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くまをきる  作者: 久慈望
7/12

 ぼくは完全にバーで働く生活に適応していた。


 すっかり仕事にも慣れ、誰が何を頼み、とらにどのくらいのタイミングで注文するか、いつ頃帰るのかもだんだんわかってきた。客に話を合わせ、どう返事するのかもつかみかけていた。


「でよお、そいつが、おれのやり方が古いっていうんだよな。今どき客先に顔を出すより、メールや電話で十分だろってな。ましてや今はあれが降ってる。あれが降っているっていうのにむやみに危険を冒して外に出る必要もないっていうんだよ」


 今日は珍しくさるもカウンターに座っている。ひつじと言えばいつもとは違うブランデーを頼んで、ひどく酔ってさかなに話しかけていた。さかなはぼんやりとした顔で聞いている。


「そうねえ、若い人って、上の人間に反発したがるものだから」


 ドラゴンが相づちを打つと、酒も入って気分も盛り上がっていたさるは、


「そう! それなんだよ。これがだ、もっとわかりやすく噛みついてくりゃや利用もあるんだが、あいつらの態度が気に入らん。結局おれ、というより、昔から勤めてるやつに対するに反抗したいだけなんだよな」


 と一気にまくし立てた。


「でも、おさるさんにもそういう時があったでしょ?」


「ないとは言わん。しかしおれは自分の意志でもって反抗してたもんだ。しかしいまのやつときたら、ネットでどうのこうの、海外でどうのこうのと、他で聞きかじった言葉で行ってきやがる。若いってやつはどうしてああなんだろうな? くま!」


 ぼくは慣れたもので、


「そこまでわかってるなら、もっと時間をかけて話し合ったらいいじゃないですか。もしかしたら向こうもそれを望んでいるかもしれないですし。反抗するだけやる気があるってことですよ」


 なんて社会人にもなったことがないのに分かったことを言う。


「ほら、くまくんの方が大人じゃないの。ちょっと前は、気骨のあるやつがいないって言ってたでしょ」


 ドラゴンがなだめるように言った。


「うん……まあ、そうなんだが……けどよお!」


 そうやって、さらにさるがヒートアップする。これにも慣れたもので、後は頷いたり酒を勧めたり、時間になると、帰るように勧めたりしていればいい。何が何だかわからない状況で始まったこの仕事も、気づけばすっかり慣れている。


 それもこれも、すべてドラゴンのおかげだといっても過言ではなかった。彼女がいてくれたから、この場に馴染むことができたし、気難しいさるの相手も、言葉が足りないにわとりの対応も、感情の読めないさかなの注文も受けることもできていた。


 この状況がいつまで続くかわからないが、すくなくとも、すぐにやめる気はなくなっていた。


 店で働き始めて一カ月以上経ったが、ねことは連絡を取っていない。初めての給料も振り込まれていたし、夜が遅くなることを除けば、待遇に何の不満もなかった。


 このまま何事もなければ、ずっと続けることが出来そうだとさえ思い始めていた。


 十時も回ったころ、店にはいつもの常連が揃っていた。


 にわとりが唐揚げを食べながら、ひつじとジム談義をやっている。最近はジムも閉まっていて、自分でトレーニングをやっている。ダンベルだけでも筋肉は効率的に鍛えることができると言い、ひつじはそれを律義に聞いていた。


 時折にわとりが、


「だが、ジムには及ばないがな!」


 と大声を上げ、それを聞くたびに、さかなが声を殺して笑って、コークハイを飲んでいる。


 いつもと変わらない日常がそこにはあった。


 しかしそこに、予想もしないことが起きた。常連が揃うと開くことのない扉が、ゆっくりと開き、誰かが店に入ってきたのだ。


「なんだよ、わかりづらいな」


 それはうまだった。


 体からうまの首が伸びていて、とても背が高く見えた。しわくちゃで灰色のスーツを着て、ネクタイも閉めず、ワイシャツの首元がだらしなく開いている。


 すでに酔っているらしく、足どりもふらついていた。常連たちの視線がうまに注目している。しかし、当の本人はまったくそれを意に介さないというように、カウンターに向かって歩いてくる。


「いらっしゃいませ」


 ぼくがそう言うことができたのは、うまがカウンターに身を乗り出さんばかりに荒々しく座った後だった。


「いやあ、狭い店だね」


 うまは独り言のように言って店内を見回した。


「ずいぶんご機嫌だな」


 さるがあきらかに嫌味を込めて言う。しかしうまはそれを無視してドラゴンの方を向き、


「おねえさんはりゅうなのかい? はじめてみたよ。りゅうってのは、自分で選んだの? それにしては、女性が選ぶようなものじゃないと思うんだけど」


 などと言いながら彼女に顔を近づけた。なおも言葉を続けようとしたので、ぼくが、


「ご注文は?」


 と口をはさむ。するとうまは、


「カクテルを、と言いたいところだが、この店をまだ信用しているわけじゃないんでね。ワインをたのもうかな。赤で。ビールは飲んできたんだ。良いやつを頼むよ。高過ぎたら払えないけどね」


 といって、ハハハと笑った。


 ぼくは正直油断していた。常連のことをある程度把握しさえすれば、後は上手くやっていけるつもりだった。けれどまさかこんな客が来るとは。うまの態度に、ぼくはいやな予感がしていた。


「あなたは誰かの紹介できたんでしょうね?」


 ぼくがとらに注文を頼んでいるうちに、ドラゴンが聞いた。


「え? そうだよ? ねこの耳をつけている若い子が急に話しかけてきてね。私は別に行きつけがあるから、乗り気ではなかったんだんだが、試しに顔を出してみたんだ」


 そこで、ノックが聞こえた。ぼくは小窓を開いてグラスを取り、ワインをうまの前に置いた。


「お待たせしました」


 うまが喋っている間にも、店の空気は凍り付いていた。ドラゴンは平然としているが、さるの顔が赤くなっているのがわかる。


 うまは乱暴にグラスをつかみワインを半分ほど一気に飲んだ。


「やけに静かだ。いちげんさんはお断りってわけかい?」


 うまがぼくに向かって言う。


「いえ、そういうわけでは……」


 こういう時、ぼくはどうしていいのかわからない。それだけの経験を、ぼくは積んでいなかった。


「くまか、ねこの耳をつけた彼がよろしくと言っていたよ。しかし私はね。この店が気に入らないんだ」


 そう言って、ワインを喉に流し込んだ。


「こうやって人の目を盗むように集まって、傷のなめ合いのようなことをやっている。私はもっと動くべきだと思うんだよ。いいじゃないか、何をきていたって。それで、一体誰が困るっていうんだ。それを君たちは隠れるようにこそこそ集まって。どうかしてる。周りに言ってやればいいんだ。お前らの方がおかしいんだって、ぼくは言ってやったね。結果的にひどい目には合ったが、後悔はしていない。私は君たちのような臆病者とは違うからね」


 話しているうちに熱が入り、うまは立ち上がっていた。言い終わった瞬間、それまで体を震わせていたさるがついに席を立った。


「言わせておけばべらべらべらべらほざきやがって、てめえにおれたちの何がわかるっていうんだよ!」


 しかしうまは引き下がらなかった。


「君たちのような人たちがいつまでも声を上げないから、結果的に我々全体の権利が得られない。私がこうやって後ろめたい気持ちを抱え込んでいるのだって、要は君たちのせいなんだ。君たちのような人種がこうやってこそこそ巣にこもっているから……」


「なんだと!」


 さるがうまにつかみかかろうとして、察したにわとりとひつじが二人の間に割って入る。


「殴るのかい? こういうときだけは行動的なんだね」


 うまが挑発する。するとますますさるが顔を真っ赤にして、それを止めるひつじとにわとりの体に力が入る。


「なんなんですかあなたは、こんな場で人に喧嘩を売るようなことをして!」


 ひつじが大声を上げ、


「ここは落ち着くんだ! 争っても何の意味もないだろう」


 にわとりがさるを押さえつけながら言った。


 そこで奥の扉が開いた。店内の全員がそこから出てきたとらに注目していた。ゆっくりととらが歩いてくる。まるで時間の流れが遅くなってしまったように感じた。


 とらがカウンターを出て、うまの前に立つ。巨大な体に気圧されて、にわとりとひつじは身を引いていた。


 うまの体が浮いた。とらが、片手で男一人を担ぎ上げていた。


「何をするんだ!」


 うまが叫び声をあげて暴れたが、とらは全く動じない。うまの言葉を無視して、店の入り口に向かってずんずんと歩いて行った。うまを担いだまま片手で扉を開け、二人は店の外に出ていった。


 店内は静寂に包まれた。誰も、何も言わなかった。


 やがて、とらが店に戻ってきた。うまの姿は見えなかった。誰もがとらを見ていたが、声をかけることはできなかった。


 とらは黙ったまま奥の調理場に戻っていった。


 沈黙が続いた。


「なんか、すまんな。つい熱くなってしまった」


 さるが言って、ようやく店内の緊張が和らいだ。


「驚きました。話には聞いていましたが、とらさん、すごく大きい体でしたね」


 ひつじが落ち着かな気に言う。


「負けたかもしれん」


 にわとりが言うと、ドラゴンがフフッと笑い、店内にいつもの空気が戻った。


 しかし、飲みなおそうという気にはならなかったのか、結果、今日は解散するということになった。ドラゴンですら、最後まで店に残らず、さると同じタイミングで席を立った。


「すまなかったな」


 店を出る際、申し訳なさげな顔でさるが言った。


「そうね。あんなのにかまってもいいことないから」


 ドラゴンが答え、ひつじやにわとりがうなずいていた。


◆   ◆   ◆   ◆


 うまが店にきてから一週間ほどが経って、ねこが店にやってきた。


 あのことがあって以来、常連の誰もがうまのことを話題に出さなかった。そのおかげもあって、ぼくもすっかり忘れつつあった。


 ねこは客の誰もいない開店直後にやってきて、


「うまくやっているようだな」


 と言いながらカウンター席に座った。


「ようやくって感じだよ。なにか飲むかい?」


「いややめておこう。今日は謝りに来た」


「なにが?」


 ぼくは本当に何のことかわからなくて、ねこの顔をじっと見る。


「うまのことだよ。この前来ただろう」


「ああ、あの時は大変だったよ。常連さんたちと揉めてね。しかしびっくりした」


 ぼくは声を抑えて、


「あのとらってはなにものなんだ? 片腕で大人の男を抱えてたんだけど」


 と付け加えた。うまのことを忘れつつあっても、とらの威圧感だけは忘れようとしても忘れられなかった。


「いや、おれもよく知らない。前任者とは親しい関係だったと聞いたんだが。まあ、それはいいとして、ほんとうにすまなかった」


 ねこが頭を下げた。こんなにしおらしく、低姿勢なねこを見るのは初めてのことだった。


「いやいいよ。あれから来ていないし、言われるまで忘れてた」


 ねこはもう一度頭を下げた。よほど反省しているらしい。


「おれがもう来ないようにと伝えた。やつに声をかけたのは最近のことなんだが、その時には酒が入っていなかったんだ」


「仕方ないよ。もう来ないんだったら問題ない」


「ありがとう。辞める気になったりしてないか?」


「それはない、かな。楽しくやってるよ。皆やさしいし、それより……」


「なにかあるのか?」


 ぼくは前々から気になっていることを聞こうと思っていた。


「へび、って知ってる? どうもこの店に関係があるらしいんだけど」


 するとねこの表情が変わった。とても険しい表情をしている。


「来たのか? この店に」


 ねこの声にはいら立ちのような、怒りのようなものが含まれていた。


「帰りの道で会ってさ、店のことを知ってる風なことを言っていて、変な人だった」


「すまん、今日はここで帰ることにする」


 そう言って、ねこは席を立った。


「どうかしたのか?」


 ぼくが聞くと、ねこは厳しい表情のまま、


「いや問題はない。なにかあったら連絡くれよ」


 と答えて、足早に店を出ていった。


 やはりへびに何かある。ぼくはもやもやとした考えを頭に浮かべたまま、常連たちが来るのを待っていた。

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