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はてしない物語-1

 目を閉じると思い出すのは、いつもお酒を飲んでばかりいたおばさんの姿だ。正規のお酒は早い内から配給になっていたから、飲んでいるのはもちろん粗製品のメチルで、それがどれだけ体に悪いかを色々な人に諭されても、おばさんはけっしてお酒を止めようとはしなかった。

 おばさんの家は北部の、戦線に近い村にあって、遠くから始終銃やら大砲やらの小さな音が響いていた。時々は家の真上を戦闘機が飛んで、女の子はもう飛行機はまっぴらだったから、その度に家の中に飛び込んだのを覚えている。そうして慌てて家の扉を閉めると、たいてい音がうるさいと怒鳴られて、空になった酒瓶を投げつけられるのだ。

 女の子がおばさんの家に行ったのは、七月の、東の軍隊の最終攻勢の直前のことだった。その後すぐに西軍の大反撃がはじまって、九月の末には鉄道防衛線の突破開始のニュースが流れ、東軍の参謀次長が密かに停戦を模索しているとの見出しが新聞を飾った。

 戦況は今までになく流動的で、もうすぐ何か大きな動きがありそうだと──しかもそれは女の子達、西の国の人々にとって良きものであろうと──そんな噂が、ちらほらと人々の口に上りはじめていた時期だった。


 * * *


 その頃の女の子は、学校へ行かせて貰えなかった(もしかしたら、休校になっていたのかも知れない)。

 おばさんも働いていなかったから、だから、女の子は日がな一日暗い家の中で、酔っぱらってくだを巻いているおばさんを眺めているしかなかった。

 楽しむのではなくて酔うためのお酒をコップ一杯、溢れるまで注いで、おばさんは顔を顰めて一気飲みする。とても不味そうな表情だった。

 嫌なら飲まなければ良いのに、おばさんは風味が無いとか文句を言いながら、パンも食べずに酒を呷るのだ。

「養育費と手当てをくれると言うから引き取ったんだ。その支払いが遅れて、どうやってお前を養えって言うんだ」

 おばさんはよく、女の子に向かって愚痴を零した。おばさんには旦那さんと、三人の息子さんが居たらしいけれど、その全員がこの時までに戦死していたらしかった。彼らの手当てや年金はたいした額になっていたはずだけれど、全部お酒代に廻っていたようだ。

 おばさんの愚痴がはじまると、女の子はいつも急いで自分の場所へと走って逃げた。自分の場所とは、初めておばさんの家に足を踏み入れた日にあてがわれた、女の子のお部屋のことだ。そこは勝手口のすぐ横の、使わない道具を置いておくところにあって、ウサギを囲うような背の低い柵で他と仕切られている。隙間風が足下を撫でていつもちょっぴり寒かった。

 そうして、おばさんからの唯一のプレゼントであるくたくたのクッションを耳に押し当てて、嵐が過ぎ去るのを待つのが、当時の女の子の日課だった。

 感覚がなくなるまで耳を押さえ付けながら、いつも女の子が考えていたのは遠い遠いお家のことだ。女の子のほんとうの家は西の国の東南部、南の国との国境と東の国との国境が最も近くに存在する地域にあった。歴史上南の国だったり東の国だったり、支配主が目紛しく変わった場所だったけれども、ここしばらくは西の国の領土になっている。

 もっともそれは、たまたま近辺に三国の国境が重なっていたと言うだけで、別にここで黄金が採れるとか、交易の要衝だとか、特別なものは何もない。

 森があって(この森がとても広かったので、いつも国境がそこで途切れてしまうのだ)、ずっと向こうに山脈の薄い影が青く浮かんで、人の数より家畜の数の方が多くて、雨があんまり降らなくて、だけれど冬はそれほど寒くなくて、唯一の見所と言えば、その小ささと普段の顧みられなさの割に国内でも十指に入る古い教会の建物だけだった。

 その教会の鐘も、女の子が物心付いた時にはもう規則正しく時を知らせることはなくなっていた。戦争がはじまってすぐに教会ごと軍に接収されてしまったからだ。村には信用できる時計を持っている人が誰もいなくて大騒ぎしたのだと、学校の先生は教えてくれた。

 戦争は、村から男手と物資と、その他いろいろなものを奪ったけれど、少しだけ良いこともあった。線路がひかれたことだ。

 列車はこの戦争において、最も重要な要素の一つだった。線路の長さがそのまま補給線の長さになり、武器も兵隊も列車に乗って戦場に向かう。国家総力戦と言って、国中から人やものが掻き集められたから、つまり線路も国中に張り巡らされた訳だ。

 ……残念なことに、女の子の村に建てられた駅舎は、軍関係者以外立ち入り禁止だったけれど。

 女の子達の生活は概ね平穏無事に過ぎていた。新聞が三日遅れて届く田舎だったせいもあるし、フィルおじさんが目をやられて帰って来た他は、悪い知らせがなかったせいもある(もっとも、他の人は皆音信不通だったので、最終的に徴兵された皆がどうなったのかは、女の子は知らない)。

 戦争も五年目ともなれば、男の人がなくても何とかやって行く術を身に付けつつあったのも関係あるだろう。

 けれども五年目の春は、西軍にとっては最も厳しいものだった。三月はじめに北の革命政府が東の国と単独講和を結んで、戦争を止めてしまったからだ。これで東の国はほとんどの戦力を東部国境戦線(東の国の呼び方だと西部国境戦線)に向けることができるようになって、予想通り、大攻勢を仕掛けて来たのだ。

 このままのいきおいだと一ヶ月もしないで首都に東軍がやって来るのでは、と噂が流れた。それから幾らもしない内に列車砲が次々に首都に打ち込まれて、首都から人の姿が消えた。気の早い東の国の人は、既に戦勝祝いをはじめているらしい。

 その日、東軍が首都を砲撃した三日後、女の子の家で、女の子と女の子の妹はお母さんから一つの指令を受けていた。

「モニク夫人のお手伝いをして、お礼に鶏の肉を貰って来なさい」

 モニク夫人は村で一番鶏を飼っている、時々卵もくれるたいへん気前と恰幅の良いおばさんである。

 おばさんは大好きなのだけれど、この命令はまったく女の子を鬱にさせた。そこの鶏の凶悪なことと言ったら、大人よりも大きいグイド(雄のレトリバー犬)でさえ畏れて近寄らないほどなのだ。伝説によると、うっかり鶏舎に入り込んだ脱走子牛を返り打ちにしたことさえあるらしい。

 老サウザー(リボルノ鶏、一九歳)の飛び蹴りに怯えながら彼等の糞を端に寄せて(すると、ちゃんと掃除されてないことを理解している奴等は女の子を取り囲むのだ!)、それから通路に飛び散った屑を取り除く。

 若鶏の産んだ卵を言われた通りに運んで、何とか無傷で最後の一個を運び終えた二人に、モニク夫人はにっこり笑ってこう言った。

「じゃあ、あんたたちに老サウザーのお肉をあげるから、捕っておいで」

 女の子は当時未だ七歳(と九ヶ月)で、妹は六歳になったばかりだった。そもそも十数年前に処分されそうになったのをその凶暴さの為に生き延びたのが老サウザーなのだし、第一彼女は卵用種じゃないか。

 そんな女の子達の必死の抗議も、モニク夫人の心に届くことはなかった。夫人はにっこり笑顔のまま腰に手を当てはっきりと宣言した。

「ちゃんとした肉はお国に卸すに決まっているだろう」

 肉は真っ先に配給制になった品物だから、農家が勝手に処分してしまうのは犯罪だ。そんなことは女の子も知っている。知っているけれど。

 ──老サウザーとの死闘の様子は割愛するとして、彼女の両足をモニク夫人に押し付けた時には既にお昼を過ぎて、午後の休憩に近い時間だった。妹は肘とほっぺたが痛いと泣き喚いているし、女の子も右の手の平とか、顎とか、蹴られたお腹が痛くて堪らない。

 髪の毛は真冬にセーターを着た時みたいに逆立っているし、せっかく汚さずに済んだはずの服は、いつの間にか糞と藁と泥と汚れた水で、前衛的な柄物になっているし、破傷風になったらどうしてくれよう。

 夕方になったら引き取りに来いと言われて、女の子と妹は卵を抱えてとぼとぼと家路を歩く。初春の風は微妙な暖かさで、撫でられた傷口が痒くて仕方がない。まったく、せっかくの安息日に何と言う労働をしてしまったのだろうか。

 自分の影と睨めっこしながら家路を進んで行くと、不意に後ろから声をかけて来る人があった。妹がパパ、と叫んで走り出す。女の子も慌てて妹の後を追った。けれども妹は急ぐ余りに、とうとう貴重な卵を一つ地面に落としてしまった。

「あのね、あのね、老サウザーがね、ひどいのよ。いっぱいけったの。ほら。あたし血がでたの、いっぱい!」

 妹が抱っこをせがんだせいで、女の子の両手には更に沢山の卵が載せられることになった。

 女の子はたいへん不満だったけれども、まあ、妹は抱き上げられる前にしっかりと落とした卵について叱責されたので、我慢してあげることにしよう。

「そう言えば、今日、もうすぐここの駅を軍隊の秘密車輌が通り過ぎるらしいぞ」

 三人が線路に沿って歩いていた時、ふと女の子のお父さんがその日仕入れた軍事機密を口にした。お父さんは近隣で唯一の理髪師で、お父さんが居なくなったら女の子の村だけでなく、領主さんの持っている村全体が困るらしいので、だから、この時まで徴兵されずに済んでいた。その代わり、時々兵隊さんの散髪に出掛けている。

 秘密車輌ってなあに? と、女の子は質問した。一般の人が使わない線路だったせいか、女の子はそれまで列車が走っているのをほとんど見たことがなかった。

「列車の壁が戦車みたいな装甲で覆われていて、窓から大砲の筒が伸びているものだよ」

 お父さん自身も、この説明を後から考えると、しっかりと理解していなかったようだ。

 けれども女の子が興味を持つには充分だった。女の子にとって兵隊さんは騎士と同じ、格好良い大人の代表で、それにまつわる色々なものは憧れるに足る代物だった。

 是非とも見たいと女の子は訴え、早く帰りたいとの妹の意見は退けられて、三人は駅舎への寄り道を決定してしまったのだ。

 駅舎に着くと、なぜか他にも村の人間が集まっていた。例えば教会に給仕に出ているおばさんとその息子さんとか、今朝補給科へ煙草の納品に言った業者さんとか……守秘義務、ってどこの国の言葉だろう。

 この日の天気は数日来の晴天で、薄い水色の空が地平に向かうにつれて黄緑色へと変化していた。天の頂きから僅かに東に傾いたところに白い月がぼんやりと浮かんでいて、時々薄く白い雲に隠れている。風はやや南寄り、気温は前の日よりほんのちょっぴり暖かで、着る服に困るような、そんなうららかな昼下がりだった。

 ──軍隊の車輌にはいっぱい落書きがしてあるんだぜ。

 駅に来ていた、女の子の同級生が自慢気に教えてくれた。彼のお父さんも出征していて、その見送りに行った時に見たのだそうだ。

 ──東の首都はすぐそこだ、とか馬と嫁を連れて帰るよとか、そんな落書きがみっちりでさ。前線の兵隊さんが描いたんだって。

 ただ、今日やってくる列車は、兵隊さんを乗せたものではないのだそうだ。駅舎の廻りの金網に貼り付いて、じりじりしながら線路の果てを見つめ続ける。おうち帰ろうとぐずっていた妹が暴れ出さなかったのは、そこに女の子のお母さんまで加わったからだ。

「何をやってるの。一旦家に帰って来れば良いのに」

 だって、お家に帰っている内に列車が来ちゃうかも知れないじゃない。

「来たよ!」

 ほぅら、と女の子はふりかえる。目を凝らして見ると、音よりも先に車輌が確認できた。真っ黒い車体で、昔読んだ絵本の汽車みたいな、鍋の蓋のような丸いものは付いていない。むしろ騎士物語に出て来る装甲騎兵の兜みたいな尖った先端が、女の子に向かって走って来た。

 喇叭を何十本も一度にならしたような、耳を突き抜ける音と共に、風が女の子達に吹き付ける。がたんごとん、がたんごとん。列車は減速しない。どうやらこの駅には止まってくれないみたいだ。

 先頭の車輌が通り過ぎて、次の四角い貨物車も通り過ぎる。一両目、二両目、三両目……八両を数えたところで女の子は飽きた。それよりも先刻から聞こえて来るゴォと言う音の方が耳に付いた。

 音は上から、見上げると一機の飛行機が女の子のほぼ真上を通過したところだった。北から東の方向へ、列車の通過音にも負けない轟音を響かせながらあっという間に森へと消えて行く。今までに見たこともないくらい低い位置を飛んでいた。銀色の機体が、ほんのり橙色に染まってきた太陽の光を弾いて女の子の目を射したけれど、飛行機が通り過ぎる時、確かにコックピットに人がすわっているのが確認できた。

「東の戦闘機だ……」

 傍に居たお父さんが呟く。女の子は慌てて飛行機を凝視した。けれどももう随分と遠くへ行ってしまった飛行機は、側面にあるはずの模様を女の子に見せてくれることはなかった。

「道に迷ったのかねぇ」

 お父さんと世間話に花を咲かせていた問屋さんも、首を上げながら訝しそうに言う。

「やーい! 対空砲で墜とされちゃえ」

 そう吠えたのは同級生の子。

 飛行機って、飛行船とは全然違う形をしてるんだね。はじめて目にした戦闘機に、女の子は興奮して感想を述べた。

 何だか蜻蛉さんみたいだ。

 そのあいだにも、列車はガタゴト地面を揺らしている。もう何両目が判らないけれど、未だ列車の端は見えて来ない。

「ねえ。つかれたぁ。かえろうよぉ」

 とうとう涙目になって、妹が訴えはじめた、その時だった。

 キュイーン、と、空を劈く甲高い音が耳を聾した。嵐の夜に吹き荒ぶ精霊が、何千も何万も集まったかのような。

 誰かが何かを叫んだけれど、内容までは聞き取れない。

 首を上げた女の子は、先ほどよりも遥かに巨大に迫った戦闘機の側面に、はっきりと黒十字の主権紋章を見た。

 ……この戦争の当時、少なくとも女の子の知る限りでは、レールの上を走行するしかできない列車に、戦闘機が攻撃を加えるなんてありえない戦術のはずだった。

 戦争と日常は、はっきりと別れた世界で、戦地ではない民間人がいる場所を標的にするなんて卑怯は誰も考えもせず、戦争は『兵隊さん』がするもので、だから前線と言うものがあって、だから女の子達が集っている、列車が線路に沿って走って行くだけの場所に、まさか機銃掃射が行われるなんて、誰も想像だにしなかったのだ。

 映画だと、こんな場合にはタタタタタ、と軽い音と共に地面に火花が飛び散るのだろう。

 不思議なことに、女の子はこの時のどんな音も火花も全く記憶に残っていない。数瞬前まで隣の人の声も聞こえない爆音が鳴っていたはずなのに、この時なぜかはっきりと、地上の人々の叫び声を聞いた。

 女の子はいつの間にか、両手に抱えていた卵を全部落としてしまっていた。腕だけはそのままの形で、ああお母さんに怒られてしまうと考えた時、突然何かが女の子の上に覆い被さった。地面に落ちても一個だけ無事だった卵が押し潰されて、中身が辺りに飛び散って、かしゃ、という音を女の子は聞いた。被さったものは随分重くて、女の子の腕は曲ったまま胸を圧迫して、息が詰まりそうで必死にもがいた。

 首は前を向いたまま動かせない。耳からは何の情報も入って来ない。

 地面に押し付けられた後頭部をごりごりごりごり擦りながらこれは人の体だな、と女の子は理解した。上の人の釦が顎と手に押し当てられて、血が出るんじゃないかと言うほどに痛かった。右足は不自然な形に固定されて捻挫しそうだし、外に向かって突き出そうとした左手は卵の殻に刺さったし、ようやく体の半分を脱出させた時には体中が汗でびっしょりになっていた。

 空は相変わらず晴れ渡っていて、けれどもほんのりと樹々の縁が橙色に染まりはじめている。細い雲が東西へ伸びていて、それを強い風が押し流して行った。

 女の子が最初に感じたのは、空気がとても砂っぽいと言うことだ。息を吸うとざらざらして、鼻がつんとなった。それから暖炉の埃が焦げている時みたいな臭いがして、奥歯がキンとなるような臭いが立ち込めているのに気が付いた。

 辺りは静まり返っていた。動くものは何もなかった。

 列車が既に通り過ぎてしまっていることを、女の子は発見した。それから、駅舎の壁のすぐ前で、団子虫みたいに丸くなっている給仕のおばさんを見付けた。転んだのか、駅舎に入って数歩のところで俯せにKの字で倒れているおじさんもいる。同級生の男の子は女の子の近くに居たはずなのに、目に付く範囲では見付けることができなかった。

 暫時の硬直の後、女の子は少しずつ、『何か』から抜け出した。明るいところに出て見れば、覆い被さっていた人物が誰か、考えなくても判った。

 お父さん、と、女の子は呼び掛けた。反応はない。血も見当たらなかった。けれど後で大人達がお父さんを運んだ時は、そこには真っ黒な血溜りができていた。不安になってお母さんを呼んでみたけれど、こちらも、何の返事も返って来なかった。

 女の子は立ち上がった。覚束ない足取りで歩き出す。

 服が水を吸って、その感触が気持ち悪かった。

 廻りの人間がちらほらと、首を上げ、立ち上がろうとする気配が感じられる。

 ──お母さんと妹は駅舎の屋根の下、女の子とお父さんからは、陰になる場所に隠れていた。

 お母さんは俯せで、妹は仰向けで倒れていた。

 死んだ人は目を閉じるものだと思い込んでいたので、妹の表情は、女の子にはちょっぴり意外だった。

 妹は怖がるふうでも怒っているふうでもなく、ただ目を開けたまま死んでいた。



 ……突然首ががくんと落ちて、女の子は驚いて目を覚ました。鼻に自分の膝が当たって、どうやらお部屋に避難しているあいだに眠ってしまったらしかった。

 恐る恐るおばさんのところへもどって見ると、おばさんはテーブルに左の頬をくっつけて大きな鼾をかいている。右手にはグラスを持ったまま、左手はだらんと下に垂れ下がっていた。

 窓はもう薄暗く、女の子のお腹はぐーぐー鳴っていたけれど、どうやら今夜も何も食べられなさそうだ。

 とぼとぼと来た道を引き返しながら、わたし何か悪いことしたかしらと女の子は考える。灰かぶりだって、こんなひどい目には遭わなかったと思うの。

 ぐるぐる蠢くお腹は女の子を更に惨めな気持ちにさせた──たとえば家族のお葬式の時もほとんど何も食べなかったけれど、あの時は空腹なんてちっとも気にならなかった。突然大きな黒い箱と沢山の人間がやって来たことに興奮して動き廻るグイドを押さえ付けながら、女の子は部屋の隅でぼんやりと大人達の行動を見守って、次の日棺といっしょに教会に運ばれて、久しぶりに教会にもどって来た神父さんの祈祷に、やっぱりぼんやりと耳を傾けただけだった。

 他の人達といっしょくたのお葬式が終わって、けれどもお墓は今は使えないからと、遠くからやって来た自動車に皆の棺が載せられて、それらが去ってしまうまで食事をとった記憶がないけれど、それでもお腹はちっとも減らなかった。

 お家に連れて帰って貰って火の気のない部屋を見渡した時に、ようやく女の子はこれからどうしようと途方に暮れた。

 しかしそれを誰かに質問するより先に、持てるだけの着替えを鞄につめなさいと言われて、ともかくも言われた通りに行動した。しばらくそのまま待っていなさいと指示されて、グイドの隣にしゃがんで大人しくしている内に、ディーゼルの音と共に細長い黒い自動車が家の前に停止した。

 ──真っ黒いスーツを着た大人が三人。

 女の子の家に残っていた大人達が、そっと女の子の背中を押した。

 乗りなさいと促される。お役人さんだから怖がらなくてもいいよ、と言ったのは誰だったろう。

 後ろの扉から、女の子は中に入った。

 ふりかえると、女の子の良く知った村人の何人かはハンカチを目に当てて、何人かは泣いているのか笑っているのか判らない表情で小さく手を降っていた。

 その向こう、女の子の家の玄関のすぐ横で、グイドはいつもお父さんが出掛けて行く時そうするように、行儀良くちょこんとすわって、女の子が乗った車を見送っていた。

 グイドのその後を、女の子は知らない。



 おばさんの家は古い建物だったから、夏であっても夜になると足が冷えた。けれど暖を求めて二階に踏み入ろうものなら、おばさんに階段から突き落とされるのがオチだ。

 二階にはおばさんの寝室と、おばさんの旦那さんと息子さん達の寝室があるらしかった。この家に着いた初日にうっかり息子さんの部屋の扉を開けて、家の柱に散々鼻を打ち付けられたのは痛い思い出だ。絶対に立ち入るなと女の子に厳命した上で、おばさんはわざわざ食べ物を二階の物置きに移し替えた。たぶん嫌がらせなのだろう。

 嫌がらせと言えばもう一つ、明かりを使わせてくれないのもそうだ。

 この家は電気が通っていて、だから確かに初日は興味津々な態度を取ったけれど、おばさんはとにかく明かりを点けるなの一点張りだった。

 夜、家の中が真っ暗なのにも拘わらず、おばさんは電灯に必ず覆いを──電灯の上半分をすっぽりと隠してしまうような──被せて、ついでにカーテンも閉め切って月明かりさえ入らないようにしてしまう。女の子はいつも部屋の端っこなので、足下さえ覚束ない。

 女の子だって、好きでおばさんの家に来たんじゃないもん。

 口の中で呟いてから、女の子は二階へ続く最後の一段を上がった。

 ほんとうは怒られるけれど、今はおばさんも眠っているから大丈夫。だって、前の日もお祈りの言葉を間違えたからと夕食を下げられて、朝は作って貰えなかったし、お昼に前の日の残りを温めようとしたら盗人呼ばわりされて叩かれたんだもん。

 二階のお部屋は全部で五つ。手前の二つは息子さん達のお部屋で、その向こうがおばさんの部屋、そしてその向いが旦那さんの部屋、だったら宝物(食材)は一番奥に違いない。

 そろりそろりと近寄る。幸い、鍵は掛かっていないふうだった。と言うか、戸が少し開いている。

 それを両手で押さえながらそっと中を覗いてみた。

 お部屋の中はがらんどうで、扉から一番離れた隅に野菜籠が二つ置かれているだけだった。電気を付けて、走って覗き込むと右の籠にはキャベツ(外側が黒くどろどろになっていたけれど)とサラダ菜、新聞紙のクッションを挟んでトマト、左の籠にはジャガイモが入っている。女の子は先ずキャベツの外側を剥がすところからはじめた。喉が乾いて仕方がなかった。

 キャベツは萎びて、羽虫がくっついてもいたけれど、潤いを求める身には充分に有り難かった。むしゃむしゃと、立て続けに三枚口に押し込む。湿気った紙を噛んでいるみたいだった。山羊さんが紙を食べている時は、こんな感じなのだろうか。

 食べるのに夢中になっていたので、女の子は、背後に忍び寄る恐ろしい足音に遂に気が付くことはなかった。

 電灯に傘が被せられ、おばさんが背後に悪魔の如き形相で立ち止まる迄、女の子はひたすらキャベツを口に含み続けていた。

 いきなり背中に蹴りを入れられて、息が止まって喘ぎながらふりかえった時、女の子は殺されるのではないかと心の底から震え上がった。

 それが確か、一〇月一日のことだったと思う。

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