はてしない物語-4
銃撃を受けた。
隊長さん達はなんども「アウフ デァ ラウアー リィゲン」と言っていた。後になって調べると、東国語で『待ち伏せしている』と言う意味らしかった。
銃弾は当たらなくても、近くを通ると鼻や指の先がちりちりした。一度、ほんとうにすぐ横に撃たれたことがあったけれど、それだけで血が出たのじゃないかと思うほどの衝撃があった。
癖毛さんが死んだ。
お腹が、下半身とくっ付いているのが不思議な位ぐちゃぐちゃになった。
銃を撃ち返しながら、金髪さんが喚いていた。たぶん、糞ッタレとかぶち殺してやるとか、そんな意味のものだったのだろう。
癖毛さんの背嚢から、後で食べ物を取り出さなくっちゃ。
女の子の感想はそれだけだ。
敵──西の兵隊さんは塹壕や潅木、樹影を利用して巧みに隠れていた。対して隊長さん達は、金髪さんとのっぽさん以外は丸腰同然だ。
そうして、癖毛さんは他の人達から少し離れたところで死んでいた。回収しようとすれば、当然その人物も穴だらけになる。
隊長さんは突撃した。女の子の目にはどう見ても、死にに行ったふうにしか映らなかった。もっとも、その場にじっとしていても間違いなく死んでいただろうから、あながち自棄とも言い切れないけど。
隊長さんの両手にはスコップ(園芸用のではなく、塹壕を掘る為のやつだ)、後ろからはお情け程度の援護射撃で、隊長さんは癖毛さんの元へ向かう。続いてのっぽさん、眼鏡さんも走り出す。女の子は少し離れた場所でぼんやり立っていた。金髪さんは動かなかったから、金髪さんが走り出したらついて行こう。
隊長さんは走った。走りながら、癖毛さんの襟を掴んで担ぎ上げた。
癖毛さんの足がぶらんぶらんと揺れた。背嚢は(女の子の聞いた話では)当時の女の子よりも重いはずなのに、隊長さんは背嚢ごと癖毛さんを肩に担ぐ。
背中の銃(随分前に弾がなくなって使い物にならなくなったもの)が邪魔で上手く持ち上げられない様子で、隊長さんの罵声が女の子のところまで届いた。
隊長さん達のすぐ先には兵隊さんが二人隠れていた。
ひとりは隊長さんにスコップで吹っ飛ばされて死に、もうひとりは、眼鏡さんが持っていた拳大の石で撲殺された。
ちょっと遠くにいたひとりは、のっぽさんが射殺する。
──女の子が学校や教会で習った戦争には二つあった。
一つは、騎士物語や失地回復戦争の時のような剣の戦争、もう一つは東西戦争やこの時みたいな、銃を使った戦争だ。
でも、そのどちらも、兵隊さんは綺麗な装備と騎士道精神を以て戦って、敵と味方は、こんな泥の中を取っ組み合って転がる真似はしないし、虫を食べる人間だっていない。
隊長さんっていうのは馬や戦車の上に乗って右手をばっと上げて号令をかける人のことで、大体、スコップや石は武器じゃないよ?
そんなことを考えている内に金髪さんが飛び出していた。
やっぱり女の子は忘れられている。
自分のことばっかりしか考えない人は嫌われるんだよと心の中で愚痴りながら、女の子も後に続いた。
* * *
転機は森が途切れると同時に、唐突に訪れた。
森を抜けた先は一面の畑が広がっていて、その中にぽつりぽつりと家が建っている。
最も手近にあった一軒に、女の子達は侵入した。その時家は無人で、竈には火が入っていて、机の上には食べ終わったお皿と、新聞が置かれていた。
女の子にとっては、舞い上がるほど嬉しい光景だ。食べ物、食べ物!
隊長さん達も同じ思いらしく、真っ先に食料を物色しはじめた。その間に女の子は水瓶に頭から突っ込んで思う存分喉を潤す。いっしょに顔も洗えて、何だか別人になった気分だ!
誰かの叫び声が聞こえたのは、きっとその家の持ち主が帰って来たからだろう。女の子が顔を水瓶から離した時には、入り口の端に引き摺られて行く男の人のズボンが見えただけだ。
そのズボンが、女の子のお父さんが穿くような、至極普通のものであったことに、女の子は少なからず衝撃を受けた。……死体なんてすっかり見慣れたはずなのにねぇ。
お鍋にはシチューがまだたっぷり残っていたみたいで、女の子達は、鉢皿やら平皿やらによそったシチューとお茶、それからジャムに無言でかぶりついた。
ほのかに湯気を立てる、刈りたての羊の毛の色の、とろりと甘いシチューには、夕日の色をした人参と小さな小さな干し肉と、ほくほくの芋が入っている。口に入れるとふわっと乳の甘さと胡椒の辛みが広がって、女の子は思わず咽せてしまった。
人参は舌の上で転がすだけで砕けてしまう位柔らかくなっていて、噛めば噛むほど甘味が出て来る。
芋は中心がちょっぴり固かったけれど却って噛み応えがあって良い感じだ。
お肉も同様。
塩味ばかりに馴染んでいたから、どんな食べ物も甘く感じた。芋がシチューに浮いているのを見るだけでも幸せだ。
紅茶は涙が出るほど良い匂いで女の子を迎えてくれるし、ジャムの中の果肉を噛み潰すとトロリとした甘さと果肉の渋みが良い感じに混ざり合って、ああ、もう一生ベリージャムだけ食べてても良いかも知れない。
もぐもぐもぐもぐ。
のっぽさんや眼鏡さんが咳をする以外、誰も何も喋らない。ひたすら胃に食べ物を詰め込んで──ずっと食べていなかったから碌に入らなかったけれど──袖についたジャムを嘗めとっていると、突然隊長さんが、読んでいた新聞を壁に叩き付けた。
「くそったれ!」
隊長さんは吠えた。北の国の言葉だったから、女の子にも理解できた。
「イエガの野郎、俺達を棄てやがった!」
隊長さんが投げた新聞は、久し振りに見る西国語だった。日付けは憶えていない。大きな黒枠に、ゴシック体の白抜き文字で、それまで見たことがないほどでかでかと見出しが出ていたことだけは記憶にある。
『革命政府、停戦合意へ──列車会談で政府筋語る』
お食事が終わった後、隊長さん達は女の子を閉め出して何やらお話し合いを開始した。
女の子は二階に上がって、久々の、ほんとうに懐かしいお布団の感触にニコニコしながら、まるでお姫さまになった気分で眠りについた。
……夜中になって女の子は目が覚めた。
女の子は一階の、裏口の床で毛布に包まって眠っていた。おばさんの家に行って以来、ずっと暖かい寝台とは無縁だったから、二階のお部屋はどうにも眠りが浅かったのだ。
どうして起きたのだろうと、毛布から頭だけ出して辺りを観察した。夜はすっかり更けていて、一一月の夜気は霜が降りる位冷たい。
こんな夜にわざわざ外へ出て行くなんて、家畜の出産でもなければ有り得ないのに、なぜか遠くで明りが移動するのが確認できた。
ゆらゆらと揺れるランタンの光が消えて、しん、と静寂が女の子を包むと、女の子はおもむろに起き出した。これまでにない早起きだけれど、きっと隊長さん達が行動を開始したに違いない。
寒さに震えながら、女の子は走り出す。毛糸の帽子をかぶり、この家から拝借したぶかぶかのシャツとチョッキと靴下を身に付けて隊長さん達を追い掛ける。
先刻いっしょに食事を取ったばかりなのに、お父さんもそうだったけれど大人の男の人ってほんとうに記憶力がないのね、と憤った。──たぶんほんとうは、隊長さん達は故意に女の子を無視したのだろう。
合う靴がないからと、靴下のまま地面を歩くとあっと言う間に足が痛んだ。靴下はすぐに濡れそぼり、けれど上半身は汗だくで、もしこの行軍が続いていたら、女の子はきっと流感やしもやけに罹っていただろう。
やがてほんの少し空が明るくなった頃、道化師の格好をした女の子は丘を歩く敵国人に合流した。空の青は少しづつ鮮やかに、金色を帯びて来る。敵国人の後に付いて二つ目の丘のてっぺんを登った時、遠くに馬を引く農家の影を見ることができた。
村は小さかった。どの家も壁は白く、瓦や、窓の縁取りはたぶん赤茶色。畑と畑の間に家が点在していて、女の子達の向い側の丘の下に、小さな教会と何軒かの家がまとめて建っている。教会の塔は焼けていて、その隣の家も骨組みだけになっていたけれど、でも戦争を思わせるのはそれだけだった。
どこかで鶏が鳴いた。家々の煙突からは既に煙があがっている。井戸で立ち話をするお母さん達がいて、家畜小屋を行き来するお父さん達がいる。用水路に頭を突っ込んで水を飲む驢馬、どこかで放牧もしているのだろう、喇叭の音が遠く鳴り響いた。
着替えることもできず、迷彩が意味をなさないほど真っ黒になった四つの影は無言でとぼとぼと丘を歩いて行く。
途中、ひとりの男の人と擦れ違った。左の袖が、ぱたぱたと風に靡いていた。荷車を押していたその人は、あんまり汚らしい隊長さんや、素頓狂な姿の女の子にぎょっとした風だったけれど、しげしげと眺めるだけで何らの警戒心も抱いていない様子だった。
隊長さん達も俯いたまま、お互いに何事もなく通り過ぎる。荷車に乗っていた猫が可愛いな、と女の子は思った。
道はだんだん細くなり、小さな丘の連なりはやがて森へと姿を変えた。その入り口で、突然隊長さんはふりかえった。「お嬢ちゃん、こっちに来なさい」
てっきり見付かっていないとばかり思い込んでいた女の子は、びっくりして樹の影に隠れた。怒られる?
女の子が近寄らないのを見て取ると、隊長さんは溜息をついて自らやって来た。老人みたいな足取りで女の子の前に立ち、しゃがみ込んで視線を合わせると、極穏やかな口調で訊いた。
「どうして付いて来たんだ?」
だって、最初に隊長さんが、『いっしょに来い』って言ったんじゃない。
女の子が何も話せないでいると、隊長さんはもう一度口を開く。
「お嬢ちゃんは、今から来た道をもどりなさい」
えー、何で?
「そうだな……先刻擦れ違ったおじさんがいただろう、あの人の後を追いなさい」
何で? あのおじさん、全然知らない人だよ?
「お嬢ちゃんは、西国籍を持っているのか?」
てゆーか、女の子は正真正銘、生まれも育ちも西の国。
「いいか。もしも下の村に行ったら徹底徹尾、何があっても自分は西国人だと言う振りをするんだ。西国語は解るんだから、ちゃんとひとりでやっていけるな?」
何だか泣きたくなって来た。女の子がひとりきりなのは、もうちゃんと理解しているのに。
その後も色々と一方的な説明をしてくれて、隊長さんは立ち上がる。
手を振って、さっさと行けと促した。
女の子は動かなかった。隊長さんの説明が、全く理解不能だったせいもあるし、知らない人は懲り懲りだと痛感していたせいもある。
隊長さんは黙って女の子を見下ろしていたけれど、とうとう、「さっさと行け!」と怒鳴った。女の子は慌てて走り出し、併し隊長さん達が背を向けて歩き出すとくるりと踵を返して彼等を追った。
隊長さん達はきっと、小さな子供が尾行していること位、簡単に見抜くことができただろう。敢えて追い返さなかったのは、もうそうする気力もなかったのか、それとも別の考えが浮かんだからか、それは今でも判らない。
細い道の先には家畜小屋の入り口みたいな木戸があった。右手にはトイレ位の大きさの監視小屋、兵隊さんはいなかった。
そこを通ると左側の斜面に瓦礫の山が延々と続いている。その内に道の両側には土嚢が積み上げられ、木の板が屋根を作り斜面の至る所に穴が穿たれている景色が現れた。塹壕の入り口で雀と烏が餌を争って、仁義なき戦いを繰り広げている。意外にも、五羽の雀が一匹の烏を追い立てていた。
隊長さん達は堂々と、敵陣の中を進んで行く。誰とも遭遇しなかった。随分歩いて森が大きく開けた時、隊長さん達はようやく塹壕の一つに身を隠した。
女の子もまた潜伏する場所を捜す。
首をあっちこっちに巡らせていると、隊長さん達の塹壕から手だけで招き寄せられた。蹴り殺されるのかとどきどきしながら中に入ると、隊長さん一同は肩を落として落胆したふうだった。
隊長さんの苦虫を噛み潰した表情に、女の子はぼこぼこにされた兵隊さんの末路を思い出した。
「すわりなさい」
と隊長さんは言った。女の子は目を瞑って両膝を抱えて、言われた通りにした。
撲殺は嫌だなぁ火炎放射器も嫌だなぁと楽な死に方を祈っていると、隊長さんが女の子の肩を叩く。恐る恐る目を開けると、目の前に乾パンがあった。そう、もうすっかり昼になっていたのだ。
皆で仲良く乾パンを食べた。女の子には三枚も支給されて、何があったのかと驚いたほどだ。咳が止まらないのっぽさんや眼鏡さんは食べにくそうで、金髪さんが取り出した赤ワインに喜んで飛びついた(女の子も一口貰った。あんなののどこが美味しいのか理解できない。隊長さんは飲まなかった)。
女の子が乾パンを全部腹に納めても、隊長さんは女の子を殺さなかった。のっぽさんや金髪さんは銃を肩に掛け、地面を見つめたまま動かないし、隊長さんはぼんやり外を眺めている。眼鏡さんだけが、鞄に何か詰め込む作業をこなしていた。
作業が終わると、眼鏡さんは女の子に視線を向けた。何かを指示したけれど、女の子には意味が通じなかった。
「その鞄を持ってみてくれ」
隊長さんが通訳した。
鞄は非常に重くて、両手でやっと踝まで浮かせられる程度。眼鏡さんは首を振ると、鞄の中を改める。
「今度はどうだ?」
今度は何とか持ち上がった。女の子が両手で鞄を胸元まで上げると、隊長さんは複雑な表情でうなずいた。
「これから、お嬢ちゃんにひとつお願いしたいことがある」
女の子を見据えて、隊長さんは言った。
隊長さん達は大っぴらに歩き回る訳にはいかない。けれども部隊には食べる物がないから、この鞄の中のお金を持って、西の国の兵隊さんのところで食べ物と交換して来て欲しい。
いくつかの疑問が女の子の頭に浮かんだ。こんなに重たい鞄の中には一体いくら位入っているのだろう──じゃなくて。
食べる物を買うのなら、兵隊さんのところじゃなくて、村で買った方が良いんじゃないのかなあ。
女の子が疑問を伝えようとする前に、隊長さんが念を押す。
「基地の傍までは連れて行ってやるから、そこからお嬢ちゃんひとりでできるな?」
戦争犯罪と言う言葉ができるのは、この戦争の後の話だ。
女の子はうなずいた。
基地は細い道の先、民家と、民家の傍らに設営された天幕だった。
教科書で見慣れた兵隊さんがのんびりと建物の周辺を歩き回っている。青みがかった生地に二つの胸ポケット、腰の辺りにも左右一つずつある。各々のポケットには釦で止める蓋があって、胸ポケットの上には徽章を留める為の場所。正面には真直ぐ二列に釦の列。
帽子も不粋な鉄製の防護帽なんかじゃなくて、かくかくしたナプキンの折り目の様なものが正面に来る意匠の、制服と同じ青の軍帽だ。
天幕の入り口付近には六脚の寝台が一列に並べられ、その内の四脚は使用中だった。本を読んでいる人がいたし、隣の人とお話している人もいる。
天幕の右隣には布を被せられた荷車があって、隙間から大砲の筒が覗いていた。
その前には三人の兵隊さんと一台のカメラ、兵隊さん達は杖を片手に思い思いに格好をつけている。
渡された鞄を抱えて、女の子はよろよろと兵隊さん達の元へ向かって行く。持ち上げるだけなら平気だった鞄は、けれどいざ歩いてみるとたいへん重かった。幾らもしない内に腕が痺れて来て、お遣いを引き受けたことを心底後悔しながら、女の子は基地へ急いだ。
「あれ?」
兵隊さんのひとりが女の子の存在に気付いた。「どうした?」
その声にふりかえった何人かが、女の子を目にした途端笑い出す。たぶん、女の子の格好が余程可笑しかったのだろう。
昼の日射しが暖かすぎて汗を掻き掻き頑張っていた女の子は、彼等の態度にむっとした。
ひとりが女の子の方に寄って来る。
「どうした。差し入れに来てくれたのかい?」
その時女の子は、たいへん重要な事実を発見した。食べ物と交換したいと思っても、女の子は未だ口が利けなかったのだ。
「ちょうど良いところにやって来た。スープをいっしょに食べるかい? 今ならあそこのオッサン達といっしょに記念撮影もできるぞ」
「おっさんじゃない。オニーサンだ、お兄さん」
女の子は慌てた。両手が塞がった状態で、どうやって意思疎通すれば良いのかと混乱して、足許がお留守になっていたのがいけなかった。
地面から飛び出た木の根っこに、女の子は躓いた。まるで漫画の人間のようにおでこから地面に突っ込んで、しかも強か鞄で打った。
──これ、絶対にお金じゃないよ。
あんまり固くて痛い感触に、女の子は腹が立って鞄を開けた。苦笑しながらやって来た兵隊さんがそれを覗きこんで凍り付いた瞬間と、隊長さんの「ロース!」の声が響いたのが同時だった。
鞄が爆発した。
兵隊さんが、思いっ切り女の子にぶつかった。ぽーん、と、まるで羽が生えたみたいに、女の子は宙に飛んだ。
眼下に民家の屋根を見た気もするけど、気のせいだったかも知れない。落ちた時の記憶がないからだ。
と言っても、女の子は意識を失った訳ではなかった。気絶していたとしても、たぶんほんのちょっぴりの間だったと思う。女の子は起き上がった。幸いにも大した怪我はなく……なんてことはなく、左腕は肘から一回転捻って手の平の方が上になっていたし、左のおでこがくすぐったいので触って見たら、手がねばねばの真っ赤になった。でも、痛くはなかったのでまぁいいか。
左足が動かなかったので、兎みたいにぴょんぴょん跳ねながら女の子は移動する。森の中に投げ出されたけれど、樹々の隙間から、基地の天幕が見えた。跳ねる度に首元がちくちくして、何だろうと首を巡らせた女の子は驚愕した。
背中が炎を上げている。
思わず両手を振った。すると肩の方まで火が迫っているのが見える。毛糸の服だったから、よく燃えるのだ。それに気付いた女の子は急いでチョッキを脱ごうと試みた。燃えたチョッキは下の服にくっ付いて、なかなか脱げない。何とか左腕を出したけれど、今度は右腕が。
『燃える』と言うのはもっとこう、薪が爆ぜたり、お肉を焼き過ぎたりする様な、劇的なものだと思っていたのに、毛糸の服はまるで蕩けるみたいにゆっくりと滑る。腕を上下させたり、肩を動かしたりしても、汗と炎でくっ付いて、おまけに膿んで腫れたところが引っ掛かってちっとも脱げない。どうしようどうしよう。女の子の脳裏に火だるまになって死んでいった人達の姿が浮かんだ。女の子も、あんな風になってしまうのだろうか。どんどん萎んでいって、地面を転げ廻って……。
そうだ。女の子は思い付く。地面を転がるんだ!
ばたんと地面に倒れ込む。背中が土に触れた途端、死にそうな位の痛みが体を貫いた。悲鳴を上げて、女の子はのたうち廻った(もちろん声は出なかったけれど)。そうこうしている間にも、どんどん炎は広がっていく。
動かない左腕を右手で掴んで、女の子は左手を右の袖に突っ込ませた。指を袖に引っ掛けて、どうにか右腕を出そうとするけれど上手く行かない。遂にはしゃがみ込んで、左腕ごと袖を踏み付けて、ようやく燃え盛る服を脱ぎ捨てた。
燻る服から取り出した左腕は真っ黒になっていた。全然動かない。……大丈夫、大丈夫。煤がついただけだもん。
背中の様子を見ようとすると、首の付根がひどく痛んだ。けれども地面に血は見当たらなかったので、きっとひどい怪我じゃないはずだ。
女の子は基地へと向かう。どうしても立ち上がれなかったので、俯せになって、右手と右足の力だけで前に進む。
動かす毎に背中がズキズキ言って、自然と涙目になった。
基地に近付くにつれ、嫌な匂いが鼻をついた。前の日に、久し振りに屋根のあるところで寝て、久し振りに戦争の匂いのない場所を通ったから、きっと戦場の匂いを忘れていたのだと思う。
改めて嗅ぐと腐ったキャベツや玉葱よりも、もっともっと吐き気をもよおす匂いだった。
──ずっと後に、女の子はなぜ隊長さん達がこの時あんな行動を取ったのかと考えてみたことがある。
もしかしたら最初から予定されていた作戦行動を取っただけなのかも知れなかったし、ヤケクソになっただけなのかも知れない。どうせ野垂れ死ぬのなら少しでも敵を道連れにしてやろうと考えたのかも知れないし、事情があってこうするより他の行動が取れなかったのかも知れない。
とうとう最後まで隊長さん達を理解することのなかった女の子には、彼等の行動の意図を汲み取ることはできなかった。
ただひとつ、これだけははっきりと言える。この特攻は、西の国にとっても、東の国にとっても、全く何の意味もない、文字通りの無駄死にだったってことだ。
天幕の前にあった寝台は、一つ残らず破壊されていた。女の子が基地の全部を視界に納めた時、ちょうど藁の中から出て来た大砲が──きっと筒の中に藁が入り込んでいたのだ──暴発して、兵隊さん達が空高く吹っ飛んだ。
民家の窓から炎が吹き出している。
寝台にいた人だろう、白い病人服の人が「ママ、ママ」と泣きながら地面を女の子みたいに這いずっている。
エンジンの音がして、黒い自動車が基地から走り出そうとしていた。
次の瞬間、爆発音と共に車体が横倒しになった。
女の子は口を半開きにして、目をぱちくりさせながら、呆然と一連の様子を見守った。──食べ物はどうしようと考えながら。
そんな女の子の影は、きっと基地の人には塹壕兵に見えたのだろう。兵隊さんのひとりが女の子を向いて、鋭く叫ぶと同時に銃を構える。女の子は兵隊さんをはっきり見た。小さい人より若かったと思う。眉間を皺だらけにして、口の端を吊り上げて。何の躊躇もなく、兵隊さんは女の子を撃った。
その時の衝撃を、どう表現したら良いだろう。
痛くはなかった。そんなことはどうでも良い。肩に銃弾が当たった瞬間、陸揚げされた魚みたいに女の子は反り返る。これもどーでも良い。兵隊さんに──教科書や、絵本や学校で沢山見た、村のおじさんやお兄さん達が出征の時に着ていた同じ服の人、学校の男子達が憧れる制服を身に纏った兵隊さんに、女の子は撃たれたのだ!
兵隊さんと目が合った。彼の目が大きく見開かれ、口があんぐり開かれた。銃を落とし、まるでゴキブリの巣を見付けたお母さんのような金切り声が辺りに響く。
「戦闘を止めろー!」
誰かの声がした。女の子の知らない声だった。「もう戦う必要は無いんだ! 武器を下ろせ!」誰かは叫ぶ。「戦争は」
女の子の記憶はここで途切れた。疲れていたのか血が出過ぎたのか、それとも現実を受け入れたくなかったのか、それは判らない。
* * *
寒さに身震いして、女の子は目を覚ました。
夕焼けの橙色の空を、黒い葉っぱが隠していた。風が頬を撫でるのといっしょに葉も揺れて、陽の当たった場所がきらきら金色に輝いた。
寝転んだ地面はふかふかして、けれどたいへん湿っぽかった。体が地面にめり込んでいるみたいに重くて、動きたくないなと、女の子は考える。
けれどもここで眠っている訳にはいかない。寒いから風邪を引いてしまうし、陽が沈むまで遊んでいたらお母さんが──きっと既にカンカンなんだろうなぁ。
のろのろと起き上がる。四方はみんな森、グイドも妹もいなかった。こう言う時はたいていグイドや妹の面倒を見てあげている時に眠ってしまうものなのに。
きっと先に帰ったんだわ。女の子は憤慨した。何て思いやりのない妹達。
立ち上がろうとして尻餅をつく。左足があさっての方向に曲っていた。びっくりしたけれど、特に痛みは感じなかった。
それでも踏ん張ったら立ち上がることができた。生まれたての子牛みたいにかっくんかっくん上下しながら、女の子はお家へ向かう。背中が何だかむず痒かった。掻きたかったけれどどうした訳か両手は真っ黒で、手だけ夜に突っ込んだみたいだ。
今日の夕食は何かなあ。食事抜きの不安に耐えながら、女の子は歩く。お母さん、ほんと女の子にばっかり厳しいのよね。いやになっちゃう。
行進曲を口ずさむ。なのに声が出なかった。そう言えば、梢は擦れ合って影を動かしているのに、さわさわと言う音が聞こえない。鳥の声も、獣の移動する音も、女の子の足音さえも聞こえなかった。
……寝ぼけてるのかな。
右手を上げる。意外と普通に動いた。
頬を抓ってみる。うーん。
ぷるぷる歩いて行く内に、女の子は段々不安に駆られて来た。いつまで経っても村が見当たらなかったからだ。
もしかして迷ったのだろうか。その可能性に行き着いて、女の子は身震いする。女の子の森は軍隊でも突破できない位広くて、子供ひとりで迷ったら──。
女の子は線路を捜す。線路は森を突っ切っているはず(この線路を作る為に森の三分の一を切り開いたのだ)だから、線路を辿って行けば村の駅に着くはずだ。駅に着きさえすれば。
女の子は立ち止まった。
駅に着いたら?
卵が落ちて割れる幻覚を、女の子は見た気がした。
──そうだ、老サウザーを引き取りに行かなくちゃ。
眼前に黒い塊を発見した。女の子は視線を逸らす。だけどちょっと手後れだった。それが一体何なのか、女の子はしっかり確認してしまった。
死体だ。
これはきっと夢なのよ。視線を逸らせたまま通り過ぎる。大丈夫、大丈夫。だって、音もない、痛くもない、夢に決まっているじゃない。
ぽつりぽつりと死体が見える。怖くない、こわくない。
腕を振って、拍子を取って。
女の子は進む。だいじょうぶ、見えない見えない聞こえなーい。
青い帽子が落ちていた。西の兵隊さんの帽子だ。
右肩が、まるでそこに心臓があるかのようにどきどきした。
違うもん。女の子は帽子を踏んだ。これは夢だもん。女の子はお家に帰る途中で、それで、お家に帰ったらお肉を食べるんだもん。
また塊がある。
今度はまとめて二人。緑と茶色の中間の、くすんだ色の服はもうほとんど真っ黒で、しかも血で体も真っ黒になっている。ひとりは背の高いひょろりとした人で、その背の高い人の襟と右腕を掴んだ状態で、金色の髪を露にした人が倒れている。のっぽさんは俯せで、金髪さんは、女の子の方に顔を向けていた。
その死に顔を目にした瞬間、女の子はわっと泣き出した。これは夢だと思いたいのに、残念ながら女の子はこれが誰なのかはっきり答えることができてしまう。基地の光景も、撃たれたのも、この人達と歩き廻ったのもほんとうで、この森は女の子の村の森なんかじゃないのだ。
どうしようどうしよう。撃たれたことを思い出して、女の子はわんわん泣いた。女の子は、非国民になってしまったのだ。きっと、この人達の言うことを聞いてお遣いに行ったのが利敵行為で、だから兵隊さんは怒ったのだ。
売国奴は死刑になると、女の子は教わった。広場の真ん中で断頭台や、銃殺刑にかけられて死ぬのだと。
女の子も、きっとそうやって、殺されてしまうのだ。
死ぬのは嫌だと、金髪さんを見下ろしながら心の底から思った。先刻いっしょに乾パンを食べたのに、金髪さんものっぽさんも、もう同一のものには見えないほど変わり果てている。
こんな風になるのは嫌だった。こんなにズタボロになってしまうのでは、死んでもきっと天国に行けないわ。
妹の顔が頭に浮かんだ。
それからお父さんとお母さんの顔も。両親の死に顔を、女の子は最後まで目にすることはなかったのに、なぜだか浮かんだ二人の顔は、妹と同じように目を見開いて額に穴が空いていた。
不思議なことに、この時以来、女の子はどうしても生きていた時の家族の姿を思い描くことができなくなってしまった。みんなが生きている時のできごとはつぶさに憶えているのに、その表情は、いつも妹の死に顔と同じなのだ。
まるで赤ちゃんになったみたいに、大きく口を開けて泣いているのに、声が聞こえないせいかちっとも泣いた気分にならなかった。廻りにあるのは死体だけ、獣の影さえ存在しない。おばさんでも良いから傍にいて欲しかった。この世にひとりきりになってしまった気分だった。地獄だって、きっとここよりはずっとましだわ。
──やがて、太陽が完全に隠れた頃、遂に涙が枯れた女の子は立ち上がった。死ぬのは嫌だけれど、ひとりぼっちはもっともっと嫌だったから仕方がない。
全く動かなくなった左足を引き摺りながら、女の子は歩き出した。
どうして森の中に入り込んでしまっているのか、女の子は憶えていなかった。当然、基地のあった方角も判らない。
夜の森を無闇に歩き回るのは危ないと知っていたけれど、このままじっとしていても助けは来そうになかった。
声は出なかったけれど頭の中で歌を歌って、精一杯軽やかにスキップする。
ド・レ・ミ、ド・レ・ミ。繰り返す内に、女の子の調子も段々上がって来た。暖かい日なのか薄着一枚でも少しも寒くない。
ただしょっちゅう立ち止まって背中や顔の左半分を掻いていたので、遅々として進まなかっただけだ。
死体はぽつりぽつりと、夜の森でも目立って見える。これを辿って行けばお菓子の家……じゃない基地に着けるのだろうか。
前方に池がある。迂回しようとして、女の子は隊長さんを発見した。彼の荷物を一目見て「やった」女の子は思う。お腹がぐーぐー鳴っていた。西の兵隊さんは、背嚢なんて背負ってなかったのだ。
涙が頬を伝った。割れた卵とお父さんの背中が、頭の中でぐるぐるしていた。
隊長さんは下半身を池に突っ込んだ状態で、背嚢を下にして倒れている。食料を取り出す為には、体を退けなければいけなかった。
顔はちゃんと原型をとどめている。女の子はほっぺたを突いた。温かいとも冷たいとも感じない。隊長さんの腕を持ち上げて、体を押して転がそうとした時に、背中がぶるりと震えた気がした。
ぱちぱちと、女の子は瞬きする。泥と血で印象が全く変わってしまっている顔の、唇の辺りがほんの少し動いた。
そっと体をもどしてみる。頭が背嚢からがくんと落ちた時、隊長さんは激しく咳き込んだ……。
* * *
──がくん、と激しく車体が揺れて、女の子は目を覚ます。寝相のせいか、それとも流感が完治していないからか、ひどく頭が痛かった。
車窓越しの日射しは暖かくて、どうやら女の子はうたた寝をしてしまったらしかった。
隣にすわる隊長さんも爆睡している。ぼんやりと見上げた先にはお婆さんが立ったまま列車に揺られていて、女の子は慌ててお婆さんに席を譲った。
列車はびゅんびゅんと景色を切り裂いて行く。南へ帰ろうと言う人達で、列車はたいへんな混雑だった。
おじさんが、折り畳んだ新聞に真剣な表情で取り組んでいる。──この日で、終戦からちょうど一年が経ったと、新聞の見出しは伝えていた。
過ぎて行く家々を眺めながら、女の子は夢の続きを思い出す。先ずは左のおでこ、髪の付け根の辺りの傷は一二針も縫う大怪我だったし、背中から右肩にかけてはほんのりと痣の様なものが残ってしまった。右腕の化膿は瘢痕になって残っているし、撃たれたところも同様だ。
破れた鼓膜や、折れた左足はちゃんと治ってくれたけど、真っ黒になった左手の、小指と薬指の第一関節と第二関節は、未だにほとんど曲げられない。
あの後目覚めた隊長さんは、その時にはもう完全に記憶を失っていた、と思う。女の子に「ヴェァ ズィントゥ ジー?」と訊いたからだ。
女の子は、あれから直ぐに意識を失ってしまった。何日眠っていたのか知らないけれど、その後そこら中を彷徨った隊長さんが、ようやく国境を超えたのは、年が明けてからのことだった。
一年経っても、女の子はやっぱり言葉が話せない。今では随分東国語も理解して、例えば「ヴェァ ズィントゥ ジー?」が「あなたは誰?」って意味だってことも理解できる。
けれど隊長さんは一度だって、金髪さんやのっぽさんや眼鏡さんの行方を質問したことはなかった。女の子の方から伝えようとしたこともなかった。
そうして、昔隊長さんから言われたことがもう無効だとわかっていたけれど、女の子はやっぱり隊長さんについて廻っている。
幸いにも、隊長さんは女の子を放り出すことはなかった。きっと二度と西の国には帰れないのだろうなと、ぼんやりと、けれどちゃんと女の子は理解している。グイドは元気にしてるかな? けれどもう、二度と逢うことはないのだろう。
景色の移動が、段々とゆっくりになった。やがて完全に止まって、押し合いへし合い、皆歩廊へ降りて行く。
やっと空いたと思ったら、また直ぐに人が詰め込まれて、むしろ先刻より混んだ位だ。
列車は再び動き出す。遠く、遠く。女の子達は終点で乗り換えて、首都を、それからホフブロイを目指す。
その後どうなるのかは、女の子は全く考えていない。目の前の隊長さんは──この寝顔を見る限り、絶対に考えてないな、うん。
頭の中で、隊長さんから貰った名前を反芻した。女の子には耳慣れない響きだったけれど、たぶんこれから、女の子はこの名前を背負って生きるのだろう。
けれどもいつか、女の子のほんとうの名前で故郷に帰れたらいいなと、少し寂しく、女の子は考えた。