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はてしない物語-3

「ヴァルム!」金髪さんが地団駄を踏んだ。「ヴァルム ヴェアデ イヒ アウス ディム ヒンターハルト アンバーフォーレン ヴェアデン?」

「ハルト!」

 小さい人が包帯を持って金髪さんを嗜める。幸い(?)、銃弾は小さい人の防護帽に当たったので、彼は脳震盪を起こしただけで済んでいた。

 日はとっぷり暮れて、女の子達は野宿をしていた。潅木に隠れるように、大人八人(と子供ひとり)には狭過ぎるテントが張られていて、金髪さん達はその中にいる。

 のっぽさんと炭鉱夫(仮)さんは外で見張り、隊長さんと癖毛さんはどこかに行ってしまっていた。女の子もほんとうはテントの中に入りたかったけれど、顔を覗かせた途端先ほどの台詞が降って来たので断念した。

 だって、先刻から眼鏡さんが金髪さんの手の平を麻酔なしで縫い縫いしてるんだもん。

 中途半端に温い風が背中を撫で、鳥肌が立った。遠くで獣の鳴き声も聞こえたけれど、どうか狼が出て来ませんように。湿気った土は靴を濡らし、足先が雪で遊んだ時みたいに冷たかった。

「トゥリット イン デン インネレ アイン」

 のっぽさんが、なんどめかに女の子に話し掛ける。

 いいかげんこの人達は人に理解できる言葉で喋るべきだと、女の子は考えた。また金髪さんが大声を上げて炭鉱夫(仮)さんに怒られたけど、あれは「痛い、痛い」と言っているのだろうか。

 のっぽさん達に背中を向けて、女の子は乾パンをこっそり食べた。喉が乾いて仕様がなかったけれど、敵国人は毒を使うと教えられていたので、水なしで我慢した。

 結局その日は隊長さん達はもどって来ず、西の兵隊さんがこの人達をやっつけてくれることもなく過ぎて、いつの間にか眠ってしまっていた女の子は、翌朝炭鉱夫(仮)さんに揺すられて目を覚ました。



 その日から、歩くばかりの日が続いた。時々、電話を掛けたり地図を見たりする時以外は、休憩さえない。足がとても痛かった。毎日夕方になると足がパンパンになって靴が窮屈になるほどだった。

 何日歩いたのかは判らない。三日目までは数えたけど、それ以上はもうぼんやり足を動かしているだけだった。

 とりあえず、白い壁の目立つ街が現れたのがお昼頃だったのは憶えている。


 * * *


 街には誰もいなかった。

 都市と言うほどではないけれど、街と言って差し支えない程度に大きな集落だった。建物は全部コンクリートで、三、四階建てが通り沿いにずらりと並んでいる。大通りに面した壁はみんな白で統一されていて、近代的な雰囲気を出していた。

 家々の向こうからは、黒とも灰色ともつかない煙がもくもくと上がっている。

 家が火事になったなんて程度じゃない、後ろに火山でも在るのかという煙の量だった。

 街の中も、火山で滅んだ街ってこんな風なんだろうな、と思わせる荒廃振りだった。

 石畳を敷いた道路は白っぽくでこぼこになってて、その上には砂状になったコンクリートやら煉瓦やらが散乱している。それらは元は壁や塀だったのだろう、道の両脇の建物はもれなく破壊の痕があった。街路樹は黒焦げで、なのに根っこの部分は破裂した水道管から吹き出す水で水浸しになっている。

 物珍しさで、女の子はきょろきょろとあたりを見ながら走っていた。人のいないビルディングって気持悪いのね、とそんなことを心の中で呟く。何でか窓は全部開け放たれていて、そこからお化けが出て来そうだ。

 隊長さん達は、村の男の子が戦争ごっこでよくやるみたいに、壁にへばりついて移動していた。崩れた塀の影に皆でぴったり固まって、それからへっぴり腰で辺りを見て、大慌てで次の影へ走り抜ける。女の子が、おばさんに虐められないかと怯えている時みたいだ。

 これが西の国の兵隊さんなら、突撃する時は銃剣を槍の如くに構えて、姿勢を低くして敵に一直線に斬り込むだろうに。全く東国人は駄目ねと、学校で先生に教わったことを思い返しながら、女の子は後を追った。

 ──あれ?

 どうして女の子は敵国人を追い駆けてるんだろう?

 ようやく女の子は思い至った。お外に出たんだから、このまま走って逃げれば良いじゃないのかな。

 ……だけど、他に人が居そうにないのよね。

 するとこんな声が頭に湧いて来て、女の子は立ち止まる。敵国人達は皆銃を持っているし、前の日から非常に機嫌がよろしくない。

 捕まったら取って喰われるとも言うし、ひとりきりで逃げ切れるかしら?

「ドゥー!」

 そもそもどうしてこの街には人っ子ひとりいないのだろう。

 女の子は考えた。こんな大きな街の住人が、全部疎開できる位の広い場所なんて、西の国にあるのだろうか。

「ダヴァイ! ──この糞餓鬼が!」

 いきなり首根っこを掴まれて、道の向こうへ思いっきりぶん投げられた。

 左の肩から地面に突っ込んで、一回転して塀に頭を打った。けれどもそんなことより女の子に向かって発せられた『糞餓鬼』の単語が衝撃的過ぎて、女の子は呆然と後からやって来た隊長さんを見上げた。

 糞餓鬼、は北の言葉で発音された。意味が理解できたのは、お婆ちゃんが、孫にパイ作りを邪魔されると連呼していた単語だからで──だけど、男の人が女の人にこんな汚い言葉を使うなんて!

「ヨッポイマーチ!」

 隊長さんの方も怒っているのか、女の子を荷物のように抱えて走りながら、しきりに北国語で罵倒して来る。口調の荒っぽさの割に小さな声で、しかもほとんど理解不能だったけれど、「くたばれ!」と言われた時にはちょっぴり泣きそうになった。男の人に怒鳴られるのなんて初めてだ。

 隊長さんの悪口に被せて、ババババタン、と言う大きな音が響いた。女の子は後ろ向きに抱えられていたので、一番の大荷物を背負った炭鉱夫(仮)さんが倒れるのをはっきり見た。膝がかっくんと折れると、両手をふにゃん、と横に上げて、左に傾きながら地面に伏した。

 隊長さんがふりかえった。女の子があんまり暴れたからだと思う。叫び声を上げて女の子を地上に落とし、炭鉱夫(仮)さんのすぐ前を走っていた眼鏡さんといっしょに炭鉱夫(仮)さんの両脇を抱えて走る。

「ザニ! ザニ!」

 今度は、女の子も隊長さんについて行った。相変わらず廻りに人の気配はなくて、味方が助けてくれたのだとは、到底思えなかったからだ。



 街を抜けるまでに、癖毛さんが足を怪我した。

 鉄砲を撃って来る人がいるのに街中を探索するのだから当然だ。女の子だって二回も転んで血が出たし、炭鉱夫(仮)さんが死んで小さい人が電話してる間中、隊長さんに怒られた。意味不明な言語──一部北国語が混じっていたけれど──を喋っててくれててほんとうに良かったと思う。でなければきっと女の子は大泣きしていたに違いない。

 大体が、女の子はどうして敵国人が女の子を拉致してこんな無人の街を歩き廻っているのかが理解できていなかった。それだけじゃなく、後になって当時のことを思い返してみると、おばさんに床下に閉じ込められた辺りからどうやら感覚がおかしくなっていた様だ。記憶はあっても感想はなくて、何て言うか、一日中映画館に閉じ隠って、報道映画ばかり見ている気分。

 人間は、二日目からは敵国人以外も目にするようになった。

 最初に見たのは灰緑の、敵国人みたいな服を着た西の国の人で、喉から下顎の辺りが、ぱっくり裂けた状態で仰向けになっていた。たぶん血が、真っ黒で、首の付け根から腐った林檎色の何かが覗いていた。

 後は大きな背嚢(?)を背負った丸太(炭化した棒状のものだったので、女の子は丸太と判断した)が三つ、足がぺらぺらになった男の人がひとり。他は普通に死んでいる人で、生きている西国人に出会えたのは、二日後の昼前だった。



 味方は、大きな建物に居た。

 大きいと言っても敷地のことではなくて、五階建てと言う意味だ。門構えだけはやたらと立派で、やっぱりこの建物も被災していた。

 先ず、金髪さんと小さい人が、どこかから調達して来た火炎放射器(死体の中に背負ってた人が居たので、たぶんそう言うことだろう)を持って、こっそり裏口から中に入った。

 しばらく経って建物の窓から炎が吹き出して、それが三階に至った時、鬣みたいに火を靡かせながら、二人ほど窓から落ちた。最後に五階の窓から金髪さんが顔を出して「グート」と親指を立てる。

 そうして、縄を下ろして降りて来た。

 降りて来たのは四人。金髪さんと小さい人と……西の国の兵隊さんだ!

 女の子は目を輝かせた。兵隊さんは、灰緑色の服を着ているけれど、防護帽にはちゃんと西の帽章が付いている。

 ひとりは恰幅の良い、大柄な人物で、敵国人なんてひとりでばったばったと薙ぎ倒せそうな感じだ。もうひとりはそれほど体格は良くなかったけれど、その場に居た誰よりも頭が良さそうだった。

 隊長さんが、両手を上げた兵隊さん達に近寄った。敵国人なんてやっつけちゃってー。女の子は心の中で兵隊さんを応援したのに、兵隊さん達は二言三言隊長さんとお話した後、いきなり隊長さんの平手打ちを喰らった。

 よろけた兵隊さん達は、ひとりは両手を上げたまま踏み止まったけど、恰幅の良い方の人が、隊長さんを睨んで抗議した。すると金髪さんがサッと小銃を構えて──彼を射殺した。

 女の子は思わずしゃがみ込んで頭を抱えた。

 やっぱり神父さんや先生が言ってたみたいに、東国人は野蛮人だ。金髪さんは俯せに倒れた兵隊さんの頭に、三回も蹴りを入れる。小さい人が金髪さんの肩を掴んで女の子の方を見ると、金髪さんはふざけた様子で肩を竦めて「スマン、スマン」と謝った。へたくそな西国語だった。

 敵国人は、残った兵隊さんを後ろ手に縛る。それじゃあまるで兵隊さんが悪いことをしたみたいじゃないか。

 実際、敵国人は兵隊さんを罪人みたいに扱った。銃を突き付け引っ立てられて、兵隊さんは歩いて行く。こういう時は、まず隊長さん辺りの顔面に一発極めて、そして奪った銃で敵をどんどんぶちかますべきなのに、兵隊さんは、女の子を助けてくれる気がないのだろうか。

 兵隊さんが先頭に立って、敵国人達が続いていた。やがて着いたのは瓦礫の山で、隊長さんはひどい剣幕で兵隊さんを睨んだ。

「だから、ここは撤退したと言っている!」

 兵隊さんは必死になって言い募る。

「ヴォー?」

 隊長さんはお怒りだ。

「ほんとうだ! 俺達は後始末をしていただけだ」

「ソー! ヴォー!?」

 西の言葉で話してくれないとわかんなーい。他の敵国人も苛々してる風なので、非常に居心地が悪かった。

 女の子が言い合いから耳を背けている間にどんなやり取りがあったのかは判らない。やがて敵国人は、再び兵隊さんを先頭に立てて歩き出した。

 途中金髪さんがことある毎に兵隊さんにちょっかいを出して、実は随分性格の悪い人だったのね、と女の子は思った。



 敵国人は行軍した。どこに向かってかは、女の子は教えられなかった。

 前線に近付いているのだとは、理解できた。破壊された建物を、頻繁に見掛けるようになったからだ。

 兵隊さんも、相変わらず捕らえられたままだ。兵隊さんと癖毛さんのお陰で、女の子がついて歩くのがたいへん楽になった。

 敵国人は森から森へ、身を隠すように進んだ。攻撃を受けるのは、たいてい人家のある場所でだったけれど、一度だけ、森を抜ける際に火炎放射器を背負った西の兵隊さんに遭遇できた。あっと言う間に殺されてしまったけれど。

 女の子のポケットの乾パンが切れた。隊長さん達の食べ物も水(結局、女の子は敵国人提供の水を飲んでいた)もなくなった。

 川の傍を通った。岸の近くで沈んでいた兵隊さんの背嚢から食料を戴いた。

 銃弾が尽きた。死体の中から使える小銃を盗んだ。隊長さん達は、弾がなくなったのに自分達の持っていた銃を捨てなかった(東西の軍で制式採用されていた銃の種類が違っているので互換性はなかったはずなのに)。

 有刺鉄線が張り巡らされている地点を過ぎた。前半分が真っ黒になった兵隊さんが、上半身を鉄線の向こう側に突き出す形で引っ掛かっていた。

 背中には大きな荷物を背負ったままで、死んだ後まで重たい思いをしなくてはいけないなんて可哀想だな、と、女の子は思った。



 死体が放置されていると言うことは、そこは現在進行形で戦闘地域だと言うことだ。

 森の外れのなだらかな斜面の上に、六角形の低い家が三軒建っていた。女の子は最初それを極普通の民家だと思っていたけれど、隊長さん達が身を隠すと同時に集中砲火を浴びせられた。

 西軍のバンカーだったのだ。

 銃弾が黒い線を描いて飛んで来るのを、女の子は確かに見た。たちまち近くの一ケ所が穴だらけになる。猟銃で獣を撃ち殺す時とは比較にならない、吹雪とまごうばかりのいきおいだった。どれくらい早く弾を詰めて撃てば、こんなふうに発砲できるのだろう?

 女の子は隊長さんたちから随分遅れて歩いていたから、幸いにも攻撃の外で立ち止まることができた。けれど隊長さん達は、弾幕のど真ん中だ。

 音が怖くて、女の子は潅木の影に身を潜める。

 手で塞いでいるのに、耳の奥が叩かれたみたいに痛かった。銃撃音に合わせて、心臓もどんどん早くなっている。弾幕に目をやる勇気はなくて、女の子は寒くもないのにがたがた震えながら、必死に小さくなっていた。

「マイン アルム!」

 途切れ途切れに人の声が響いた。ほんの微かだったから、誰の声かは判らない。

 女の子はふと、捕らえられた兵隊さんの心配をした。最近食料事情が悪くて女の子よりも貧しい食事しか貰えていない、その上両手を縛られている兵隊さんは、あの中で大丈夫なのかな。

「アルム!」

 また声がする。アルムって、

 一際大きな音で、女の子の目の前の地面が抉れた。

 鼻の先と目がちりちりする。

 土塊が舞った。

 まるで駅前のようだった。乾いた土を掘るのはとても苦労するものなのに。

 束の間、女の子は幻覚を見た気がした。きっと、女の子がお父さんの下に挟まっていた時、外はこんな風だったのだ。

 地面があっという間にぼこぼこになって、お父さんやお母さんやみんな、あんな風に一瞬でぐちゃぐちゃな穴まみれになったのだ……。

 銃撃はまた直ぐに遠くなったけれど、女の子はしばらく固まったまま、口をぼんやり開けていた。気が付いて唾を飲み込むと、喉がひどくいがらっぽかった。

「ロース!」

 攻撃が続く中、隊長さんの号令が聞こえた。隊長さんは何回もロースロースと叫ぶ。

 女の子はいっそう深く茂みの奥に隠れた。ずっと近くで銃の発砲音が響いたからだ。

 肘が痛くて堪らなかったけれど、頭を抱えて丸くなり、一生懸命楽しいことを思い出す。

 ──女の子が最後に聞いたのは「ナイン!」と叫ぶ声だった。「ナイン! イェマンド アルム──ムティ!」と言ったのは、たぶん、小さい人だった。


 * * *


 女の子が、床が冷たいと訴えると、おばさんはくたびれたクッションを一枚放って寄越した。仕方なしにその上にすわって、持って来た荷物で風を塞いだら、おばさんは翌日その廻りに柵を設置した。

 緊張の毎日がはじまった。

 席についてスプーンを持ったら、いきなり引っ叩かれた。お祈りをちゃんとしろと怒鳴られて、一生懸命聖句を言ったら、今度は指をちゃんと畳めと怒られた。

 食事が鈍いと怒られた。汲んで来たお水をちょっとでも零したら殴られたし、居間のソファに乗っても怒られた。汚い汚いとおばさんはしきりに言っていたけれど、服が汚れても洗濯してくれなかったのはおばさんじゃないか──と呟いたら、洗濯もひとりでできないのかと詰られたから、その日から女の子は自分の服はちゃんと自分で洗っている。

 ある日女の子は、居間の掃除を進んでやった。床は埃でいっぱいだし、空き瓶が転がっているしで危ないからだ。

 瓶を全部部屋の隅にまとめて、階段下から持ち出した帚で床を掃いていると、おばさんがトイレの方からやって来た。

 入り口で立ち止まり、無言で居間を見渡すと、つかつかと女の子の元へ来て、取り上げた帚を思い切り振り下ろした。

「勝手なことをするな!」

 おばさんは叫ぶと、女の子を居間から放り出す。女の子は呆然と、居間の扉が閉められるのを見ていた。

 自然と涙が浮かんだ──そりゃあ、言ってからやらなかったのは悪かったかも知れないけれど、叩かれるほど怒ることはないじゃないか。お掃除を進んでやるのが、一体どこがいけないと言うのだろう。

 涙が一粒頬を伝うと、後はもう我慢ができなかった。しゃくり上げているとまたおばさんからうるさいと怒鳴られそうだから、慌てて柵のところまで走る。

 お家に居た時だって、理不尽に怒られたことはあった。お母さんはいつも妹の味方で、女の子のお気に入りの鞄を欲しがった挙句に涎塗れにした時も、お母さんは妹の味方だった。

 そう言う時は女の子はいつも、グイドを連れてカーテンに隠れて泣いた。するとお父さんがやって来て、女の子のお話をちゃんと聞いて慰めてくれる。

 ……けれどももう、女の子にはお父さんもお母さんもいなかった。泣いて隠れるカーテンもなく、女の子はこれから、ひとりきりで、泣くのを止めなければいけないのだ。



 ……廻りがすっかり静かになって、それでも女の子は縮こまっていた。

 その内に体中の関節がぎしぎし言うようになって、ようやく女の子は潅木から這い出した。

 人がいない。

 攻撃は止んでいる。隊長さんも、兵隊さんも、他の人もいなかった。

 森も静まり返ってしまっている。鳥の声さえ聞こえなかった。女の子の耳が、おかしくなっているのかも知れなかったけれど。

 陽が傾いて、長い長い影を作っていた。赤みを帯びた金色の、たわわに実った麦穂のような色が、空いっぱいに広がっている。

 さわさわと、陽の光に黄色く染まった葉の向こうに、煙をたなびかせるバンカーが見えた。煙の量と色を無視すれば、夕食の準備をしている風にしか思えない。

 風が、女の子を通り抜けた。暖かな陽の色の割に、風は冷たくて臭かった。

 女の子は歩き出す。隊長さん達が女の子を忘れ去ったのは明白だった。──女の子はひとりきりになってしまったのだ。この、戦場の直ん中で。

 何とはなしに、隊長さん達が隠れた場所を目指した。ぱちぱちと草が燻っていて、火事になるかも知れないな、とぼんやり思う。目を上げて隊長さん達の居たところを見て、女の子は悲鳴を(実際に声は出なかったけれど)上げてへたり込んだ。

 兵隊さんが倒れていた。仰向けで……顔がなかった。

 頭はちゃんと付いている。けれども顔面には目も鼻も口も耳もなかった。人間に鑢をかけたらきっとこんなふうになるのだろう。前歯だけが、血みどろの中で白く目立っていた。

 腹の底から気持悪さが競り上がってきた。しかし嘔吐するには、日頃の食事が余りに乏しすぎた。女の子は口をぱくぱくさせ、腹を押さえながら、四つん這いになってその場を離れる。

 少し進むと、もう一つ物体が見えた。人間そのものではなかったのものの──それは血の池に放置された腕だった。

 アルムの言葉の意味を、女の子は理解した。腕のことだ。

 気が遠くなった。

 助けを求めて、女の子は辺りを見廻した。この際、隊長さん達でも人攫いでも何でも良かった。とにかく生きている人間を見たかった。

 なのに、先刻まであんなに銃弾が飛び交っていたのに、もう人の気配さえないのだ。

 腕はマネキンみたいに綺麗だった。橙色に照らされて血溜りも腕も暖かそうだ。対して女の子は日陰で、地面についた手足がたいへん冷たくて、がたがた震えている。

 そろそろと、女の子は近寄った。伸ばした手でつついた腕は暖かかったけれど、とても乾いていた。

 素早く腕を掴んで両手で掻き抱いた。薄気味悪かったけど、ひとりきりでいる方がもっとずっと怖かった。腕は、ほんの少し前まで、確かに小さい人にくっついていたものだ。女の子はひとりきりじゃない。大丈夫、怖くない、こわくない。

 よろよろと立ち上がる。足に力が入らなかった。まるで酔っぱらった人のように左右に揺れながら、女の子は歩きはじめた。

 やがてあんまり小さい人が喚くからと、彼の腕を捜しに来たのっぽさんと金髪さんに出逢えたのは、陽が沈んで、西の空まで蒼くなった後だった。



 隊長さん達一行は、なぜか人数が増えていた。西の兵隊さんを三名ほど捕まえたからだ。

 その事実を知った時女の子が真っ先に考えたのは、これ以上食事が少なくなるのは嫌だと言うことだった。この当時は一日に乾パン二枚しか貰えず、もう兵隊さんが女の子を助けてくれると言う幻想は捨てていたので、彼等は余計な口にしか感じられなかった。

 小さい人がどんな様子だったかは、女の子は見ていない。金髪さんは、女の子を西の兵隊さんがいるところに連れて行った。

 そこは小さな洞窟(塹壕だったかも知れない)が二つ並んでいる場所で、向かって右手の大きい方に隊長さん達が、左の小さい方に女の子達が入れられた。小さい洞窟の中からでも、隣が騒がしいのが判る。金髪さんは去り際に、三人に各々一発ずつ蹴りをお見舞いした。

 洞窟の中はたいへん湿っぽかった。外の土は乾いていたのに、洞窟の中は水溜りさえできている。

 後で隊長さん達の方に移った時にはあちらは乾いていたから、たぶん隊長さん達の嫌がらせだ。

 兵隊さん達は、最初女の子が死体かと勘違いした位ぼこぼこにされていた。顔中真っ青で腫れ上がっていて、絵本で見た河豚みたいだ。前の兵隊さんみたいに縄を打たれていて、突き出た板に結ばれた縄は、彼等が地面にすわり込めないように、うんと短くなっていた。

 これは辛いだろうな、と女の子は思った。女の子もおばさんに立ちん坊にさせられたことがあるけれど、叩かれるよりも、もっとずっときつかった。

 おまけに下は水溜りだからブーツが湿気と冷気を吸って、あっという間に塹壕足のでき上がりだ。

 下弦の月が森の中でもはっきりと見える時間になった頃、女の子は隊長さん達の洞窟に移動した。それまでの間、兵隊さん達はしきりに「ママ、ママ」を繰り返して、意気地なしだなと、女の子は考えた。

 ──神父さんや先生は、戦地に行った兵隊さんは勇猛果敢に敵陣に突撃して、悪い東国人を一網打尽にすると言っていたのに。

 女の子は絶対に、ママなんて言わない。もう、絶対に、二度と、お母さんやお父さんに助けを求めたりはしないのだ。



「やあトミー、気分はどうだ?」

 その日隊長さんは、にこやかな笑顔で兵隊さん達の元を訪れた。明け方に、小さい人が亡くなったらしいと言うのに。

 兵隊さん達は、ぼんやりとした目で隊長さんを見返した。光のない目、乾いた泥を貼り付かせ、無精髭が顎を覆う様は、どんなハンサムも台無しだ。

 もっとも、女の子達も、似たようなものだったのだろうが。

「私の言葉は御理解戴けマスカ? 君達の足りない頭でも理解できるように、西国語を話して差し上げているのだがね」

 隊長さんはニコニコ顔で、兵隊さんのひとりに近付いた。それから、いきなり彼の顔面を殴打した。

「返事をしろ! 人殺し共が!」

 怒声に驚いて、場をのぞき見していた女の子は思わず隠れた。隊長さんは続け様に軍靴で兵隊さんを蹴りつける。体勢を崩した兵隊さんは、けれども倒れることもできずに、縄一本で宙吊りになった。

「ウスノロの蛆虫共が。貴様等の鉄筒でその薄汚い面を今すぐ挽肉にしてやろうか? あ?」隊長さんは更に蹴る。

「立て!」

 金髪さんが、隣からバケツ一杯に汲んだ水を持って来た。朝早くに、苦労して汲んできたはずの水を地面に置くと、彼等は兵隊さんのひとりの縄を切って、襟を掴んで頭をバケツに突っ込ませた。

 兵隊さんは両手をばたつかせてもがいた。すると眼鏡さんがその手を踏む。兵隊さんが跳ねた。バケツを被ったまま、彼が体を起こすと、眼鏡さんがその胸に飛び蹴り。兵隊さんは金属音を響かせながら壁に叩き付けられて、それきり動かなくなった。

「何をへらへら笑っている!」

 別のひとりの顔がへこんだ。隊長さんがスコップを振り回して当てたのだ(いつの間にか、無言で洞窟を見ていたのっぽさんが差し入れたのだ)。

 絶叫が辺り一帯に響いた。焦げくさい臭いも中から立ち上る。ごめんなさい、ごめんなさいと泣叫ぶ声は、やがてどんどん小さくなって、消えた。

 女の子は背を向けて口を必死になって押さえていた。吐き気がしたのではない。女の子もまた、笑いが込み上げて止まらなかったのだ。

 目からはだらだらと涙が流れて、鼻や口に入り込んだそれらに咳き込んで。音を立てない様にしゃくりあげながら、なのに笑いが止まらなかった。

 だって、だって、兵隊さん達はまるで喜劇役者の様に跳ねて叫んで踊るのだ。

 黄緑色に腫れ上がって、真っ赤のぶくぶくになって、萎れて。

 人間があんなに形が変わっちゃうんだよ?

 ね、おかしいでしょう?



 この頃になると、女の子は、隊長さん達からほとんど遅れることなくついて行ける様になっていた。

 隊長さん達は残り五人。

 けれども荷物が重いのか、この頃の隊長さん達の進軍速度は恐るべき鈍さだった。

 しかも金髪さんと癖毛さんは負傷しているし。一方女の子は歩くのにも慣れて、廻りに目を向ける余裕ができて来た。

 一帯は女の子の故郷よりも随分北にあるらしく、雪で白くお化粧をした山脈が、故郷よりもずっと大きくはっきり見える。風が強くて朝は身を切るように冷たくて、冬になったら沢山雪が積もりそうだ。

 もうすっかり秋──どころか冬に近い季節だったから、地面には落ち葉が一杯だ。落ち葉を集めて焚き火をするのが、女の子の村の年中行事だった。お父さんは昔それで飼料置き場を全焼させたことがあるらしく、焚き火をする度に廻りの人から注意されていた。

 グイドは犬の癖に、寒いのが苦手だった。焚き火や暖炉に真っ先に近寄って、それで時々毛を焦がす。グイドはもう老兵だから仕方ない、とはお父さんの台詞だけれど(グイドは十二歳だった)、老サウザーよりちいさいじゃないか。

 それからグイドは、腐葉土を歩くのが大好きだった。女の子が散歩に連れて行くと、好き勝手走り回った挙句に一番に家に上がり込むから、女の子はいつもお母さんに怒られる。今、女の子が歩く道はふかふかで、グイドだったら喜んで転がり廻るだろう。

 太陽の光は随分弱くなっていたけれど、空だけを見ていればとても暖かそうだ。

 実際昼は未だ温暖で、日向にいればお昼寝にちょうど良い気温である。

 休憩が、以前より頻繁に入れられるようになったので、女の子はおやつを口に含みながらいつもうつらうつらしていた。

 おやつと言うのは石のことで、土中から掘り出した石を、体に擦り付けてから舐めると塩味が効いて美味しかった。隊長さん達に至ってはお肉(どこで手に入れたのだろう)を樹にぶら下げて、そこにくっ付いた虫を炒って食べている(食べるものがなければお肉を食べれば良いのにと女の子は思う)。

 女の子も一度口に含んだけれど、微妙に火の通っていない虫の中味がぐにょっと出て来て、しかも苦くて舌が痺れたので、以来遠慮していた。

 もちろん、ちゃんとした食事もたまには採っている。基本的に森の中を移動していたから、野生の林檎を見つけたことだってあった。ポケットや腕に持てるだけ詰め込んだら、食べ切る前に腐ってしまった(でも食べたけど)。

 民家を見つけたらもっと良い食料にありつけたし、そう言う時は隊長さん達も女の子を思い出してくれて、暖かい食事を食べられるのだ。

 隊長さん達は、もうほとんど女の子のことを忘れている。女の子も、何で隊長さんに従っているのか疑問に思わなくもなかったけど考えるのを止めた。いまさらもどる場所もなかったので、ただただ歩き続ける。

 ──現実を見れば。

 おばさんの家を出て以来一度もお風呂に入っていない女の子は、泥塗れの埃塗れだった。髪の毛は絡まりあった藁みたいにぼさぼさで、しかも汚れと皮脂でべたべたしている。

 顔は乾いた砂がこびり付き、涙の跡は触ると糸を引き、目には目脂、口の中だってどれくらい歯を磨いていないだろう。

 服だって、一度も替えていない。

 靴下や下着の類いは余りの汚さに捨ててしまった。

 靴が壊れてしまった後は、女の子は裸足で歩いている。

 手はひどく乾燥していて、なのに握って開くと糊に触ったみたいな感触がした。

 途中転んで擦りむいた肘はぱんぱんに腫れて、鮮やかな黄緑色の粘液が出て来ていたけれど放置している。

 これは我慢大会なのよ。女の子は考えた。隊長さん達なんて更に重たい荷物まで背負っているのだもの。疲れたって言ったり、泣いたりしたら減点。一〇〇〇点溜ったら戦車に乗って、それでお家に帰れるんだ!

 ──ただもう、帰るお家がないだけで。

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