⑤
ぼくはバーカウンターに立っている。
そして目の前には、
「ドライマティーニをいただける?」
りゅうが座っている。緑色で、とても怖い顔をしたりゅうだ。ぼくの身体は固まってしまっていた。
ぼくはもつれる舌で、
「はい、かしこまりました」
とぎこちなく返事をする。
「ここじゃそんな口のききかたしなくてもいいのよ。もっと気楽に」
ゆっくりとした優しい声でりゅうが言った。
その姿は、りゅう、というよりドラゴンだった。蛇と鰐の中間のような爬虫類的な頭を持っていて、皮膚は艶やかな鱗で覆われている。
体は完全にドラゴンとは言えない。店に入ってきた姿は、会社帰りの働く女性、と言った感じで、白いワイシャツにジャケット、膝上丈のスカートを履いていた。
首から下は人間の身体か、と言うとそうでもなくて、首や手など見える皮膚はすべて鱗におおわれているし、どこから生えているのかは不明だが、太く大きな緑の尻尾も見えた。
それに、とても飛べそうには思えないが、背中には小さな翼が折りたたまれているようだった。
ぼくは小窓の上あたりをノックして、とらにドライマティーニを頼む。するとシャカシャカと音が響く。
しばらくすると小窓が開き、ピーナッツとともに酒の入ったグラスが置かれている。
ぼくは震えそうになる体を必死に抑えて、その二つを取りドラゴンの前においた。
ドラゴンはこちらをじっと見つめていた。爬虫類特有の、何を考えているのかわからない少しひんやりとした視線を感じて、ぼくは、息をのんだ。
「ありがと」
ドラゴンが鋭い爪の生えた手でグラスを受け取る。
ぼくはグラスに口をつける彼女を見ながら、ずっと黙っていた。なにかを言わなければならない。しかしぼくは、その滑らかな緑色の鱗やうるんだ眼球から目を離すことができず、口を開くこともできなかった。
「今度はどんな人かと思ってたけど……」
「へ?」
急にドラゴンに話しかけられて、固まってしまう。
「まさかくまとはね。てっきり、お仲間を連れてくるかと思ったけど、かわいらしい」
「えっと、その」
ぼくはまだうまく喋ることができない。相手がドラゴンではなく、ハリネズミとか、ハクビシンであればよかったのにと思う。そもそもぼくは、蛇やトカゲの類の爬虫類が苦手なのだ。
「くまって嫌いなのよ。あ、誤解しないで、嫌いっていうのは、テディベアみたいなくまね。世の中にはたくさんのくまが溢れているけれど、どれもこれも、かわいさを押し付けられてるみたいで。その点あなたはとても好ましい。牙もあるし、爪だってある。ごわごわの毛もとてもいい。くまというのは、そうでなくちゃね」
どうやらぼくは褒められているようだ。
「ありがとうございます」
「あまり硬くならないで。いつも最初にここに来るのは私だけれど、私が一番怖い顔をしているの。だから私に慣れてしまえば、後は誰とでも仲良くなれるはず。あなたの見た目も悪くないし」
そう言って、彼女はグラスにまた口をつけた。緑のうろこに覆われた手でナッツをいくつか掴み、口の中に放り込むと、それからしばらく喋らなくなった。
今この店の中には、くまがいてとらがいてドラゴンがいる。前もって知っていることとはいえ、やはりそのことに関して、奇妙に思わざるを得なかった。
「おう、やってるかい?」
声とともに扉が勢いよく開いた。
そこに居たのはさるだった。茶色の毛が顔の輪郭を覆っている。上げた片手にも同じように茶色の毛が見える。
「こんばんわ」
さるの後ろから現れたのはひつじだった。おびただしい量の白い毛で覆われていて、頭はさるの二倍以上の大きさに見えた。
さるがスーツ、ひつじは、スラックスにポロシャツという格好だった。さるの方がきっちりとした服装をしているはずなのに、なぜかだらしなくも見えるのは、二人の醸し出す雰囲気の違いだろう。
「お、くまか! 待ちくたびれたぞ! よろしくな!」
と、さるは言って、テーブル席の椅子を雑に引き、腰かけた。その向かいにひつじが座った。
「いやあ、久しぶりですね。二カ月くらい間が空きましたかね? りゅうさんもお久しぶりです」
ひつじがカウンターの方を向いて、ドラゴンに声をかけた。
「久しぶり、また太ったんじゃない?」
「そうなんですよ。どうも最近の岩のあれでストレスがたまったらしくて。仕事も忙しいですし、ジムにも行けてなくて」
「けっ、ジムになんて行くような体かよ」
さるが口をはさむ。
「体型の問題じゃないんですよ。筋肉を鍛えるためというよりは、体を適度に動かす場所として使っているんです。最近じゃ運動不足解消にビジネスパーソンがジムを活用しているんですよ」
「何がビジネスパーソンだ。そういう言葉はもっとシュッとしたやつが使うんだよ。ぶよぶよ太りやがって、どこに筋肉があるっていうんだ」
「失礼な。この白い毛がそう見せているだけです」
「そうかよ。おれにはわざわざ鍛える理由がわからんね。普通に生きてりゃそうそう肉なんてつくもんじゃねえんだ」
さるとひつじの言い合いが続いているなか、ぼくはどうしたものかと考えていた。この会話の間に入って、注文を取ることなんて、ぼくにはできそうにもなかった。
「な、そう思うだろ、あんたも」
さるが急にこちらを見て、ぼくに言った。そういう争いをこちらに持ってくるのはやめてほしい。
「わかってないですね。若い世代の方が体を鍛えるということに興味があるはずですよ。あなたみたいな古い人間にはわからないでしょうがね」
さらにそこにひつじも加わった。ぼくはなにかを答えようと頭の中の言葉を引き出そうとするが、全く出てこない。
するとドラゴンが、
「まあまあ、まだこの店に来たばかりなんだから、お手柔らかにね」
と言ってくれた。
ぼくは救いの言葉に感謝しながらもよろしくお願いします、と言って二人に頭を下げた。
「ハハ、すまんな。久々に開いてて嬉しかったもんで。しかし、今度のはよさそうだな。くまってのもいい。あいつは最初から……」
さるが言う“今度の”という言葉が引っかかる。
「いいじゃないですか、そのことは、とりあえず頼みましょうよ」
さるがなにかを言いかけたところでひつじがさえぎり、それからぼくは二人から注文を受けた。
さるはブラッディ・マリーでひつじは電気ブランだった。ぼくはドラゴンの時と同じようにとらに声をかけ、小窓からグラスが出てくるのを待った。
グラスを二人のいるテーブルに持って行く際、ドラゴンが声をひそめて、
「おさるさんとは仲良くね。気難しい人だから」
とぼくに教えてくれた。ドラゴンの顔があまりに近く、ぼくはどきりとした。それが恐怖のためか、女性に近づいたせいだったのかは、ぼくには判断がつかなかった。
注文をが落ち着いて、さるを中心に会話が始まると、ぼくは改めて店内を眺めた。こんな異常な光景をぼくは見たことがない。普段生活していて、こんなに狭い場所にどうぶつを着た人間を見るなんてことはなかったのだ。
客が三人に増え、少し忙しくなってきた。さるの飲むペースは速いし、枝豆だの冷やし豆腐など、つまみを頼み始めたので、ぼくは何度もテーブルとカウンターを往復したりした。
その時、
「おお! やっていたか!」
という大声がした。
見ると扉の向こうに、にわとりがいた。ぴったりとしたTシャツを着て胸が大きく盛り上がり、頭には赤いトサカがついている。体の色は小麦色だった。彼は大きな体でのしのし店内に入ると、まるで決まった席だとでもいうようにテーブルの一つを占領した。
「大将! いつもの!」
ぼくはどうしたものかと考えていると、さるが、
「大将ってなんだよ。それにここの店長は新人なんだから、いつものじゃ通じねえだろ」
とにわとりに言う。
「おお! そうだった! む! くまか! いい体格をしているな! 今後ともよろしく頼む」
にわとりは腕を組んで、椅子に座ったまま黙ってしまった。
「だから頼めっつってんだろ!」
再びさるに言われてはっとしたような顔をして、
「そうだった。焼酎のソーダ割りを頼む」
と言った。
「相変わらず意味が分かんねえよな」
「いやでもいいと思いますよ。この前飲んだ時はおいしかったですし」
さるとひつじの会話からすると、今日だけではなく、もともとそういう性格のようだ。
ぼくはあまり巻き込まれないようにとらに声をかけて、焼酎が小窓から出てくるのを待っていた。すると小窓から、炭酸の泡の乗った焼酎らしきグラスと一緒に唐揚げが出てきた。
ぼくが不思議に思っていると、
「それはね、あの人がいつもセットで頼むものなのよ。とらさんが気を利かせてくれたのね」
とドラゴンが教えてくれた。さすがとらだ。常連の頼むものをしっかり把握している。
にわとりがやってきて、落ち着きつつあった店内がまた騒がしくなった。しかしその会話の輪にドラゴンは入らず、ぼくに二杯目を頼みながら、
「どう? おもしろいところでしょ?」
と声をかけてきた。
「おもしろいというか、すごいところですね」
ぼくは正直な感想を述べた。店内には、さるにひつじ、にわとり、極めつけにドラゴンもいる。とてもまともな場所とは言えない。
「この人たちだけじゃないのよ多分もうすぐ……」
ドラゴンが言い終わらないうちに、扉が開いた。
ぼくは開いた口がふさがらなかった。そこに居たのは、体は普通のシャツとズボンを着ていて普通の格好だったが、頭がさかなだった。
さかなが、正面を向いてこちらを見ている。もしも扉が開いて、左右を見回さなかったら、さかなとはわからなかっただろう。正面から見ると人の体の上に、銀色の棒が乗っているだけに見えた。
横顔からするとサバだろうか。さかなは扉を閉めた後ぼんやりとしたまま立っていたが、
「おう! どうした! 入って来いよ」
すでに十分酔いが回り、赤ら顔になったさるが声をかけた。
「うーん、はいっていいのかな?」
さかなの声は、その見た目に反して、とても低かった。
「はいれよ! お前が最後だ。いつもの席は空けておいてやったぜ」
「と言っても、誰も座る人はいませんけどね」
さるに向かってひつじが言う。
いらっしゃいませ、とぼくは頭を下げた。するとさかなはぼくの方をぼんやり見ながら、
「あー、こんどはくまか。ながいのは苦手だったからよかったよ」
とよくわからないことを言った。するとさるが、
「なあに、心配いらねえさ、前のやつとは面構えが違う。だが気をつけた方がいいかもな。くまといえば川でさかなを取るっていうじゃねえか」
「えーと、それはやめてほしいな」
「冗談ですよ。さかなさん」
さかなに向かってひつじが言った。
さるとひつじの居るテーブルにさかなが座ると、話題は自然とさかな中心になった。
さるが無茶なことを言い、さかながピントのズレた返答をする。するとひつじが訂正する。どうやらこれが、この店のいつもの日常のようだ。
はじめは面食らったものの、ぼくはここでなんとかやっていけそうな気になっていた。それもこれも、いろいろと教えてくれるドラゴンのおかげだ。
「どう? 長く続けていられそう?」
「はい、なんとか」
「みんなね、寂しいのよ。私も含めて。だからこういうところが開いていると助かるの。あなたは人がよさそうだし、長く続けてもらいたいな」
「ありがとうございます。がんばります」
「かたいなあ、ま、少しずつ時間をかけていけばいいかな」
「すみません」
その日は、客たちは早めに帰り支度を始めた。さるは文句を言っていたが、ドラゴンが、今日が初めてだからと言って、早く帰ることを提案してくれたのだ。
さるが先に会計を済ませ、それにひつじとさかなが続いた。にわとりは唐揚げをしっかり食べ終わってから会計を済ませた。ドラゴンは全員を見送った後、グラスを空けて席を立った。
「ありがとうございます。これからも色々教えてください」
ドラゴンが会計を済ませてから、ぼくは改めて礼を言った。
「いいのよ。最初なんだし。わからないことがあったら何でも聞いてね」
ぼくはドラゴンの後ろ姿を見送り、とらに閉店を伝えた。
戸締りはとらがしてくれることになっていたから、あとは店内の掃除をして帰るだけだ。ぼくはテーブルを拭いたり、椅子を整えたりしながら、今日起こったことを思い出そうとしていた。
さる、ひつじ、にわとり、さかな、そして、ドラゴン。ぼくはいったいこれからどうなってしまうのだろうか。先のことを考えていると、なかなか掃除がはかどらなかった。