②
ねこから話を聞いたからといって、ぼくの生活は変わらなかった。
朝部屋を出てバスに乗り、大学に向かい、人の少ない授業を受け、図書館で時間を過ごす。部屋に戻れば動画配信サイトで映画を見たり、つまらないニュース記事を見たりしていた。
岩が降り始めたころはあまり気にならなかったのだが、最近変な記事を見ることが増えた。
「岩は国家転覆を狙う者の陰謀? 政府関係者が語る反国家組織の陰!」
普段であれば読み流していた記事も、時間に余裕があるとつい読み込んでしまう。
その記事によると、岩が降り始めた時期が、国の優勢派閥が条例改正に動いていた直後に岩が降り始めたのだという。その証拠に、岩が降りはじめることにより国はその対応に躍起になり、当の条例どころではなくなったというのだ。
政府関係者は「これが反政府組織が計画したものだとすれば、これだけの被害を与えられるというのは、よほど力を持っているとしか考えられない。政府はどこから来るかもわからない岩の対応より、その裏にある原因を見定めるべきではないか」とコメントしたそうだ。
ぼくはそんな記事を見て、首をかしげた。たまたま岩が降り始めた時期だというのなら、他にもたくさんの例を挙げられるじゃないか。
企業の業績が下方修正を余儀なくされたり、大規模な映画プロジェクトが頓挫したり、岩によって被害を受けた企業はたくさんあって、その敵対勢力とやらを用意すれば、なんだって言えそうだ。
だからぼくは、そんな記事を見て「ふーん」としか思わなかった。「ふーん」としか思えないもので時間をつぶすほど、部屋に戻ったぼくにはすることがなかったのだ。
ふと、ねこの話を思い出す。
ぼくはねこの話を受けたのか、受けてないのか、それもまたよくわからない。ただ、ねこの頼みを断ることを知らないだけだ。
大学で説明を受けてから数日たっても、ねこからは一切連絡は来ていなかった。自分からメッセージを送っても良かったのだが、特にそんな気も起らなかった。
しかし、大学と部屋を往復する毎日を続けていると、ぼくの心がざわめき始めた。
何もせず、ただ客の話を聞いていればいい。
ほんとうに、そんな仕事があるのだろうか。
なんだか嫌な予感がする。ねこを信用していないわけではないが、頭の片隅で、なにか恐ろしいことに巻き込まれていないか、という疑念が消えなかった。
ねこはこれまで、大学のことでぼくに頼みごとをしてきたけれど、バイトだったり、外のことについて何も言ってこなかった。そもそも、なぜぼくが選ばれたのかもわからない。
代返したりした程度の関係だったから、突然の申し出には困惑しかなかったのだ。考えてみると怪しい話だ。普段何をやっているかわからない友人から、バイトを紹介される。こういう時はだいたい良くないことが起きると相場が決まっている。
ぼくがくまをきたタイミングに合わせるかのように、ねこに話しかけられて、仕事を紹介された。この一連の流れはは何かつながりがあるように思えた。
ねことの関係は、高校時代にさかのぼる。
ぼくはまだくまをきておらず、その輝かしい青春の時期を、ネットでつまらないネタやエロ画像探しなどという、時間をどぶに捨てるような行為で費やしていた。
今と違って友だちは居たが、いつも遊ぶような関係ではなく、ただ、学校で話すだけ、そんな知り合いとしか呼べないような人間関係しか築くことが出来ていなかった。
そんななかでも、あいつは少し違っていた。
あいつはぼくなんかと絡まなくても、友人がたくさんいた。クラスの誰とでも仲良くて、いつも周りに生徒が、男女問わず集まっているほどだった。そんなやつが、何故かぼくに話しかけてくる。
最初は、ぎこちなく相づちをうつだけだったぼくも、次第に自分のことを話すようになった。と言っても、ネットで見つけたおもしろネタを話すだけだったが。あいつはそれを喜んでくれていた。
その頃からすでに、あいつの頭にはねこのみみがついていて、ぼくには不思議だった。なぜ誰も、みみのことを言わないのだろうか。
ぼくは日に日に高まる欲望に耐えきれず、ついにあいつに向かって、
「そのあたまにつけているやつ、なに?」
と聞いた。
あいつはとても驚いた異様な顔をして、ぼくはしまった、と思った。きっとこれは暗黙の了解というやつで、聞いてはいけないことだったのだ。
ぼくはこういう事をよくやる。簡単に言えば空気が読めない。言い方を変えれば、他人の気持ちがわからない。ぼくはいつも余計なことを言って、場を凍らせたりする。
だが予想に反して、あいつの言葉がぼくを驚かせた。
「これが見えるのか? お前、才能あるな」
ぼくはその意味深な言葉の内容よりも、ぼくの言葉を受け入れて、その上で笑ってくれたことがうれしかった。
「さいのう?」
とぼくは聞き返す。
しかしあいつは、
「いや、こんな才能なんぞなくてもいいんだ。ろくな人生を送れない。お前はもっと気楽に人生を生きてみろよ」
とまたよくわからないことを言った。
会話は途切れてしまったが、その日からぼくはねことよく話すようになった。ぼくが心のなかであいつのことをねこと呼ぶようになったのもその日からだ。ぼくと一緒にいることが増えて、ねこから色々なことを聞いた。
例えば、調子に乗った同級生が金網をよじ登ろうとして滑り落ちただの、クラスの誰と誰が付き合っているとか、誰と誰が仲が悪いとか、クラスで起こった、ぼくの全く知らない情報を教えてくれる。
ぼくにはそんな話をしてくれる友だちがいないから、どの話もとても新鮮で、面白く聞いていた。
ただ、一緒に外で遊ぶということはなかった。ぼくは少なくとも、一人で居ることが好きだったし、ねこもほかのいろんな友だちと遊ぶのに忙しそうだったからだ。
そうやって、ぼくとしては、充実した学校生活を送っていたある日、食堂から戻ってくるときに、ねこの姿を見た。
ねこの隣には、かわいらしい女の子が寄り添うように歩いていた。彼女はずっとねこに話しかけている。
その時は何とも思わなかったが、教室に戻ってみていろいろと考えてみると、もしかすると付き合っている彼女かもしれないと思った。
こういうところが、ぼくの察しの悪さを表している。次の休み時間、ねこと会話する機会があって、それとなく聞いてみた。
「あの、さっき一緒に女の子と歩いていたみたいだけど、その……」
ねこは苦々しい顔をして、ぼくはしまったと思った。これは聞いてはいけなかったのかもしれない。ぼくはまたやってしまったのだ。
するとねこはぼくの様子を見て取ったのか笑顔を作って、
「いやすまん、お前に対して怒ってるとか、そういうことじゃないんだ。おれはべたべたされるのが嫌いなんだが、言ってもやめなくてな」
とさらりと言った。
ぼくは仮にも好意を持ってくれている女子に、そういう言い方は良くないのではないかと言ったが、ねこは涼しい顔で、
「いいんだよ。まったく、だから女は苦手なんだ。ああやって自分のものかのように見せびらかしたがる。あれで見た目が良くなければ、もっと雑に扱えるんだがな……」
と、ひどいことを言った。
ぼくはねこの気持ちがよくわからなかった。付き合っている、ということを否定しないということは、やはり付き合っているのだろうけれど、なのにこんな言い方はひどいじゃないか。
とはいえ、結局は人の彼女だ。ぼくに何か言えるわけもなく、話はそれで終わった。いつものようにぼくが適当な話題を振り、ねこが話を広げてくれた。彼女のことはすぐに忘れてしまった。
しかしある時から、彼女から目を離せなくなった。変化は突然だった。ねこと彼女がいつものように二人で廊下を歩いている。
だが様子がおかしい。
彼女が、うさぎになっていた。
頭は完全にうさぎで、長い耳が生えている。制服から出ている顔や腕、足には、白い毛がびっしりと生えていた。
つまり、直立二足歩行でセーラー服きたうさぎが、平然として校舎を歩いていたわけだ。しかもそれに、周りの人間は誰も反応していない。
ぼくはまたしても居てもたってもいられず、次の休み時間に、ねこに話しかけた。ぼくは頭がおかしくなってしまったのだろうか。
ねこのみみはもういい。見慣れたし、今更気にすることもない。たとえ誰も何も言わなくても、変わったアクセサリーだと言い張ることもできる。実際そうやって自分の中で納得しようとしていた。
けれども、彼女はどう見たって完全なうさぎだった。うさぎが、周囲の学生たちに混ざって、普通に校舎を歩いている。ぼくは頭がおかしくなったのかもしれない。
ぼくはそれをねこに聞いて確かめなくてはならなかった。だがねこは、投げやりに、
「いいんだよその話は、おれはやめろと言ったんだ。それより……」
と話題をそらそうとした。
しかしこの時ばかりはぼくは譲らなかった。なにしろ、ぼくの頭がおかしくなってしまったかどうかがかかっているのだ。
するとねこは、
「おれは止めた」
と苦々しくつぶやいて、続けた。
「はじめは何ともなかった。それが急におれのみみにこだわりはじめて、どこで手に入れたのかをしつこく聞いてくるようになった。おれはもちろん断った。お前には似合わないってな」
そこでねこは大きくため息をついた。
「するとあいつは、付き合っているからには一緒になりたいだの、付き合うってそういうことでしょ、などと言い始めた。あんまりにしつこいからおれはついに折れて、結果があのざまだ」
ぼくにはねこが何を言っているのかわからなかった。それでも、ねこの苦悩のようなものを感じ取ることができた。ぼくは謝り、ねこが、いや良いんだ、と悲しげに言い、会話が終わった。
それから彼女のことについて話題に出すことはなかった。
しばらくすると、ねこの周りに彼女の姿を見かけることはなくなった。ぼくはそのことについて聞くべきかどうか迷った。彼女のことではなく、うさぎの姿についてだ。
ぼくはねこのみみやうさぎの姿について、自分でも不思議なくらい強い執着を持っていることに気づいた。
ある時、ねこはぼくの心を見透かすように、
「あいつのことが気になるか?」
「なにが?」
「うさぎのことさ」
ぼくはあわてて、
「そんなことはないよ」
と自分でも不自然に高い声が口から出た。
「いいんだ。もう終わったことだ」
「終わった?」
ぼくは聞いた。ねこはなんだかとても寂しそうな顔をしていた。
「うさぎのせいで干されたそうだ」
「どういうこと?」
「うさぎをきることで、自分では変わっていないと思っていても、周りが違和感を感じ始めたらしいな。本人がそれに耐えられなくなったんだろう。もしもこれが自分の意思であるなら、上手くやれたのだろうが」
それは、ぼくが理解できる範疇を超えていた。あのうさぎの姿は、いったい何なのだろう。でもそれを、ねこは説明する気はないらしい。
「それで?」
ねこが黙り込んでしまったので、ぼくは続きを促した。そうすることくらいしかできなかった。
「ああ、それで、別れることになった。あいつは周りから浮くことに耐えられなかったようだ」
「よくわからないな」
ぼくは正直に言った。
「いいんだよ。わからなくて。ま、おれにとってもあいつにとっても、それでよかったんだ。うさぎを捨てて、今じゃ楽しそうにやってるよ」
「ふうん」
「まあ、そんなことはどうでもいいだろ。ところでお前、二組の教師と最近入ってきた保険医が怪しいということを聞いたことがあるか?」
それからは、いつものような話に始終した。
でも、ぼくは彼と話しながらも、頭の片隅でずっと、うさぎのことを考えていた。一体どうやったら、ああいう姿になれるのだろうか。
それはぼくにも、なれるものなのだろうか。
大学に入って、例の○×△商店の話を聞くまで、ぼくの頭の中には常に彼女の姿があった。
ぼくがくまをきることは、ずっと前から決まっていたように思えた。