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おじいさんは荷車にのって

 鉄道の旅というのは、指南書を読むとまるで世界の名だたる絶景を優雅に眺めながら従来では赴くことのできなかった名所旧跡へ快適に連れて行ってくれる素晴らしいもののように思えて来るけれど、実際乗車してみると床は常にギィギィ鳴って耳につくし、揺れがひどくて飲み物は溢れるし、安い布張りの座席はお尻が痛くなるし、せっかくうつらうつらしはじめたと思ったら駅員さんが切符を切りにやってくるし、昼寝を諦めて、せめて気分転換に景色でも眺めようと窓を開けようものなら、煙が一気に中へと流れ込んできて乗客を肺病にさせるつもりかと訴えたいいきおいだし、もしも真夏に一番安い席へ乗り込んだなら、きっと熱中症で死ねるだろうと、女の子は信じている。

 そんな愚痴を、ひたすらに心の中で唱えていたのは、まさにその時女の子が列車の一番安い席に乗っていたからで、しかも流感で数日来の発熱と吐き気を抱えていた為だ。これはもう何かの嫌がらせとしか思えない。

 感冒なのに列車に乗る方が悪いのかもしれないけれど、女の子にだって今回は貧乏以外のちゃんとした言い訳がある。もともと前線で広まっていた感冒が、復員兵と共に世界中に広がって(流行事体は、これで三回目だけれど)、手の廻らなくなったお医者さんが、重篤な患者(と金持ち)以外を診療拒否しだしたのだ。

 宿泊所も風邪ひきさんお断りで追い出されてしまって、だから今は、感染者専用車輌で移動中と言う訳だ。

 まあ、隊長さんが、『寝れば治る』と勝手に判断したせいもあるけれど。

 何が一番腹が立つかと言うと、何も食べられないことである。珍しくも隊長さんがまっとうな食事を食べさせてくれようとしたのに、水さえ口にできないのだからあんまりだ。

隣で、葡萄を美味しそうに頬張っている隊長さんの姿は想像するだに憎らしい。だから絶対に目は開けない。何でこの人伝染らないのだろう……そこまで考えてさすがに女の子の良心が痛んだ。言い過ぎました。ごめんなさい。

 けれど神様にはちゃんと聞こえていたのか、女の子はだんだん気持ちが悪くなってきた。

「………………」

 横になった体をますます丸くする。相席になった男の人と隊長さんの会話が、遠くに聞こえた。

「……そちらの茶髪の子、大丈夫ですか?」

 幻聴まで聞こえてきた。この髪を茶髪呼ばわりするなんて。悪魔の囁きだ、うん、そうに違いない。

「ガキは重症化し難い、って聞きますし、大丈夫じゃないですか?」

 軽い調子で答える隊長さんの声はくぐもっていて、何か食べているのは明白だった。……やっぱりこの人何で伝染らないのだろう。

「そちらこそ大丈夫ですかい。若い人のがやばいんでしょう?」

「いえ、僕は単に安いからこの車輌を選んだだけで。僕自身は秋に一回罹って治ってますから、たぶん大丈夫だと思いますよ。父もいっしょに罹ってますし」

 相席している人は、親子連れで、でも息子さんも立派な大人の人だった。眼鏡をかけていて、目は赤煉瓦の色で、髪の毛は金と銀の中間の色で、女の人みたいに細い。背もそんなに高くはなくて、向いに座っているのが隊長さんの所為か、いかにも弱そうに見える人だった。

「お父さん、駄目ですよ、眠っているんだから」

 お父さん──年齢的には、お爺さんなのだけれど──の方は、何と言うか、完全に惚けてしまった人らしく、余り口を開かない人なのでよく判らないけれど、自分の現在の状況も今一つ把握できていない様子だった。

 歩くのも困難らしくて、藁を載せる時に使う荷車に乗せられている。そのお爺さんが、かさかさの、骨張った手で、やたらと強く女の子の頬を叩いた。

「これ、食べるか?」

「お父さん、やめてください」

 無理矢理引っ込められた手には潰れたカステラが握られている。お爺さんは息子さんに何か抗議していたけれど、言葉が不明瞭すぎて女の子には聞き取れなかった。

「すみません」息子さんが、女の子を覗き込んで謝る。

「こら」無視して毛布を被ったら、隊長さんに叱られた。

「ああ、いいですよ」布団から頭を出したら息子さんに止められた。……どうしろというのだろう。

「……この子、ほんとうに大丈夫ですか? 目が虚ろですよ」

 息子さんが顔を離しながら言った。

「いつもそんなんです」

 次に吐く時は隊長さんの膝の上にしようと、女の子は心に決めた。そんなことを考えると、ほんとうに気持ちが悪くなって来る。

「水、飲ませた方が良くないですか」

 女の子が今一番望むのは、『しずかなかんきょう』なのだけれど。

「──そういや、朝から何もとってない様な……」

 だって気持ち悪くなるんだもん。でも、おかげで朝から一度もトイレに行かなくて済んでるよ?

「おーい。ちび、食え」

 差し出された葡萄を見るだけで、女の子の口の中はざらざらしてきた。そっぽを向いて拒否の意思表示をしたのに、隊長さんは無理矢理女の子の口に葡萄を詰め込んでくる。

「ところで、お二人はどちらに行かれるのですか?」

 息子さんは助け舟を出してはくれなかった。むしろ少しほっとした声色で、隊長さんに話し掛けた。

「そうですね……オワルに行くつもりです。ホフブロイの近くにある村らしいですが」

 伝聞形なのが不思議なのか、息子さんはきょとん、となった。

「あの、ホフブロイなら、この電車は停まりませんよ?」

「はぁ!?」隊長さんが腰を浮かす。

 ──路線図はちゃんと見てから乗りましょう。お願いだから。

「待て。駅の路線図はホフブロイを通っていたぞ。北まで行くんじゃないのか、これ」

 北、と言うのは、北の国のことだ。

「ええと、ほんとうはそうなんですけれど、夏の長雨で山間部の方で土砂崩れがあったとかで。ほら、来年の春までは復旧の見込みはないとか、新聞に書いてありませんでしたっけ?」

「……生憎、新聞取ってないもんで」

 長い長い溜息をついて、隊長さんが腰を落とす。安い布を張った座席が揺れて、女の子の頭がぶよんと跳ねた。どうやらこのパーテーション内には、病人を気遣ってくれる心優しい人間はいないみたいだ。

「あのう、確か振り替え便が首都圏から出ているらしいですよ」

「そうですか……四五〇〇ギルダが無駄になったなー……」

 その悲しいお知らせに、女の子の胃の腑の奥から競り上がって来る何かがあった。

 それだけあれば、新しい服が買えたのに。

 喉の方に、葡萄の粒が形を保ったまま出もどってきている気がする。

「……ここからホフブロイに行くのは、やっぱり上りに乗り換えてもどる他はないんですかね」

「ですけど。そのお嬢さん連れてもどるのは厳しいと思いますよ。今、当日の座席はほとんど取れないらしいですから。北の収容所に居た人と疎開先から帰って来る人で凄いことになっているらしいですね」

 へえ、と例の如くに隊長さんは言葉を濁す。この戦争の時にも、北の国は、東の国の敵だった。一方、西部国境戦線に近い地域の人達は大挙して山岳部に疎開していたので、休戦から一年経った当時も、東の国の人口比は中部以北に著しい偏りができていた。

 新政府が講和に関する発表を全く行わなかったので、近い内に再び戦争がはじまるだろうと専らだったのも、それに一役買っている。

「とりあえず一年間は何もなかったですからね。それで、こちらの冬は厳しいし一旦家にもどろうって人が出てきたみたいですよ」

 相変わらず非常事態宣言は出たままですけどね、と息子さんは笑った。それから、不思議ですねぇと、感慨深そうに窓を見遣る。

「戦争が終わってからの方が、戦争と言う言葉をよく耳にする様になりましたね」

 ──今は女の子の喉元が戦争状態だ。

「でも、まあ、男手がもどってきてくれて良かったです。女子供だけ、って大変ですからね。意外と」

「そんなもんですかねえ。普段の男なんぞ嫁の尻に敷かれてるばっかりですが」

「女だけでは、力仕事にやっぱり限界がありますからね。僕みたいなのにも力仕事が全部廻ってきてしまって」

「内地にいらっしゃったんですか」

「恥ずかしながら」息子さんは眼鏡の鼻を持ち上げた。「弱視なんです」

「……これは失礼」

「一応勤労奉仕団には入っていたんですけれど……ただ今の基準なら軍にも合格できそうですからね。次に戦争が起きれば志願しますよ」

「……平和が一番ですけれどね」

 息子さんは答えずに、窓の向こう側を見た。

 麦はすっかり刈り入れが終わって、今は、茶色の土が剥き出しになった畑が森に遮られるまで続く光景が、延々と広がっているはずだった。

「さて、俺はこれからどうすれば良いだろうか」

 隊長さんがぽそりと呟く。「お前、今日列車の中で過ごせる自信あるか?」

 訊かれた女の子の方は、意思表明ができない程度には弱っていた。

「さあて、次の駅で俺等を泊めてくれる宿があれば良いんだが」

 隊長さんは頬を掻く。この頃にはさすがの隊長さんも、野宿という選択肢は外していた。この地域は著名な豪雪地帯で、既に朝は氷が張る季節になっている。塹壕兵よろしく土の上で寝ようものなら、流感に罹っていなくても神の身許へ旅立てるので。

 とは言え復員兵が多く行き交いする街は、それだけ宿を取るのが難しい。……女の子の流感のせいもあるのだけれど、それについては、女の子は気にしないことに決めていた。

「あのう、何でしたら、家に泊まりますか? 次の駅で降りるんですけど」

 遠慮がちにかかった声に、隊長さんも女の子も少々驚いてそちらに視線を向けた。

「いえ、あのぅ……そんな小さな子に無理させるのは可哀想なので」

「金無いっすよ」

「別に構いませんよ。貰ったって直ぐに価値が下がりそうですし」

 秋頃はじまったインフレーションは留まることを知らず、当時ものの値段は終戦直後の三〇〇倍に達していた。

「家も、一年以上放ったらかしでしたし、病人を寝かすには余り適していませんけれど、列車で夜を過ごすよりは快適かと」

「……あー、つまり、家の掃除を手伝えば良いんですな」

 息子さんは苦笑した。

「ありがとうございます」

「だとよ。良かったな、ちび」

 隊長さんが満面の笑みで女の子の頭を撫でる。女の子もそれなりに嬉しかったのだけれど、いかんせん隊長さんが頭を揺らすので、とうとう気持ち悪さが限界を突破した。要するに、先の誓いの通り、女の子は隊長さんの膝の上で盛大に吐いたのだった。

 お爺さんはいつの間にか眠っていて、荷車の中からたいへん頭に響く鼾を奏でていた。


 * * *


「いつまでもぐずぐず泣くな」

 ぐずぐずなんて泣いてないもん。

「もどしちまったのは仕様がないだろう」

 違うもん。熱で顔が火照っているから涙で冷やしているだけだもん。

 ちっとも悲しくないのに、どうしたわけか女の子の目の端からは水分が溢れて止まらなかった。頭はぼーっとするし、足や手の関節や怪我の痕は痛むし、ほっぺたは暑くて堪らないのに、背中は寒くて怖気だっているし、先刻からしゃっくりが続いているけれど、するとたちまち胃のものが逆流しだすし、ああもう死んでしまうかも知れない。

 隊長さんの背中で揺られながら、女の子は列車を降りて、息子さんの家に向かう。

 そのあいだに、息子さんが自分とお爺さんの名を名乗ったり、お爺さん──お爺さんの名前はダンケで、息子さんの名前はゲーベンと言うのだそうだ──が起きて何か喋っていたみたいだけれど、もちろん女の子はそんなことに構っていられる状態ではなかったので、ひたすら隊長さんの背中で、吐き気と闘っていたのだった。

「娘さん……大丈夫ですか?」

 あんまり大丈夫じゃない。口の利けない女の子の代わりに、隊長さんは「大丈夫ですよ」と勝手に応じた。

 ゲーベンさんの家のある村は、まるで女の子の故郷のような──一言で言えばたいへんな田舎だった。けれども女の子の村が比較的温暖な地方に在ったのに対して、雪が多く寒さも厳しいこちらでは、家屋は城壁の如くにがっしりとして威圧感があり、壁も屋根も暗く沈んだ色、そこにぽっかりと開く窓は小さく、二重になっている。

 実際、着込んでいるにも拘わらず、女の子はひどく寒いと感じていた。流感に拠るところが大きいのだけれど、それを抜いても息がはっきりと白くなっていたのだ。風はひどく乾いていて、頬を伝った涙の跡があっという間に乾いて痒くて仕方がなかった。目もひりひりする。

 空に浮かぶ雲の縁は、綿を千切ったみたいにぼんやりしていて、もしかしたら雪が降り出すかも知れなかった。

「あれまあ、いつ帰って来たの」

 突然背中から声をかけられて、女の子はびっくりしてふりかえった。白い頭巾を被ったおばさんが、両手を振り振り女の子達に寄って来る。

「お久し振りです」

 ゲーベンさんが微妙な表情で挨拶した。「今先刻着いたところです」

「あらそう。心配してたのよぉ。ほら、あんた達の疎開先、一昨々年の北軍大攻勢の時に前線の中に入っていたでしょ? こっちからは連絡取れないし、どうなっちゃったんだろうって」

 大声を上げながらやって来たおばさんは、ゲーベンさんと自分とのあいだに立ちはだかる大男を、胡散臭そうに検分した。

「ところであんたは?」

「今日、家に泊めようと思いまして」ゲーベンさんがすかさず応える。

 へぇ、とおばさんの眉が益々寄った。「物盗りじゃないだろうね」

「……ワタシはそんな悪人に見えますかね」

 そうだよね。このあいだ、ちょっと往来で軍用銃を出して憲兵に追われただけだよね。

 検問を突破するのは大変だったなぁと、女の子は懐かしく思い出す。

 おばさんはフン、と鼻を鳴らす。それから女の子にも視線を向けた。

「……赤ちゃんは?」

 ……赤ちゃんって、誰のこと?

「奥さんと赤ちゃんは? 後からもどってくるの?」

 ゲーベンさんは静かに微笑むだけで何も言わない。それで、おばさんにもぴんときたらしかった。女の子もぴんときた。

「ああ……ごめんなさい、ごめんなさい」

 いいえ、とゲーベンさんは首を振る。おばさんは前掛けで目許を拭った。

「可哀想に。無事に産まれはしたんでしょう?……お葬式は、あちらで済ませたの?」

 無言でゲーベンさんはうなずいた。おばさんはずず、と大きな音で鼻を啜ってから、

「後で何か暖かいものをつくって持って行ってあげるわね」

「ありがとうございます。──ところで、家がどうなっているか御存じですか」

「あの時のままさね」

 お礼を言って、ゲーベンさんは歩き出す。隊長さんはおばさんとゲーベンさんを困った様子で見比べて、そしてゲーベンさんの後を追った。歩きながら、隊長さんはしきりに首を傾げている。

「何の話をしてるんだ……?」

 何って、戦争の話に決まっているじゃない。

 背中越しにその声を聞いて、女の子は呆れ果てた。いくら記憶喪失だからって隊長さんは鈍いなあと、心の底から考えた。



 お家の様子はどうなっているかとゲーベンさんは尋ねたけれど、なるほどこれはひどい。家の壁を一目見て女の子は納得した。隊長さんも、「あー」と感想を述べる。

 一言で表現すると、半壊、否全壊していた。少なくとも西半分の屋根は吹っ飛んでいる。東側も、骨組みの上に辛うじて瓦が載っている(葺かれているのではない)状態なので、とりあえず二階は住めそうになかった。

「……掃除……?」

 隊長さんが呟く。隊長さんがんばれ、超がんばれ。

 一階部分も、前衛的な建築に変貌を遂げていた。何せ、扉を開けると十歩も行かない先に外の景色が広がっているのだから。つまり居間の向かい壁が瓦礫の山と化している訳なのだけれど、ゲーベンさんは全く気にすることなく右の部屋を示した。

「この部屋はそれほど壊れていませんから、こちらを使って下さい」

 それほど、とは、雨戸に砲弾痕があって、寝台のシーツに血の痕っぽいものが着いていて、棚のものが一つ残らず床に散らばっている状態を差すものらしい。

 窓と向かい合う壁の塗装が白く剥がれているのはどう見ても弾痕だ。この上なく寝覚めが悪そうな部屋だけれど、ゲーベンさん曰く「ここでは誰も死んでいませんから」なのだそうだ。

「じゃあ別の部屋では死んでんのかい」

 糊を塗った新聞を雨戸に押し付けながら、隊長さんは独り寂しく突っ込んだ。女の子は変えてもらったシーツの上で横になっている。寝台の柱にもそこはかとなく血の痕が見え……ない見えない見えなーい。

 女の子は布団を引っ被る。目貼りを終えた隊長さんが、帚で床を掃きはじめたからだ。溜り溜まった埃は煙幕みたいに舞い上がる。もしも女の子の口が利けたら大声で文句を言ってやるのに。こーゆーのは先に濡らした雑巾で拭くのー!

 そんな劣悪な環境の中でも、女の子はあっさり夢の世界に旅立てた。やっぱり疲れていたのだろう。

 もっとも、部屋の無気味さに呼応して、夢の内容は最低最悪の代物だった。



 ……目が覚めた時にはすっかり夜になっていた。開けっ放しの扉の向こうから、たいへん香ばしい匂いがたゆたっている。

 のそのそと、女の子は起き上がる。頭がぐわんぐわんしていたけど、吐き気はなかった。てゆうか、お腹空いた。

 居間で飯盒と言う斬新な調理方法で、隊長さん達は夕食を拵えていた。台所が損壊しているらしい。薪が足りないのは解るけど、椅子を叩き壊して焼べるのはどうなのかな、と女の子はぼんやりと思った。

 ちなみに、調理内容は芋汁スープにあらずだ。東の国の芋料理の多さは驚くべきものがあると女の子は常々考えている。主食はパンでなく芋だ。

 とは言え当時は食糧難だった──冬には大量の餓死者が出たほどの──ので、平時には、もっと多様な料理があったのかも知れないけれど。

 お爺さんは相変わらず荷車に載せられたまま、毛布に包まれて眠っている。布団から突き出た足が、暖かい場所を求めてあちこち彷徨っていた。いつまで経っても寒気に晒されている足が可哀想だったので、毛布を掛けに行ってあげようと女の子は歩き出す。

「おい、ちび。外には出るなよ」すると隊長さんが鋭く告げた。

 くるりと振り向くと、厳しい声で続けられる。「そっち側は地雷原だからな」

 女の子は瞬いた。──それって、この家も危なくない?

 ゲーベンさんはパタパタと新聞で火を扇ぎながら、女の子達の会話には何の反応も示さない。

「こっちに来い。芋が煮えたから」

 手早くお爺さんに布団を被せてもどると、簡略化されたお花が散らされた模様のお椀に、角切りされたお芋が一個分よそわれる。もうしわけ程度に塩で味付けされた、これが夕食の総てだった。

 欲しがりません勝つまでは、と言うのは東の標語だけど、実際は戦争が終わっても、ちっとも欲しいものが手に入る暮らしにはならなかった。むしろ日に日に生活は苦しくなるばかりだ。

 もちろん、贅沢を言える身分でも時代でもないので、女の子は素早く祈りを捧げると有難く芋を戴く。本調子でないせいか、芋はたいへん食べ難かった。ほくほくでなくて、一部噛むとがり、と音がして……隊長さん達が手を抜いただけか。苦いところも残っているし。

 お椀の柄もそうだけれど、貸してもらったスプーンも幼児用のそれで、もう九歳半になる女の子の自尊心はちょっぴり傷付いた。女の子の基準では、もう女の子は大人の仲間入りを果たしているはずだったのだ。それが(たぶん)赤ちゃんと同列の扱いとは。

 ちなみに、隊長さん達は持ち手の先端が唐草模様の銀色のスプーンを使用している。女の子が三個目の芋の欠片に取り掛かっているうちに、隊長さんは夕食を終えてしまっていた。

「俺の分の毛布を貸して戴いてもよござんすかね」

 未だ食べてるゲーベンさんに向かって、隊長さんは言う。

「ああ、良いですよ」ぽぅ、と女の子の方に目を向けていたゲーベンさんは、我に返った風で肩を上げた。「場所はその子の……ええと……」

 ゲーベンさんは首を傾ける。「そう言えば、お二人のお名前は」

「床屋のチャーリー(仮)と連れのちびです」

 恐ろしく適当な答えを、隊長さんは返した。

「北方系でチャーリーですか……」呟いたゲーベンさんは首を振って「いえ、あの、お嬢さんのお名前は?」

「さて。こいつを通りすがりに拾った時には、もう口が利けなかったもんで。ちびで通じるし」

 ちびちび言うなもっさりオヤジ。

 ゲーベンさんも、隊長さんの言葉にとんでもない、と両手を振る。

「それはないでしょう。……お嬢さん、自分の名前の綴りは判りますか?」

 話を振られた女の子は、芋を口の中で柔らかくしながら束の間逡巡した。──自分の名前の綴りは書けるけれども、東の国の人達には、女の子の名前はどうにも発音し辛いらしいのだ。過去に何回か、書いてみせたことがあるのだけれど、必ず聞くに堪えない素頓狂な読みに変換されていた。以来女の子は、東の国では絶対に名前を書かないことに決めている。

 女の子がもぐもぐしながら固まっていると、ゲーベンさんは溜息をついた。

「学校には行かせていないんですか」

「いや……読み書き計算は教えてますよ、一応」

 ゲーベンさんから視線を逸らしながら、隊長さんは頬を掻く。「買ってやった本だってちゃんと読めるもんな?」

 買ってくれる本が、ことごとく潜水艦や無人島や宇宙船の話ばかりなのが、女の子としては少し不満だ。

「ですが……」

 ゲーベンさんの視線は不満そうに、隊長さんと女の子を往復する。それから意を決したふうに、

「いえ、やはり名前を把握しておくべきです」

「はあ」隊長さんは困惑顔だ。

「お嬢さん、最初の何音分かだけでも綴れますか?」

 えー。また変な発音されるのやだー。……女の子は半ば意地になっていた。頭がボーとして機嫌が悪かったせいもある。

「書いてやりなさい」

 隊長さんの一言に、女の子はぷい、と顔を背けることで返事した。最初に女の子の名前をへんてこりんな発音にしたのは隊長さんだ。

 それは隊長さんが記憶をなくした後の話なので、もちろん隊長さんは、女の子が名前を書きたがらない理由を知っている。

 あー、と間抜けに唸ってから、隊長さんはゲーベンさんに言った。「本人が言いたくない様ですし、勘弁してやって下さい」

「でも、名前が判らなければ御家族を捜すこともできないでしょう」

 御家族は皆死んでるよ。心の中で女の子は呟く。

「いないらしいです」代わりに隊長さんが声に出してくれた。

 一応、隊長さんも、最初の内はそれなりに女の子の身元を探っていたのだ。

 ゲーベンさんは目を見開いた。別に、戦災孤児なんて珍しくもないだろうに。

 不快な話題には首を突っ込みたくなかったので、女の子は残りの食事を片付けることに専念する。少し放っておいただけで、汁は随分冷めてしまっていた。

「あの、ところで毛布は……」

 隊長さんの控えめな声がする。ゲーベンさんの返答はなかった。暫時、皆無言で寒風に吹かれていた。

「……あの」やがて口を開いたのはゲーベンさんだ。「でしたら、私が、そちらのお嬢さんを引き取りましょうか?」

「はい?」

 あんまり驚いて、女の子は噎せ返ってしまった。隊長さんを見上げると、やっぱり目をぱちくりさせている。

「ええと。引き取る? こいつをですか?」

 ゲーベンさんは深くうなずいて、「私は土地を持っていますし、この村には学校もあります──今は閉校していますけど。お嬢さん位なら面倒みられると思います」

「はあ……いや、それはワタクシが判断できることじゃないんで……」

 隊長さんが女の子に意味ありげな視線を寄越す。慌てて女の子は首を横に振った。冗談じゃない。

 自分から赤の他人を引き取りたいと申し出る人なんて信用しないわ。猛烈な勢いで首を左右に動かしながら女の子は思い出す。どうせ引き取ったら殴ったりするんでしょ?

 激しい動きをしたら再び気持が悪くなって来た。残った汁を一気に流し込むと、女の子はぱたん、と床に仰向けになる。この話は終わり、と言う意思表示だ。

 そんな女の子を微妙な表情で見下ろすと、隊長さんはゲーベンさんに向かって肩を竦めた。「変人ですよ?」

 ──変人じゃないもん。ちゃんと世間を知った上でのかしこい判断だもん。

 これが感動話なら、隊長さんは女の子の幸せを願って涙ながらに別れを告げるのだろうけれど、幸いにも、隊長さんは女の子を余所に預けることに消極的だった。何せ女の子は『不法入国者』であり、女の子を連れて国境を越えた隊長さんは、入国管理法違反者だったので。女の子の身元をあれこれ調べられるのは望ましくないのだ。

「ですが、ガリガリじゃないですか、この子」ゲーベンさんは尚も食い下がる。

「いえいえ、お気に為さらず。退役軍人会の恩給やら戦傷者特別年金とか、色々ありますんで」

 うそはいけないんだよー。背中が冷たくて堪らない女の子は、この話題が早く終わってくれることを心から願った。

「宅の方が色々と大変でしょう。土地があっても荒れてるだろうし、家はこんなですし。爺様も養わなきゃいかんしで」

 お爺さんの方に首を向ける。せっかく毛布を掛けてあげたのに、お爺さんは、今度はお腹を出して眠っていた。

 ゲーベンさんは俯いた。それでも視線を彷徨わせる。何か言いたそうに、口の辺りがもごもごしている。

 ゲーベンさんと女の子の視線が合った。床の上で、女の子はいやいやと首を振った。

「……随分と慕われていらっしゃいますね」

「……これが?」隊長さんは女の子をふりかえる。

 一方女の子はくしゃみを我慢するのに忙しかった。

 隊長さんが爪先で女の子を突く。「うら、寝るんなら寝台で寝ろ。風邪ぶり返すぞ」

 女の子は起き上がる。肩や左足が、すっかり冷えて痛かった。



「ちび。起きろ」

 囁き声と共に、ゆっさゆっさと体を揺すられる。

「起ーきーろ」頬をぺちぺちと叩かれた。

 ぶー、と呻いて(声は出なかったけれど)、女の子は毛布の中に隠れた。すると隊長さんは女の子と毛布の仲を引き裂いてでも女の子を覚醒させようとする。

 風邪をぶり返したらどうしてくれようと考えながら、仕方なしに女の子は瞼を上げた。雨戸を閉め切られ、明りもない部屋は真っ暗闇で、どうやら未だ陽も昇らない刻限らしい。

 女の子を覗き込む姿勢で、隊長さんはぬっと立っている。闇に目が慣れて来ると、隊長さんが口の前で人さし指を立てているのがぼんやり見えた。

「出発するぞ、ちび」

 ほとんど眠っている頭で、隊長さんのぼそぼそ喋りを聞き取った。……朝食は?

「ほら、荷物持て」女の子の荷物を押し付けられる。何回か目をしばたたいて、それから女の子はこてん、と横倒しになった。「寝るな」

 だって、未だ鶏も鳴かない時間よ? 目線で訴えようにも、こう暗くてはお互いの顔も窺えない。

「とっとと支度しろ」女の子の頭に帽子を置くと、隊長さんはなぜか雨戸の新聞をそっと剥がした。

「ほれ、早く靴を履け」

 雨戸の穴に足を掛けながら女の子を促す。

 咄嗟に浮かんだのは、泥棒、と言う単語だ。無頼を装って気の良い人の家に泊めて貰って、夜中にこっそり財産を攫って行く。そんなお話があったような。

 そこまで考えて、女の子ははっきりと目を覚ました。犯罪ダメ、ゼッタイ。

 靴を履く手を止めて再び布団に潜り込む。そんなささやかな抵抗はしかし、隊長さんが布団ごと女の子を抱えたことによってあっさり失敗した。

 陸に揚げられた魚みたいに、女の子は暴れた。ゲーベンさんは変な人だったけれど、悪い人ではない。そう言う人からものを盗るなんて。

「どうしました……?」

 不意に、静かな声がした。隊長さんの体が、びくんと強ばった。

 その頃女の子は芋虫みたいな動きの果てに、遂に自由を手に入れた──隊長さんの腕から転がり落ちて、頭から床に突っ込む。

 しばらく床を転げ廻って、起き上がった女の子は驚いた。

 手に持った灯りに照らされて、ゲーベンさんの服が──彼は女の子が寝る前と同じ服を着ていたのだが──びっしょりと濡れていたからだ。

 ゲーベンさんも流感に罹ったのかな。鼻っ柱を押さえながら、女の子は考える。女の子の流感が伝染ったから、隊長さんは逃げ出そうとしたのか。

 ところが、当のゲーベンさんに怒っている様子はなかった。汚れた服を気にする様子もなく、眼鏡越しに少し目を細めて、穏やかな雰囲気で隊長さんを眺めている。

「……失礼」低い声で、隊長さんが呟いた。「お暇しようかと思いましてね」

「未だ日の出前ですよ」

 ゲーベンさんは僅かに首を傾ける。

「せめて朝食を食べてからにしません?」

「いえ……結構です」

 ゲーベンさんは笑った。

 すっかり目が冴えてしまった女の子は、トイレに行こうと部屋を出た。隊長さんが久し振りにピリピリしていて、ちょっぴり怖かったのもある。

「ちび! もどって来い!」隊長さんが大声を出した。

 居間に足を踏み入れた女の子は、直ぐに隊長さんが制止した理由を知った。うんざりした気持ちでそれを見下ろす──女の子の人生って、つくづく死体に縁があるのね。

 首に縄を巻き付けられたお爺さんが、床に横たわっていた。

 口の周囲では吐瀉物が水溜まりを作っている。腰の辺りも濡れていた。ゲーベンさんの服が濡れていたのは、きっとこれらが原因だろう。

「ちび!」

 隊長さんが再び呼んだ。

 ゲーベンさんの指先が女の子の肩に触れたのと、大股にやって来た隊長さんが女の子を寝室へ投げ飛ばしたのが同時だった……女の子の人生は、つくづく放り投げられることにも縁があるらしい。大丈夫だいじょうぶと口の中で呟いていたから、危うく舌を噛むところだったじゃないか。

 ひっくり返ったまま居間の方向に視線を向けると、隊長さんは随分怖い剣幕でゲーベンさんに捲し立てていた。対するゲーベンさんはうっすらと笑みを浮かべたまま、反駁するでもなく立っている。

 端から見れば、隊長さんがゲーベンさんを脅しているふうにしか見えなかった──居間に死体さえなければ。

 隊長さんが、お爺さんを殺したのかな。女の子は考える。けれど、お爺さんは銃なんて持っていないし、食べ物だって持っていない。西国人でもない。いくら隊長さんでも、そんな人を殺すかしら?

 のろのろと起き上がりながら、女の子はゲーベンさんを見上げた。静かに隊長さんの言葉に耳を傾けていたゲーベンさんは女の子の視線に気が付くと、女の子に向かってにっこりと微笑んだ。つられて、女の子も微笑み返す。

「ちび、靴を履け!」

 突然、隊長さんが命令した。女の子の荷物を肩に掛け、ちょうど靴を拾い上げた女の子の右腕を引っ張って寝室から出て行こうとする。

「待って下さいよ」ゲーベンさんがさっと入り口に立ちはだかった。

「殺人鬼といっしょの部屋にいられるか」隊長さんは吐き捨てる。

 女の子は靴を履くのに一生懸命だ。

「貴方に危害を加えるつもりはありませんよ」

「そりゃあどうも。──そこをどけ」

 左足は簡単に嵌った。問題は右足だ。

「貴方ひとりならどうぞ……お嬢さんが動き難そうですよ」

 床に落とした靴が思いの他遠くへ転がってしまい、女の子は繋がれた犬みたいな状態になっていた。

「何をやっとるんだ、お前は」隊長さんは非難の口調だ。

「そんなきつい言い方をしなくても」

 そうだそうだ。爪先で靴を引っ掛けながら、女の子も視線で抗議する。

 併し隊長さんは、そんな女の子を丸きり無視した。鼻の付け根に皺を刻んで、ゲーベンさんを睨めつける。

「どいてくれ。俺達は出て行く」

「ですから、貴方はどうぞ。でもお嬢さんは置いて行って下さいね」

「──殺人犯の元に置いておけるか!」

 いきなり怒鳴るからびっくりしたじゃないか。再び落とした靴を拾おうとしたけれど、腕が掴まれているので上手くいかない。

 段々苛々して来た。

「どうしてです?」そんな女の子の気持ちを知ってか知らずか、ゲーベンさんはにこやかに笑う。「父はもう居なくなりましたよ?」

「お前が殺したんだろうが!」

「だって、仰ったじゃないですか。父の世話が大変だろう、と」

 はあ? と隊長さんが目を見開く。女の子もびっくりだ。殺人犯は普通容疑を否認するものなのに。

「土地を元にもどすには時間が掛るでしょうけれど、少しは貯蓄もありますし、大丈夫、この娘ひとり養う位のは造作もありません」

 うん? ……もしかして女の子のことを言っているのだろうか。

 隊長さんは頭を振る。「お前……何を言ってるんだ?」

「ね? これで問題はなくなったでしょう?」

 何だか会話が噛み合ってないな。女の子は考える。名探偵が活躍する小説なら、もっとこう、理路整然とお話が進むはずなのだけれど。

 本件の被害者は、誰にも顧みられることもなく、毛布にくるんでさえ貰えず、冷たい床に横たわっている。女の子の視界からは死体の足しか見えなかった。見たくはないので視線を逸らす。仕方ないよね、と心の中で女の子は呟いた。亡くなった兵隊さんだって、野晒しだったもんね。

 話に参加できないので、せめて今までの流れを整理してみようと試みた。

 ええとつまり、目が覚めたらお爺さんが死んでいて、殺したのはゲーベンさんで、動機は何なのだろうね、軍医殿?

 会話を洗い出してみるべきだよと、独り名探偵ごっこをしながら推理する。お爺さんの世話が大変だから? 隊長さんがそう言ったから? 

 ……でも女の子がどうこう言ってなかったっけ?

「お前」

 顳谷を押さえながら、隊長さんは呻いた。「お前、まさかこいつを引き取る為に父親を殺したのか? そんなことの為に?」

 そんなこととは失敬な。咄嗟に言い返してから、女の子は首を傾げる。ゲーベンさんが女の子を引き取ることと、お爺さんを殺すことに一体何の因果関係があるのだろう。

 てゆーか、女の子は、ゲーベンさんのお家の子になる気なんて、さらさらないのだけど。

「お嬢さんだって美味しいお菓子や新しい服が欲しいですよねぇ」

 いきなり女の子に話を振られる。女の子は必死に首を振った。

「引き取れる訳ないだろう、今日からあんたは塀の中だ」

「なぜです」

 隊長さんが女の子の腕を放す。外套の衣嚢に隠してある両刃短刀(少し前に護身用に購入したのだ)を握るのが見えた。

 隊長さんには一向に構わず、ゲーベンさんは静かに語る。

「生い先短い老爺がひとり死んだくらい、大したことはありませんよ。去年迄、日に何千人が死んだと思っているんです? 妻や子を殺した連中が裁判にさえ掛けられないのに、どうして私が訴追されなければいけないんです」

「戦争と殺人をいっしょにするな。それとこれとは無関係だ」

「ありますよ。これは神の御引き合わせです。主が私の許にその子を遣わしたのです」

 隊長さんは一歩下がった。「あんた可怪しいだろ。医者か神父のところに行け」

「どうして、そこまでこの娘を引き渡すのを嫌がるんです? どこの誰かも判らない娘なのでしょう?」

「明らかにヤバいと判ってる相手に子供を売るほど薄情じゃないんでね」

「ヤバい? 子供をそんなに痩せ細らせて、名前さえ付けない人間がそれを言いますか」

 でも、隊長さんは女の子を殴ったり殺したりはしないよ。隊長さんとゲーベンさんを交互に見比べながら、女の子も反論する。

 それに、時々自分の食事を分けてくれることだってある。

 お嬢さんにはちゃんとした食事と文化的な生活が必要ですよと言うと、ゲーベンさんは女の子に笑いかける。

 女の子は慌てて隊長さんの裾に隠れた。

 隊長さんは咳払いを一つして、

「兎に角そこを退いてくれ。今の話は検事相手にでも」

「嫌です」

 ゲーベンさんの声色が変わった。

「その娘を返しなさい。その娘は私の娘です。好い加減にしないと、警察を呼びますよ」

 それから、女の子に向けて手を延べる。「さあ、走って。こっちにもどっておいで」

 女の子は隊長さんの背中に廻る。

「──どうしてですか!」突然ゲーベンさんは喚き出した。「なぜ誰も彼も私から子供を奪おうとするんです。私が何をしましたか。妻や子が殺されなければいけない何かをしましたか? どうして貴方の様な人に子供がいて私にはいないんです」

 まるでお母さんやおばさんが本気で怒っている時みたいだった。隊長さんは、はっきりと警戒体勢を取っている。ゲーベンさんは地団駄を踏みながら、自分が今どんなに理不尽な境遇にいるのか呪詛を吐いた。亡くなった奥さんや赤ちゃんが、どんなに可哀想だったかも。

 ゲーベンさんの家族は、ゲーベンさんが留守の間に死んでしまって、そのまま疎開先で葬られたらしい。未だ名付けられていなかった赤ちゃんの遺体は、屍鬼やら吸血鬼にならないように、教会に取り上げられてしまったのだそうだ。

 ……けれどたいへんもうしわけないことに、女の子には、ゲーベンさんがそんなに可哀想だとは思えなかった。去年迄、日に何千人が死んだと思っているんです? 家族が全員無事でいられた家なんて、国中捜したってほとんどいないのだ。

 隊長さんが女の子を引っ張り出す。そのまま女の子を脇に抱えて、雨戸から外に飛び出した。ゲーベンさんは追い掛ける。だけど雨戸から上半身を出したところで立ち止まり、女の子達の方を向いたまま、ゆっくりとへたり込んだ。



 女の子と隊長さんは歩いた。

 電車が動き出す頃には、二駅分踏破してしまっていた。当然、朝食はなしだ。隊長さんは、どうやら女の子が病人であることを忘れ去っているらしい。

 無言で切符を買って、無言で席に腰を下ろす。首都行きの列車だった。女の子が窓際の座席を確保すると、隊長さんはコートを渡して「寝なさい」と促す。……女の子が流感なのを、ちゃんとおぼえていてくれたのだろうか。一般車輌なのだけど。

 蓑虫みたいに首までコートを被って、窓枠に頭を押し付けて女の子は目を閉じる。寝違えそうな体勢だったせいか、最初の駅を過ぎ、次の駅に着いても、ちっとも瞼は仲良くならなかった。

 うっすらと目を開けて隊長さんを見上げる。ゲーベンさんの家を逃げ出してから、一言しか口を利かなかった隊長さんは……何と黒パンを食べていた。絶対に流感を伝染してやると女の子が神に誓うと同時に、隊長さんとばっちり目が合った。

「……お前さんの分はちゃんと取っておいてあるよ」

 もそもそと女の子がパンを摂取するあいだ、隊長さんはぼんやりと女の子を眺めていた。見世物にされているみたいだ。抗議の視線を送ると、隊長さんは「ふむ」と呟いて座席にもたれた。

 列車は規則正しく揺れて行く。

「なあ……おちびさん」

 随分たってから、隊長さんは控えめに切り出した。

「名前、もう一度教えてくれないか?」

 パンくずを手で払いながら、女の子は隊長さんを見上げる。お腹がくちくなると、今度はすぐに眠気が舞い降りて来た。

「今後のことを考えると不便なのは確かなんだ……」

 もう一度コートに包まって、女の子はうとうとをはじめた。そんな女の子の態度を見下ろして、隊長さんは溜息をつく。黒髪をわしわしと掻くのは、隊長さんが困った時の癖だ。

「名前ねえ……」

 女の子は楽な姿勢を捜した。膝を抱える体勢が一番ましな気がしたけれど、これだと、きっと膝がぎしぎしになるんだろうなあ。

「……」

 隊長さんが何かを呟いた。こっそり目を開けて窺うと、隊長さんはいつになく真面目な表情で女の子をじっと見つめていた。

「もしも、どうしても本名を名乗るのが嫌なら」隊長さんは言った。「俺が適当な通り名を考えることになるが、良いか?」

 隊長さんの茶色の瞳に、女の子が薄く映っている。

 もしも、今回名乗らなかったら、女の子はこれから一生ほんとうの名前を使うことはなくなるのだろうか。鼻の奥がつんとした。けれど、女の子はもう二度と自分のお家には帰れないのだから、それで良いのかも知れない。

 大きく首を縦に振った。隊長さんは意外そうに目を見開いた。「そうか……」女の子はコートに潜り込む。流感がぶり返したのか鼻水が出て来て、一生懸命啜っていた。

「どんな名前が良いんだろうな」

 目許を拭う。やがて眠気が、爪先から頭まで全身を覆う。

 そうして、隊長さんが呟いた一つの名前を反芻しながら、女の子は眠りに落ちた。

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