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また逢う日まで

 その日の朝食は、チシャが三枚きりのサラダと、黴をむしりとったのが一目でわかる小さな黒パン、それから、沸騰させてエチルをとばした糖蜜酒だけだったから、だからいつもより少しはやめに昼食をとろうと、女の子は提案したのだ。

 隊長さんはたいていの場合、食費をとことんまで削ろうとするし、それでなくとも食料事情が悪いなかで安いお店ばかりを選ばれたら、いつか栄養不良で倒れてしまう。この日ばかりは、女の子も断固としてちゃんとした構えの店に入ることを主張した。もっとも、ポケットから取り出した財布をこころもとなげに握りながら、それでも乗り気でなかった隊長さんがそのお店を選んだのは、単純に野立の看板に『酒』の文字が見えたからなのだけれど。

 お店は東の国にありがちな、赤い煉瓦屋根にやや黄味がかった漆喰の壁の建物で、左半分にところどころ煤けた痕がのこっていた。扉の上にはみがかれた銅の看板が取りつけてあって、それが太陽の光をはじいて、まるで黄金のように輝いて見える。

 その看板がとても素敵だったので、女の子もお店にはいるのに異存はなかった。今日は、きっといつもより豪華な──具体的な料理名はなにも思いつかなかったけれど──昼食を食べるのだと、はりきって木戸を押した時、突然扉の向こうからたくさんの冷水を浴びせかけられて、それが、この物語のはじまりだった。


 * * *


「ほんとうに、申し訳ありません」

 女の子の髪を拭きながら、女の人は、何度も何度も謝罪した。

「あのう、できれば、俺にもタオルを貸していただけるとありがたいんですが」

 水に濡れ、普段よりもいっそうみずぼらしい姿で控えめに立つ隊長さんは、残念なことに誰も相手にしてくれない。

「あのー、すんませーん」

「あ、はい」ようやく気がついた女の人はふりかえって、「お父さん、タオル」

 お店には、だれもお食事をしている人がいなかった。けれどひとりだけ、端の木卓に肘をついて座っているお爺さんがいた。

「お父さん」

 女の人が強く言っても、お爺さんはそっぽをむいて席を立ってしまう。

「お父さん!」

 地団駄を踏みそうな勢いで、女の人はお爺さんを呼び止めようとする。……女の子の頭の上に乗せられた手にぎりぎりと力がこめられて、とても痛いのだけれど。

 さきほど女の子と隊長さんに冷水をあびせたのは、あのお爺さんだ。

「ちょっと!」叫ぶ女の人の声と同じくらいの荒っぽさで、右足を引き摺ったお爺さんは奥への扉を閉めた。その振動でぱらぱらと漆喰の欠片が落ちてきて、この建物大丈夫かなと、女の子は話の流れと関係ないことを心配した。

「……どうも、お取り込み中のところを失礼しましたようで」

「いいえ」

 女の人はしばらくお爺さんの消えた先をにらんで、やがてふっ、と溜息を吐いてうなだれた。

「すぐに暖かいものを用意します。こちら、あの、古着でもうしわけありませんが、着替をどうぞ」

 どうもと答えて、隊長さんは着替えを受け取る。それは、隊長さんが身に付けているものよりよっぽどまともな一揃いだった。

「俺のタオルのことも……忘れんでくださいね」

 けれどもとても悲しいことに、隊長さんの言葉は、みごとに忘れ去られたのだった。



 隊長さん(のお財布)にとって幸運だったのは、その日の昼食が、全部タダになったことだ。白くとろりと濃厚なポテトスープと、ほかほか湯気のたちのぼるお粥と、それから、新酒の赤葡萄酒──女の子には葡萄のジュースが与えられた──に、おまけに二階に泊めてもらえることにもなった(宿も兼業していたらしい)。スープはおかわりもできたので、隣でくしゃくしゃの黒髪をタオルで拭きながらくしゃみをしている隊長さんはともかく、女の子にとっては、たいへん満腹な結果となった。

 濡れた服は、二階の部屋の柱にかけて乾かしておく。もともと襤褸だから、いまさら水をかけられたくらい、どうってことはない。むしろ洗濯の手間がはぶけて幸運だわと、女の子は思うことにした。

 お腹がくちくなれば次に待つのは睡眠だ。店の窓辺はたいそうぬくく、木卓に頬をくっつけて、女の子はうとうと微睡みに身をゆだねた。そのあいだに木卓のむこうでは女の人が自分の名前を名乗ったり、隊長さんが女の人──リーベさんを口説こうとして振られたりしていたけれど、特に後半はどうでもよいことなので、女の子は天国にいるような気分をたっぷり堪能──しようとした。

「こんにちは」

 その安眠を妨害したのは、ふたつ前の窓から身を乗りだしてきた女の人の声だ。笑いの混じったよく通る声で、流行の短かめの髪に、きらきら赤く光るピアスが綺麗だった。

 ひとめ見て、また眠りに入ったので、その女の人の容姿はそれ以上わからない。けれど、リーベさんが居ずまいを正したのは気配で察せられた。

「フェレさん」

 やっほー、と明るく挨拶する敵の名は、フェレさんと言うらしい。

「どうしました」

「いやサ、お父さんがウチの店に来たから、逃げてきたのよ。──ナンか派手にやってたねぇ」

 苦笑しながら答えるフェレさんと、すみません、と恥ずかしそうに呟くリーベさんの声が、女の子の耳にも入って来る──ああだめだ、どんどん眠気があさっての方向に行ってしまう。

「おお、べっぴんさんがあらわれた」場の空気を読まない隊長さんが口を挟んだ。

「何、このオッサン」

「ええと……」

「……おとうさんの癇癪の被害者ね」

 御愁傷様、とフェレさんは笑う。はぁ、どうも、と気の抜けた声で隊長さんは応じた。

「最近、おとうさん、とんでもなく機嫌が悪いから」

「あの、父がそちらにうかがっている、ということは……」

「うん、まぁ、いつものパターンね」

「すみません。今すぐ引き取ります」

 窓の向こうから、狼の遠吠えみたいな大音声が響いた。「……うん。いつのもパターンだわ」

「ああ、もう!」リーベさんが、木卓をバン! と叩いて立ち上がる。

「……荒事になるなら手伝いましょうか?」隊長さんの提案は、不幸なことに誰の耳にも届かなかった様子だ。

 先ほどのお爺さんそっくりの足取りで、リーベさんは立ち去っていく。知らない人を残しておいて、お店の防犯は大丈夫なのかなと女の子は思ったけれど、どうやらフェレさんがお留守番みたいだ。

「あー、ホントに、厄介なところをお邪魔したようで」

 寝るのを諦めて顔を上げた女の子の視界の端に、困ったふうに頬を掻く隊長さんの姿が映った。

「早々に立ち去った方が良いですかね、俺達」

「別にいいんじゃない?」

 フェレさんは肩を竦めた。「久し振りの金蔓だもの、ゆっくりしていけば?」

「可及的速やかにお暇させていただきます」

「冗談よ」

 フェレさんは何と表現したら良いかわからない表情をする。それから、ひょい、と後ろを振り返った。

「いつものことだもの。一爆発したら治まるわよ。じきにあの娘が回収してくるわ──その前におとうさんの音響兵器が炸裂するんだろうけど」

 フェレさんの言葉が終わるか終わらないかの内に、少し離れたどこかから、びっくりするほど汚い声で、東の軍歌が聞こえてきた。



 リーベさんに引き摺られて帰ってきたお爺さんが、その後どういう行動をとったかは、簡潔に概要だけを説明しよう──何のことはない、隊長さんを相手に夜までずっとお酒と愚痴をこぼし続けていただけなのだけれど。話を要約すると、西の国の人はチビで、非論理的で、扇動され易いバカで、ついでに娘はぜんぜん言うことを聞いてくれなくて、年々死んだ母親に似てきて父の威厳と言うものをちっとも鑑みてくれなくて、昨日も煙草を取り上げられてしまったけれどまだ部屋に隠してあるから大丈夫とかなんとか云々……。

「まぁ、エチルの酒を思う存分飲めただけで良しと言うことで」

 とうとう木卓に突っ伏して寝てしまったお爺さんを横目で見下ろしながら、誰にむかってか隊長さんは呟いた。

「いえ……ほんと……何と申し上げれば良いか」

 ほくほくのチーズを木卓に置いて、リーベさんも椅子に腰を下ろした。顳谷をぐりぐり押さえているけど、風邪なのかな?

「昔はもっとマシな性格だったんですけど。塹壕で毒ガスにやられてから、あんな偏屈になってしまって」

「それは御愁傷様です」言いながら、隊長さんは、彼を肥満の魔の手から救うべくチーズ皿へと伸びた小さな手をぱちん、と叩く。

「ですが、ずいぶん戦功をあげられたらしいじゃないですか。潜水艦隊がどうとか」

 そんな話をしていたのか。女の子はがぜん興味を持って、身を乗りだして耳を寄せた。その時ちょうど読んでいた本が、銛使いの漁師と学者とその助手が、電気の潜水艦に乗って冒険するという話だったので。

「潜水艦隊?」リーベさんは少し首をかたむけて、「違います違います。父が行ったのは北部戦線です。すぐに足を撃たれて帰って来てますし。潜水艦隊は私の兄達の話です。海軍に徴兵されて、海狼作戦に参加していて」

 はぁ、と、隊長さんは対応に困った声をあげた。「ご兄弟は?」

「二人とも戦死しました」

 それは、と言ったきり、隊長さんは言葉に詰まる。なんだか重たい話になりそうだったので、女の子はこっそりチーズを片付けることに専念した。表面の縁の部分に、ほんのり狐色に染まったチーズの焦げは、噛むとカリカリとした触感といっしょに温かさと中の甘い部分が染みだしてきて、とても幸せな気分になれた。

 誰かが戦死したとかいう話は、もうお腹一杯だ。

「あなたは? どちらに従軍していらっしゃったんですか?」

 沈黙に堪えかねたのか、リーベさんは少し甲高い声で質問した。

「いやぁ、さて、どこにいたんだか」

 リーベさんはまたたいた。

「判らんのですよ。──西部国境戦線の何処かだとは思うんですが」

 リーベさんの瞼がピストンみたいに高速で上下している。隊長さんは癖のある黒髪をわしわしと掻いて苦笑した。

「休戦して一週間くらい後だったかな。西部国境戦線の端で目覚めましてね。それ以前のことが全く思い出せんのです。記憶喪失って奴ですか。自分の名前も出身も思い出せません。読み書き計算の一通りは理解できるんですが」

 リーベさんが言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。伏目がちに隊長さんの言葉を吟味して、とりあえず最初に思い付いたであろう質問を口にした。

「ええと、じゃあ、この子──茶髪の子は……?」

 茶髪じゃない、金髪だ。

「さあ。──目覚めた時に傍に居たんですよ。ずっとついてくるんで、とりあえず連れて廻ってるんですが」

 二人の視線が注がれる。

「おちびさんに訊いても無駄ですよ」

 女の子に質問しようと腰を浮かせたリーベさんを、隊長さんが制止した。無言で人指し指を唇の前で組んで、ペケの形にする。

 リーベさんは目を見開いた。女の子が、まだ一言たりとも口をきいてないのに思い至ったのだろう。

 その一連の流れを、女の子はまるっきり無視した。下の方にあったチーズが意外に熱くて、舌が大変なことになっていたからだ。


 * * *


 翌朝、お爺さんは、それはひどい二日酔いで起きて来られなかったので、一階のお店の中は非常に静かで居心地が良かった。

 開かれた窓からは、女の子の知らない鳥の歌がチロロロと流れている。空は薄く雲のかかった、けれども太陽の光が地上を暖かくするには充分な明青色で、夏の終わりの風は、少し肌寒いけれど目を覚ますにはちょうど良い。

 しかしそれよりなにより、女の子の関心を引いたのは、店の隅に置かれた丈長のドレスだった。お店の木卓をどかして作られた空間に、トルソーに着せられた、純白のドレスが置かれている。

 床に引き摺るほど長い、薄い布が幾重にも重ねられたスカート、ケーキのデコレーションのようにふんだんに取りつけられたレース。

 コルセットはきゅっと締まってつやつやした絹の光を際立たせ、その上の、胸元にこれでもかといわんばかりに施されたビーズやレースや造花の数々。

 小さな女の子が目を輝かせるには充分なしろものだった。

 結婚式用のドレスだ。

 女の子はピンときた。興奮して、このドレスを着ることになるであろう人物を捜していると、さっき女の子が下りてきた階段から、綺麗なドレスとはおよそ対極に存在するおじさんがのっそりと姿を現した。

「……おお、こりゃあ凄い」

 隊長さんはドレスを一目見て、なんとも抽象的な感想を述べた。

「これ、いつ運んできたんだ?」

 答えを知らなかったので、女の子はふるふると首を振った。食堂には二人しかいないから、隊長さんも知りたかったわけではないのだろう。

「これを着て化粧をすれば、さぞやべっぴんさんになるんだろうねえ」

 ……隊長さんの数多い欠点の一つは、人を誉める語彙に乏しいことだと、女の子は思う。

 このまま食堂で、朝食を食べながらドレスアップの様子を眺めていられれば素敵だったのに、隊長さんは女の子の襟首を引っぱって、扉に向かって歩きだした。女の子は一生懸命足を踏んばって抵抗したけれど、いかんせん体重差がありすぎた。やめてよね、服が破けたって買ってくれないくせに。

「部外者が邪魔しちゃ悪いだろう」

 黙って見ているだけだから、迷惑はかけない。

「こおゆうのは、まず当事者同士の内で祝うもんなの」

 お祝いごとは、沢山の人に一度に祝ってもらうほうが盛大でいいに決まっている。

「言っとくが、朝食は断ったんで。どうしても見たいっつーんなら置いてくが、昼まで何も無しだからな」

 ──女の子は抵抗を諦めて、すごすごと隊長さんの後について敷居を跨いだのだった。



 この街の窓は、女の子の故郷のそれよりもずいぶんと小さくて、しかも硝子の代わりに鎧戸がはまっている家が多かった。たいていの壁には煤けた跡が残っていて、更地になっている土地も多い。同心円を何個も重ねた模様の、赤茶色の石畳の道路は、ほんとうはたいへん綺麗だったのだろうけれど、今や敷石は砕け、めくれ上がってでこぼこで、吸血鬼のお城の石畳みたいになってしまっている。

 前日は諸事情(保護者が昼間から酒を飲み続けていた)によりほとんど街を見て廻ることができなかったけれど、こうしてみると、さすがに国境に近いだけはあるなと、女の子は考えた。地図で見ると、この街はほとんど国境線の真上にあるのだ。

 パンを求めて大通り沿いに歩いていく。大きな交差点で行き止まりになった。路を遮る縄が何本も張られ、『危険』『通り抜け禁止』と書かれた布が、一定間隔ごとに下げられている。

「……何だこりゃ」

 街をよく知らない隊長さんと女の子は、その親切な警告を思い切り無視して縄を持ち上げた。一歩中に入ってみても、これまた同じ街並みが向こうへと続いていて、けれど、誰も住んではいないふうだった。

 交差点の向こう側にも、同じように縄が張られている。

 そちらには、人間の姿もある。

 これはどういうことだろうと、女の子が疑問に思った瞬間、

「──お前等、何をやってる!」

 背中から大砲みたいな大声が飛んできて、女の子は飛び上がった。

「馬鹿野郎! 進むな! 歩かせるな! 親、止めろ!」

 慌てて逃げだそうとすると、いっそう切羽詰まった声が追う。隊長さんが、すばやく女の子を抱え上げた。

「お前等ちゃんと脳味噌入っているのか! 縄張ってある意味くらい常識で考えろ! 自殺するつもりか!?」

 走ってきたのは義勇隊の制服を着た、隊長さんよりも一回りくらい年上のおじさんで、突きでたお腹を激しく揺らしながら、かぼちゃみたいな顔を限界まで真っ赤にして、口の端から泡を飛ばしながら隊長さんを怒鳴りつけた。

「貴様等の目は節穴か? ここに吊してある文字も読めんのか? 図解までしてあるんだがな!」

「いえ……あの、ホントすんません」

 おじさんがひっ掴んで掲げて見せた布切れには東の文字でしっかりと『地雷 危険』と記されており、その下にはご丁寧にもドクロマークと、爆発して足が飛んでしまっている人間のピクトグラムまで入っている。女の子のような小さな子や、文字の読めない人にもきちんと危険が伝わる丁寧な仕組みだ。

「路のあちら側に行きたいんですけどね……どっかから迂回するしかないんですかね」

 縮こまってぼそぼそと呟く隊長さんを、おじさんは鼻で笑った。

「あっちに行ってどうするね」

「特に用は無いですが。どんな店があるか覗いてみようと」

「あちらは外国だ」

 隊長さんは頬を掻いた。「いやあ、路のあちら側へ行きたいだけですよ」

「だから、この路を越えたら西の国だ」

 おじさんは持っていた縄をもう一度示して見せる。「これが、今の国境線だよ」

 女の子はびっくりして、おじさんの縄と路の向こうとを見比べた。

 なるほど、ほんとうに国境の真上に街があるのか。

 じゃあ、戦争の時はどうしていたのだろう。

「戦前は東領だったんだ。それが四年前に西に半分捕られたまま休戦しちまいやがった」

 あっちには俺の甥も居るってのに。隊長さんが質問すると、そう言っておじさんはいまいましげに舌打ちした。

「どうしても行きたいってんなら、東嶺要塞に検問所があるから、そこで必要な手続きを取って行きな」

 二週間くらいでいけるだろうよ、とおじさんは説明してくれる。東嶺要塞と言うのは、西部国境戦線の中でも最も戦死者の多かった激戦地だ。

「こっちは地雷原だからな」

 おじさんは顎で縄に挟まれた道路をしゃくってみせた。じらい、と、気の抜けた声で隊長さんは反復する。今一つピンと来なかったようだ。それもそのはず、地雷はこの戦争で初めて大々的に使われたものだから、隊長さんの記憶には残っていないのだ。

 おじさんは深くうなずき、

「どっちの軍隊も認めちゃいないがな。俺は見たんだ。軍服を着た連中が、夜中じゅう石畳の下に阿呆みたいに地雷を埋めやがった。お陰でこの通りは地雷の見本市になっちまったよ」

 なんでも、踏めば爆発する普通の地雷だけではなくて、何回か踏まれて初めて爆発するものとか、爆発する時に腰や目の高さに飛び上がったり金属片が飛び散ったりするのや、なんと戦車を破壊してしまうほどのものまであるのだそうだ。

「へぇ、そりゃまたえらい高性能に進化したもんすね」

 隊長さんが驚嘆の声を上げると、おじさんがギロリと怖い目でにらんでくる。

「……失礼」首を竦めて、隊長さんは謝った。

「じゃあ今はもう道のこっちとあっちで交流は無いんですかね。元同じ街なのに」

「当たり前だろう。いつまた戦争が再開するかもわからんのに」

「再開? 戦争はもう終わったでしょう?」

「な訳あるかい」おじさんは心底馬鹿にした顔になった。「賠償金もぶん取ってないのに終われるか」

「賠償金ねぇ。そもそも負けたのは……」

「あっちの方が滅茶苦茶になってんだ」おじさんが吐き捨てる。「俺等の負けなはずがないだろう」

「いや、ですが条約に調印……いえ、なんでもありません」

 ふん、とおじさんは鼻を鳴らした。「まあ、中にはあちらに嫁に行きたがる変人も居る訳だが」

 女の子は瞬きして、苦笑する隊長さんを見上げた。

 その、次の瞬間だった。

 轟音と共に遠くで火柱が上がった。


 * * *


 ──死者一名、負傷者一八名。

 店鋪の裏口にあったゴミ置き場に仕掛けられていた爆発物が爆発して、一軒が全壊、三軒が損壊。犯行声明なし。

 街の人いわく「終戦からこれで三回目」とのことで、その中では、今回は一番被害が少なかったのだそうだ。とはいえ怖いし犯人が憎いのは変わらないみたいで、ええと、つまり何が言いたいかというと、早朝から国境付近をふらふらしていた、よそ者二名が、被疑者の筆頭になった、ということだ。

「あー、抵抗は致しませんので銃突き付けるのは止めてもらえませんかね」

 もっとも、一番の理由は、身元を訊かれた時に「知りません」とはっきり答えてしまった隊長さんの馬鹿正直さにあるのだろうけれど。

 女の子と隊長さんは、狭い公用車の後部座席に、体格の良い義勇隊員二人に挟まれて座っていた。隊長さんが体勢を変えようと動いたら、すぐに銃口が向けられる。汗臭い、お尻痛い。どうしてでこぼこだと判っている道を乗用車で走るのだろうと不思議に思ったけれど、すぐさま逃走防止のためなのだと、女の子は気が付いた。

 どこへ向かっているのかと言えば、二人が泊めてもらっていたお店だ。やましい所はなにもございません、と主張する隊長さんは、部屋の荷物を調べられるのに同意した。女の子の方は、内心冷や冷やしてたまらない。隊長さんの旅行鞄には、銃が入っているからだ。

「……事件現場、近所なんすね」

 爆発した店舗が、泊まっていたお店と道を挟んで三軒先だったことも、不安に拍車をかけている。

 店舗の窓も入口も、ガラスや扉が吹っ飛んで枠だけになっていた。全壊したのは、その隣の、もともと崩れかけの空家だったらしい。けれども店舗の内側はひどいありさまで、女の子はちらと流し見ただけだったけど、とても数時間前まで営業していた場所とは思えないくらい、瓦礫だらけになっていた。

 二人が泊まっているお店の方は、避難所になっていたようだ。窓ガラスは全て割れていたけれど、室内はちゃんと形を保っている。リーベさんが居て、お爺さんも居た。ドレスは片付けられて、その場所には見知らぬお爺さんがうなだれている。入口のすぐ隣にフェレさんが腰を下ろしていて、義勇隊に挟まれながら入って来た隊長さんを見上げて、胡乱な目付きで口を開いた。

「あたしらは関係ないわよ」

 フェレさんはよそ行きの、赤いスパンコールのドレスを身にまとっていた。真っ赤な口紅の直ぐ横には絆創膏が貼られていて、どうやらフェレさんも、被害にあったらしかった。

「この男の宿泊している部屋を捜索する」

 リーベさんは爪先から頭のてっぺんまで緊張して、直立不動の姿勢で捜査官達を迎えている。

 お爺さん(リーベさんのお父さんの方)は、殺気立って目を血走らせて、もうひとりのお爺さんの傍に立ちながら隊長さんを睨んでいる。

 見知らぬお爺さんは、顔を上げて物々しい訪問者を一瞥すると、すぐにまたうつむいた。

 お爺さん達の横を通り過ぎる時、義勇隊のひとりが、お見舞い申し上げます、と声をかけた。

 どうやら亡くなったのは、お爺さんの知り合いらしかった。



「さて、今現在のこの部屋の状況に関する合理的な説明を頂戴いただこうか」

 銃はあっさり見付かった。隠してなかったから当然だ。

 問題は、部屋の椅子の上に分解された銃が放りだされていたことだ。

「……銃って男の浪漫ですよね」以上、隊長さんによる合理的な言い訳でした。

「見たことの無い型だが、払い下げ品か。どこで手に入れた」

「従軍時代に支給されたやつです。記念にもらったんですよ。組み立てても使えやしません。何なら組み直してみては?」

 嘯きながら、隊長さんは不敵に笑う。銃の作りが特殊で、素人にはとうてい組み立てできないのを知った上での提案だ。

「……証拠は」

 黙って旅行鞄に歩み寄ると、隊長さんは腕を下ろして中をまさぐろうとした。廻りの義勇隊員が、慌てて銃を突きつけ直して隊長さんを威嚇する。

 隊長さんは諦めて立ち上がり、もう一度両手を上げた。

「鞄の一番下。軍服があるでしょう」

 義勇隊員が、ややもするとゴミと間違えられそうな襤褸服をつまみ上げた。

「俺のですよ。着てみましょか?」

 肩や胸の部分には、女の子には理解できない記章が沢山付けられている。今となっては隊長さん自身もそれらの持つ意味を読み取れない、過去の栄光だ。

 けれど、女の子の隣に立っていた義勇隊員は驚いた様子で目を開いた。

「陸軍の……中尉?」

「……本人のものかどうかわからん」

 上司らしいおじさんがつぶやく。

「そりゃあひどい。御国の為に戦った人間を疑うんですかい。義勇隊風情が」

 隊長さんの声が一段低くなった。もともと長身で威圧感があるから、普段の態度を改めれば、かなり凄みがあった。

「なら、退役軍人証をみせてみ……ください」

「ありゃしませんよ。こっちにもどって来た時には休戦からずいぶん経ってたんでね」

「証書が無けりゃ年金だって受けられないんだ。貰わないなんてあるか」

「おっさん、西部国境戦線に行ったことはあるか? 塹壕戦の経験は? あの戦場で、自力で国境越えてもどって来たら軍はとっくの昔に解散、政権は取って変わってる。そんな状況で証書がまともに発行されてると思ってんのか?」

「……偉そうに。少し前線で戦った程度で」

「だから、アンタはその前線に少しでもでたのか、って訊いてんだ。内地で毒ガスとも弾幕とも縁のない生活送れてたのは誰のお陰だと思ってる? 傷痍軍人見下せるほどあんたには勲章があるのか?」

 記憶がないのに戦時中の自慢をするのはありかな。ふと女の子は疑問に思ったけれども、態度に出すのは控えることにした。義勇隊はみんな黙り込んでしまったので、たぶん気にしているところを突かれたのだ。

「戦争でアンタ等のために戦った俺が、なんで同じ国の人間に攻撃仕掛けなきゃならんのよ。まだ若いのにこんな犯罪で人生潰す気は無えって」

 嘘だ。もしも口が利けたなら、女の子はすぐにそう否定していただろう。隊長さんは若くない。どう見積もっても、女の子のお父さんと同じくらいだ。

「疑うんなら西国人が筋でしょう」

 証拠はなにも無いのに、隊長さんは決めつけた。

 義勇隊の人たちは、何だか苦い顔をする。

「……ここには西の人間などいない」

「道路挟んだ向こうが敵国なのに? それともアンタ等、仕事さぼってんのかい?」

 義勇隊の目付きが一段階悪くなった。けれども隊長さんの表情の方が、それより更に二段ほどきつくなる。

「……何だその目は」

 突然、飛び上がりそうになるくらいドスの利いた声で隊長さんが吠えた。「人を犯罪者扱いするのならば確たる証拠を持って来い! それもできん無能なら今すぐ制服なんざ脱ぎ捨てろ! 一丁前に権威を着込んでお高く止まるな! 聞き込みをしろ。鑑識をだせ。俺達を疑うのはそれからだ。──ぐずぐずするな! とっとと動け!」

 腹式呼吸って偉大だな。音楽の授業を思いだしながら、女の子は考える、ことにした。オペラ歌手の人も、これくらいの声量があるのかしら。

「敬礼はッ!」

 最後の一声で、義勇隊はバネ跳ね人形みたいな動きで直立した。それを見渡した隊長さんは満足そうにいつもの表情にもどったけれど、すっかり怖気付いた何人かは、まるで逃げるようにして部屋を駆けだした。

 最後まで残っていた上司のおじさんに視線を向けると、青白くなっていたおじさんは、さっと女の子から顔をそむける。

 ちょっぴり得意になって、女の子は部屋の中を見廻した──女の子は隊長さんの怒鳴り声にはもうすっかり慣れっこだったので。もしかしたら、女の子のほうが義勇隊の人より軍人に向いてるかもしれない。

 ……後に隊長さんが語ったところによると。前の日、どうも銃身にゴミが詰まっているらしいという理由で点検の為に解体(お酒を飲んだ手でだ!)したところ、結局色々な汚れを発見してしまったので、翌日ちゃんと掃除しようと、ばらしたままでいたのだとのことだった(女の子は聞かなければよかったと後悔した)。

 本人は溢れでる人徳の勝利だとのたまったけれど、女の子の見立てでは、元陸軍中尉の肩書きが効いたのではないかと思っている。準軍事組織の義勇隊より、国の陸軍の方が立場は当然上なのだ。

 ちなみに、銃は使用していた本物をそのまま携行していたもので、組み立てて弾を込めれば、もちろん、それで人を殺すこともできる代物である。


 * * *


 銃を突きつけられて拘束されることはなくなったものの、だからと言って無罪放免になったわけではない。無実が証明されるまでは街に拘留されることに決まって、拘置所が街のこちら側にはなかったので、そのままお店に滞在させられることになった(隣に義勇隊の人が監視役としてやって来た)。そのあいだの宿泊費は誰が支払うのだ、と隊長さんは文句を言っていたけれど、そこは当然、隊長さんの身銭から、となったみたいだ。

 外に出られないので、女の子は一階でひたすら本を呼んで過ごしている。今は南極大陸で、教授がピンチになっている場面だ。

「あんた、軍隊の偉いサンだったの」

 同じく一階で酒を煽っている隊長さんを物珍しげに眺めながら、またお店に遊びにきていたフェレさんが口を開いた。

「さあねぇ」駄目な大人の見本のような格好で座る隊長さんは、完全に不貞腐れている。店の隅では義勇隊の人が牛乳を啜っていた。「ワタシ記憶喪失ヨ。ココハドコ、ワタシハダレ?」

「……義勇隊呼んでいい?」

「本気で憶えてねーんでございますのよ。軍服は間違い無く俺のですが。ついでに今回の事件とも一切全く全然無関係ですよ。月に誓っても良い」

「アテにならない誓いだわね」

 それにしても中尉か、とフェレさんは感心とも呆れともつかない調子でひとりごちる。銛使いと助手の活躍を目で追いながら、女の子もびっくりだ。隊長さんが、まさかそんなに偉い人だとは、思ってもみなかった。

 一番困惑しているふうなのは、当の本人みたいだけれど。

「……アンタほんとうに今回の件とは無関係なのね?」

 不意にフェレさんが真剣な声音で訊いた。隊長さんは苦笑して答えた。

「どんだけ疑り深いんですかい、この街は」

 むしろ、隊長さんに緊迫感が足りないんじゃないのかなぁ。

 フェレさんは少し考え込むふうだった。ややあって、おもむろに立ち上がると、

「おいおいおいおい」隊長さんが動揺した声を上げた。フェレさんが、深く頭を下げたからだ。

「ナニゴトよ一体」

「頭下げてんだから願いごとするに決まってんでしょうが」

 とてもそうは思えない口調だ。

「何を。俺に惚れちゃいましたかね?」

「死んでもないわ」

 フェレさんは首を振って。

「おとうさんがあの娘の結婚認めるように働き掛けて欲しいのよ」

 あの娘って誰だろう。一瞬女の子は不思議に思い、すぐにそれがリーベさんのことなのだと気が付いた。

「嫌ですよ」一方、隊長さんの返答は簡潔明瞭だ。

「何でよ」

「何で俺がそんなことせにゃならんのです」

「おとうさん権威に弱いもの」

 フェレさんは言い切った。「一介の曹長が中尉様に楯突けるはずがないわ」

「嫌ーですよ。お宅等に何の事情があるか知りませんのに。相手の顔も見たことねーでございますのよ?」

「相手は国境の向こう側だもの」

 あっさり告げて、フェレさんは顔を上げる。「言っとくけど、敵国人じゃないわよ。今現在あっちに併合されちゃってるだけ」

「……道の向こう側の人ですか」

「あら、事情を知ってるの? じゃ、事情を説明するまでもないわ。──おとうさん、西の国って言葉だけで拒否反応示しちゃってサ、意固地になっちゃってんのよ。おまけに今じゃあの娘がたったひとりの家族だものねぇ」

「勝手に説明を始めんでいただけますか」

 フェレさんの解説に、部屋の隅に控えている義勇隊の人は全く反応しない。よくよく見てみると、苦笑しているようにも感じるけれど、それがフェレさんの言葉のせいなのかは定かでない。

「大体今朝方ここにドレス飾ってあったでしょうが。あれは何だったんですか」

 そういえばドレスはどうなったのだろうと、女の子は読書の手を止めて辺りを見回す。

「あんなもん、無理矢理持ち込んだに決まってんでしょ。好い加減式の日が迫ってんだから裾上げしないと」

「式の日取りは決まってんのかよ……」

「だって戦前は両家公認だったもの。ぜーんぶ戦争が悪いワケ。……でさ、西部国境戦線を果敢に戦い抜いた中尉様が、痛ましい過去を乗り越えて二人に幸せになってもらいたーい、なんて訓示垂れればサ、おとうさんならイチコロなわけよ」

「そりゃあ残念。あいにく西部国境戦線を果敢に戦い抜いた記憶が無いんだわ」

 何だかんだで、隊長さんは、フェレさんのお話に丁寧に受け答えをしているような。

「どうでも良いわ。──アンタも西国人なんて糞食らえって口?」

「西国人なんてどーでもいい、って口」

 隊長さんは少し眉を寄せて、

「ただ、何で姐さんがそこまで肩入れするのか理解に苦しむね」

「あら、敵国に引き裂かれた恋人だなんて、ぜひ応援したい話だと思わない? 昔から付き合いあるしね。あの娘には幸せになってもらいたいのよ」

「ついこのあいだ爆破事件起こされたのに?」

「犯人が西国人なんていつ断定されたの? 仮にそうだとして、もれなく元近所に犯人がいるってことよね?」

「……冷静ですね。死人も出たのに」

「大した知り合いでもなかったしね」フェレさんは口を奇妙な形に歪めた。「自分の大切な人が死ぬのに比べれば大したことじゃあないわよ。誰か死ぬ度に号泣してやるような感性なんかありゃしないわ」

 そうして、ふと遠くを見る目になった。隊長さんのグラスを取り上げて、残っていた酒を一気に飲み干す。

「死ねると思えるほどの悲しみだって、三日も経てばお腹は空くし、涙は二日で尽きるもの。……ただ、おとうさんは許さないでしょうね。亡くなったのは、おとうさんの古い知り合いだから」



「……モーレツゥ」

 扉の向こう側に広がる光景に、隊長さんは半歩後退りながらつぶやいた。

「あの頑固爺ィ……」口汚い言葉はフェレさんのものだ。

 女の子たちが見た光景は、それはそれはひどい破壊活動の跡だった。そこはリーベさんの部屋なのだけれど、机はひっくり返され、たぶんその上に乗っていたのであろう小物たちは寝台に散乱して、窓は枠に大きな傷跡を残して実に風通しが良くなっていた(箪笥などの大きなものが無事だったのは、きっとお爺さんの体力の限界だったのだろう)。

 中でもひときわ無惨だったのは、入口のすぐ横にあったドレスだ。胸元は裂けて、裾はぼろぼろ、そもそもスツールが折れて斜めにかたむいている。床に散ったコラージュが風になぶられ、ひどく悲しげだった。

「おとうさんは?」

 リーベさんは小物がぶちまけられた寝台に腰掛けて両手で顔を覆っていた。かたわらに広がる茶色い模様は、よく見てみるとコーヒーの染みだ。

「……知りません」意外とはっきりした声で、リーベさんは返答した。

「そう」フェレさんは肩を竦める。「友達の家でクダでも巻いてんのかしらね……連れ戻してくるわ」

「放っておけばいいです。酒の飲み過ぎで血管が切れれば良いんですよ」

 フェレさんは口の片側を吊り上げただけで、何とも言わずに踵を返した。

 残されてしまった隊長さんは、たいへん居心地が悪そうに頭を掻いている。

「あー、片付けるなら、手伝いますよ」

 ずいぶん間を空けてから、隊長さんは独り言のように提案した。

「ありがとうございます」

 リーベさんが立ち上がった。俯いた顔は女の子にはしっかりと見えて、リーベさんの目や鼻が真っ赤になっているのが判った。

「──店の方は、大丈夫ですかね」

 シーツの上できらきら輝くガラスの破片を箒で集めて、割れたコップを紙で包んで。それから、染みの付いた場所に濡れた布を当てる動作を無言でこなした隊長さんは、とうとう沈黙に耐えられなくなったのか、そんな頓狂な質問をした。

 隊長さんは、もっと女の人への気遣いを学ぶべきだと、心の底から女の子は思う。それが、紳士の嗜みってものだ。──と、女の子のお父さんは言っていた。

 ゴミを袋に突っ込みながら、リーベさんはゆっくりと首を振る。

「ほんとうは一週間前に閉店しているんです。父が意地になって看板を出しているだけで」

「……そりゃあ、お邪魔致しまして」

 会話が続かない。まったく粋じゃないなあ、と内心で溜息をつきながら、女の子は落ちていたオークの額縁を拾い上げた。

 額縁といっても、大きなものではない。縦長で、長い方が、大体女の子が手の指をいっぱいに伸ばしたくらいだった。モノクロの、鮮明とは言い難い肖像画──ずいぶんと小さくてびっくりしたが、それはリーベさんが写った写真だった(後で知ったところによると、L版と言うものらしい)。

「ああ、どうもありがとう」

 リーベさんの袖を引っ張って、写真立てを差しだすと、赤い目で微笑みかけられた。そのまま女の子が立ち去らなかったのは、リーベさんといっしょに写っている男の人が気になったからだ。

「ええ、そうね……その通りよ」

 ドレスと写真を交互に見比べると、リーベさんは寂しく笑った。じ、と瞳を見上げ続けていると、優しく頭を撫でられた。

「あなたは幸せな結婚ができるといいね」

「まるで御破算になったみたいな口振りっすね」

 女の子は駆け足で隊長さんの元まで行くと、彼の右足に向かって、両足を揃えてジャンプした。

「ちび! テメェ!」

 走ってもどって、リーベさんの頭をなでなでする。

「ありが……とう、ね?」リーベさんもお返しになでなでしてくれる。

「すんません。ガラスの破片とかってこの袋にまとめて入れちまって良いんですかね」

 女の子は寝台の枕を取り上げた。

「待て。破片が飛び散る」

 リーベさんも止めたので渋々枕をもどすと、隊長さんはリーベさんに視線を合わせないまま、心許ない口調で言った。

「余所者がお節介かもしれませんが、あんま思い詰めない方が良いですよ。悪い方ばかりに考えてると、現実もそっちに流れちまいますし」

 たいへん的外れな助言だ。女の子は憤慨した。

 女性の機微が判らない人に男の資格はない、とは女の子のお父さんの弁である。

「そうですね……」

 リーベさんも対応に困っている感じだ。

「あー、不躾な質問を致しますがね。その、旦那になる予定の男、ってのは、昔馴染みか何かですかい」

 リーベさんは首肯した。「幼馴染みだったんです。四年前、婚約して……秋に挙式する予定だったんです。ドレスも用意しましたし、パーティーの献立も決めて、兄やフェレさんも参列して、」

 床に座り込んで、再び俯いたリーベさんに、隊長さんは困ったように頭を掻いた。

「……親父さんも、顔見知りなんですよね?」

「知ってます。元々、あの人のお父さんと家の父が友人だったんです」

 どうしてこんなことになったのだろう。

 吐きだして、リーベさんは立ち上がった。引き摺るような足取りでドレスの元へ歩み寄ると、コサージュを拾い上げてゴミの袋に放り込んだ。



 夜になって、お爺さんは両腕を振り回し喚きながら帰って来た。両手で襟を掴んでお爺さんを連行して来たフェレさんは、先日の爆破事件の時よりも生傷を負っていた。

「では、説得を宜しくお願い申し上げますわ、中尉サマ」

 軽い調子で肩を叩いてお店を去っていったフェレさんに、けれども隊長さんは否やとは言わなかった。リーベさんは下りて来ない。一階に残ったのは、所在なげに立つ隊長さんと女の子と、椅子に座らされ、持ち帰った酒をちびちびと啜っているお爺さんだけだった。

「……体、壊しますよ」

 それ、メチルでしょう。そう言って隊長さんが酒を取り上げると、お爺さんは吊り上がった目で隊長さんを睨み上げ、それから黙って酒瓶を床に叩き付けた。

「体を大事にしましょうよ。死んじまったら娘さんが泣きますよ。たったひとりの家族なんでしょう?」

「流れ者に口を出される謂れはない」

「おっしゃる通りで」隊長さんは肩を竦めた。

 隊長さんから目を逸らして、お爺さんはコップに残った酒を舐めた。その視線の先を女の子も見てみたけれど、黄ばんだ漆喰の壁があるだけだった。

「……娘は別に悲しんだりはせんだろうよ」

 ずいぶん間を開けて吐きだした声は、小さすぎて隊長さんの耳には届かなかったかもしれない。

「恋路を邪魔する爺が死ぬんだ。むしろ大喜びだろうて。家族がひとりきりしか残っていないのは儂だけだ。あっちに嫁げば儂が死のうがどうなろうが知る術さえありゃしねえ」

「娘さんの幸せを祝ってあげましょうや。いや、まあ俺は娘がいないんで父親の気持ちは解りかねますが」

「その茶髪の娘はあんたの子じゃないのか」お爺さんは女の子を見下ろした。失礼な、茶髪じゃない。金髪だ。

 隊長さんは鼻の頭を撫でながら曖昧に応じる。

「まぁ、たぶん」

 お爺さんはけげんそうに眉を寄せて、ふん、と鼻を鳴らして視線を落とした。コップの中を見詰めて、そうして残りの酒を一気に煽る。

「良い人なんでしょう? 相手の人」

「……あの阿婆擦れに説得を頼まれたんか?」

「誰のことです?」

「先刻出て行った娼婦だ」お爺さんは店の入口を顎でしゃくった。

 隊長さんは答えなかった。苦笑を途中で止めた表情で、お爺さんの向いの席に腰を下ろした。

「何でそこまで反対するんです」

「西の人間は糞だ」

「元、同じ街でしょう」

「あいつらは売国奴だ。連中、西に併合された途端、手の平返して儂等に銃を向けてきやがった。今日のあれを見ただろう」

「彼等がやったって証拠は何もないでしょう?」まったくもってその通りだ。

「東の人間が犯人だって言いたいのか?」

「とんでもない」隊長さんは大仰に手を振った。「ただ……あー、そうですね、戦争も終わったことですし、痛ましい過去を乗り越えて二人に幸せになってもらいたいなー、と」

 他人を説得するには、自分の言葉を用いてせねばならない、と女の子の通っていた学校の先生は言っていた。

「どうせまた直ぐに戦争が再開するのに何言ってやがる」

「夢も希望もない未来予測ですね」

「まさかお前、新政府の言ってることを鵜呑みにしてんのか? 元軍の偉い様の癖に」

「いやぁ、どうでしょう」戦争の記憶がない元陸軍中尉様は、適当に笑って誤魔化した。

 お爺さんはそっぽを向く。「あんたとは気が合わんな」

「平和は大事だと思いません?」

「息子の敵討ちができて万々歳だ。今度こそ西の豚共を蜂の巣にしてやる」

 そうか、とようやく女の子は思い至った。お爺さんの息子さん──リーベさんのお兄さんは戦争で死んだんだ。

「はぁ」隊長さんは気の抜けた対応をした。隊長さんには、理解できない気持ちだろう。

「この上更に娘まで西の連中に奪られてたまるか」

「いや……だから、相手は友人の息子さんでしょう?」

「戦時中は儂等に銃を向けてきた。大体、戦中は一切音沙汰無しで、休戦した途端に結婚の日取りを聞いて来るとは何事だ。しかも娘にあちらに行け、と言う」

「……それ、何か問題ありますかね?」

 常識だよね、と女の子も思う。

「また戦争が始まるのにあちらに行け、と言うんだぞ!」

 お爺さんの拳が、勢い良く木卓を叩いた。置かれたコップが少し浮いて、けれども転がることもなくまた元の位置でかたかた鳴った。

「行けばどうなる? 戦争が再開すれば! 収容所行きだ! 殺されるんだぞ! 間違いなく! それを判った上で嫁に出せと言うのか!?」

 お爺さんの声は、きっと二階にまで届いただろう。

「小説よろしく男が女を守れると思っているのか? あんたも知っているだろう、戦中、敵国人がどんな扱いを受けたか。愛の力で何とかなるとでも? 馬鹿馬鹿しい。儂のたったひとりの家族なんだぞ、みすみす死地に追いやる阿呆がどこに居る!」

 もう一度木卓を打って、お爺さんは黙り込んだ。息が切れたのか、肩を大きく上下させながら隊長さんを睨め付ける。

 コップは倒れない。ただコトコトと鳴るだけだ。

「……どこ行くんですかい」

 お爺さんは立ち上がって、右足を引き摺りながら入口に向かった。無言のままゆっくりと戸を引いて外にでると、叩き付けるいきおいで扉を閉める。

「あー」隊長さんは頭を掻いて、窓の方に目をやった。ついでに足もそちらに向けて、嵌め直したガラスをとんとんと叩く。

「すんません。説得失敗したみたいです」

 窓から何か生えてきた。フェレさんの首だ。

「盗聴ってかっこわるぅ、って、思いません?」

「そこはほら、頼んだ手前、ね。あたしあの人に嫌われてるから、いっしょの部屋には居づらいし」

 隊長さんが開けた窓から、涼しい風が入ってきて女の子の髪を撫でた。

「あれで結婚の申し込みがあった当初は喜んでたのよ。だけどその直後に爆発事件があって、その時にも、友達が亡くなってさ。──意固地になって反対し出したのは、その時からね」

「余所者の手に負える話じゃないですね」

「でしょうねえ。だけど、あたしらの手に負えそうな話でもないのよ。当事者だから」

「……べらべらと他人のプライベートを喋ってくださいますけれど、そもそもあんた何でそこまで肩入れしてんですか」

「だーかーら、言ったじゃないの。幸せになって欲しいのよ、あの娘には」

「あの親父さんの予想が現実になる可能性を考慮しないんで?」

「そうねえ」フェレさんは窓の外をふりかえる。視線の先は、きっとお爺さんが歩いて行った先だ。「あの娘だって子供じゃないわ。覚悟決めて行くんなら良いんじゃない? やらないで後悔するよりやって後悔した方がマシでしょう。次の戦争が終わるまで二人とも無事でいられる保証なんか無いんだし」

「で、戦場で行方不明になった男を嫁が捜しに行く訳ですね」

 あはは、とフェレさんは声を上げて笑った。動くとピアスが揺れて、赤い石が店の光を反射してきらきら輝く。とても綺麗だな、と、女の子は思った。

「何だっけ、それ。題名忘れちゃったわ。男が他の女と結婚しちゃってるんだったわよね……それだって最悪の結末じゃ無いわよ、って思うのは、少数意見かしら」

「……さあ」

「せっかく相手が結婚しよう、って言ってくれてんのに挙式は帰ってきてくれたらだって駄々こねて、未亡人にもなれなかった馬鹿女だって世の中には居るのよ。おまけに死体は海の中で、髪の毛一本もどって来やしなかったんだから笑えるわ──それに比べりゃ、良いじゃない、納得尽くで死ねるなら。幸せな人生でしょう?」

「……もう少し、御自分を大切にされた方が良いと思いますよ」

「あら、あたしのことだなんて誰が言ったの?」

 フェレさんは笑う。

「あたしは毎日現実を元気に生きているわよ? もしも私がさっき話してた映画のヒロインなら、男の方が泣いちゃうわ」

 捜し当てた男が他の女と家庭を築いているのと、待っていたはずの女が売春宿に居るのと。

 どちらがより不幸かしらねと呟いて、フェレさんはお店から立ち去った。

 フェレさんのお仕事は、本日お店が壊滅中につきサボタージュ、なのだそうだ。


 * * *


 ところで、無罪が証明されるまでは街に居続けなければいけない、と義勇隊の人達は言うけれど、無実と言うのはいつ、どこでどの様にして証明されるものなのだろう。

 女の子がそんな疑問を抱いたのは、爆破事件から五日目の夜のことだった。

 本の中の教授がメイルストロームから生還して物語が終わりを告げると、女の子は途端に手持ち無沙汰に陥ってしまった。何せ無差別殺傷事件の重要参考人だから、どこへ行くにも監視の目が光る。

 面倒くさがった隊長さんは毎日引き蘢っているし、食事をちゃんと規則的に食べられるようになった(隊長さんが周囲の目を気にしたのだ)のは良いことだけれど、ほとんど外に出て行かれないのでは、体が鈍ってしまうと言うものだ。

 隊長さんは、ここぞとばかりに惰眠を貪っている。もともと無気力が服を着ているだけの人間なので、特に問題を感じていない模様だ。たぶんその内、蝸牛みたいに寝台を持ち運びしだすに違いない。

 ──もしかして、このまま一生この部屋で暮らすことになるのかな。

 さすがにそれはないよね。女の子は首を振って嫌な考えを追い払った。だってそれは困る。非常に困る。

 せめて小さな窓を全開にして、新鮮な空気を取り入れてみる。気持ちの良い空気といっしょに窓に現れたお月様が濃紺の空にぽっかり浮かんで、そう言えば満月なんだな、と、女の子は思い出した。

 ここから飛び下りたら骨が折れるかな、なんてことを半ば本気で考えながら、女の子は二階の窓から暗い地面を眺めてみる。勝手口があって壁沿いにゴミが積まれていて。狭い隙間を挟んで直ぐ隣の家の壁が迫っている。

 あまり目を楽しませない光景だ。下さえ見なければ良い景色なのに残念だと思う。まあ、見なければ良いだけの話なのだけれど。

 一階は未だ明りが灯っている。その分光の届かない場所は影が濃くなって、何だか悪魔でもでてきそうな雰囲気だ。がさごそと音がするのは、野良犬がゴミを漁っているのだろうか。

 と、思ったら意外に大きな影が暗闇に蟠っていた。目を凝らしてみると、人の足だ。

 女の子は少し目線を低くして、壁に隠れる様にして下の様子を眺めた。その足がどう見てもリーベさんのものでなく、けれどお爺さんはもうずいぶんと前に酔い潰れてしまっていたからだ。

 闇に目が慣れて来ると、それが背の低い人間なのだと判った。もっとずっと目を凝らして見ると、それが男の人なのだと判別できた。

 女の子はそっと窓から身を引くと、寝台でAの字の形で眠っている隊長さんを揺すった。反応がないのでお腹をべちべち叩いても、呻き声一つ上げはしない。昼間から寝ている癖に、何と言う駄目人間だ。

 仕方がないので隊長さんの旅行鞄を持ち上げる。両足を踏ん張って腰の位置まで持ち上げて、服のめくれた腹に狙いを定める。「……お前は俺を殺す気か」

 右手を上げて女の子を制すと、隊長さんはゆっくりと起き上がった。焦点の定まらない目で足下を見つめ、それからひとつ大きな欠伸をして、大儀そうに床に足をついた。

「寝小便でもしたのか? ……いいか、それをゆっくり降ろせ。当たって内臓破裂でもしたらどうするんだ」

 お腹に旅行鞄投げられたくらいで死んじゃう軍人さんって格好悪い。と、思うことにする。嘘だけど。

 痙攣する腕を慎重に降ろして、未だぼんやりと目をしばたたいている隊長さんの腕を取って窓へと誘導する。

「何だよ」

 口に指を当てて静かにするよう指示する。窓の近くまで来たら壁にぴったりと貼り付いて、隊長さんもそうしなさい、と腕を引っ張った。そうすると、何だかスパイみたいだ。

 けれども隊長さんは、女の子の指示には従ってくれなかった。窓の端に寄ってもしゃがむことはせず、ちょいと外を覗き込むと唇を下に曲げて呟いた。

「あーらら」

 そうして顔を引っ込めると、女の子に待っていろと言い置いて、のんびりと部屋の外へ出て行った。



 裏口の男の人は、相変わらずゴミの袋の影でもぞもぞと動いている。

 隊長さんは帰って来ない。女の子は窓際で注意を払いながら、下の様子を監視している。

 たぶん白っぽい色のシャツに、つなぎ、足も至極普通のブーツ。ずいぶんと猫背なのは何か作業でもしているのだろうか。手に何かを持っているのは間違いないのだけれど、それが何なのかまでは、女の子には判別できない。

 その時突如として強い光が裏口を照らした。カメラのストロボを何本もいっしょに焚いた時のような真っ白な光。一瞬目が眩んで何も見えなくなる。

 次の瞬間奇声が上がった。それから激しい足音と怒声と。何かが倒れる音と。

 女の子の視界が回復した時には、ことは終わりを告げていた。

 沢山の義勇隊員に組み敷かれて、地面に押し付けられていたのは、爆破事件の当日に義勇隊の人に声を掛けられていた、あのお爺さんだった。


 * * *


 隊長さんから荷物を纏めるように言われて、女の子は今、必死に自分の鞄と戦っている。出す前は着替えや小物はちゃんと鞄に納まっていたのに、一度取り出すともう二度と入らないとはどう言う訳か。

 ……女の子と隊長さんは晴れて無罪放免になった。お爺さんが取り押さえられて三日、名探偵も驚愕の超展開で、謎は全て解けてしまった。

 爆破事件の犯人は、あのお爺さんだった。フェレさんのお店が狙われたのは女郎宿が許せなかったからで、リーベさんの店が狙われたのは、西の国に行きたがる物好きが許せなかったかららしいと、義勇隊の詰所から帰ってきた隊長さんが教えてくれた。あんな素人仕事を堂々とやっていて、どうして今まで捕まらなかったのだろう、義勇隊の怠慢だと呆れ顔で隊長さんは言っていた。

 つまり、ことの顛末は、東のお爺さんの自作自演だったのだ。

 犯人が捕まったのだから、もうこの街に滞在する必要はないと、隊長さんは出発の準備をするよう女の子に命じた。それでも三日も滞在していたのは、この日まで待てば、車に乗せてもらって隣の街まで行けるからだ。そちらの街には沢山の路線が集まっているから、一駅分お徳だとか何とか。

 リーベさんが東嶺要塞に行くから、そのついででらしい。

 結局、お爺さんとリーベさんの話がどうなったのか、女の子は知らない。隊長さんも特にお爺さんと遣り取りすることもなかった。フェレさんが説得したのかもしれない。軍用四輪駆動に乗ったお爺さんは憮然とした表情で、明るくリーベさんとお話するフェレさんとは目も合わせはしなかった。もっとも、お爺さんは、最後にのろのろと現れた隊長さんとも、一言も口を利かなかったけれど。

 生まれて初めて乗った軍用四輪駆動(の荷台部分)は列車よりも更にひどい乗り心地だった。その日は風が強くて、吹き曝しの荷台に乗っている皆の髪の毛がばさばさと空に舞う。せっかく何度も何度も梳ったリーベさんの髪は、こんがらがってひどい有様になっていた。

 空は目が痛いくらいに鮮やかな青。太陽の光で縁の白く輝く雲が、急ぎ足で空を渡って行って、それが女の子達の上を影となって通り過ぎて行くと少し肌寒かった。未だ麦の収穫には早いけれど、確実に秋は迫って来ている。あと二月と少しで、終戦から一年だ。

 一〇ヶ月で七〇万人の死者を出した要塞は、今はもう煉瓦の壁が残る以外は更地になっていた。その石壁もぼろぼろで、ほとんどは如何にも急拵えと言った風の鉄条網が張り巡らされていて、それが、今西と東を別ける国境線だった。

 運転席の男の人が最初に降りて、仮設テントの軍人さんと何事か話していた。リーベさんと、足が不自由なお爺さんは隊長さんが降ろすのを手助けして、フェレさんはひとりで身軽にひらりと飛び下りた。女の子は隊長さんに抱えられて地面に付いた途端、お酒を飲んだ後に目隠ししてくるくる廻った時みたいな気分が込み上げて、車の影で隊長さんに背中を擦ってもらう羽目になった。

「大丈夫か?」

 お爺さんがわざわざ女の子たちの方へやって来る。ふりかえって、隊長さんは答えた。

「気にせんでください。それより娘さんに最後の挨拶をしてきたらどうです」

 その時爺さんがどんな表情をしていたかは判らない。但、じゃり、と土の踏まれる音がして、お爺さんの影が、女の子の元から離れて行ったのは感じることができた。

 隊長さんに水筒の水を渡されて、それでうがいをして立ち上がる。未だ少々ふらつく足で、リーベさん達の元へと寄って行く。

「あら、お見送りしてくれるの。有難うね」

 最初に気が付いたフェレさんが、女の子の頭を撫でる。

「色々とお力添え、感謝します」

 リーベさんが差だした手を、隊長さんは苦笑しながら握り返す。

 リーベさんがあちらに持って行くのは、足下のトランク二つ分の荷物だった。ウェディングドレスは、見当たらなかった。

「その……まあ、あちらでお幸せに」

「ありがとうございます」

 それから、リーベさんはお爺さんを見た。お爺さんはそっぽを向いたまま、リーベさんを見ようとしない。

 もう二度と会えないのにどうして意地を張るのだろう。女の子は思う。国境を越えれば、たとえリーベさんが死んでしまっても再会することはもうないのに。息子達は海の底で、娘は異国の地で。お墓を作ることさえできないのに。

 女の子が、もう片方の気持ちを慮れるようになるのは、それからずっと後の話だ。

「…………」

 誰も何も言わなかった。時々リーベさんが髪をかきあげるだけ、けれどもやがてテントから銃を持った軍人さんがやって来て、リーベさんや、運転席にもどっていた男の人に耳打ちをして去って行った。

「おっさん達。そろそろ車動かすんで、乗って下さい」

 運転手が隊長さんと女の子を促す。右手を上げてそれに応じて、隊長さんは女の子の腕を引っ張る。

「それでは、俺等は先に失礼します」

「……儂も乗る」お爺さんが踵を返して、右足を引き摺る。その姿を、フェレさんは眉根を寄せて眺めている。リーベさんは唇を引き結んで、無表情で見詰めていた。

「……あの」

 お爺さんが助手席への階段を昇ろうとした時だった。

「今日まで、ありがとう、ございました」

 リーベさんは頭を下げた。

 お爺さんは背中を向けたまま、決してふりかえることはしなかった。

 ただ俯いて、口をもごもごと動かした。

 さようなら、と、言っているふうに見えた。

 リーベさんの表情が、一瞬だけ、くしゃりと歪んだ。けれどもすぐにまた元の無表情にもどって、リーベさんはほんの少しだけ、首を横に振って、

「さようなら」

 呟いた。「また逢う日まで」

 その言葉を待って、運転手さんは、大きくエンジンを蒸かせた。



 隊長さんと女の子は、二度とその街を訪れなかったから、お爺さん達がその後どうなったのかは知らない。

 西に嫁いだ東の国の女の人のお話が、地方紙の片隅に載ったのは、それから数日後のことだった。

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