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白い犬とワルツを-1

 隊長さんはその時、極めて深刻な問題にぶち当たっていた。

「……さて、本日の夕食をどうするかな……」

 既に太陽は西の端、建物の向こう側に消えている。空は東から順々に夜の色を深くして、その濃紺に煌めく明星と、徐々に染められていく橙色が綺麗だと、天を仰ぎながら女の子は思う。けれどももう日が落ちるのは随分と早くなってしまっていて、ほんの一瞬の後に、夕方は姿を消して、残ったのは寒々と吹き抜ける風と、無慈悲に光る夜の女王だけだった。

「あー、おちびさん」

 隊長さんが、癖のある黒髪を掻きながら、きまり悪そうに女の子を見下ろした。

 ……もちろん、女の子は反応しない。

「悲しいお知らせと、大変悲しいお知らせがあります。どちらを先に聞きたい?」

 聞こえなーい。聞こえなーい。

「えー、先ずは悲しいお知らせから。本日は誠に遺憾ながら、諸般の事情に拠り食事を抜きに致したいと思う次第であります──腰回りがまた一段と細くなってコルセットを巻くのが楽になるな」

 二つ前に通り過ぎた路では、異国料理のお店が奇妙な看板をぶら下げていた。派手な黄色と赤と緑に彩られたお店の料理を、是非一度口に運んでみたいなぁ、と言うのが、この日の女の子の希望。

「更に不幸なお知らせを。……大変申し上げ難いのですが、今宵は野宿と言うことに相成りそうで……いやぁこの美しい星空を眺め、雄大な自然と一体となるのも乙なもんだね」

 ここは女の子の故郷よりもずっと緯度が高くて、この季節でも明け方は四〇度台(摂氏だと四度から五度くらい)まで冷え込むのだ。隊長さんは、きっと、朝、宿泊所の温度計を見なかったのだろう。

「今流行りの自然主義と言うものだよ」

 女の子の語彙では、路上生活者、と言う。

「……いや、あの、ほんとマジすんません。俺が悪かったです。後生ですから今晩は勘弁して下さい。だから動け。な?」

 哀れっぽい隊長さんの声を聞きながら、さてどうしてこんな事態に陥ったのだろうと、路の真ん中に突っ立ったまま、女の子はその日の出来事を懐かしく回想した。


 * * *


 朝まではいつも通りの一日だった。

 例によって朝食を断った(そうして少しでも支出を減らそうと言う魂胆だ)隊長さんは、空きっ腹は公共の水で満たせと言う持論を掲げて街の中を彷徨っていた。東の生水は不味くてお腹を壊すので、女の子としては断固として反対したかったのだけれど、残念なことに財布は隊長さんのものなので、我侭ばかりは言えないのが悲しいところだ。

 ようやく見付けた公園の、どう見ても飲料用ではない水を小鳥といっしょに啄みながら、けれどもこれで黒死病にでも罹ったら、そちらの方がお金がかかるのに、と思ったことを、女の子は憶えている。それでなくとも近頃また感冒が流行り出して、しかもこの年の感冒はひどく症状が重いらしいのに。

 いつもとちょっと違ったのはお昼だった。

 隊長さんが、落ちている財布を拾ったのだ。

「おお神よ。今私は初めて貴方の存在を信じかけました、万歳」

 日曜礼拝や、春や冬の祭りでさえも完全無視する隊長さんは、いかにも嘘っぽい仕種で両手を組んだ。手の組み方を見るに、どうやら隊長さんは革新派の人なのだと、女の子が初めて知ったくらい、胡散臭いお祈りだった。

 財布の中を覗き込んで、隊長さんはほくほく顔だ。

「やはり普段の行いが良いからだな」

 隊長さんがそれほど良い人ではない事実を、女の子はよく知っている。

「よし。今日はこれで旨いもんでも喰うか」

 とは言えこの意見には全面的に賛成だったので、女の子は諸手を挙げて意思表明した。落としものは憲兵さんに届けましょう、なんて真っ当なことは当然言わない。どうせ届けたところで、この頃の憲兵さんは財布程度では取り合ってくれなかったのだ。

 ──今度こそ、美味しいものを食べるんだ。

 女の子はわくわくしながら考えた。ええと、そう、例えばええと……

「酒だ」

 未成年者の飲酒は法律で禁止されています。

「やはり正規酒だな。貴腐にウインナー。これぞ至高」

 拾ったお財布には、そんなにたくさんお金が入っていたのだろうか。

 なら、葡萄の果実が食べたいな。

 女の子は思い付いた。近頃、どこかの国でお酒を禁止する法律ができるとかで、お酒の駆け込み需要が起きているのだ。

 ついこのあいだまで規制されていた正規酒がみんな輸出用に廻されてしまうし、それでなくとも高価な葡萄が、生食用のものまで醸造用にされてしまって、果肉を食べることが極端に難しくなっている。

 せっかくの甘い果物を、あんな苦い液体に加工するなんて正気の沙汰じゃないというのが、当時の女の子の考えだった。

 幸いにも駅前の闇市はたいへん大きくて、生鮮食品も大量に出回っているから、探せばきっと見付かるはずだ。

 この街は戦前から西の国でも有名な大都市なのだけれど、そのせいで戦時中は大規模な空爆を受けたらしい。女の子には空爆と言う言葉の意味がよく解らなかったけれど、きっと機銃掃射をもっと沢山にしたものだ。

 その割には、街は随分と綺麗で、赤い石畳が戦車でボコボコにされているようなこともなく、建物も、更地が所々目立つとはいえ高層建築物も豪華な庁舎も完全な形を残していた。配給車や闇市を見つけられなければ、ここが戦場だったなんて信じられない位だ。

 ああ、あともう一つ、ここも戦争があったのだと判るものがあったっけ。

 女の子は駅前広場を視線だけでぐるりと見廻した。

 すると、建物や街路樹の陰になっている場所ごとにたいていひとりずつ、缶や箱を前に座り込んでいる人が居る。

 ある人は、『西部国境戦線帰りです』と言う木の板を掲げて。

 またある人は、『空襲で右足を切断しました。家には子供が二人居ます』と書かれた札を首から下げて。

 まあ、どこの街でも必ず見かける光景だ。女の子はお金を持っていないし、隊長さんが寄付しているのを見たこともない。

 総じてそういった人達の缶の中は寂しいことになっていて、つまり誰も他人を気遣うほどの余裕はないのだった。

 そんな中で、女の子がその男の子に注目したのは、単にその子の年頃が女の子に近そうだったからと言う理由だ。

 駅舎に向かい合う形で座っている男の子は、錆びてパッケージの半分が赤茶色く変色してしまったスープ缶を置いて、だらしなく足を投げ出していた。膝には隊長さんのコートよりも汚らしい、黄土と緑の混ざった色の布をかけていて、顔はその膝掛けを見つめるように俯いたまま、黒髪に隠れて表情は伺えない。日に焼けて黄ばんだ長袖のシャツは、両方の端から掌を覗かせることなく、垂れ下がったままだ。

 缶の傍らに置かれた小さな札には、こう書かれている。

『戦争で両腕を無くしました。パンを買うお金をください』

 女の子は隊長さんを見上げた。

「戦争で記憶を無くしました。帰るお家を教えてください」

 周囲の人間も、一瞥をくれることはあっても、決してお金を与えようとはしない。

 女の子は男の子をふりかえり、もう一度隊長さんを見上げた。

「つまりお前の今日の昼食代と宿代を全部あの子供にやって良いんだな?」

 それは困るので女の子は首を横に振った。

「じゃ、無視しろ」

 でもそれはちょっぴり可哀想な気がする。

「俺の食費を削る気はない」

 もともとギリギリだしね。それくらいは女の子だって理解しているけれど。

「慈悲ってのは自分が飢えてまで施すもんじゃないな」

 さっき財布拾った癖に。

 見上げる女の子の視線など、隊長さんはどこ吹く風だ。

 何となく後味の悪さを感じてもう一度後ろを向くと、例の男の子はゆっくりと立ち上がるところだった。缶の前まで来るとしゃがんで右手で持ち上げた缶をひっくり返して、僅かばかりの収入を左の掌で受け止めた──あれ?

 女の子は隊長さんの袖を引っ張った。男の子から腕が生えている。そんな奇跡の報告を、しかし隊長さんは腕の一振りで払ってしまった。

 ただ、それでもやはり傷病人なのだろう、男の子の足取りは酔っぱらいみたいにふらついている。

 通行人になんどかぶつかりながら女の子達の方に歩いてきて、隊長さんにぶつかると、謝罪の一つもなく俯いたまま去って行った。

「……あの餓鬼、さっき両腕がないとかいって物乞いしてなかったか?」

 後ろ姿を眺めながら首を傾けて呟く隊長さんは、鈍いと言うべきか、それともよく覚えていたと言うべきか。

 ふらふらしている割には、男の子は驚くべき早さで雑踏に消えて行った。その、隊長さんよりもみずぼらしい背中が見えなくなった頃合いになって、隊長さんは不意に道端に立ち尽くして体のあちこちを叩きはじめた。

「……無い」

 主語が抜けている。女の子に解るのは、隊長さんの様子が余り芳しくないことだけだ。

「やばい。……どこにやった」

 だから。何を。

 すると、隊長さんは突然、電気ショックを受けたみたいに顔を跳ね上げた。アッと小さく叫んで、それから前方を睨み付ける。人を掻き分ける勢いで歩き出した。どんどん早歩きになって、終いには走り出す。

 女の子も一生懸命になって追い掛けた。が、残念なことに余りにも足の幅が違い過ぎた。隊長さんの身長が一九〇センチはあるのに対して、女の子は一二〇センチ弱(一年前調べ)。おまけに隊長さんは大変な俊足(背嚢と大人の男の人を背負っていても、部隊の中では一番走るのが早かったのだ)だったから、女の子はほとんど追い掛けると言うよりは迷子になっている気持ちで、ともかくも道路を真直ぐ走り続けた。

「黙れ、餓鬼。憲兵に突き出してやる」

 ──足が止まったのは、そんな隊長さんの大声が聞こえて来たからだ。

 見れば前の人込みは、往来を行き交う人によるものばかりではなく、立ち止まり、何かを取り囲んで眺めている野次馬達が大勢いる。

 どうしてだろう、女の子は隊長さんの元へ赴くのをかなり躊躇った。月並み過ぎる台詞の後は、何だか余り宜しくない展開が待っている気がする。

 それでも人々のあいだをそろそろと(できるだけ他人の振りをして)人集りの一番前まで出て見ると、案の定、隊長さんがひとりの男の子を捕まえているところだった。男の子の右手には例のお財布が握られている。男の子は、先刻両腕が生えて来た奇跡の人だ……ええと、状況は把握した。けれど、男の子は隊長さんよりずっと小さいのに、道路に組み伏せて腕を後ろに捻り上げるのは、やりすぎじゃないかなあと、女の子は思う。

「痛い痛い痛いそれ、俺ンだよ。盗ってねーよ」

 おじいちゃんみたいな擦れた声で、男の子は訴えた。

「嘘こけ。物乞いの餓鬼がこんな大金持ってるはずがあるか! 先刻俺にぶつかった時に掏摸やがっただろう」

 これは俺のだ、と隊長さんも言い返すけれど、正直、どちらのものでもない気がするのは女の子だけかな。

「やってない。因縁だ」顎を上げて、男の子は廻りを囲む野次馬さん達を見上げた。「誰か助けて! このオジサンやばいよ、クスリとかやってるよ」

 典型的な路上の喧嘩だ。ただ、男の子にとって不幸だったのは、彼の台詞が、却って廻りの人たちを遠ざける結果になったことだ。

 でも、女の子の見解では、このまま憲兵さんがやって来たら、悪人認定されるのはむしろ隊長さんの気がするのだけれど。

「うるさい、糞餓鬼」隊長さんもそれを解っているのか、男の子の頭を軽く小突くと拘束していた両手を放した。男の子が恐る恐る後ろをふりかえる間に、隊長さんは立ち上がって目敏く女の子を見付ける。手を上げる動作をしてきたけれど、女の子は他人の振りに徹することに決めた。

「おーい。行くぞー」隊長さんが男の子に背中を見せた、その一瞬だった。

 男の子が全力で体当たりしたのだ。

 さすがの隊長さんも、不意の一撃には対処のしようがなかった。辛うじて石畳の上に転がるのは耐えたけれど、思い切り体勢を崩したあいだに、男の子は傍目には見事としか言いようのない鮮やかさで、隊長さんからお財布をもぎ取った。

「てめえ!」

 隊長さんの反撃も早かった。道路に置いてあった(よく置き引きに遭わなかったものだ)旅行鞄を取り上げて、即座に銃を抜き出した。それを片手で持ち上げて、男の子に向かって構えるや、周囲の人達から、恐怖の悲鳴が上がった。

 ──隊長さんが持ち歩いている銃は、護身用のいわゆる短銃ではなくて、もっと大きな、猟銃に近いサイズのものだ。短機関銃の全長をもっと短く、幅を広くして、全体の形がやや直線的になっている(この時代の説明にそぐわないけれど、後の戦争末期に出てきた金属薬莢式東軍自動突撃銃をもう少し寸詰まりにした感じが、一番この形に近い気がする)。引金を引けば勝手にどんどん銃弾が発射されて、猟銃みたいにがしゃん、と弾の入れ換えをしなくてよくて、それだけに危ないので、実弾は装填されていない……といいなあと、女の子は心の底から願った。

 つまり何が言いたいかと言うと。

 現役軍人でない身元不明の人間が、軍用銃を所持していて、あまつさえそれで民間人を恐喝すると言う行為は、正真正銘、立派な犯罪、な訳で。

 結局、隊長さんは、財布を取り返すよりも早く駆け付けて来た憲兵隊を見て、女の子を抱えて全力で逃走する羽目になったのだった。


 * * *


「あの餓鬼、見付けたらタダじゃおかん」

 女の子の右腕を引っ張りながら、隊長さんはぶつぶつ文句を言っている。くたくたの、ゴミ捨て場から拾ってきたような(実はほんとうにゴミ置き場を漁って手に入れた)外套に、目が隠れるくらいに長く伸びたぼさぼさの黒の癖毛と無精髭、やたらと大きな(これもゴミ置き場から攫って来た)旅行鞄。

 もしも知らない人が隊長さんを見たならば、誘拐犯と間違えそうだと、女の子は冷静に考える。

「これはあれか、定住して働けと言うどこかからの思し召しなのか」

 たぶん、一年くらい前に辿り着くべきだった結論だ。

「床屋でもやるかね……知り合いの偉い人が訪ねて来るかもしれん」

 それは無理だと思うの。それは女の子にとっては、斬新すぎる提案だった。女の子のお父さんも床屋だったけれど、今の隊長さんの髪型は、お父さんなら七つの大罪よりも重い罪とみなしただろう。

 東の国の人と言えば、家に居る時でもスーツを着ているものだと女の子は教えられてきたけれど、どうやらその認識は改めた方がよいのだと、隊長さんといっしょに行動しているうちに判ってきた。

「今日も冷えるんかね……」

 言いながらぼりぼりと頭を掻く隊長さんからは、何か白い粉みたいなのが降っている。フケ、汚い。

 この十数日体を洗っていないから仕方ないけれど。自分の身なりを見て、女の子は失意の溜息をついた。このところ毎日物価が上がっていて、お風呂の料金が日々倍額になってしまっているのだ。

 どうせ野宿ならせめて他の人達と同様に駅前が良かったけれど、残念なことに保護者が犯罪者になってしまったので諦めるしかない様子だ。と言うことはつまり教会の配給も受け損ねる可能性が高い訳で、そろそろ本気で餓死する可能性を考慮する必要があるのかなと女の子は思案した。何せ朝から水しか腹に入れていない。

 そんなことを思いながら前を見て歩いていなかったので、突然立ち止まった隊長さんに、女の子は思い切りぶつかった。鞄の金具で鼻をしたたか打って、何かもう今日は最低だ。

 どうかしたのかと見上げると、隊長さんは非常に凶悪な笑みを浮かべていた。視線の行く先を辿ってみると、その先には人が居た。

 あの、奇跡の人だ。

 あーあ。

 女の子が同情したのと、隊長さんが動き出したのが同時だった。女の子が後に続こうとした時に男の子も気が付いて、しかし逃げるか叫び出すかするより早く隊長さんが追い付いて、男の子の口を塞いだ。

「騒ぐなよ。首の骨をへし折るぞ」どう好意的に解釈しても、追剥ぎの台詞だ。

 それでも男の子は必死に抵抗しようとしたけれど、暴れて体勢を崩しただけの上、最後には隊長さんにボディーブローを極められてしまった。もの凄く可哀想だ。男の子は無抵抗になって、代わりに目から滂沱と涙が溢れた。

 こうして、隊長さんは無事、犯罪者を捕縛することに成功した訳なのだけれど、どうしてだろう、女の子の目に、隊長さんが、昔さんざかお母さんに注意された『人攫い』にしか見えなかったのは、果たして気のせいなのだろうか。

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