愛しい人
しゅうとひなは新婚3か月の若い夫婦。
甘く幸せな生活を送る2人だった。
ある日、しゅうはひなの腕に500円玉程の青あざを見つけます。
そこから、徐々にひなの気持ちがわかりはじめて…
ひなは僕の宝物。
ひなは僕の大事な大事な人。
だから、僕はひなを全身全霊で愛し、命をかけて守ると誓ったんだ。
あの日、心から誓ったんだ。
「しゅうちゃ〜ん、起きて〜!あ〜さですよ〜!しゅうちゃ〜ん、早く起きないと、仕事に遅刻しちゃうよ〜!ね〜え〜、しゅうちゃ〜ん、しゅうちゃ〜んってば〜!」
結婚してはや3ヶ月。
僕の可愛いひなに、こうやって起こされる幸せ。
こんなの今まで想像できただろうか?
いや、出来なかった。
仕事で知り合って一目惚れをしたのは僕。
そこからちょっとづつ、ちょっとづつ、不快な思いをさせない様に気を配りながら、僕はひなとの仲を深めていった。
付き合ったのはどれぐらいだっただろう?
確か、そう、確か1年ちょっとじゃなかっただろうか?
僕達2人で、春も夏も秋も冬もちゃんと一緒に過ごしたんだった。
僕みたいなハンサムでもない、普通のただのメガネ男を好きになってくれた天使。
小さくて華奢な白い体に、ふんわりした薄茶色の柔らかい髪。
ほんのりバラ色の頬と、同じくほんのりバラ色の唇。
ウフフと笑う優しくて、誰からも「可愛い」と言われてしまう顔。
どこをとってもパーフェクトな女の子。
それがひな。
僕の手に届かない様な場所にいた女の子が、今は僕の隣にいる。
僕の奥さんとして、いてくれる。
これほどの幸せがあるものか。
しみじみとそう思う。
だから、朝のこんなやりとりも、実は嬉しくてしょうがない。
ここ3ヶ月、ほぼ同じ形だけど、全く飽きることはない。
彼女の甘い声で目覚められる幸福を味わうひと時。
僕だけの贅沢な時間だ。
「も〜、しゅうちゃんったら〜、いい加減に起きてよ〜!」
なかなか起きない僕に苛立ったひなは、ガバッとかけ布団を剥がすと仰向けでまだ半分眠っている僕に抱きついてきた。
あ〜、可愛い。
幸せ。
ふわふわうねるひなの長い髪の毛が、僕の顔にかかってくすぐったい。
「しゅうちゃ〜ん…起きないと、本当に遅刻しちゃうんだから〜!」
不機嫌なひなが僕にキスをする。
何度も何度もしてくるのが嬉しいのだが、寝る前に一応セットしておいたスマホのアラームが鳴った。
「んも〜、うるさいな〜…。」
目を擦りながら、僕はひなとのイチャイチャタイムを終了した。
そして、もう一度ちゃんと目を擦って時間を見てびっくり。
どう考えても遅刻してしまいそうな時間になっているではないか。
ベッドの上にちょこんと座っているひなをよそに、僕は独身時代さながらの速さで、大急ぎで出かける支度をした。
洗面所で顔を洗っていると、傍でひなが話しかけてきた。
「しゅうちゃん、朝ご飯は?」
「えっ?朝ご飯?ごめん、今、そんなの食べてる暇ないんだ!ごめん!ごめんね!」
ひなはふくれっ面でぶ〜と言った。
バタバタと玄関まで走り、慌てて靴を履いていると、今度は「しゅうちゃん、いってきますのチュ〜は?」とひな。
「あ〜…。」
僕はイライラしつつ、モニョモニョと文句を言いながら乱暴にひなのほっぺたにキスをして家を出た。
アパートの階段をダンダンと音を立てて駆け降り、いつものバス停まで走る。
僕を追い抜く様に、毎日乗るバスが通って行く。
一瞬、「乗り遅れたか?」と諦めかかるも、何くそと走るとちゃんと間に合った。
朝のバスは相変わらず混んでぎゅうぎゅうだ。
普段よりも1本遅いバスだったし、乗り換えた電車もいつものではなかったが、仕事場には遅刻せず無事に到着できた。
だが、そういう形で少し遅れたことで、仕事場に着いてもスマホを確認する余裕がなかった。
ルーティーン通りにはいかない日だった。
ようやくお昼の休憩になると、僕はすぐさまスマホを見た。
ひなからのメールがいっぱい。
あんな形で慌てて家を出たのだから、ひなが怒ってもしょうがないと思った。
ひなが朝早くから起きて僕の為に作ってくれたお弁当を、じっくりと味わって食べた。
そんなのが幸せだった。
帰り道、バス停近くのコンビニで、僕はひなへのお土産にとプリンを2個買った。
ひなの喜ぶ顔を想像すると、僕はスキップする様に家路を急いだ。
「ただいま〜!ひなちゃん、今朝はごめんね〜!折角朝ご飯作ってくれたのに、食べていけなくってさ〜…。」
玄関で靴を脱ぎながら出迎えてくれたひなにそう言うと、僕はコンビニで買ったプリンが入っている小さなエコバッグを手渡した。
「はい、これ!今朝のお詫び!」
僕から手渡された袋の中を覗くと、ひなは嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
「わ〜、プリン!うふふ、しゅうちゃん、ありがとう〜!」
「いいえ、どういたしまして〜…えへへ、お風呂上がったら一緒に食べよっか!」
「うん!」
わ〜いと喜ぶひなの可愛さに、僕の疲れはいくらか吹っ飛んだ。
一緒に入った風呂場で、僕はひなの右手首辺りに500円玉程の青あざができているのを見つけた。
「ひなちゃん、そこ、どうしたの?痛いでしょ?大丈夫?」
「ん?ああ、これ?ああ、うん、大丈夫大丈夫。そ、それより早くプリン食べたい〜!」
「あ〜、はいはい、そうだね〜!」なんて返しただけで、僕はひなの手首の青あざをもう気にしてはいなかった。
それから数日経ったある日、ひなの手首の青あざが黄色っぽく治ってきた頃、家にいる時間、ちょっとしたことがあった。
丁度休みだった僕は、ソファーに寝転がってスマホのゲームに夢中だった。
すると、ツカツカとひなが僕の前に立った。
「しゅうちゃん!」
「ん?どしたの?」
「しゅうちゃんさ、トイレの便座下げてっていっつも言ってるでしょ?」
「あ、うん。」
「たった今行ったら下がってなかったんですけど!」とひな。
僕はうっかりしたと「ごめんね。」と謝った。
軽くではなく、ちゃんと謝ったつもりだった。
「もうしないって約束して!」
「はい、もうしません、万が一やっちゃったら、その時はまた改めてごめんね。」
僕は一応僕なりの誠意を込めて謝ったと思う。
だが、ひなはまだいくらか怒っている様だった。
再びソファーに横になると、ひなは台所の方へ。
少し経ってから、ひなのいる台所からガン!ガン!と、何かを何かで叩く様な大きい音が聞こえた。
聞こえたけれど、僕は気にせずスマホのゲームを続けた。
次の日の朝、僕はちゃんと早めに起きて、きちんとひなが作ってくれた美味しい朝食を食べていた。
食後の温かいコーヒーを入れてくれたひなの右手首付近に、湿布が見えた。
「あれ?ひなちゃん、怪我?大丈夫?痛くない?」
僕が気づくと、ひなは慌てて右手を後ろに回した。
「あ、うん、大丈夫…。」
伏し目がちの静かなトーンで、ひなは答えた。
「本当に大丈夫?もしかあんまり痛い様だったらさ、ちゃんと病院に行くんだよ!いい?」
わかったと頷くひなの頭を軽く撫でて、僕は余裕で家を出た。
ひなの手首にもう湿布が貼られなくなった頃、休日で朝からパジャマのままのだらしない姿で、ダラダラとソファーに寝転んでスマホをいじっていると、脱衣所からひなの声がした
。
でも、僕は全く気にすることもなく、そのままダラダラを続けていた。
もう一度ひなの大きな声がしたので、今度はどうしたとばかりに重い腰をあげ、やっと様子を見に行った。
すると、脱衣所の床に白い何かのカスの様なものがいっぱい散らばっている。
そして、洗濯機から取り出した洗ったばかりの濡れた洗濯物にも、同じ白いカスだらけ。
僕はすぐさま洗濯機に何かしらの紙を入れちゃったんだとわかったので、濡れた洗濯物を抱えているひなを気にすることもなく、「な〜んだ、紙入っただけじゃんか。」とだけ言うと、スタスタと元のソファーに戻った。
その後、ひなが何か叫びながら、バフンバフンと大きな音を何度もたてている。
多分それは、濡れた洗濯物にくっついた白い紙のカスを床に落としている音。
バフンバフンが収まると、今度は掃除機の荒っぽい音が聞こえた。
「ちょっと〜、ひなちゃん、もうちょっとさ〜、静かにやれないの〜?ね〜?」
ソファーの上から大きめに、声をかけた。
少しした後、だんだんと大きな足音と共に僕の可愛いひながやって来た。
ソファーに寝転ぶ僕の前に立つと、ひなはおもむろに大きく振りかぶった。
はて?と振りかぶった手元に目をやると、ひなの右手に電子レンジのオーブン機能で使う金属製の「取っ手」
えっ?えっ?ちょっ?ちょっと?えっ?
瞬時に僕はひなにそれで殴られるのだと悟った。
それだけひなは怒っている。
無言で睨みつけるひな。
こんな彼女を見るのは、初めてだった。
「あっ!ちょっ!や〜っ!」
声に出しつつ、僕は両手でしっかりと頭を守り身構えた。
次、来る!
てっきりそうだと思ったし、この状況は明らかにそうだろう。
だが、現実は違った。
ゴスッ!
なんとも言えない鈍い音の後、「う…ううう…あっ…ああ〜っ…。」と低いひなのうめき声。
どうしたんだと思うが同時に、ギュッと瞑っていた目をそうっと開けた。
それと一緒に、頭上に掲げていた両手をフッと下ろした。
ひっ、ひなっ!
左腕をきつく押さえ、全身小刻みに震えながらしかめっ面に涙の大きな球を浮かべたひなが、今まさにヨロヨロとよろけて倒れ込もうとしていた。
どっ、どうしたんだ?
一体、何があったんだ?
事情が飲み込めない。
なんだ?
何が?
僕は脳内で騒いだ。
「ひな…ちゃん…だ、大丈夫?かい?」
恐る恐る声をかけた。
何か激しく痛がっているひな。
どうしたと言うんだ。
そう思った矢先、滝の様な涙を流しながら、歯を食いしばり力なくゆっくりと立ち上がったひなは、もう一度、さっきと同じ形で金属の取っ手を握りしめ直すと、自分の頭上に大きく振りかぶった。
今度こそ、あれで殴られる。
僕は腹を括って真っ直ぐにひなを見つめ、ソファーの上に正座して待った。
これでいい。
これでいいんだ。
だって、あんなにひなちゃんを怒らせてしまったのだから。
覚悟はちゃんとした。
だから、動じないで侍の様な気持ちでいられた。
が、ひなの行動は予想だにしないものだった。
ヒュッ!
ひなの手がものすごい速さで振り下ろされた。
次の瞬間、ゴスッ!
僕は見てしまった。
2度目の出来事を、この目でちゃんと見てしまった。
その鈍い音は、ひなの左手を打ち付けた音。
僕をあれで殴るのではなく、ひなは、ひなは僕の前にスッと自分の左腕を出すと、それに向かって金属の取っ手を振り下ろしたのだった。
自分の腕を自分でぶっ叩く。
僕の可愛いひなが、まさかこんな大それたことをするとは。
まるで想像していなかった出来事を前にすると、僕は腰が抜ける様な、全身の力が一気に抜け落ちてしまう様な、そんな感覚を覚えた。
「うっ…嘘だろっ!ひっ、ひな、ひなちゃん!ひなちゃん!ひなちゃん!」
先ほどよりもダメージが強かったらしいひなは、左腕をギュッと掴み痛みを必死に堪えている。
頬を伝う涙の勢いが止まらない。
嗚咽の様な、ひなの唸り声。
人は痛さを堪える時、普段滅多に出さない様な、獣の声を出すのだと知った。
自分でもどうやったのかは全くわからないけれど、僕はひなの手からあの「取っ手」を奪うと、そのままシュルシュルと床の上を滑らせる形で、今のひなの手の届かない場所まで「アレ」を投げた。
「あああ…あああああ〜…ああああああ〜…。」
言葉にならないひなの泣いている声。
僕も泣きながら、ひなを抱きしめた。
「ひな…ひな…ひな…ひな…。」
僕の声が聞こえていないのか、ひなは僕に抱きしめられながら、傍にある家具の硬い角の部分に、今度は自分の右手を激しくゴン!ゴン!と叩きつける。
「だっ、ダメだって!ひなちゃん!ダメだって!そんなこと…しちゃダメだってば!」
言うことを聞かないひなに、いくらか苛立った。
抱きしめていた手を離し、僕は今度ひなの両肩をしっかりと掴み説得を試みた。
ひなは今、冷静さを失っている。
僕への怒りがマックスに達して、自分でもどうしたらいいのかわからないのだ。
多分、そう。
そうなんだと思う。
そうなってしまう程、僕はひなを怒らせてしまったということなのだ。
ああ、なんてことをしてしまったんだ。
あの時、ひなにきちんと謝って、率先して洗濯物に絡みついた濡れた紙を片付けなくてはいけなかったんだ。
そうだ。
ひなに休んでもらって、僕1人で自分のしでかしたことの後始末をしなくてはいけなかったんだ。
そうしていたら、きっと、きっと、こんな風にはなってなかったんだとわかる。
悪いのは全て僕。
洗濯機に紙を入れてしまったことを、軽く見ていた僕が悪い。
全然簡単なことじゃなかった。
軽いことなんかじゃなかった。
一旦、そうしてしまった後始末の大変さを、ちゃんとわかっていなかった僕がやっぱり悪い。
「たったあれだけのよくやっちゃう失敗」の中に、それを遥かに上回る、何倍、いや何十、何百倍の強いストレスがかかっていたなんて。
僕は自分のしでかした失敗を、激しく悔やんだ。
かと思うと、「それだけでひながあんなことになるだろうか?」という疑問も湧いてきた。
もしかすると、今回のことだけではなく、ずっと毎日ちょびっとづつ溜まっていたものが、これを機にいっぺんに爆発してしまったのではないか?
僕はそうも考えた。
なんにせよ、今はひなの手当てが先。
僕は冷蔵庫から大きな湿布を何枚か取り出し、ゆっくり静かにひながあまり痛がらない様気をつけながら手当てを完了させた。
「ひなちゃん…落ち着いた?はい、これ飲んで…。」
ひながお気に入りで使っている「イチゴ柄」の可愛いコップに、淡いピンク色のイチゴ牛乳を注いでストローを刺して渡した。
「いっ…たた…。」
小声で腕を痛がりながら、ひなはストローで飲み始めた。
「…甘くて美味しい…。」
「そっか、よかった…いいから、ゆっくり飲んで…。」
赤く腫れた涙が残る目が、一瞬、ぎこちなく笑った。
「ごめんね、ひなちゃん…本当にごめんなさい…どうか、許して下さい。お願いします。」
僕はひなの前で深々と土下座をした。
本当は、本当ならば、僕が悪いのだから、僕もひなと同じことをすればいいんだろうけど…どうにも、それは出来なかった。
すぐに諦めたわけじゃない。
何度かひなと同じ様に、自分で自分の腕をぶっ叩こうと考えたには考えたのだけど、僕にはそんな度胸はないとわかった。
だから、「ひなに」殴ってもらいたかった。
こんなのはおかしいのかもしれないけれど、「ひなに」ちゃんとあれで殴られるのが正解なんだと感じた。
「ごめんね、ひなちゃん…痛い?大丈夫?」
コクンと頷くひな。
泣くだけ泣いて、叫ぶだけ叫んで、自分の体を自分で傷めつけたひなは、疲れきった様子。
なので、後にしようか迷ったけれど、僕は思い切ってひなちゃんに聞いてみた。
「あ、あのね、ひなちゃん…あのさ、その…なんでね、なんで、僕をあれで殴らなかったのかなあ?…悪いのは、僕じゃんよ…だったらさ、普通ってのか…よくドラマとか映画とか漫画なんかじゃさ、ムカついたらガッと相手を殴ったりするでしょ?そういうもんじゃないの?かなあって…思ったんだけど…。」
静かに聞いていたひなは、「イチゴ牛乳」の最後の一口をゴクンと飲み干すと、小さく力ない声で答えてくれた。
「…だって…だってね…ひな、ひなね…しゅうちゃんのこと、大好きだし…愛してるんだもん。」
「でっ、でもっ…。」
僕の言葉を遮る形で、ひなが続けた。
「ひなね、しゅうちゃんのこと大好きだから…大好きなしゅうちゃんのこと…殴ったりなんて、絶対に、絶対にできないよ…したくない…だって、愛してるんだもん…でも、でもね…ひな、あの時ね…自分でもどうしたらいいのかわからないぐらい、ものすごく腹立っててね、ムカついちゃってて…だけど、その怒りをどうやって押さえ込んだらいいのか、わからなかったの…そのまま、何もせず、言葉だけで静かに収まるなんてできなくて…。」
今度は僕がすかさず割って入った。
「だったら!だったらさ…あ、大きい声出してごめんね…大丈夫?ひなちゃん…ごめん…怖かった?ごめんね…あ、そうだ、だったらさ、よくテレビなんかでも見るけど、部屋の中の物ぶちまけたりしたっていいのに…物に当たるんなら、ひなちゃん、そんな痛い怪我しなくてもいいんじゃない?それじゃダメかなあ?」
僕は心の底からそう思って言った。
「…うん…それは〜…ダメかなあ…。」
「なんで?なんでさ?」
「だって、この部屋の物全部、ひなとしゅうちゃんの物なんだよ…折角今まで2人それぞれで結婚する時持ってきたり、それぞれいいと思って買ったり、2人で一緒に選んで買ったりした思い出の品じゃない…。」
「そ、そんなの…壊れたらまた新しいの買えば…。」
「そうかもしれないけど…そうじゃないじゃない?それに…。」
「それに何?」
「それにね、じゃあ、怒りに任せて部屋の物色々ぶん投げたりして、ぐっちゃぐちゃにしちゃったら…心はいくらかスッキリするかもしれないけど…その後の片付けは誰がするの?怒ったひな?それとも怒らせたしゅうちゃん?2人?どっちにしろ、大変なのは目に見えてるじゃない…それに物は全然悪いことしてないんだよ…可哀想だよ…。」
「でも、でも、ひなちゃんの体の方が、ずっとずっと痛くて可哀想だよ!どうしても、怒りの吐口が欲しいなら、やっぱり僕とか物に当たって欲しい…ひなちゃんが怪我するのは、僕は嫌だ!辛いよ!哀しいよ!哀しくて苦しいよ!だから…。」
ひなは小さく首を左右に振った。
「ううん…ひなはいいの…だって、ひなは、ちょっとの間は痛いけど…段々と痛みが薄くなっていって…ちゃんと治るから…完全に元通りじゃないかもしれないけど…ひなは、治るから大丈夫だから…。」
ひなの「持論」に納得がいく訳がなかったけれど、僕はそれ以上この話をしてはいけないと悟った。
僕は次の日から10日間、仕事を休んだ。
頑なに病院へは行かないと言うひなの看病というか、介護というか、傷めている代わりを僕なりに一生懸命努めようと思ったから。
これでひなへの償いになるとは思っていないけれど、普段通りに動けないひなの代わりに動くことで、僕の気持ちはいくらか前向きになった。
腫れた腕は、最初の数日、相当痛かったらしい。
痛さが強すぎて眠れないと言う程。
そんな声を聞くと、僕の心も痛んだ。
一緒に入る風呂などは、ひなにとって地獄みたいなものだったようだ。
腫れ上がった腕に温めでもお湯がかかると、悲鳴の様な声をあげて泣いた。
毎日添い寝をして、ひなの柔らかい髪をゆっくりそうっと撫でてあげた。
僕は子供の様なひなが、心底可愛かった。
「ねえ、しゅうちゃん。」
不意にひなの可愛い声。
僕は「はい、どうしたの?」なんて、保護者の様に答えた。
「あのね…。」
僕はその後、怪我が治ったら何か買ってくれとねだるのか、何か美味しいものでも食べに行こうねと言うのか、それとも旅行にでも一緒に行きたいなんて言うんじゃないかと予想した。
だが、全然違った。
「…しゅうちゃん…あのね、ひなね、ひな、本当はあんな風に自分の腕をあれで叩くの、怖くて怖くて仕方がなかったんだ…だから、いざ、あれを握り締めても、全力でぶっ叩きたい自分と怖くて躊躇ってる自分が頭の中で戦っちゃってて…。」
僕はどう返事をしたらいいものかと、本気で悩んだ。
それでも、ちゃんと相槌は打った。
「…それで…全然違うんだけど…ひなね、包丁かカッターで、とも考えたの…だけど、やっぱり怖くて怖くてね…だから、ハサミでちょっとだけやっちゃったことあったの…そしたら、細くて赤い線がひなの腕にくっきりと浮かび上がってきて…そしたら、すぐに体中があっつくなっちゃって、そんで出来た細い赤い傷がチリチリと痛むの…。」
そっかあと言いつつ、ひな、そんな恐ろしいことをしてたなんてと思った。
「そうだ…しゅうちゃん、ひなね、わかったんだけどね…あれとか家具とかに腕を打ち付けても、ドラマみたいにブシューって皮膚が破けたりしないもんだね…ひな、てっきり、すぐにブシューって血が噴き出るんじゃないかって、ちょっと心配だったの…だって、血が噴き出ちゃったら、お部屋のお掃除大変でしょ?だから、そういうのやるんだったら、やっぱりお風呂場がいいのかなあとか…後ね、後ね、ひな、打撲を軽く見ちゃってたかも…切り傷の方が血が出るから絶対に痛さでは優勝って思ってたんだけどね、でも、こうやってみると、打撲もなかなか侮れないなって…。」
「あ、あのさ…ひなちゃん…その話はさ…もう…いいんじゃないかなあ…ねっ…ちょっと、一旦、その話お休みしようよ、ねっ!あ、そだ、ひなちゃん、明日の朝、パンがいい?ご飯がいい?どっちか好きな方に決めてよ。」
僕はひなの話に耐えられなかった。
僕の可愛いひなの口から繰り出す話を聞くのが、辛くてしょうがなかった。
それと同時にそんな恐ろしいことを考えてたり、実行に移してたりなんてとひなのことが怖くなった。
「しゅうちゃん…辛い?」
僕の心を見透かすように、ひなが聞いてきた。
「うん、辛い…そして、苦しいよ。」
「そっか。」
「うん、僕は今まで自分の体が傷つけられるのが1番辛くて痛くて苦しいもんだと信じてたけど…実際もそうかもしれないけど…でも、それ以上に、大好きな人が痛い思いをしてる方が辛くて苦しいってわかったよ…そして、そうさせてしまったのが自分だっていう罪悪感に苛まれてるよ…本当、ごめんね、ひなちゃん…大好きな君にそんな痛いことさせちゃって…。」
「ううん、ひなこそごめんなさい…でも、しゅうちゃんが辛いって言ってくれたの、なんか嬉しかったな…。」
「えっ?」
「だって、ひなが勝手にやってることだから、逆ギレして自業自得だろうがっ!とかって言われたらどうしようって…しゅうちゃんがそんな人だったら、どうしようって思ってた。」
「そ、そんな…そんなこと…言う訳ないよ…僕はそんな男じゃない!」
「そうだね、だから、ひな、しゅうちゃんと結婚したんだもんね。」
「えっ?そうなの…あ、でも、ひなちゃん、もう絶対に絶対にこんなことしちゃダメだからね!約束して!ゆ〜びき〜りげんまん…。」
包帯をぐるぐるに巻かれた右手を出したひなは、しゅうと指切りをしながらちょっぴり泣いた。
「いつか…赤ちゃん欲しい。」
「そうだね、だけど、今はひなちゃんだけでいい。」
「え?そう?」
「うん。」
「なんで?」
「だって、ひなちゃん、でっかい赤ちゃんだから…。」
10日もあった僕の休みは、なんだかあっという間だった。
まだまだひなの両腕の怪我は完治していない。
それでも、腫れも打撲のあざもかなり良くなってきていると感じた。
出勤の朝、ひなにはくどい程「もうダメだよ!」と念押しした。
仕事場への道中、何度もひなにメールした。
そして、ひなの体の無事を確認したのだった。
それから数日経った頃、ひなの両腕の腫れもすっかり引き、打撲の痕も真ん中は薄い茶色で周りが黄色みがかってきていた。
「もう大丈夫!」
少しだけぎこちなさが残る笑顔で、ひなは元気!元気!と体を動かして僕にアピールしてくる。
そんなのが堪らなく可愛かった。
ひなのうちに秘めた激しさを知った僕は、時間が経つにつれひなに対する感情が「あの前」とは違う様になってきた。
当然、あんな自分で自分を傷めつける様な真似はごめんだけれど、あの激しさの中の彼女の泣いた顔の可愛さ美しさが忘れられなかった。
だからといって、無理矢理ひなを怒らせる様なことをして、わざとあれと同じ形に持ち込んで泣かそうなんて、本気で思っている訳じゃない。
訳じゃないのだけれど、あの時のひなの泣き顔の可愛らしさが、僕の大好きなひなの顔の表情の中で1番なのは確かだった。
そんなある日、たまたま仕事が早く済んだので、僕はなんとなく、本当になんとなくバス停近くのコンビニに立ち寄ると、何かの記念日でもないのにいつもはちょっと躊躇って買わない、値段が高めのフルーツがどっさり乗っかった美しいプリンのデザートを2人分買った。
給料日前で財布が寂しい状態だったが、どうしても「買いたい!」「ひなと一緒に食べたい!」と思ったから。
ウキウキとした気分の高めのテンションで「ただいま〜!」と帰宅すると、出迎えてくれたひなに早速買ったばかりの「ちょっと高いフルーツどっさりデザート」を手渡すと、きゃあ!とひなが喜んでくれた。
「しゅうちゃん、ありがとう!ひな、嬉し〜!うふふ。」
心から嬉しそうに喜ぶひなは、ニコニコしつつも時折、眉を歪め左腕を押さえる仕草を見せた。
まさか…。
そう思った瞬間、僕はすかさず「ひなちゃん、ちょっと腕見せて。」と優しく言った。
すると、ひなは慌てた様に「違うもん!ひな、違うんだもん!」と興奮気味に答えた。
「ひなちゃん、お願い、ちょっと、ちょっとでいいから、そっちの腕僕に見せてもらえる?いい?」
僕に真っ直ぐ見つめられたひなは、「わかった。」と渋々長袖の袖口を捲って僕に見せてくれた。
仕事から帰ったままの上着も脱がず僕は、ひなの白くて細い腕をじっくりと眺めた。
手首から肘までの間に、この間の激しい打撲の名残が微かに残っているけれど、新しい「怪我」はなさそうだった。
「ひなちゃん、本当にやってないんだね?」
ひなの両肩を掴むと、僕は真っ直ぐひなを見つめた。
「…うん…やってないよ、しゅうちゃん…だから…違うって、言ったじゃない…まだね、この前のがちょっと…ん〜と、ちょっとのちょっと上ぐらい、痛いかなあって感じなの…ただね、ただそれだけなの…。」
「そっか…。」
僕はあれからだいぶ日にちが経っているにもかかわらず、ひなの腕の痛みがまだあると知ると、心がぎゅ〜っとなった。
一瞬俯き、もう一度ひなの顔を見た。
ひなの可愛らしい綺麗な目に、うるうると涙の球が大きく膨らんできていた。
「あっ!ごめん!ごめんね!ひなちゃん。」
「ううん…しゅうちゃん、ひなのこと、ちゃんと信じてくれたみたいだから…大丈夫だもん。」
そう言いながら、ひなはつけていたお気に入りのレースのヒラヒラしたエプロンの裾で、涙を拭った。
その仕草に、僕はキュンとなった。
風呂上がりに2人でコンビニの「ちょっと高いフルーツどっさりデザート」を食べることにした。
向かい合わせの食卓で、「うわあ、美味しそう〜!」と喜ぶひなを見るのが嬉しかった。
食べすすめていると、ひながおもむろに聞いてきた。
「しゅうちゃん。」
「ん?何?美味しいね〜、これ。」
「うん、ホント、すんごく美味しい…じゃなくって、しゅうちゃん、ちゃんと記念日覚えててくれたんだね。」
ん?
僕はひなが何をそんなに嬉しそうに言っているのか、理解できなかった。
「えっ?…あれっ?今日…なんか…記念日だった?」
僕の返しを聞いた途端、ひなは持っていたスプーンをゆっくりとテーブルの上に置いた。
「…しゅうちゃん…忘れちゃったの?今日がどういう日かって…。」
えっ?なんだっけ?
「しゅうちゃん、ひどい!ひどいよ!…今日の記念日のこと、忘れちゃってたなんて…嘘でしょ?嘘って言ってよ!」
キョトンとしている僕をよそに、ひなはわ〜とテーブルに突っ伏して泣き出した。
慌てて「あ、ひなちゃん、ごめん!ごめん!ごめんね〜!」と謝ると、ひなが急に顔を上げて更に僕を問い詰めた。
「えっ?じゃ?何?しゅうちゃん、なんでこんな高いデザート買ってきたの?記念日だからじゃなかったの?ひな、一生懸命ご馳走作ったのに!」
僕はハッとした。
確かに、今日の夕飯はいつもよりも随分豪華な感じだった。
それなのに、僕はどうして夕飯が豪華なのか、まるで知らずにただただ美味いと食べただけ。
それがひなの言う「記念日」だからのご馳走とは気づかなかった。
「あ…ごめん、ごめんなさい!」
僕は椅子から降りて、慌てて床に土下座した。
「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」
そして、そうっとひなの様子を伺った。
まさか、もうやらないよね。
ひなちゃん、もうあの金属の取っ手、持って来ないよね。
あんなこと、絶対にやらないってあの時約束したよね。
だから…やらないよね?やらないよね?
僕は心で必死にそう願った。
両腕を組んで怒った顔のひなは、そのまま椅子に腰掛けてくれていた。
ああ、よかった。
僕はホッと胸を撫で下ろした。
けれど、完全にそうなった訳ではなく、いくらかの緊張感は持ち合わせていた。
「…もう…いいから…しゅうちゃん…しゅうちゃん、こっちで一緒に食べよう。」
ひなの普通の返しに、僕は今度こそホッとした。
席に戻り下から見上げる形で、真向かいのひなをそうっと見た。
少しムッとしているらしいが、買ってきたデザートをゆっくり味わって食べていた。
「あ、あのさ、ひなちゃん…ホント、ごめんね…で、さ…今日って…あの、なんの…記念日でしたっけ?」
ひなの手が止まった。
ちょっとの沈黙の後、ひなの口が開いた。
「…しゅうちゃん、本当に忘れちゃったんだね…。」
哀しそうな表情に変わったひなは続けた。
「しゅうちゃん…今日は…初めて喋った日じゃん…。」
「えっ?」
「本当に本当に忘れてんだね…しゅうちゃん…今日はね、ひなとしゅうちゃんが出会って3度目の時に、初めて2人だけで喋った日じゃん。」
「え…そ、そうだった…っけ?」
正直、僕はまるで何も覚えてはいなかった。
ひなと出会ったのは仕事場でだった。
同じ職場ではなかったけれど、ひなの会社と一緒に一つの大きいプロジェクトをする機会があって、確かお互いの会社の数名のプロジェクトメンバーが参加してて、交流事業の前の講習会で顔を合わせてはいたけれど、なかなか話すチャンスが巡って来てなくて。
あ…そうだった、そうだった。
僕はひなちゃんと最初に会った時から、可愛いなあって一目惚れしてたけど、お互い違う職場だったし、プロジェクトメンバーも結構な人数だったから、気にはなってたけど、なかなか傍に近寄る機会も、ましてや話すチャンスなんて全然なかったんだった。
それで何度目かに、ようやく席が隣同士になって。
ああ、そうだった、そうだった。
そっか、それが今日で、そしてそれが3度目に会った時だったのか。
さほど古くもない記憶を、僕は必死に掘り起こそうと努力した。
だが、残念ながら、ひなが言う「初めて喋った記念日」までは思い出せなかった。
口をもぐもぐさせながら、ひなは言う。
「しゅうちゃんてっきり初めて喋った記念日を覚えててくれたから、これ買って来てくれたんだって思ってたのに…。」
言い終えると、ひなはしゅんと俯いた。
「ごめんね、ひなちゃん…僕、なんかわかんないけど、今日、何故かどうしてもこれ買って、ひなちゃんと一緒に食べたかったんだあ。」
「そうなんだ。」
僕はしょげるひなを注意深く見つめた。
また、あんなことしやしないだろうか。
それだけが心配でしょうがなかった。
何事もなく平穏無事なまま、朝を迎えた。
僕はいつもと変わらないひなの様子に安心したまま、一応「ダメだよ!」と釘を刺して出勤した。
「ただいま〜!」
大丈夫だと思い、普段通りに帰宅するも、玄関までひなは出てこない。
はて?の後、まさか!と激しい胸騒ぎがした。
ドタドタと部屋に入ると、台所の床に倒れているひながいた。
急いで駆け寄ると、両手で腹を押さえて唸り苦しんでいる。
顔を見たくても、長くてふんわりした髪が邪魔してすぐにはひなの表情が望めない。
「ひなちゃん!」
ゆっくりそうっと抱きかかえ、片手でひなの顔にかかっている髪を退けると、涙でいっぱいの顔。
「ひなちゃん!大丈夫?どうしたのさ?なんで?なんで?」
必死に声をかけると、ひなは痛みを堪えている様なか細い声で、ようやく返してくれた。
「…しゅう…ちゃん…ううう…ご…ごめ…ん…ね…だって…しゅうちゃ…昨日の…記念…日…覚えて…なかった…から…ううう…。」
そこまで言うと、ひなは僕の腕の中でガクンと力を失った。
「ひなっ!ひなっ!ひなっ!ひな〜っ!」
ひなを抱きかかえたまま、立ち上がるとカランと金属の音。
ふと見ると、僕の足元にあの金属の取っ手が落ちている。
ひなちゃん!
僕は悔しい様な、裏切られた様な、色んな感情が入り乱れたカオスの様な気分に陥った。
「ダメだ!ひなちゃん、僕、救急車呼ぶから!」
すぐさま救急車を呼んだ。
あれほど受診を拒んでいた病院に、ひなは運ばれて行った。
ひなは入院することになった。
なので、僕は一旦家に戻り、ひなの入院の支度をして再び病院に向かった。
ひなの荷物を届けた後、彼女の容態が心配で面会したかったのだが、何故か強く拒否されてしまった。
ひなに会いたい。
ひなの顔が見たい。
でも、会社を休んで何度も病院に掛け合っても、ひなには絶対に合わせてはくれなかった。
途方に暮れてひなのいない部屋に戻った。
ちょっと出かけただけの様な、ひなのいない部屋。
僕は静かにソファーの前の床に腰を下ろした。
体育座りなんて、学生時代以来。
何故かこの体勢が今の僕には、1番落ち着くのだった。
どれぐらいの時間が経ったのだろう。
カーテンもしないまま、いつの間にか部屋中真っ暗。
「あ…。」
ようやくヨロヨロと立ち上がり、電気をつけると程なく玄関のチャイムがなった。
ピンポーン。
「は〜い、今、出ま〜す。」
お母さん達かな?
僕はてっきり、ひなの家族が心配して来てくれたんだと思った。
ドアを開けると、そこに警察官。
ん?
僕は今、どうして警察の人が家を訪ねてきたのか、理解できなかった。
「はい、あの、なんでしょう?」
ドアノブに手をかけたまま、僕は彼らに尋ねた。
それと同時に、近所で空き巣でもあったのかなと思った。
「あ〜、吉原しゅうさんですね?」
「あ、はい、僕ですけど…。」
「ちょっと、あのですね、奥さんのことについて、ちょっとお話をお聞かせ願えたらと思いまして。」
へ?なんで?
僕の頭は真っ白になった。
えっ?どういうこと?
「あの…僕が何か?」
恐る恐る聞き返すと、警察官の1人が優しい口調で「ああ、別にあの、大したことではないんですけどね、無理にではないんですけどね…。」と加えた。
なんの話?
「あの、どういうことで?」
「ああ、あの、奥さんに関することで、ちょっとお話をお伺いできたらと思いまして…。」
奥さん…ひなのこと?
ひなが何かしたのか?
僕は何がなんだかさっぱりわからなかった。
自分は何もやましいことはしていない。
なのに、どうして警察の人は僕に話を聞きたがってるのだろう?
僕は不思議でしょうがなかった。
それと同時に、「ひなのこと」と言っていたのが引っかかった。
ひなのこと?
僕がいない間、ひなが何かしたんだろうか?
彼女が何か警察の厄介になるようなことでも、したんだろうか?
僕の心はざわついた。
ただでさえ入院したひなの容態が心配で心配で堪らないのに。
今はそれだけを考えていなくてはならないのに。
余計なことを出さないでもらいたい。
僕は警察の出現に苛立った。
警官を見送ると、お隣のおばさんが僕と目を合わせた途端、慌てた様にバタンとドアを閉めた。
なんだろう?
訳がわからなかった。
その後、部屋でしばらく色んなことを考えた。
考えて、考えて、考えたけれど、何もわからなかった。
そのうち腹が減って来た。
これから何か食べるものを作る気にもなれず、カップ麺のお湯を沸かす気にもならなかった。
すぐに食べられるパンに手を伸ばすも、今はパンの気分じゃない。
そういえばあれから病院からの連絡が一切ない。
何故なんだろう?
腑に落ちないことだらけ。
それでもやっぱり腹は減った。
なので、いつものバス停近くのコンビニまで、何かしらの食べ物を買いに出た。
アパートの敷地から出た先の道路に、見慣れない車が1台停まっている。
中の人が僕の姿を見かけると、慌てたように車のシートを倒して身を隠すようにした。
バレバレじゃん。
車の横を通りすぎると、アパートの隣の立派な一軒家に住んでいる大家のお爺さんに出くわした。
「ああ、大家さん、こんばんは〜!」
僕が普通に声をかけると、大家のおじいさんが怪訝そうな顔でこちらを見てきた。
いつもなら笑顔で挨拶を返してくれるのに、今日はどうしたのだろう?
何か機嫌でも悪いのかな。
さほど気にせず、お爺さんの傍を通った時、後ろでお爺さんが何か喋った。
「…あんたが…そういう人だったとは…がっかりだよ…。」
小さな声がうっすら聞こえた。
えっ?僕?
僕のことを言ってるのか?
何?
どういう意味?
がっかりって、どういうこと?
僕は振り返って、少し大声でお爺さんに聞いてみた。
「あの〜、なんですか?がっかりって、どういうことですか?」
お爺さんは呆れた様に、答えてくれた。
「あんた、あんたさ、奥さんにあんな酷いことしてたんだろ?」
「酷いこと?」
僕にはさっぱりわからない。
「ほら、なんだっけ?ほら、今の言葉で、ほら…。」
お爺さんは、なかなか言葉が出てこない様だった。
「なんですか?」
「ん、ほら、あれよ…ん〜、なんつったかなあ…奥さんに暴力を振るう…あれよ、あれ。」
えっ?
奥さんに暴力?
僕はお爺さんの言っている意味が理解できなかった。
「あんた、奥さんを殴ったりしてんだろ?」
明らかな勘違い。
お爺さんは何か誤解をしている。
「ちっ、違いますっ!僕は、僕は彼女を殴ったりなんて、一切してませんよ!」
「だったら、なんで、奥さん入院してんの?いっつも、手とか足に包帯巻いてんだ?おらあ、見てんだよ。あんたんとこの奥さんが年中どっかかんか怪我してんのさ。」
「えっ、あれは…だから…そのっ…。」
言えない。
あれらの怪我は、全部、ひな自身が自分でやってること。
僕が何かやらかしちゃった時に、怒ったひなが自分で傷つけてる。
だけど…。
そんなこと、言えない。
言える訳がない。
僕はひなを愛しているし、彼女はこの世で1番大事な人なんだ。
だから、彼女を貶めるようなことなんて、絶対に口が裂けても言えるはずがない。
言葉に詰まって動揺する僕を追い詰める様に、大家のお爺さんが更に言い放った。
「あんた、警察に捕まるよ。」
えっ?
えっ?
嘘?嘘だろ?
まさか。
不意に脳裏を先ほどの警察官がよぎった。
まさか…それで…。
一瞬で僕は全てのことを把握した。
そっか…それで…だから…。
ひなが入院した病院から一切の連絡がないこと。
いきなり警察官が訪ねてきたこと。
お隣のおばさんが、慌ててドアをバタンと閉めたこと。
それら全てを知った僕は、矢も盾もたまらず、つっかけのまま走り出した。
ひな!ひな!ひな!ひな!
ひなに会いたい!
今すぐひなに会いたい!
会って、ひなを抱きしめたい!
幾らか走ると、つっかけが片方脱げた。
走りにくいと感じていたので、僕はもう片方のつっかけも脱いで手に持った。
靴下のまま、無我夢中で走った。
走ってひなが入院している病院まで行こうと思った。
僕の後ろで、バタバタと数人が走ってついて来る音が聞こえる。
ひな、ひな、ひな、ひな…。
どれぐらい走ったんだろう?
息が苦しい。
体に鉛が入っているみたいに重たい。
でも、ひなに会いたい。
僕はできる限りの力を振り絞って、ペースは落ちてきたものの、病院目指して走った。
髪の中から滴った汗が目に入る。
顔中から出ている蒸気で、メガネが曇る。
苦しい。
苦しいけれど、ひなの方がきっともっと苦しいんだ。
丘の上に聳え立つ大きな建物が見えてきた。
今まで平らだった道路から、左へ曲がると緩い坂になる。
そう思いつつ、僕は緩い坂に入る手前の、もう時間外で閉まっている調剤薬局の角を曲がった。
その時だった。
一瞬、眩しい光に目が眩んだと思ったら、次の瞬間、僕は何もわからなくなった。
「…しゅうちゃん…しゅうちゃんに会いたい…しゅうちゃん…。」
僕の小さな葬式の後、ひなの手元には三千万円。
ダンプカーに撥ねられて死んだしゅうの生命保険金が入った。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
昨日投稿したお話を一旦削除して、大幅に加筆し再投稿しました。
なので、最初のを読んでいただいた方々には、本当に本当に申し訳なかったと思います。
改めてすいませんでした。
もう、こんな形にはしない様に十分気をつけますので、これからもどうぞよろしくお願いします。