなにも思いつかない。では一体どういうものかと言うと、良くわからない。ぼくはまだ、なにもドラゴンのことを知らないし、ずっと店に来ている理由すらわからない。


「ひつじさん、大丈夫でしょうかね」


 とりあえず、当たり障りのない話題を振ってみる。ドラゴンは少し考えてから、


「うん平気だと思う。わたしが断った時もあんな感じだったし、さすがに毛を毟るほどではなかったけどね。でも、店に来ている限りは大丈夫だと思う。皆がいるからね。私からすると、別に結婚なんてしなくてもいいのにって思うけど、男の人はそうでもないのかな?」


 なんてことを言う。ぼくに聞かれても困る。


「あまりわからないですね。そういうの、イメージできないです」


「そっか。まだ若いからなあ」


 そこで、依然感じたものと違和感に気づいた。あの時と同じだ。道の先に目をやると、やはりあいつがいた。街灯の下にうねうねと動いている何かがいる。


 へびだ。


 ぼくは身構え、


「少し先にへびがいます」


 と声を抑えて言った。


「え?」


 ドラゴンが聞き返す間に、へびがこちらに近づいてきた。


「やあやあ! お久しぶりです、りゅうさん。ぼくですよ。どうですか? おどろきましたか? 今まで店に顔を出せずにすみません」


 やけに明るく、甲高い声が耳に障った。


 ドラゴンは、その爬虫類のわかりづらい表情でも隠し切れないほど強張った顔をしていた。


「私のことはもう構わないでって言ったでしょ」


「つれないなあ。ぼくとりゅうさんの仲じゃないですか。わかっていますよ。それが照れ隠しってことは。ほら、ネットやなんかで言うじゃないですか。ツンデレってやつですか」


 へびは一方的に、ぼくを無視して話を続ける。


「あの……」


 ぼくがなにかを言いかけようとすると、


「はい! そこ! 君の意見は聞いていないんだよ。なんだあ! りゅうさんと一緒に帰ったりして、彼氏気分ですか? 一人で夜道を帰る女性をエスコートですか? 君にそんな役は似合わないよ。まったく、今日こそはりゅうさんと二人きりで会おうと思っていたのに、とんだ誤算だったな」


「やめて」


 ドラゴンが語気を強めて言う。


「いやだからもういいんですよ。そういうのは。素直になりましょう。同じ見た目じゃないですか。店ではちょっと衝突がありましたが、ぼくは気にしていません。あなたが許してくれるのなら謝ります。だからまた一緒に飲みましょうよ」


 さらに言葉か続くと思ったその時、ドラゴンの平手打ちがへびの顔にとんだ。へびはよろけてしりもちをついた。


「だから! もう! 話しかけんなっつってんでしょ! しつこいのよ!」


 喉から絞り出すように言った。ドラゴンは肩で息をしている。少し震えていたが、一方のへびも震えて、頬を抑えていた。


「いったいなにをするんですか。こんな、いくらあなただって、ぼくに手をあげることは許されませんよ。ゆるさない。ゆるすものか」


 わなわなと震えながら、へびは泣いていた。


「行きましょう!」


 ドラゴンが言って、ぼくの手を引いて走り出した。


「ゆるさないからなあ!」


 後ろで、へびの大声が響き渡っていた。ぼくはドラゴンに手を引かれ、路地を駆け抜けていった。追いつかれないようにするためか、道を何度もまがった。


 走っている間、ぼくは何も考えられなかった。うろこで覆われたひんやりした手。へびのことなどどうでも良く、その手の感触だけが、ぼくの頭を支配していた。


 気づくと、駅の近くの路地で立ち止まっていた。


 ドラゴンは肩で息をしていた。ぼくもまた、久々に走ったことで息が上がっていた。ドラゴンはハアハアと息を吐きながら、


「ここまでくればもう大丈夫でしょ。ごめんね、巻き込んだみたいで」


「いえ、ぼくも何か言うべきだったのですが」


「いいのよ。私の問題だし」


「へびってあの店と関係があるのですか」


 ドラゴンは少しいい淀んで、


「前の店長なのよ」


「そういうことでしたか」


 今までのことが、いろいろと繋がってきた。でもなぜ、へびはあれだけドラゴンにこだわっているのだろう。


「最初はね。新人ってことで、いろいろと教えていたのよ。やってたのはあなたにしたのと同じようなこと。おさるさんの扱い方とか、誰が何を頼むとか、そういうことを少しずつ教えていたわけ。するとだんだん私のことばかり気にかけるようになっちゃって、それは店長のやることじゃないでしょ、なんて怒ったりして。でもまったく聞かなくてね。あげくの果てに、帰りに私の後を追うようになったのよ」


 ここで、ドラゴンは大きくため息をついた。


「私が悪かったのかもしれない。勘違いさせちゃったってことでね。それで、おさるさんとかひつじさんが気付いてくれて、ねこ? かな、今の子は、が、手配してくれて、店長が変わることになったみたい。もう会うことはないと思っていたけど、まさかまだあんなことを続けるなんて……」


「警察とかに相談した方がいいんじゃないですか?」


 ぼくは言った。こういうことが何日も続くようなら、それは立派なストーカーだ。


「いいのよ。見たでしょ。わたしが叩いたってなにもできなかった。勇気も力もないのよ。あれだけのことをしたんだから、もうしばらくは近づいてこないでしょ」


 しかし本当にそれで良いのだろうか。許さないと言っていたへびの顔が頭をかすめる。憎しみや悲しみがない交ぜになって、へびの顔を通してでさえ、ぼくをおびえさせるような恐ろしい顔をしていた。


「では、なにかあったら教えてくださいね。警察への通報も含めて、一緒に考えましょう。ほおっておくのはあまりいい案とは言えないですが」


 悩んだ末、そのくらいのことしか言えなかった。


「心配してくれてありがとね」


 ドラゴンと目が合った。ぼくは目をそらし、スマホで時間を確認する。


「まだ電車、間に合いそうですね」


「そうね。帰ることにする」


 けれど、ドラゴンは動かなかった。


「このまま一緒にうちに来る?」


 言われたことに驚いて、ぼくはまったく固まってしまった。誰が、どこに? 何も言えないままでいると、


「うそうそ、じゃ、お先にね」


 ドラゴンは急ぎ足で駅へと向かっていった。


 ぼくはやはり動き出せず、呆然と立ち尽くすほかなかった。


 それからぼくは、どうやって部屋に戻って、その間どんなことを考えていたのかも、さっぱり思い出せない。


 気づくとぼくは布団の中に居て、不安のなかで、色々なことを考えていた。


 やはりへびのことは警察に通報するべきではなかったのだろうか。ぼくの頭に、そんな考えが浮かぶ。しかし、悩んでみても仕方がないことではあった。ぼくはドラゴンの連絡先も知らないわけで、そんな人間が警察に頼ったところで、どうにもならないことはわかっていた。


 ようやく気持ちが落ち着いたかと思うと、急激な眠気に襲われて、そのまま眠りについた。寝る前に、念のため、ねこにへびのことを伝えるメッセージを送っておいた。


 ぼくにできることはそのくらいのことだった。


◆    ◆    ◆    ◆


 朝起きると、体がだるかった。


 きっと心配事で寝つきが悪かったのだろう。


 起きてから朝食を食べた後でも、ぼくはもやもやとした考えを抱えたまま無為な時間を過ごしていた。


 バーに向かう時間を迎え、ぼくは家を出る。


 店までの移動の間に、ねこからの返信があった。


 “そのことなら問題はないはずだ。向こうももう手を出さないと言っていた”


 なんていう対応の早さだ。


 薄暗くなった人のいない大通りを歩いていると、急に心細く、不安になった。この感覚には身に覚えがある。


 ああ、そうだ。間違いない。あいつらだ。黒い影がいくつか、行く先の道に立っている。


 同じような姿をしたいぬが三人、何かを見下ろして立っている。


 あれだ。もうわかっている。きっと足元には何者かの死体が転がっているはずだ。ほら、近づいてきた。今回は何の死体なんだろう。


 岩に当たった不運な死体。頭から血と一緒に中身まで地面にぶちまけている。


「あ……」


 ぼくは思わず声を漏らした。


 そこに倒れていたのは、へびだった。ぼくの背筋か凍り付いた。今にも立ち止まってしまいそうだった。


 だめだ。いぬたちの目を見てはいけない。


 ぼくは、何も考えないようにした。ぼくはへびなど見ていない。見ているはずがない。きっと、同じようなへびをきた別人だ。


 まっすぐを見据えたまま、いぬたちには見向きもせず、ぼくは店に向かった。

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