はてしない物語-2
……皆のお葬式の後、黒い車に乗せられた女の子が連れて行かれたのは、何と西の国の首都だった。
首都と言えば砲撃の噂を聞いたばかりだったので、女の子は砲撃の跡を捜そうと懸命に窓に顔を張り付けたけれど、通った道の所為か見つけることはできなかった。
首都にある大聖堂付属の修道院の前に停まった車から降りると、老齢の修道女がうやうやしく出迎えた。修道女は女の子について来るよう示すと、たいへんな早足で建物の中に消えて行く。女の子がお役人さんを振仰ぐと、彼らもまた、修道院に入れと言った。
これから神様に仕えて一生を過ごすのかしら。
口でお役人さんにお礼を言い、手渡された荷物を抱えて修道女の後に続きながら、女の子は考える。不安はあまり感じなかった。胸のどこかがもやもやしていたけれど、身の廻りにある何もかもに現実味がなかった。
修道院は──孤児院も兼ねていたのだろう、通された広間には子供達が沢山いた。
上は女の子より五、六歳年上に見える人から、下はよちよち歩きの赤ん坊まで。ずっと後になって知ったことだけれど、この時その場にいた子供達は全部戦災孤児なのだそうだ。
特に皆に紹介されることもなく、修道女はどこかへ去ってしまった。仕方がないので荷物を抱えたまま、女の子はぽかんと部屋の中を眺めていた。
年齢もバラバラ、各々好き勝手やっている子供達。中には頬に大きな綿布を当てられている子や、腕を包帯でぐるぐる巻きにされている子もいる。
この子達とお泊まりするのかぁ、と女の子は疲れた気持ちで溜息をついた。
やがて陽が傾く頃になって、不意に女の子は修道女に呼び出された。連れて行かれたのは小さな部屋で、中に西の軍服を身にまとった女の人と、椅子に腰掛けた男の人が待っていた。
「はい、じゃあそちらの椅子にすわって」机を挟んで男の人と向かい合うと、彼は早速切り出した。「まず、お嬢ちゃんのお名前は?」
女の子ははきはきと名乗った。
「お嬢ちゃんは、どうして家族のみんなと駅にいたんだい?」
一瞬考えて、それがお父さんやお母さんが死んだ日のことだと気がついた。
「……思い出すのは怖いのかな? でもね、これは西の国にとってとっても大切なことなんだよ」
女の子は首を振って、あの時のことを話した──怒られそうなことはでき得る限り省いて。
「飛行機はどんな形をしていた?」
この問いにも、見た限りのことは伝える。
「どちらから飛んで来た?」
「それは、列車を狙っていた?」
「それとも、お嬢ちゃん達を狙っていたのかな」
「お父さんやお母さんは、その時どうしていたの」
「お嬢ちゃんはどうやって飛行機から逃げたの」……。
全部の質問が終わった時には、もう陽はとっぷりと暮れていた。軍服のお姉さんが帰り際に飴玉をくれたけれど、食事の時間が過ぎていた為に、冷めた菜っぱだけのスープと拳ほどのパン一切れしか、女の子は食べられなかった。
スープはたいへん薄味で、パンはかさかさでちっとも美味しくなかった。
ふと目を開けた時に見えたのは暗闇だった。光はどこにも見当たらず、風がひゅう、と鳴るのが聞こえたけれど、手足を縛られていたので身動きができなかった。右目は熱を帯び、瞼を開けようとするとひどく痛い。
鼻を啜ると血の味がした。口の端がしくしく痛む。舌で触るといっそう痛かった。涙が乾いてほっぺたが痒かったけれど掻く動作をする為には、女の子の閉じ込められたところはあんまり狭かった。
『お前は私達を殺す気か!』
おばさんの言葉を思い出すと、またしゃっくりが止まらなくなる。
『え? カーテンも閉めないで電気を点けて、配給食料を盗み食いしやがって。どこまで自分勝手なんだ、お前は! それで他人様に迷惑かけて責任取れるのか? え? 兵隊がお国の為に戦っている時に、そうやってお前は邪魔をするのか!』
何だか訳の解らないことを喚かれて、思いっきり肩を揺すられ殴られた。
それから、頭を拳で何回も叩かれて痛い痛いと逃げたら後頭部を掴まれて角の柱に叩き付けられた。その時胸をぶつけたらしくて、息ができなくて転げ回っていると、おばさんは酔っているとは思えない手際の良さで女の子を縛り上げて床下の物入れに女の子を放り込んだ。
泣いている内に眠ってしまったのだろう、いつのまにか空気が冷たくなっている。ずっと暗闇にいる内に、時間の経過も遠近感も、全部判らなくなってしまっていた。
それどころか、目を開けているのか閉じているのかも曖昧で、足を折り曲げてすわっている感覚だけは残っているものの、なんだか自分が頭の中だけのいきもののような気さえしてきた。
喉がとにかくひりひりした。泣き疲れたのかも知れないし、単に喉が乾いていただけかも知れない。
鼻が詰って呼吸できないからと口を開くと、更に口中がからからになった。
どうして目が覚めたのだろう。疑問に思うと同時にバーン、という大音声が響く。地面が小さく揺れた。何が起きたのかは確認できない。でも、ここは前線が近いから、大砲が近くに着弾したのかも知れない。
……戦線が迫っているのだろうか。
おばさんの近所の人達は、東軍の最終攻勢がはじまった辺りで次々に疎開をはじめている。この時は既に西軍有利の戦況になっていたけれど、去る人は減らなかった。もう村の建物の過半数は無人で、おばさんの家の前後左右もみんな空家になっている。
また爆発音がした。先刻より小さな音だと安心していたら、すぐに背筋が凍る爆音が轟いた。
おばさんはどこに行ったのだろう。
物音がしない。
この状況で寝ていられるはずがない。
ひとりで逃げてしまったのだろうか。
そんなの、どうしよう。不安が雲のように湧き上がって来た。だって、そんなの、死んじゃうじゃないか。
慌てて立ち上がろうとした。肩と頭に何かが当たって駄目だった。だって、お役人さんや、おばさんが、勝手に、突然女の子をおばさんの家に連れて行ったのに、なのに怒られたり叩かれたり閉じ込められたり、理不尽じゃないか。お母さんに言い付けてやる!
いきなりバタンと何かが倒れた。一拍置いて、沢山の足音が、女の子の上を駆け廻った。
おばさんではなかった。不意に聞こえた声は男の人のものだ。
幾つかの足音が遠くなって、やがて随分経ってからおばさんの耳を劈く泣き叫び声が女の子を通り過ぎて、消えた。
女の子は立ち上がった。すぐまた頭と床がごっつんしたけれど、なんどもなんども繰り返す。このまま閉じ込められているのに耐えられなかった。引き摺り出されて、また嫌ほど殴られるのかも知れないけれど、それでも、そちらの方がまだましだ。
下から突き上げるゴンゴンと言う音に気付いたのか、足音が集まって来る。複数の男の人が会話するのが聞こえ、しばらくして背中から光と、冷たい風が舞い込んだ。
「ヴァス?」
誰かが呟いた。眩しくて閉じた目をゆっくり開けると突き刺す様な痛みと共に、防護帽を冠った男の人達が何人も、女の子を覗き込んでいるのが目に入った。
「……トォーター?」
逆光で顔は良く見えなかった。
男の人達は緑と茶色の中間の、くすんだ色のだぶだぶ服を纏っていた。枯れかけた苔色の、鉄道工事人の長袖服みたいなアレだ。靴も長靴で、何人かは巡礼に行く人のようにやたら大きな背嚢を背負っている。肩に銃剣を下げていなかったら冒険家と思っただろう。
女の子を床下から救出した後、彼等は随分警戒して辺りを巡回して、それからようやく背嚢を下ろした。
「ヴィ ハイセン ジー ヴィッテ?」
女の子の縄を解いてくれて、どこかから持って来た毛布に包んでくれながら、男のひとりが声をかけてくる。
「モラヴィアーツェ コンメ アゥス ジー?」
女の子がきょとん、と男の人を見上げると、彼は困った様子で首を傾げた。
変な喋り方をする人だ。女の子は考えた。せっかちな、舌を巻くのが下手な人が捲し立ててるみたいだ。何を喋っているのか全然解らない。
再び爆発音が家を揺らした。女の子はびっくりして、カーテンの閉められた窓を凝視する。すると、
「心配しなくても大丈夫だ」
誰かが女の子に向かって言った。さっきの人とは別の、とても大柄な男の人が、女の子達の方に歩いて来た。
「嬢ちゃんはこの家の子か?」
これはちゃんとした西国語だ。
少しだけ、女の子のお婆ちゃんがお喋りした時みたいな訛りがあるけど。
女の子は首を横に振った。
「じゃあ、何であんなところにいたんだ? 近所の子供か? 悪戯の仕置き──にしてはむごいな」
どんなにひどい思いをしたか、おばさんがどんなに怖い人なのか、目の前の男の人に精一杯訴えとしたけれど、どう言う訳か女の子の口からは声が出なかった。
「どうした?」
唇を動かすとたいへん痛かったので、だから、きっと発声できなかったのだろう。
男の人はしばらくのあいだ、女の子が何か言うのを待っていたふうだったけど、女の子が喋らないのを見ると、持っていた綿手拭を女の子の顔に押し当てる。
女の子の右目はちゃんと開けられない位腫れ上がっていて、濡らした綿手拭が触れると痛くて冷たくて、少しだけ気持良かった。
布を女の子の手に持たせながら、男の人は問う。
「お前、近所の人間か?」
違うので否定。
「両親は。保護者は?」
おばさんを保護者と思いたくなかったので首は横に。──そう言えば、先ほどあんなに煩く叫んでいたおばさんはどこに行ったのだろう。
そもそも、この男の人達は誰だろう。強盗……じゃあ、ないといいな。
「……まさかホリョか?」
知らない単語が出てきた。ホリョとは、戦争孤児のことだろうか(陸戦条約なんて学校では習わなかったのだ)。
女の子は首肯した。
すると男の人は、顳谷に人差し指を当てて困った顔をした。暫時考えことをして、それからまた女の子に向き直った。
「……一見して西国人ではない様だが……北方系か?」
これにも女の子はうなずいた──女の子のお父さんの方のお婆ちゃんはパレッセから移住した人で、女の子は、そのお婆ちゃんにそっくりだと言われていた。
「移民か……?」
男の人は呟いた(もともと西の国と東の国は、国境近くの土地の領有権を巡って戦前からずっと対立していた。この戦争の四〇年位前にも東西で戦争をしていて、お互い領有権の主張の為にその地域への移住を推奨していたらしい。その中には北からの移民がたくさんいて、その地域というのが、どうやらおばさん達の住む、この近辺らしかった。ちなみに、この地域は戦後、西の国に割譲されている)。
……女の子のお婆ちゃんはその件とはまったく関係がなかったけれど、男の人は、女の子が北方系東国人で、だから虐められているのだと理解したらしかった。
確かに、東の国と単独講和した北の国の人間に対しての西の人の風当たりは、当時たいへん厳しかった。女の子が毛嫌いされていた理由も、そこにあったのかも知れない。
男の人は忌々しそうに舌打ちする。
「パショルティ」
謎の単語を呟かれた。
顎にも濡れた綿手拭を当てられて、下から包帯を巻かれる。女の子は耳下腺炎の患者さんみたいになった。
簡単な手当てが済むと、男の人は立ち上がる。代わりにもっと小柄な人がやって来たけれど、そんなことより女の子の視線は男の人の防護帽に釘付けになった。
そこに描かれた黒い豁十字は、女の子が学校で散々教わった、敵国の主権紋章だった。
──兵隊さんとは、清潔な、スーツをもっとかっちりした黒服に金銀の褒章を身に付け、騎士みたいに直立不動で黒くて長い銃を右手に掲げ持った、正義と秩序の権化みたいな人々だと言うのが、当時の女の子の認識だった。
首都の修道院に入れられて以来、女の子は沢山の軍人さんとお近付きになった。
着いたその日に行われた質問は、そのまま全国紙に写真付きで掲載された(いつ撮られていたのだろう)。漫画目当てに新聞を手に取った女の子は、その事実にとてもびっくりした。
それからと言うもの、女の子は何かある毎に黒服のお役人さんに連れられてお出かけすることになった。
大司教猊下にお声をかけて戴いたし、ナントカ大臣さんにも会った。
軍隊を表敬訪問した時には、肩幅がっちりの、左胸いっぱいに勲章を佩用したおじさんの一声で目の前の一隊がテキパキ動く様を見て口をあんぐりさせたものだ。
列車や民間人相手に機銃掃射をかけるなんて卑怯だと、あの攻撃の後西の国の偉い人達は抗議をしたのだそうだ。
それで、攻撃で一家全滅してひとりだけ生き残った女の子は格好のプロパガンダとして表舞台に引っ張り出されることになった。
もっとも、一番目立ったのは、別の地方に住んでいた(同じく一家全滅の憂き目に遭った)女の子より二歳上の、金髪と碧の目が綺麗な、如何にも西国人と言った外見の女の子だったけれど。……女の子だって、金髪に青い目をしてるのに。
そうやって露出が増えると、当然可哀想な子供の引き取りを希望する人達も出て来る。西の国の政府は戦災孤児を大々的に喧伝して、彼等を引き取ることが優良国民云々……と広告を打っていた。引き取り希望の家庭に適当に孤児を振り分けて、女の子もそうしておばさんの家に連れて行かれたのだ。
おばさんの家は確かに田舎にあったけれど、首都に近い所為か女の子の田舎よりはずっと近代的な建物が多かった。おばさんの家もまた、見た目はコンクリートの建物だった。
知らないおばさんの家にお泊まりすることに非常に緊張しながら、女の子は出て来た赤ら顔のおばさんにはきはきと挨拶した。横幅の広い、彫りの深い顔立ちの赤毛のおばさんは、女の子を一目見て眉を寄せた。
ひとしきりおばさんと会話すると、お役人さんは女の子を置いてあっさり帰った。どうして良いのか判らずに女の子が立ち尽くしていると、おばさんはこっちに来いと言って、女の子を勝手口のすぐ隣の、埃を被った道具が並べられている場所に連れて行った。
「しばらくあんたはここで過ごしなさい」
女の子は困惑した。おばさんを見上げると、まだあんたの部屋の掃除ができていないのだ、と言われた。──結局、おばさんの家にいた三ヶ月間に女の子の部屋が用意されることはなかったけれど。
食事の仕度をする、と、おばさんは去って行った。仕方が無いので女の子は、床に転がったお酒の瓶をお片付けした。
おばさんは家の中を案内してくれなかったので、ひとりで、食事の前にできる限り探検しておこう。女の子は考えた。おばさんの家は二階建てで、一階は玄関と台所と居間とトイレ。じゃあ、お部屋は二階にあるのだろう。
家の一番奥まったところに階段があった。急な階段を上り切るとドアが五つ見える。おばさんはひとり暮らしなのに沢山部屋をもっているのだなぁと女の子は思った。女の子の家なんて、妹といっしょのお部屋だったのに。
すると突然、後ろから襟を掴まれて引っ張られた。階段の一番上の段だったから、そのまま体勢を崩して南淡か落ちる。必死の思いで手摺を掴んで、何とか一番下まで落ちるのは避けたけれど、おかげでその後随分の間腕が痛くて仕様がなかった。
「何を勝手に上がっている!」
女の子はびっくりした。おばさんが、階段の上から物凄い大声で怒鳴りたてたのだ。
「他人様の家を断わりも無く歩き回るな! お前は親からどんな躾を受けて来たんだ?」
呆然と見上げたおばさんの顔は、それまで遭遇したどんな怒りの表情とも違って見えた。鼻と眉の付け根をしわくちゃにし、目は血走って吊り上がって、顎と唇を変な形にひん曲げて。
ごめんなさい、と女の子は謝った。これからの生活に、何となく恐怖を感じながら。
女の子は相変わらず部屋の隅っこで、侵入者達が動き廻る様を眺めている。
敵国人がおばさんの家を占拠して二日が経った。もともとおばさんは外に出ない人だったし、近所の人はみんな疎開してしまっていたから、たぶんこの人達が来たことに気付いている人は誰もいない。
おばさんを見掛けなかったから、助けを求めに行ってくれているのかとも考えたけれど、救援が訪れる気配はなかった。
敵国人は昼間からカーテンを閉め切って、秘密基地に隠れて遊ぶ男の子みたいに何かごそごそやっている。地図みたいなのを広げて、隣に四角い箱を置いてそれでどこかとお話している。電話器を見たのは初めてだったので、少し興味を持って眺めていたら「近寄るな」と命令された。
とりあえず、すぐには殺されなくて済むようだ。顎に当てられた綿紗をそっと触りながら、女の子は考える。水も食べるものもちゃんと貰えているので、むしろおばさんより扱いは良いかも知れない。
塹壕掘り係の人なのかしら。目の前の男たちの格好は(女の子の常識の範囲では)軍人さんには見えなかった。きっと下っ端の、使い走りの人達なんだわ。
敵国人は全部で八人、痩せててとっても背の高いのっぽさんと、その人の胸までの身長で、いつも黒い癖毛が防護帽の両端から飛び出ている人がたいていいっしょに行動している。
それで、この二人と交代で窓に貼り付く役割をしているのが一際彫の深い顔立ちの、いつも怒っているみたいな表情の人で、この人は防護帽を脱ぐと丸刈りをしていた。
いっしょに行動するのは金髪のちょっと足の短い人で、時々女の子に話し掛けて来るけど、何を喋っているのか女の子には理解できなかった。
女の子の手当てをしてくれるのは眼鏡の人で、この人と炭鉱夫みたいな強面の人が女の子の存在を気に掛けていてくれた。
箱とお話しているのは一番背の低い人で、たぶん年齢もこの人が一番小さかったと思う。
この七人の長に当たるのが、最初の時西国語で話し掛けて来た人だ。
背はのっぽさんよりも低いものの、一番がっちりした印象の男の人だった。今のところ、女の子と意志の疎通ができる唯一の人間だったので、女の子は彼を『隊長さん』と呼んで区別することにした。
「おい、──嬢ちゃん、こっちにおいで」
その日、芋をまるごと茹でただけの昼食を取っていた女の子に、その隊長さんが呼び掛けた。フォークを置いて近くに行くと、地図を眺めていた隊長さんが顔を上げた。
「この村で地下壕か何かを掘っていたという話を聞いたことはあるか?」
それはもちろん聞いていた。戦線が近いから、いざ東軍が攻めて来た時の為に避難用の地下壕が在るのだと、おばさんは自慢気に語っていた。
そこには武器弾薬がたくさん有って、撤退した兵隊さんと軍民一体になってゲリラ戦をするんだって。
でも、それって今は関係ないよね。女の子は考えた。第一、敵国人にそんなことを教えるはずがないじゃない。
女の子が突っ立ったままでいると、隊長さんは上目遣いに女の子を見上げた。
「どうだ?」
女の子は悩んだ。敵国人に情報を教えるのは犯罪だと思うけど、嘘をついたら神さまに怒られる。
「……あるんだな?」
隊長さんにうなずかれて、女の子はびっくりした。「入り口はどこに有る?」
入り口は各家庭に一つずつ。これも伝えるべきか悩んでいると、隊長さんは理解できない言葉で他の人達に指示を出した。
「地上には武器庫はあるか?」
この問いには素直に首を振る。抵抗の意志がないことを示す為だ。
「空家になっている家はどれだけある? その中で軍に接収されたのは?」
そんなこと、女の子が知っている訳がない。首を横に振ってその旨を意思表示した──喉の痛みは治ったのに、どうした訳か、その時になっても未だ、女の子は声が出せなかった。
きっとこの状態では逃げ出しても、怖い人達がいるのだと村の人に伝える前に射殺されてしまうのだろう。
「協力感謝する──では、もどってくれ」
協力、という単語に、女の子は肩を震わせる。もしかして今のやり取りだけで、情報漏洩したということになるのだろうか。
非国民は銃殺刑だと教わっていたから、女の子はちょっぴりビクビクした。再び芋に取り掛かりながら、忙しなく動き廻る男たちを眺める。学校で習ったみたいに、すぐ殴ったり発砲したりはしないけれど、でも、やっぱり敵国人なんだよね?
大分時間が経過して、姿を消していたのっぽさん達が帰って来た。
しばらく隊長さんと話し合って、それから隊長さんの一声で部隊のみんなが動き出す。他の人達がいなくなった後で、隊長さんと眼鏡さんが女の子を見下ろしてひそひそやっていた。
女の子はようやく敵国人がいなくなることに安堵していたのに、隊長さんは傍までやって来ると、「ついて来なさい」と命令した。
──こういう場合どうすれば良いか、女の子は教わったことがなかった。突撃とか、手榴弾とか銃剣しか、女の子の知識には存在しなかった。
逆らえば殺されると思ったので、女の子は持てるだけの乾パンをポケットに突っ込んで後に従った。
今になって考えてみれば、彼等は女の子を保護したつもりだったのだろう。少なくともこの時は、この後一月以上も敵地で彷徨うなんて、想定していなかったはずだ。
隊長さん達が向かったのはトイレで、便器の後ろ、ほんの少しの隙間に地下に通じる入り口があった。ひとりずつ降りていって、一列になって進む。それだけの幅しかない狭い通路だった。
先頭はのっぽさん達で、一番後ろは眼鏡さんと炭鉱夫(仮)さんと隊長さんだった。
眼鏡さんと炭鉱夫(仮)さんと小さい人は大荷物を背負っている。他の人達は、それよりはずっと小さな(それでも実は二〇キロ位あるのだけれど)背嚢で、大きな銃を持って構えているのっぽさんと金髪さんはともかく、他の人達は思いやりがないなあと、女の子は義憤に駆られながら歩いていた。
地下壕はちゃんと石で壁が作ってあって、明かり置き用の窪みも一定感覚毎に作られていた。と、思ったらそれは最初だけで、直に土が剥き出しの、床は織物を敷いただけの穴になった。
中には誰もおらず、女の子が目にした範囲では、武器の類も見当たらなかった。
敵国人の服をよく見てみると、くすんだ変な色の作業服にはちゃんと模様があって、緑の濃い部分と茶色の濃い部分が不規則に並んでいた。全くセンスの欠片もない。
靴も、長靴の上に薄い革だか布だかをぐるぐる巻いて、何とも野暮ったかった。唯一、隊長さんの防護帽と服にキラキラした飾りが幾つか付いていて、それだけが軍属っぽさを漂わせている。
とぼとぼとぼとぼ。誰もが無言で進んでいく。
歩幅のせいか、いつのまにか女の子は、一番後ろになってしまっていた。ついて来いと言った癖に女の子に対する配慮は全くなく、女の子は小走りで彼等の後を追わねばならなかった。
不意に列が止まった。しばらく待って、動き出す。広い空間に出た。先は道が二つに別れていて、敵国人は地図と懐中時計みたいなものを広げて何やら話し合った。
敵国人が直立不動で会話する間、女の子も端の方で足をもじもじさせながら考えていた……おしっこ行きたい。
こういう時、声が出ないのはたいへん不便だ。もっとも、音を立てたら殴られたのだろうけど。
女の子には頓着せず、隊長さん達は進軍を再開する。だけど今度は幾らも行かない内に、突き当たりになってしまった。
引き返すのかしら。女の子が考えると、突然上からガシャン、と音が響いた。敵国人が邪魔で、何が起きているのか見えない。体を左右に揺らして何とか状況を把握しようと努めていたら、前の人達が動き出した。
突き当たりは上に続いていた。
音はどういう仕掛けでか上から梯子を落とした時のものらしく、梯子──と言っても家にある様なのではなく、怪盗が逃げる時に使うような、縄と鎖でできたものだ──を登らされて出た先は、どこかの家の床だった。
飼料置き場だろうか。地下壕の入り口の辺りだけは何もないけれど、前は飼葉で一杯、壁際に、草にほとんど隠れる形で木箱が何個か置いてある。
ここで、敵国人は散開した。炭鉱夫(仮)さんと小さい人だけが残って、後は全員どこかへ出て行く。女の子は地下壕の入り口付近で立ちつくしていた。とりあえず、この小屋にトイレがないことだけは把握した。
「──ヴォーヒン ゲースト ドゥ?」
それでも遂に限界突破しそうになって、こそこそ蟹歩きで入り口に向かったら、小さい人に見付かった。仕方なしに、逆の動きで元の位置にもどる。
その時突然シャーン、と大きな音がした。ほんとうはどーん、が正しいのだろうけれど、女の子の耳にはシャーンとピーンとオオーンと、ジャーンの音がいっしょくたになって聞こえた。地面がぐらっと揺れて、壁に何かがぶつかる衝撃が走った。
小さい人が、持っていた電話に話し掛けるのが見えた。炭鉱夫(仮)さんが、その小さい人に向かって口を開いているのも見える。女の子は耳がキンキンして、藁の影に身を潜めてがたがた震えていた。
爆発音が消え去ると、今度は一転して静寂に包まれた。炭鉱夫(仮)さんは銃を構えて入り口近くに貼り付き、小さい人は、受話器を右の耳に押し当てて黙っている。
「ニヒト シーセン!」
戸が開いて、隊長さんが叫びながら入って来た。炭鉱夫(仮)さんが突き付けた銃を下ろし、敬礼をして隊長さんを迎える。
小屋にもどって来るや否や、隊長さんは炭鉱夫(仮)さん達に矢継ぎ早に指示を出した。さんざか怒鳴ってから、隊長さんは女の子にも何か声をかけたけれど、残念ながらこの当時の女の子に外国語が理解できるはずもない。
ただ、小さい人と炭鉱夫(仮)さんは直ぐさま荷物を背負って銃を持ったので、移動するのだとは解った。
続いて金髪さんと丸刈りさんが飛び込んで来る。丸刈りさんを見て、女の子は青褪めた。丸刈りさんからぶすぶすと煙がたなびいて、真っ黒になっていたからだ。
女の子は目を背けて再び藁の影に入った。金髪さんの叫び声が聞こえたので耳を塞ぐ。それでも、叫び声も、小さい人や隊長さんが怒鳴る声も、はっきりと聞こえて来た。
しばらくはばたばたしていたけれど、直に隊長さんたちは小屋を出発した。女の子も慌てて付いていったけれど、その時、床に横たえられた丸刈りさんを跨いで行かなければならなかった。
隊長さん達はもう小屋を出ていて、つまり丸刈りさんはそのまま放置だ。
いくらも行かない内に、のっぽさんと癖毛の人も合流した。走りながら、のっぽさん達は隊長さんへ何か報告している。一生懸命後を追い掛けながら、女の子はここが見晴しの良い場所で良かったとつくづく思った。隊長さん達は、女の子のことを完全に失念している。
パーン、と音が響いた。小さな森に入る手前だった。小さい人が右に跳ねてそのまま地面に倒れた。
近くを走っていた炭鉱夫(仮)さんが、小さい人の襟を掴んで引きずって行く。続けざまに三回、銃声が鳴ったけれど、命中したのはそれだけだった。
隊長さん達が森の中へ消えて行った後、女の子も森へと入る時に、きらりと、左手の民家の窓に光るものが見えた。