①
くまをきると、気持ちが楽になった。
何しろぼくはくまなのだ。人間が背負うような、重圧など一切無縁の体になった。
くまは○×△商店で買った。名前だけはねこから聞いて気になっていたのだが、先日街に出かけたときにふらりと立ち寄って、店長がお安くしますよ、というので買った。
店長はねずみの姿をしていて、はじめ見た時はぞわっとした。
前歯が出ているのはねずみだから当たり前とはいえ、それが人間大の大きさであれば話が違ってくる。動きもなんだかせかせかしていて、ねずみのかわいらしさがかけらも感じられなかった。
店長は狭い店内の奥から、くまを持ってくると、ぼくに広げて見せた。
毛皮でも着ぐるみでもない。しっかりとしたくまの輪郭を保ち、かといって生きているという感じはない。まるで生きているくまから魂だけを取り出したような、そんな見た目だった。
値段は十万五千円(税抜き)。なかなか勇気のいる買い物だった。大きな買い物袋にくまを詰め込んで、ひいひい言いながら家に帰ると、意を決して洗面所の鏡の前でくまをきた。
鏡に映っているのは以前のぼくではなく、どう見てもくまだった。
一見してみると怖い。しかしどこか愛嬌がある。それが初めて見た感想だった。くまは違和感なく体に馴染んでいる。内側はどこか温かく、不快感はない。これならしばらくきたままでいられそうだと思った。
それから、ぼくのくまとしての生活がはじまった。
くまになったからと言って、何かが変わったことはなかった。はちみつを主食にする必要はないし、赤いシャツを着る必要もない。
そもそもくまははちみつが好物というわけではないようだ。じゃあシャケかというとこれも違って、どちらかというと、森のどんぐりなどの木のみを食べることが多いらしい。
話が逸れてしまった。
要は、くまになったからといって、別にくまと同じものを食べる必要はないということだ。
一度、試しにくまをきたまま外でハンバーガーを食べたことがある。
店内には誰もいなくて、ぼくは窓際の席で店員がてりやきバーガーセットを持ってくるのを待っていた。店内でくまがもさもさ食べている画を想像すると、自分で言うのもなんだけど面白い。
ハンバーガーのほかにも、なんだって食べられる。でも、ピーマンは食べられない。おいしくないし。
ここまで説明してお分かりのとおり、ぼくはくまをきたからといって、くまをきる前と全く変わらない生活を送っている。
くまをきている以外は、リュックを背負っているし、パスケースだって使う。違うのは見た目くらいだ。
それで、その日は朝から大学に向かった。くまをきたまま寝ているから着替える必要もなくて、焼いたトーストにマーガリンとはちみつ(!)をかけて口の中に押し込んだ。
くまはそんなにはちみつを食べるわけではないらしいのに、ぼくはいつもパンにはちみつをかけている、ぼくはもしかすると、本物のくまよりもくまらしいと言えるかもしれない。
リュックを背負って外に出る。部屋はアパートの二階、くまをきたままだとお腹のでっぱりと茶色の剛毛で足元が見づらく、階段を下りるのにとても苦労している。
バス停は歩いて十分くらいのところにある。道を歩いている人間は極端に少ない。
もしかして、と思ってスマホを見てみると、やはりそうだ。
岩が降っている。
丁度、遠くで何かが落ちて砕ける音がした。
きっと岩に違いない。
近いな。もしかすると当たってしまうかもしれない。
でもぼくは怖くなかった。
以前であれば、きっと部屋に引き返したことだろうけれど、どうやらくまをきて、少し気が大きくなっているようだ。
バス亭についた。当然のように誰も並んでいなかった。岩が降っているのに、のんきに外でバスを待つわけはないか。
時刻表は岩が降る日のものに変わっていて、本数は少なくなっているようだが、運よく五分ほど待つとやってきた。乗り込むと、車内にはぼくを含めて三人しかいなかった。
女子高生とサラリーマンのおじさんとおばあさんの三人だ。仮に岩が降っていたとしても、外に出る人間はちゃんといるのだ。
車内はがらがらでも、席には座らなかった。くまには狭すぎるし、立っていられないほどの距離でもなかった。
大学には十分ほどで着いた。バスを降りて、門までの坂道をのぼる。見渡す限り誰もいない。ほとんど休みのようなものだ。
構内には入らず、目的地に向かって中央の広場を通り抜けた。敷地のはずれにある自販機の横のベンチには、誰もいなかった。大学に着くとこの場所で少し休み、自販機で缶コーヒーを買うことが、ぼくの日課になっていた。
ぼくは大きな体でベンチに座り、リュックからスマホを取り出して、適当にニュースを眺める。
やはり岩が降っている。ここしばらく降っていなかったのに、またしばらく騒がしくなりそうだ。
ニュースも、SNSも、どこを見ても岩の話題ばかりでうんざりする。スマホから顔をあげると、遠くにねこの姿が見えた。
ねこの歩き方は独特で、いつも足音を立てないように静かに歩く。声が届くくらいの距離までくると、
「よお、ついに買ったのか」
と片手をあげて言った。
「まあね」
ぼくは答える。
「どうだ? きてみた感想は」
「うーん、まあまあかな」
「その顔は気に入っている顔だな」
「表情はわからないだろ」
と、ぼくは牙をむいて威嚇してやった。
「おれも同類だからな。すぐにわかるさ」
とねこはいって、頭の耳をぴょこぴょこさせた。
「全身型なんてつけたことないくせに」
ぼくが言うと、ねこは驚いたように、
「全身型! 通な呼び方をするじゃないか」
と言う。
「店長にいろいろ教えてもらったんだよ」
「へえ……」
ねこが意外そうな顔をするので、
「なんだよ」
と聞く。
「あの店長は人を選ぶんだ。気に入られたな」
「やだよ。あんなねずみ」
「確かに趣味はよくない。でも扱ってるものは確かだからな」
「それはまあ、たしかにそうだけど。それより何の用だ」
ねこがぼくに話しかける時というのは、決まって、なにか頼みごとがある時なのだ。岩が降る前には、彼のために何度か代返をしたり、授業で取ったノートを見せたりしていた。
「察しが良いね。お前にはいつも感謝しているよ」
「……ほんとに感謝してんのかよ。授業のノートだったら直接言わなくても、連絡くれたら写真送るよ」
「ほんとに良いやつだな。最近じゃ出席もリモートになって、代返してもらう必要もなくなったからな。ずいぶんとやりやすくなったよ」
なかなか結論を言わないので、ぼくはだんだんイライラしてきた。
「それで、何か頼みたいことがあるんだろう?」
ぼくは言ってやる。どうせ、ねこの頼み事は、なんだかんだでやる羽目になってしまうのだ。
「物事には順序ってものがあるだろう。まずは雑談をして相手の心をほぐし、その後でお願いをするもんだ」
ねこは何食わぬ顔で言う。
「それを頼む側が言うなよ」
ぼくがもう一度牙をむいてやると、ねこが大げさに怯えた顔をした。
「すまんすまん! しかし、お前はこんな時にでも大学には来るんだな」
また話をそらそうとする。どうやらぼくの脅しは全く通用していないらしい。くまが恐くないのだろうか?
「まあね。家に居たって動画見るくらいしかすることないし」
するとねこはニヤニヤして、
「いや丁度良かった。そんなお前に良い話があるんだ。単刀直入に言うが、お前には、店長をな、やってもらいたいと思っている」
後半の言葉を、一つ一つを切るように、ゆっくりと言った。ぼくはしばらく考えて、その店長という単語の意味を考えてみる。
「店長?」
やっぱりよくわからない。テンチョウにほかの漢字を当てはめてみたもののどれもこれも違うようだ。
「おれが知ってるバーの店長が辞めたんだよ。それで誰か声をかけてくれないかと頼まれていたんだが、どうだ?」
などととんでもないことを言い出した。
「はあ?」
「いや、待ってくれ、とりあえず話を聞いてくれ」
「バーってなんだよ。ぼくは酒のことなんてまったくわからないぞ」
ぼくはすでに断る態勢に入っている。くまがバーカウンターに立っている姿を想像した。ぼくは酒に詳しくないし、さらに言えば、酒自体があまり好きではない。そんなぼくに、店長などできるはずがないのだ。
しかし、ねこは怯む様子もなく続けた。
「その店は常連しか来ないし、もともと店長の入れ替わりも激しくてな。正直誰だっていいんだ。客もそこんところわかっているから、お前は酒とつまみの軽食を運ぶだけでいい。酒の用意とつまみを調理する担当が別いるから作る必要もないんだ。お前は確か前にレジ打ちやってただろう? それだけで十分だ」
見事な理屈にぼくの方が怯んでしまった。
「たしかにやったことはあるけど……」
「じゃあやれるな。どうせ今は暇だろう?」
ぼくは考える。確かに今のぼくはとても暇だ。暇という言葉では言い表せないくらい暇を持て余している。こんな状況だからバイト求人も少ないし、大学のほかは、食料品を買う時くらいしか外に出ない。
「うーん。でも店の切り盛りなんてできないよ」
「問題ない。経理関係は全部上がやってくれる。お前は、酒とつまみを出して、客の話し相手になってくれるだけでいい」
どうもうまく担がれているような気がする。ねことの付き合いは長いけれど、なにを考えているかほんとうにわからない。
この話は引き受けるべきだろうか。ぼくは考えて、しかし、少し前に断ると心に決めていたはずの心が大きく動いていることを感じる。
ねこはいつもこうやってぼくを丸め込んで、自分のさせたいことをやろうとする。よくよく考えると、ぼくがくまをきるようになったことだって、ねこが店の場所を教えなければ……
「じゃあ、いいよ。確かに暇だし、給料ももらえるんなら。ただ、途中でやめたくなるかもしれない」
ぼくは考えるのをやめた。どのみち、ねこには逆らえないのだ。ぼくがまともに会話できる人間というのは、もはやねこだけで、だからこそ、そんな自分を変えようと思ってくまをきるようになったのだ。
ねこは大きくうなずいた。まるでぼくが了承することが、はじめからわかっているようにも見えたが、それは考えすぎかもしれない。
「ありがたい。店の場所は後で連絡する。給料とかシフトの話もいずれおれから伝える。後は任せてほしい」
「あとで連絡くれるんだったら、直接言わなくてもメッセージで良かったんじゃないか」
「でもお前はいつも大学にいるじゃないか。電話じゃ話しにくいってこともある。それに、くまの姿を見ておきたいと思ってな」
「お前に見せるためにきたんじゃないよ」
「まあいいじゃないか。その姿、実に似合ってる。もともとそういう格好だったんじゃないかってくらいにな」
「適当に言ってるだろ」
「そうでもないさ。おれは他にも何人か、別の動物をきてるやつを見てきたが、お前が一番似合ってる。だから今回の仕事を頼んだ」
ぼくを持ち上げる気か、と思って聞き流そうとしたところで、最後の言葉が気にかかった。
「どういうこと?」
「ま、今にわかるさ。こっちから細かいことは連絡するし、一度店に連れて行く。後はおれがやっとくから、適当にぼんやりしといてくれや」
ぼくが曖昧な返事をすると、ねこはぼくの前から去っていった。相変わらず音を消すような歩き方をして、背を向けて中央広場の方へ歩いて行った。
取り残されたぼくは、さてどうしようかと考えたが、やはり何もする気も起きなかったので、とりあえず図書館に行くことにした。授業はあるにはあるのだが、岩が降り始めてから、リモート授業が主流になって、教室に来る人間はほとんどいない。
図書館は、ぼくが大学に来る大きな理由の一つでもある。
本を読んでいたら、余計なことを考えずに済むし、あっという間に時間が過ぎるからだ。
ぼくは立ち上がって、体を震わせた。
最近、寒くなっている。くまをきた体は寒さに強いかと思いきや、あまり体感的には変わらない。
まずはコーヒーを飲もう。
自販機の前に立つと、いつもの日常が戻り、ねこと会ったことが、まるで夢の中のように思えて仕方なかった。