白い犬とワルツを-2
物陰へ男の子を連れ込んで、隊長さんがお財布のありかを問い詰めると、男の子は恐怖の余りに泣きじゃくって、会話が成立しなかった(隊長さんは拷問とかをしていた人なので、こういう時はそれなりに怖いのだ)。困り果てた隊長さんが、随分と時間をかけて男の子を宥め聞き出したところによると、どうやらお財布は男の子の自宅にあるらしかった。
それを聞いた隊長さんは、即座に男の子の家に押し掛けることを決定した。まだ鼻水を啜っている男の子を無理矢理先頭に立て、先刻までとは打って変わった足取りで人通りのない夜の裏道を進んでいく。何となく、隊長さんは男の子の家をその日の宿にしようとしているのではないかと女の子は邪推してみたけれど、たぶん間違っていなかったはずだ。
大通りを右に一本入って、それから更に狭い道へ左に曲がって、女の子はびっくりして立ち止まる。
三階建ての似たような赤煉瓦の建物が道なりに真っ直ぐに並んでいるだけの裏道だったけれど、煉瓦が泡立って、不気味にぶくぶくになっていた。
表面が粗い鑢をかけたみたいにざらざらで、所々大きく削られていて、街灯もないからよく判らなかったけれど一部が変色しているらしく、夜の闇に溶け込んで見えなくなっていた。
薄気味悪い光景に、女の子は思わず隊長さんの袖を引いた。道の両側に規則正しく並ぶ窓には硝子の代わりに板が厳重に打ちつけられていて、けれどもそれも一部壊れていて、建物の中の暗闇を覗かせている。
人の気配は全くなく、隊長さんの靴の音がやたらと高く響いて、それが何とも不吉だった。何だか胸がもやもやする。
同じような道を更に右に三回、左に四回曲がると、今度はコンクリートの二階建ての長い建物が右手に現れた。この建物の窓はちゃんと硝子がはまっていて、人が使っている感じがする。一階部分は回廊になっていて、道に向かって先が尖った形のアーチになって開けていた。柱は丸くて、女の子の腰から下は四角の土台になっている。
回廊の壁際は、たぶん煉瓦が貼られていた。たぶん、と言うのは暗くて良く見えなかったのと、回廊の中なのに屋台に使う幌がずらっと並んでいて、壁をほとんど隠していたからだ。
ほんとうに市場みたいに、幌やテントが何軒も何軒も回廊に沿って続いている。幌の下には板のようなものやら何やらでバリケードが築かれていて、幾人か、女の子達を目線だけで追う人たちの眼球が白く目立っていた。
「おい、餓鬼」
歩きながら、隊長さんが、低い声でぼそりと呟いた。「素直に返さなかったら只で済むと思うなよ」
「俺ン家、ここなんだよ」隊長さんに負けず劣らずの小さな掠れ声で、男の子は言い返す。
ここ、って、どこのことだろう。
答えはしばらく経ってから判明した。男の子は不意に立ち止まると、壁際のテントの一つを指した。「ここ」
軍用の、小型のテントだった。杭の代わりに煉瓦が置いてあって、見るとその煉瓦の表面も、気色悪く泡立っている。
「はい、これ」
男の子だけ先に入って、またすぐに出てきて隊長さんに財布を返す。右手で財布を受け取った隊長さんは、しかし、口を妙な形にひん曲げて男の子を小突いた。「明らかに中が減っているだろう」
「だって……ああ、でもお金は使っちゃったけどさ」男の子はにっ、と笑って、「これ、代わりにやるよ」
風邪薬みたいな錠剤だった。
「眠れないとか、怪我が痛むとかない? 純正品じゃないからちょっと効きが悪いかもしれないけど、今回は只であげるよ。どう? 転売しても良いよ」
隊長さんはにっこり笑うと、今度は思いきり男の子をどついた。
「だってさ、これってちゃんと痛み止めとして処方されてるんだぜ」
「最寄りの憲兵詰所はどこかな」
「ちゃんと医者から処方箋貰ってるよ。安物だから質が悪いってだけで」
「釈明は裁判所で」
「何で。オッサンだってやってたんだろ? あんたどう見ても復員兵だよな」
あ、おっさんは禁句。
回廊から道の真ん中へ男の子を引き摺り出そうとした隊長さんの腕が、突然男の子を離した。
「おれはオッサンと呼ばれる年じゃない」
残念なことに、女の子の基準から見ても、隊長さんの外見はおじさんと呼ぶに相応しい。
「じゃあ、幾つなんですかぁ」
「知らん」隊長さんはなぜか胸を張った。
一方男の子は体勢を崩したまま、眉を寄せて唇を吊り上げて、まるで外れ籤を引いてしまった時みたいな微妙な表情になった。
「記憶喪失なんだから仕方がない」
男の子はますます胡乱な表情をする。かわいそうに。女の子は心から同情した。
「嘘つくなよ。オッサンみたいなのが記憶喪失な訳無いじゃん」
「なぜ否定する。マジで自分の記憶がないの。自分がどこの誰かも判らんの」
「ちゃんと喋れてんだろーが」
「喋れるのと記憶喪失は関係ないだろう」
「都っ合イイー記憶喪失ぅ」男の子は馬鹿にするふうに鼻を鳴らした。「じゃあさ、そこの茶髪の奴は何なんだよ」
どうして誰も彼も記憶喪失の話題の後には女の子の身元を知りたがるのだろう、と女の子はいつも思う。
あと、茶髪じゃない、金髪だ。
「さぁて、存じません。──誘拐犯とかぬかしやがったら歯全部引っこ抜くからな」
他の人が想像しうるそれ以外の可能性って、何だろう。女の子はずっと考えてみているけれど、今日まで思い付かない。
「じゃ、何。隠し子?」
断じて違う。
「目が醒めた時目の前に居たんだよ。口利けないからどこの誰かは訊けてない」
何という適当な説明だろう。
案の定、男の子は眉間に皺をつくって隊長さんを見上げた。「それってやっぱり……」
「違うちゅーの。こいつが勝手について来たの。前線のど真ん中にガキがひとりで居たんだ。こいつの方が可怪しいだろうが」
隊長さんと男の子が揃って女の子を見る。この既視感溢れる雰囲気が、女の子は大っ嫌いだった。
「──いや、話は逸れたが」
隊長さんは右手を振って話題を切った。「で、憲兵の詰め所はどこだ?」
「まだ引っ張んだ、その話。終わったから良いじゃんよ。あんた買わないんだろ?」
「当たり前だ。金返せ」
「無いものは返せないけどお詫びに夕食驕ってやっても良いよ」
隊長さんは逡巡した。真面目な顔になって手を顎に当てる。
ふと女の子が男の子を見上げると、男の子はにやりと口を歪ませて、隊長さんを眺めていた。
中々いい性格をしている。
「いらないなら良いよ。でも金はもう使っちゃったから返せないし。もしこれ以上ぶん殴るようならこっちが傷害罪で訴えるからな」
子供に言い包められる元陸軍中尉の図は、端から見ると中々シュールだ。……きっと、隊長さんはこれからも、いいように人に使われる人生が待っているのだろう。
「……わかった」暫時の検討の後、隊長さんはその案に同意した。人生妥協も大事だよな、とは後の隊長さんの弁である。
「よっしゃ、決まりな」男の子は快活に──掠れ声で到底そうは思えなかったけれど──笑ってうなずいた。けれどもその男の子が、隊長さんの後ろ姿を見ながら「ちょろい」と呟いたのを、もちろん女の子は聞き逃さなかった。
「まあ適当に座ってよ」「どこに」
テントの中に案内されて、隊長さん達が先ず最初に行ったやり取りがこれだ。
緑のテントの中は想像より狭くて、しかも何だか良く判らない箱やら家具(?)やらが窮屈に押し込めてある。足の踏み場も無いどころか男の子は木箱の上でお湯を湧かしはじめた。火を熾しているのは錆の浮いた簡易コンロ、天井から吊るされているのは硝子の欠けたランタンで、傘がないから目に痛く、焼かれた羽虫がケトルを掠めて床へと落ちる。序でに、食事として出て来たのは軍払い下げの乾パンだ。四角くてビスケットに石でも混ぜたみたいに硬くて触ると手が粉だらけになって、しかも味が全くしない『非情食』。
ケトルから黒い汚れがこびり着いた空き缶に──どうやらこれがカップの代わりらしい──注がれたお茶を見て、どうしてだろう、女の子は野宿でも構わないなと、そんな宗旨替えをした。淹れ過ぎた紅茶を更に蒸留したような、透明感のあるコーヒーの如き黒い液体が、女の子に差し出されたからだ。
「植民地のお茶だよ。植民地部隊の連中が持って来てたやつが出廻ってるんだ──ああ、それには座んないで。潰れるから」
隊長さんは顰め面をして、腰を上げると居心地が悪そうにテントの真ん中に突っ立った。「……天井、低いな」
「おっさんがでかいんだよ」
その言葉を、女の子も顔を顰めて受け止める。……植民地のお茶には、甘味が足りない。苦くはないけれど、何ともくどい味だった。
貰った乾パンは、そこはかとなく湿気っていて、乾いた口に貼り付いて難儀した。空腹は必ずしも最良の香辛料になるとは限らないらしい。
「何でこんな荷物があるんだ」もそもそ顎を動かしながら、隊長さんが不平を述べる。
「家から持ち出したんだもん。放っておいたら盗られるじゃんか」
「お前、この街の人間なんか?」
「そだよ。借家だったけどね」
男の子は道の向いを顎でしゃくった。「空爆で焼けちゃってさ、崩れる危険があるとかで役所の連中が追い出しやがったの。あの辺一帯全部」
「クウバク……?」隊長さんはちょっぴり首を捻る。「ここで大規模な戦闘があったのか? 駅前なんざ綺麗なもんだったが」
「お役所がてめえのところばっか優先して修繕してるからだよ。歴史遺産の保護とか言ってさ。凄かったんだぜ。夜中にウォンウォン音がしてあっという間に大火事で。鉄の街灯が真っ赤になってて、火災旋風ってゆーの? こう、焔が上に向かってがーん、って。戦争ビラとか、火の粉当たってねーのに勝手に燃えはじめるし、息しようとしたらさ、口ん中に焔が入って来んの。すっげ熱くて咳き込んでさ、後で医者に診てもらったら喉と内蔵が息で火傷してたんだと。夜中に火ばっか見てたせいで目も灼けてさぁ、一週間くらいチカチカして前が良く見えなかったもん」
身振り手振りを交えて男の子は説明してくれる。「とにかく風が強くってさ、最初は劇場広場の方に行こうとしたんだけど、向い風で火がこっち向かって来るもんだから議事堂の方から川に向かったんだよ。そしたら、他の連中もみんな同じこと考えてるだろ? 橋の上が超込んでてさ、全然前進まねーの。俺、端っこの方にいたんだけど、欄干めっちゃ熱くて水膨れできて、泣きそーになってさ、やっぱもどろうとしたら戦闘機が煉瓦降らせてきて、で、みんな混乱してドミノ倒しになってさ、思いっきり川に落っこちたんだけど、川の水が熱ーんだよ。しかも連中、その上から釘とか油とか撒いてきやがって、マジで死ぬかと思った」
隊長さんは対応に困ったらしく、感想はハァ、と嘆息するに留めた。一方女の子は、それくらいどうってことないもんと言いたい気持ちで、不味いパンを必死に歯で削る作業に務めていた。
機銃掃射くらいなら、女の子だって経験しているし、女の子の方がもっとずっとひどい目にあっている。
同意が欲しくて隊長さんを見上げると、隊長さんは、小首を傾げて何か考えているふうだった。しばらくそれを見つめていると、少し遠慮がちに口を開いた。
「保護者の影が見えないんだが……親はどうした?」
聞きたくない話題になりそうだったので、女の子はくるりと背中を向けて話を耳に入れないことにした。隊長さんは記憶といっしょに、デリカシーもなくした模様だ。
「お母さんは子供ン時に離婚して後は知らね。親父ならそこ」
隊長さんがうぉう、と間抜けな声を上げたので、女の子も少し気になってふりかえる。隊長さんはテントの壁際に移動して、先ほどまで自分がいた辺りの床を見下ろしていた。
立ち上がって目を凝らすと、マネキンが床に丸まって横たわっているのが確認できた。
マネキン、と思ったのは、その男の人(随分と肩幅の広い、坊主頭の人だった)が目をしっかりと見開いたまま、微動だにしなかったからだ。膝を抱えた人間の型を取って蝋を流し込んだ人形みたいに肌の色は血の気がなくて、視線がどこにも定まっていない。
肩はちゃんと上下していたけれど、女の子の目には、それが却って不気味に映った。
「急に大声出すなよ。発作が起きるじゃんか」男の子が隊長さんに文句を言う。
凝視しているうちに、昔見た死にたての死体のことを思い出してしまったので、女の子は慌てて目を逸らすとパンを胃に流し込む作業にもどった。首を一つ振って、男の人の顔を追い払って、濃い味のお茶を一気飲みして。大丈夫、怖くない、こわくない。
「どうしたんだ、お前の親父さん」
隊長さんはびっくりしているのか、何だか的外れな質問をした。
「暑かったんじゃね?」男の子は律儀に答える。どうして寝台からはみ出しているのか、と質問を汲み取ったらしかった。
「そうじゃなくて。病気なのか?」
「そんな訳ないだろ。西部国境戦線で突撃隊長だったんだぜ」
隊長さんは時々非常に不躾な問い掛けをするけれど、さすがにこれには男の子も気分を害した様子だった。
「名誉の負傷だよ。東嶺要塞で西の大攻勢に遭っても生き延びたんだぜ。戦車で塹壕に生き埋めにされたのに自力で出て来たって、模範兵の称号だって貰ったんだ」
からからに乾いた声は決して大きなものではなかったけれど、それでも籠った感情を表すには充分だった。
「だから、戦争から帰って来てからどうかなったのか?」
それを汲み取れなかったのは、隊長さんの落ち度だ。
「知るかよ。砲弾神経症の詳しい説明が聞きたいんなら廃兵院の医者にでも訊いて来いよ。キオクソーシツなんだからついでに入院すれば?」
それは……、と隊長さんは口籠る。以前に一度その手の施設を訪ねて電気椅子の餌食になって以来、隊長さんは軍関連施設を忌避していた。
「俺に金は無い」ゆえに、隊長さんのこの台詞は言い訳になる。
お金がないのはほんとうだけど。
「嘘だぁ。財布に結構入ってたジャン」
それ、実は他人のだし。
「お前さんね、ワタクシ記憶喪失なのよ? 名前も住所も何もかも忘れてんだぞ、都合良く銀行口座の番号だけ憶えてるとでも思ってんのか? お前が使い込んだのが有り金の全てだったんだぞ」
嘘でしょう? と隊長さんを見上げたのは、男の子ではなく女の子だった。だったら、もっと危機感を持って欲しい。……さようなら葡萄さん、こんにちは貧乏。
「軍務省行って従軍証明書貰って来れば良いじゃん。復員兵だったら一時金貰えるし、医者の障害者認定があれば戦傷者特別年金があるだろ」
「やなこった。第一、自分の所属部隊が判らん」
だって、それを貰いに行って、電気ショックの洗礼を受けたのだしね。
「階級章とか軍服とか持ってないのかよ。目、醒めた時真っ裸だったワケ?」
「持ってたが、ボロ過ぎてよく解らんと言われた」
目覚めたとき隊長さんが持っていたのは、真っ黒になった軍服(と言うか戦闘服)と、そこにカスみたいにくっついていた階級章(先日尉官章と判明)だけだった。帽章と軍服は隊長さんが陸軍所属であることを、襟章は階級を示していたけれど、名前もなんにも判らなかったから、照合の仕様がなかったのだ。
当時隊長さんと作戦行動を同じくしていた人たちは全滅してしまったので、その服がほんとうに自分のものだという証明もできず、成り済ましだと疑われたことさえあった。
もっとも、これを他の人に説明して、信用して貰えたことは一度もない。
「……あんたさ、詐欺師、とかだったりはしないよね」
「全然違イマース。ケレドモコンナ哀レナ私達ニイチぎるだデモ恵ンデクダサッタラ神ノ御加護ガアリマースヨ?」突然隊長さんはバカっぽい喋り方をした。
「じゃ、何やってる人なの」
「自分捜し」
どうしてこんな人にくっ付いているのだろうと、女の子は真剣に自問した。
「うん……そっか」男の子の方は、呆れるを通り越して、隊長さんが可哀想になったみたいだ。「まぁ、気分転換すんのも、悪くないと思うよ、俺。親父が通ってた医者も、そういうの大事だって言ってたし」
「嘘だよ。一応ちゃんと目的を持って移動しているさね」
女の子は隊長さんを見上げる。初耳だ、そんなの。
「記憶喪失なのに?」
「手掛かりがあるんだよ」
隊長さんは鞄から薄汚れた封筒を取り上げた。宛名の書かれていない、ほんとうは白かったのであろう封筒。
「俺の戦闘服にあった。母親に当てた手紙だな。オワルとか言う地名が出てくる」
が、それがどこか判らない、と隊長さんは首を振る。夏が暑い云々の記述があるので南部を巡ってみたけれど、オワルを知っている人が誰もいなかったのだそうだ。
女の子はむしろ隊長さんが目的を持って毎日を生きていたことに驚いた。そんな手紙の存在など、女の子はついぞ知らなかったし、そもそも無くした記憶のことなんて、気にしていないと思っていたのだ。
「それ、あんたが書いた手紙なの?」
「……違うだろうな」
手紙、手紙……女の子が昔をふりかえってみても、思い出せない。
ふうん、とだけ、男の子は呟いた。「俺の友達でオワルに疎開した奴がいるよ。ホフブロイ市と合併してるとか言ってたけど、友達はオワル呼びしてた」
「ホフブロイ? ……あそこは寒いだろ」
「夏は暑いらしいよ。風がほとんど吹かないんだってさ。バテるって」
目を見開いて、隊長さんは顎に手を当てる。──どうやら、次の行き先は決定した様だ。ホフブロイが一体どこにあるのか、女の子は知らないけれど。
と言うか、隊長さんは記憶喪失なのに、どうしてホフブロイの位置やそこが寒いことを知っているのだろう?
「……鈍行の三等車を使ったとして……今だと片道幾らだ……?」
けれども隊長さんの言葉に、女の子の疑問は吹っ飛んだ。わーい。当時、東の国の鉄道は、帝国時代の、沢山の公国や王国で使われていたのをそのまま流用していたので、国内でも地方によって車輌やサービスが全く異なっていて、列車に乗ったことがほとんどなかった女の子にとっては、見ていて飽きないものだった。特に車輌は、東の国特有の職人的で装飾過多な、たいへん見栄えのするものが多かったので、西の国でも鉄道ファン向けに写真集(何と着彩済!)が出版されているほどだったのだ。
隊長さんは返して貰った財布を覗き、それからランプを仰ぐ。「歩きでも、一月位で行けるかな」
嫌だ。絶対に嫌だ。乗ったらいつも後悔するけれど、乗るまでは鉄道が良い。
地団駄を踏んで抗議すると、反応してくれたのは男の子の方だった。「ゴキブリなら外に捨てとけよ」
……東国人なんて大っ嫌いよ。
「お前、有り金全部俺に寄越せ」
隊長さんは男の子に向かって右手を差し出す(パンは既に食道を通ったらしい)。
「財布にあった全額を保証しろとは言わん。が、半額くらいは返せ。一日で全部使える額じゃなかったはずだ」
「使ったよ。だから先刻から無いっつってんじゃんよ」
「何に使ったんだ、何に」
「薬」口にしてから、男の子は慌てて否定した。「違うよ。犯罪絡みじゃ無いからな。親父の為の薬だよ」
「最近そーゆーの流行りだよな。医者に処方箋書かせて手に入れるの。お陰でまっとうな病人が大迷惑してる」
女の子はおそるおそる、男の子のお父さんに首を向ける。──お父さんは相変わらず、膝を抱えた姿勢で床の上に転がっていた。
「だってさ、今の内に買い溜めしとかなきゃ、次に医者に罹れるのなんていつかわかんないし」
「入院させろ」
「そんな金あるわけないだろ」
男の子が声を低くすると、その掠れ声のせいでいっそう聞き取りづらくなる。
「廃兵院に入る基準満たして無いし、療後院は金で入院患者を差別するんだろ? 一日何百ギルダも払える奴は良いけど、そうでなかったら一生ベッドに縄で括り付けられて、電気ショックで殺されるって」
「恩給があるだろ。戦傷者特別年金も」
「神経症に罹るような憶病者には払う金なんか無いってよ」
戦争は、当初国の偉い人達が予想していたものよりも遥かに規模が大きくなってしまって、誰も想像し得なかったほどの死傷者を齎した。だから政府は、従来(独立戦争や東西戦争の時)よりも恩給の額を減らしたり、支給の基準を厳しくしたりして何とかやりくりしようとした上に、秋から一気に加速したインフレーションのせいで、傷痍軍人やその家族の生活は非常に苦しくなっていた。
余談だが、翌年には更に講和条約が発効して国土の割譲、植民地の破棄と賠償金支払いの義務が課せられたので、彼等に対する保証はいっそう先細ることになる。
ちなみに、砲弾神経症に関する諸々の研究が進むのは、『おおきな戦争』がはじまってからのことだ。
「国の為に戦ってこうなったのに、あんまりだ」
男の子は錆だらけの缶にお湯を注ぐ。乾パンを中に浸して軽く振ると、ちゃぷちゃぷと軽い音が聞こえた。
「みんな臆病者だとか勝手なことぬかすけどさ、てめーらなんてどうせ内地で補給やってたばっかなんだろってんだ。銃持って塹壕で戦ったわけでも無い癖に、偉そうなこと言うなよな。ばっかじゃねーの、戦場自慢なんかしてさ、ホントに死ぬほど辛い目に遭ったんなら、とっくの昔に死んでるっつーの」
男の子は右手に缶を持ったまま立ち上がると、テントの入口へと向かって歩き出す。隊長さんがどこへ行くのかと訪ねると、犬に餌をやるのだと言って姿を消した。
その背中を見送ってから、隊長さんはおもむろに部屋の中を見廻す。
「盗るなよ」男の子が入口から首だけを覗かせた。
「……犬、近くにいるのか?」
隊長さんは、犬が大嫌いだ。
「そこら中にいると思うけど」
戦争は、(戦前には誰も想像し得なかったけれど)たくさんの野良犬や野良猫その他を生み出した。市街戦や空爆で家族と離ればなれになってしまったり、疎開の時に置いて行かれたり、生活が厳しくなって捨てられたり。
女の子の家も、以前、犬を飼っていた。グイドと言う名のレトリバーが、今、どうしているのか、女の子は知らない。
「お前な、野良犬に餌やるなよ。居着かれたらどうするんだ」
時々、お腹を空かせた元猟犬が道端で眠っている傷痍軍人さんを襲うこともある。
「大丈夫だよ。こいつが人襲える訳ねーもん」
隊長さんがテントの壁に貼り付いた。それと同時に入口に掲げられたのは、後肢の存在しない、骨と皮ばかりの、毛の短い小さな白い犬だった。
「止めろ。入れるな。黒死病が感染る」
どうして隊長さんは犬を怖がるのだろう。女の子は不思議でならない。こちらに向けられているあの肉球のもふもふしたいことと言ったらないのに。
危険さで言うならば、軍用銃入りの鞄を足下に引き寄せている隊長さんの方が、よっぽど危ない人だと女の子は思う。
「大体お前、自分が口に糊するのも厳しい癖に何飼ってるんだ。そんなもんに金使うくらいなら親父さんの入院費用溜めろ」
隊長さんの余計なお節介に、男の子はむっとしたふうに眉間に皺を作った。「別にあんたにとやかく言われる筋合いないね」
「あるね。犬に餌をやるくらいなら俺に金を返せ」
余程腹に据えかねたのか、男の子はポケットに手を突っ込んで五フォート貨を四枚取り出した。それを床に叩き付けるように隊長さんに投げ、吐き捨てる。
「犬の餌分だよ」
「……お前さんね。ちいとばかし礼儀っつーもんを知った方が良いと思うぞ」
ほんのちょっぴり不快さを滲ませて、隊長さんは助言した。
「犬の餌代強請る大人相手に?」女の子の方は、どちらかと言うと男の子の意見に賛成だ。
「人様の金を盗っておいてその態度はないだろう。大体この貧乏は俺の所為じゃない、国の為に戦って傷痍軍人になったんだ、その辺もう少し敬意を表してくれても良いんでないかい?」
但し、本人にその記憶は無いけれど。
「あ、言っとくが俺は前線兵だったからな。西部国境戦線勤務だ、塹壕も砲弾も何でもござれだ」
但し、本人にその記憶は無いけれど。……確かに戦闘兵だったけど、隊長さんのこの台詞はたぶん適当に言ってみただけだ。
男の子は何とも言い難い表情で隊長さんを見つめた。口を開いて何かを喋ろうとして、けれども結局何も言葉にしないまま、もう一度口を閉じた。唇を噛んで、少し泣きそうに見えたのは、女の子の気のせいだったのかもしれない。
男の子は黙ってテントの外に出て行った。
* * *
夜明けは騒音と共に訪れた。
突然地面が揺れて、女の子はそれこそ黙示録が到来したのかと思うほどに取り乱した。これまで地震と言うものを一度たりとも経験したことが無かったので、大地が揺れるなんて現象は、想像したこともなかったのだ。
隊長さんも驚いていたけれど、さすがに、パニックに陥るようなことはなかった。男の子に至っては全く関心がないらしく、むしろ女の子や隊長さんに起こされたことに憤慨していた。
「あのさ、あんたら駅前に泊まったことないの?」
答えは夜が開けてから判明した。
コンクリートの二階建ての長い建物は、日光の元で改めて眺めると、それなりに綺麗な建造物であることが判明した。ぐるりと廻った反対側はたいへんな人通りで──つまり、男の子の家は駅の建物内なのだった。
「こっち側は立入禁止で人が来ないからさ、みんなここにテント建ててんの」
それは、空爆被害に対する補償を一切行わなかった州政府への抗議の意味も兼ねているのだと言う。
「来月ここでナントカ会議があって、お偉いサンが沢山来るんだと。で、街の視察もするらしいから横断幕掲げて集会開くんだ。デモって言うんだぜ」
夜明けの騒音は始発列車の音で、揺れは近くを車輌が通過した為なのだそうだ。随分と住み心地が悪そうだけれど、隊長さんがそのことを指摘すると、男の子は苦笑しながら仕方ないね、と呟いた。
「しかし、そんなのをよく役所が許可してるな」
隊長さんが驚きの声を上げると、男の子は肩を竦める。
「する訳ないじゃん。違法だよ」
「おい」
「あいつら卑怯だぜ。俺等を追い出す為に、公衆便所の糞尿を前の道に撒き散らしたり、スープの配給をわざわざ街の反対側でやったり。ガキの苛めかっつーの」
隊長さんはしゃがみ込んで、そっと女の子に耳打ちした。「今日は速攻でここを出て行くからな」
隊長さんと女の子の意見が一致するなんてとても珍しいことだ。
「お喋りはそこまでにして」尚もぺらぺら語る男の子を遮って、隊長さんは提案した。「朝食は未だかね」
途端に男の子の鼻の付け根に深い皺が刻まれる。爽やかな晴天も台無しだ。「……パン一枚三ギルダ」
「反政府活動に関する密告の報奨金は確か最高二〇〇ギルダ……」
「地獄に堕ちろ死に損ない」
昨日の今日で、よくこういう遣り取りができるなと、女の子は素直に感心してしまう。
「冗談に決まってるだろー。でも、ワタクシお金無いの。昨日の昼迄は超お金持ちだったのに」
でも直に出発するからスープの類は要らない、できれば水は少し欲しいと要求する隊長さんは、太々しいのか生存能力に優れているのか(びっくりだったのは真っ当な白パンが出たことだ。ちぎるとふわふわの生地が繊維になって、舌に乗せると甘いのだ!)。
この時すぐにこの場を離れていれば、女の子達は後の面倒事に巻き込まれずに済んだはずだ。けれども実際は男の子が水を湧かすあいだに、荘厳なる九時の鐘が広場の尖塔にて打ち鳴らされたのだった。
最初、女の子はその音に全く違和感を抱かなかった。なぜならそれは木が砕かれる音であり、女の子の故郷では、ごく聞き慣れたものだったからだ。
けれども音源は移動して、徐々に近く、そして大きくなっていった。
真っ先に反応したのは隊長さんだった。何の音かと男の子に尋ね、耳を澄ませて異音を関知した男の子は、ひどく強ばった表情で外へと駆け出した。
ひとりだけ、パンをおいしくいただいてから外に出た女の子の目に映った光景を、さて何と表現すればいいだろう。
特殊排雪列車みたいな、と言えばいいのだろうか。無限軌道がうんと小さくなった戦車の先頭に、大きな鉄の板(鍬のようなもの)がくっついている。
そんな装甲車が、道路の横幅一杯に並んで、女の子達の方に向かってゆっくりとやって来ているのだ。
道路の石畳が、装甲車の重みで浮き上がっては砕かれていく。近づくにつれ、無限軌道の鳴る音が耳に痛く響いて来た。回廊で寝起きしていた他の人達も道に飛び出して、呆然とその車列を眺めている。
「連邦州都市計画整備局、及び公安局からの警告です。回廊を不法占拠している皆さん、皆さんの行為は州法二五六条第四項に違反しています。我々は過日行った警告に対する最終の回答を求めています。これは最後の警告です。本日午前一一時迄に速やかに退去して下さい。上記が履行されなかった場合、当局は行政代執行法及び建築法、公益土地法に基づき不法滞在者の逮捕、占有地の代執行を行います」
外国語のテキストだってもっとましであろう悪文を、どこかから垂れ流しながら装甲車はやってくる。車と言っても戦車みたいなものだから、速さは子供が走るのと同じくらいだ。けれどもそれだけに壁が迫ってくるような威圧感があった。
「繰り返します。連邦州……」拡声器に向かって叫んでいる女の人が見えた。装甲車の後ろ、黒い軍用車の上だ。
女の人は、女の子がこれまで見たこともない、夕焼けみたいな真っ赤な髪の色をしていた。それを、三つ編みを後ろで輪っかにした北の伝統的な髪型にしている。服装は最近話題になった、薄桃色の女の人用のスーツで、警告を発し終わると、つん、と尖った顎を心持ち前に突き出して、いかにも神経質な切れ長の目を眼下の浮浪者達に向けた。
「先手を打たれたな」隊長さんが呑気に評した。
ほんの一瞬、通りは静寂に包まれた。
「……不当逮捕だ!」やがて誰かがそう叫んだ。
乱闘になった。地上にいる人々が一斉に鋼鉄の壁に向かって走り出す。鉄の板を飛び越え、運転席に貼り付いて、中のお役人さんを引き摺り出そうとする。
「ちび。こっちに来い」
どこかで隊長さんが女の子を呼んだ。装甲車は相変わらずのろのろと、女の子との距離を縮めて行く。立ちはだかる人々などお構いなしだ。
「轢かれるぞ!」
声といっしょに誰かが女の子の襟首を掴んで道路の端まで駆けた。ぶらんぶらんと揺れながら、その大人の人を見上げると、ちょっぴり険しい顔をした隊長さんだった。
「どうしたの、その子」いつのまにか近くにいた男の子も、けげんそうな表情で女の子を見遣る。「人形みたい」
バン、と心臓に悪い音がした。誰かが鉄の棒を使って、装甲車の窓硝子を打ったのだ。
立て続けに打撃音が響く。武器を手にした人が増えたのか、どんどん音が大きく激しくなっていく。
不意に、耳の中を右から左へ突き抜ける、何とも言えない乾いた音が二回鳴った。辺りの怒号が止んで、一呼吸分の後に耳を劈く悲鳴が上がった。
誰かが発砲したのだ。
女の子の視界の端に、両脇を抱えられて道の端へ運ばれていくおじさんの姿が映った。血は見えなかったけれど。「まじかよ……」
真っ青になって呟く男の子の方が、大変そうだ。
一一時を待たずして、お役所の人達は撤去作業を開始した。飛行機材を流用したジュラルミン盾を前面に、装甲車の隙間から武装憲兵隊がわらわらと湧いて出る。紺ずくめの彼等はそのまま無言で回廊のテントを破壊しはじめた。
「生存権の侵害だ!」誰かが叫ぶ。それに呼応する声が、廻りから起こる。
「野宿者の皆さんに対しては、公衆衛生局から矯正院及び職業訓練施設の入所に関する優待措置が認められています。皆さんの行為は法律に違反しています」
矯正院というのは無認可の物乞いの人を収容するための施設のことだ。ほんとうは貧乏な人の為の寄宿舎は他にあるのだけれど、戦争と不況で路上生活者が激増してしまったので当時はあらゆる施設が利用されていた。
そして、あんまり急に収容者が増えてしまった故に、それらの施設での生活は、北の強制収容所を生き延びた兵隊さんでさえ音を上げるという代物だった。
しかも一部施設は無料ではないし。
ガシャン、と硝子の砕ける音がした。どこから出てきたのか火炎瓶が道に転がっている。
「さて、ちび。逃げるぞ」
この状況で唯ひとりとても冷静な隊長さんは、女の子を路上に降ろすと、踵を返して男の子のテントへと歩を進めた。男の子はもう傍にいない。テントが壊されはじめると同時に、そちらに向かって走って行ってしまった。
隊長さんは勝手に男の子のテントの入り口を捲り上げて、この日はIの字みたいに一直線になっている男の子のお父さんを跨いで、端っこに放り出された旅行鞄を開く。少し首を傾けて、鞄の口から飛び出している軍用銃の先とテントの入り口とを見比べながら呟いた。「外に出すのは不味いわなぁ……」
だけれどほんとうにまずかったのは、その軍用銃を男の子のお父さんが目にしてしまったことだ。突然、お父さんは両腕を跳ね上げて絶叫した。その声は入り口に立っていた女の子を通り越して、道路で闘っていた人達が動きを止めるのに充分過ぎる大きさだった。
「ソーン」
テントの近くにいた男の人が、道路に向かって大声で呼んだ。「お前の、親父さんが」
隊長さんはテントの中で、呆然とお父さんを見つめている。
「どいて!」男の子──ソーン君が、突っ立っていた女の子を押し退けて中に足を踏み入れる。「何やらかしたんだよ!」
「いや……」
さっきまでが嘘のように、ソーン君のお父さんは暴れていた。と言っても、テントの向こう側の人達みたいに、物を投げたり、銃を撃ったりする訳ではない。背中を地面につけたまま、両手をぴんと天井に向けて突き上げて、それをしきりに上下に動かしながら、ソーン君のお父さんは「手を休めるな!」と怒鳴っていた。
「光を! 風が流れているところを捜すんだ!」
「薬、薬……」ソーン君が、ひどく慌てた調子でテントの中を漁る。
隊長さんも女の子も、何が起きているのか理解できず、木の棒みたいに突っ立っている。
「諦めるな!」
ソーン君のお父さんは絶叫した。
「掘り進めろ! 俺達は生きて家に帰るんだ!」
バリバリと言う破壊音と共に憲兵隊がやって来た。
「危険です。テントから離れて下さい」件のおばさんが、拡声器で呼び掛ける。
彼等の対応はきびきびしていた。女の子を抱え上げて道路へ持って行くと、次に両手を上げた(鞄はしっかりと肩にかけていた)隊長さんをテントから追い出す。それからまた中に入って、今度は少しのあいだテントに留まってから憲兵のひとりがテントの外に出て、もどって来るのと入れ違いに、ソーン君が憲兵に挟まれながら姿を現わした。
「邪魔だ、退いてくれ」
更に二人の憲兵が、隊長さんを押し退けてテントへと消えて行く。隊長さんは体勢を崩して、片足でピョンピョンと道路へ跳んだ。ちょうど装甲車がやって来たところだったので轢かれるかと思ったけれど、
「……え?」幸いにも車は直前で停止してくれた。愛想笑いを浮かべて女の子達の元へ走って来る隊長さんを、赤毛のおばさんが呆然と眺めているのが視界の端に見えた。目を真ん丸に見開いて、おばさんは隊長さんに向かって大声を上げた。
「……小隊長でありますか!?」
けれども隊長さんはおばさんの方を向いていなかった。アーチを潜って女の子の横に立つと、女の子の腕を引っ張って歩き出した。「よし、ちび、出発するぞ」
憲兵のひとりが止めようとする。「おい、お前……」
「あ、どうぞお構いなく。わたくし此処とは一切関係ございませんので」
そうじゃなくって。
「では、お勤めご苦労さんです」
隊長さんは駆け出した。女の子が半ば引き摺られながらテントの方をふりかえると、おばさんとソーン君が複雑な表情で女の子達を見送っていた。
顛末の総てを語るまでもなく、騒動は行政側の圧倒的勝利で終わった。
回廊を占拠していたテントの列はゴミの山と化して、装甲車の後ろから排気ガスとエンジン音をまとってやって来たトラックが概ね攫って行った。小さいものや特別大きなものはしばらくのあいだそのままにして、後でもっと大きなトラックに積まれて処分されるのだそうだ。
代わりに彼らは大量の紙束を残して行ってくれた。そこにはこの街の厚生施設の連絡先と地図が記載されている。利用する気があるのなら(誰か信用のある人から施設への紹介状を貰った上で)自力で来いということらしい。
読み書きのできないお婆さんと、視力をなくした収容所帰りの人にチラシを読み聞かせてあげた後で、隊長さんはかつてソーン君のテントがあった場所へそっともどって行った。
ソーン君の家も例外ではなく、今ではペシャンコになった段ボールの箱が幾つかと、塵と木片でいっそう薄汚くなってしまった毛布と、道路に転がった、あの錆びたケトルと缶のコップだけになってしまった。
その家の前で、ソーン君は俯いたまま突っ立っている。泣いているのかな、と女の子は思ったけれど、隊長さんの影がソーン君の足下にかかると、彼は意外にもさばさばした表情で隊長さんをふりかえった。
「なんだ。まだ居たの」口調もそれまで通りだ。
むしろ隊長さんの方が、何とも複雑そうな表情を浮かべている。
隊長さんの視線を追って、女の子も隊長さんが顔を顰めている理由を知った。ソーン君の足先、赤黒い毛布の下から、たくさんの血と白い犬の鼻先が覗いていたからだ。
「別に泣きゃしないよ。たまたま近くに居着いてた野良犬に餌やってたってだけだし。家なんかとっくの昔になくなってるし」
ところでさ、とソーン君は口の端を吊り上げる。「犬とか猫とかの死体って、どうやって処分すればいいの?」
「……役所の仕事だ。放っておけばこの辺の物を持って行く時に片付けてくれる」
「さすがにそれは可哀想じゃん」
苦笑して、ソーン君は俯いた。「まさかこんなことで死ぬなんて思ってなかったなぁ」
それから、無表情でぽつりと呟く。「せっかく戦争を生き延びたのに」
隊長さんは黙っている。
「ま、いっか」ソーン君は頭を上げると、隊長さん達に向かって肩を竦めてみせた。「公園か河原に埋めとこ」
「おまえ、これからどうするんだ?」
隊長さんの問いに、ソーン君はきょとんとなった。
「どうする、って。別にいつも通り生活するだけだけど」
家捜ししなくちゃならないけどね、と付け加えたけれど、ソーン君はあまり堪えていない風だった。
「向こうが親父連れてったんなら病院代はタダだろうし。まぁ、親父がいなけりゃすぐに働き先見付かるだろ」
あのお父さんはどうなるのだろう。
ふと、女の子は考えた。入院して、注射とか電気椅子で治るものなのかしら。それとも、もう一生あのままなのかな。
せっかく戦場を生き延びたのに、戦争から帰って来れないだなんて可哀想だな、と、女の子は思った。
「……学校は」
「行ってないよ。去年までは学徒動員で工場だったから。で、戦争終わったらさ、工場勤務は勉強した内に入りませんので留年して下さい、ってさ。詐欺だよな。事務系に廻された連中はちゃんと単位貰ってんのに」
そう言えば女の子もまた、二年生の春以来学校に行っていないことを思い出した。ほんとうならば、女の子は秋にもう四年生になっているはずなのに。
「戦争はじまってからずっと銃の使い方とか応急措置の仕方とかしか習ってないのに、一年留学したって勉強についていける訳ないジャン。二次関数なんて聞いたこともねーっつの。で、むかついたから辞めた」
うーんと唸って、ソーン君は伸びをする。──女の子が、涙が出そうになる時によくそうするみたいに。
「再来月になったら一三歳になるし、そしたら俺、少年親衛隊に入るよ」
そう宣言すると、ソーン君は毛布ごと犬の死骸を抱き上げた。
「どうせまた直ぐに戦争はじまるんだろうから。軍人って稼ぎ良いんだろ?」
さあな、と答える隊長さんは、終戦まで兵隊をしていたけれど、一フォートも貰えていない。
「あーあ。とっとと戦争再開しねーかなー」
ソーン君は笑った。それから犬の死体を埋めると告げて、女の子達から去って行った。
神様はソーン君の願いごとを叶えてくれた。おおきな戦争が起こるのは、それからほんのすこし後のことだ。